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読書

読書(山本七平、鶴見俊輔、河合隼雄)

早朝、投句を忘れたことに気づいた。リマインドもあったのに。ああ。自分で立ち上げた句会なのに。余裕がないってよくない。

今日はまたまた秩父市の「栗助」さんのお菓子から「おらが家のそば」。あ、美味しい!そば粉の皮に黒胡麻の餡が包まれているお菓子。良い焼き色の皮に白胡麻がパラパラっとまぶしてある。

そんなことしてる場合ではないのだけどいろんな本の読み直しをついしてしまっている。山本七平『「空気」の研究』の文章がかっこよくてついつい色々積んである文庫たちやKindleに入ってるものを貪り読んでしまった。鶴見俊輔は『旅と移動』は良いけど『不定型の思想』はあまり楽しめなかったな、そういえば。だから今回読んでないけど。「中空構造」の話をしたついでに河合隼雄の『母性社会 日本の病理』もパラパラした。中空構造の本はどこにいったのだろう。この『母性社会 日本の病理』はセットで読むといいのでは。河合隼雄の本ってどんどん読めちゃうけど私は父殺しとか母殺しとか言葉に慣れすぎてしまっているのか違う言葉にしてほしくなってしまう。父、母という言葉を包み込むとか切り離すとかいう機能を示すものとして使うのはわかるけど実際はそういう機能は限定的だし父、母という言葉を使うことでかえって意味を狭めていると思う。河合隼雄は母性原理に基づく倫理観を「場」の平衡状態の維持に価値を置く「場の倫理」、個人の欲求充足や成長に価値を置く父性原理に基づく価値観を「個の倫理」とするのだけどこの「場」の話になるとこの二つの倫理は分け難くなるというよりも倫理ではなくなっていく。みんなが「場の力の被害者」になろうとする場所の倫理に対しては別の名前が必要そう。

さっきそろそろ出る準備しようと思って充電していたWi-Fiを見たら充電されてなかった。スイッチのあるコンセントでやったんだけどスイッチをパチンってするの忘れてた。がーん。なんで同じことを何度も何度も繰り返すのかしら。スイッチ付きコンセントなんかない時代にはこんなこと起きなかったのに。Wi-Fiもなかったけどね。今はなんでもかんでも充電充電。Wi-Fiもわいも充電不足じゃわい。東京は今日も晴れて気温が高くなるみたい。花粉が怖いけどお散歩行きたい。本格的に花粉症になってしまったのか鼻が止まらないのでちょっといいティッシュ買ってる。はー。みんなみんな朝からお疲れ様。昼からでもお疲れ様。夜は普通にお疲れ様。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析 読書

案内、春樹、間取り

胃がん検診の案内を開けた。少し前に届いた。受けなくてはと思うけどバリウムが本当に気持ち悪くなってしまうので怖くて受けたくない。でも受けねば。いつもこの葛藤。症状があるときは受けられないから症状があるときに胃と腸の両方を見てもらうのもいいなと思っていたところだったのでどうしてもバリウムを避けたいとなるとそっちになる。飲み物を一気にたくさん飲むということがないからそれだけでも気持ち悪くなるのにしかもあの発泡。何にせよ健診や検診は受けましょうね、と周りには言えるのに。ちなみに相談場所は色々あるのでその一つを載せておきますね。

村上春樹の『一人称単数』は短歌が出てくる話からだった、と思う。だから何というわけではないけどあの単価は誰かが推敲してるのかな、と思ったのだ。していなそう、春樹っぽい、と思ったりもした。私は村上春樹の良い読者ではないが大体のものを一度は開いている。多分私の注意力だとあのやや冗長で普通の人だったら次にまたそれが出てきたらむしろその冗長さの効果ゆえに鮮やかに形作られる何かが私には乏しいんだと思う。そこまでにほぼ忘れてしまっているから。作者の意図に乗れていないのだろうな。ノリが悪いオレ。なんとなくリズムがいい。下の階の人が歩いているのが聞こえる。ドンドンドンドンドンと。多分歩いている。結構大きめの歩幅で。あ、戻ってきた。いや、戻ってきたかどうかはわからない。正確には真下の部屋かどうかもよくわからない。同じ間取りではないからなおさらわからない。この前、先生に昔小倉清先生に子供に間取りを聞くといいと言われたことをお話した。私は子供の心理療法もしているので時折それを思い出す。何も聞かなくてもおうちのことを自分から書いてくれる子もいる。その子用にお絵描きできるセットはいつも準備してある。確かに間取りを描いてもらうとその家族の生活状況が見えてくることがある。私的にはこれはかなりプライベートな部分に触れることになると思っているのでそれをどこでやるかとかその扱いができる設定かどうかは重要だと思っている。人の家のものむやみにのぞかないでしょう、普通、と思うから。一部だから出せるんだよ、というのが普通だろうし。見せることも話すこともしてしまえばそれなりに発見も多いものだがその人がそうしたいと思ったときになされるのが一番いいと思う。私がその話を出したのは人の家に行くということのインパクトについて話しているときだった。小倉先生のことはすごく前にも書いたがお元気だろうか。著作集はこちら。毎年著名な先生の訃報を聞くようになった。彼らのような仕事は臨床的にも政治的にも難しいと感じる。何かを教えてもらうというより臨床をしていくうえでどのような工夫ができるかを考える素材を提供していただいたと思う。先生方が多くの患者さんと身体的、心理的に格闘しながら導いたものを簡単に評価することはとてもできないし、今の時代に出会う症例という観点からもいろんなことを残し、展開し、変えていかなければいけない。外からは見えない仕事だからこそ何度も同じパズルを解きながら少しずつレベルアップしていくような地道さが必要なのだろう。小さい子たちが同じパズルでもそれぞれの方法で取り組むのを思い浮かべたのでそんなふうに思った。小倉先生が治療した多くの子どもたちももうすっかり大人だろう。一緒にがんばりましょう。今日は土曜日か。やってもやっても何も進んでいる感じがしないけど今日もなんとかスモールステップで。

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言葉 読書

地震、読書

揺れた。昨日から地震が多い気がする。そして早朝に地震が多いと感じるのは阪神・淡路大震災のイメージが大きすぎるのか。今朝も同じくらいの時間だった。あのときその場にいたわけでもなく、当時テレビもなく、時間差で知った地震だったが友人たちが住む地域だったので連絡を取り合ったりなにより気持ちが落ち着かなかった。被災した方々の思いはいかばかりか。

昨日の朝、水村美苗の『日本語で書くということ』(ちくま文庫)を少し読んだ。夜、ウィニコット協会にだす原稿を書いていると「こんなところにも文庫積んでたんだ」と本棚の隅のスペースに目が行った。せっかく書き始めたのにすぐにこんなだ。手に取ったのは前田愛『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)。また似たような本を手に取ってしまった。夏目漱石はどちらにも登場するのだけど断片だけでも面白いような気がする。すでに読んでしまっているからそう思うだけかもしれない。覚えているわけでもないのに不思議なものだ。この本にも「言葉と身体」という章があり、そこを開いた。久しぶりに開いた。「この本にも」と書いたのは言葉と身体は精神分析では切り離せず常に議論の対象だから、なのだろうか。それだけではないかもしれない。「コードとコンテクスト」とかよりはずっと身近だしこうしてなんとなく開くのにちょうどいいのだ、と思って読み始めたらまた結構読んでしまった。この章では蓮實重彥の「横たわる漱石」という論文が引用されている。私はこの論文は『夏目漱石論』(講談社文芸文庫)という本で読んだことがある。「横たわる漱石」は『夏目漱石論』では第一章なのでよく覚えている。日本史の教科書で旧石器時代と縄文文化にばかり詳しくなるのと同じで(私だけではないと思う)最初の出会いには何度も立ち返ってしまうものだ。だからあえて「過去は振り返らず」みたいなことをいうわけでしょう。こういう適当なことを書き始めると止まらないし使い方よくわかってないけど「知らんけど」で適当に終わらせることになるから気をつけねば。この章だけでもやっぱり面白い。『伊勢物語』の和歌の読み方もとても素敵な章であることも思い出した。手に取ってみるもんだ。いや、いつでも読めるのだから今やるべきことを。それもそうだ。ちなみにこの本と一緒に積んでいたのは野谷茂樹、石垣りん、郡司ペギオ幸夫、山口昌男、丸山圭三郎。だからウィニコットの書き方について考えていた時に読んでいた本ってこと。色々無意識で繋がってるんだ、きっと。でもなんでもかんでも繋げるのはもっと時間があるときにやらないと。毎日自分で自分を叱っているけどやっぱり自分で自分をはあまり効果ない。でも誰かに叱られるのも嫌だしなあ。締切とか時間的な区切りで約束しておくことは大切だ。ああ、これもそろそろ時間切れ。あくびばっかりでるけどがんばりましょう。

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読書

2月29日(木)

足元の小さなヒーターが一生懸命作動している。ありがたい。とはいえ寒さもピークを過ぎただろうか。相変わらず真冬のモコモコした服装で出掛けてはいるが。iphoneの天気予報を見た。帰る頃には雨マークも。乾燥が解消したり花粉が飛ばないのならそれはそれでいいことだ。雨の日の靴選びに、というより空模様を読めないせいで雨に弱いスニーカーを履いていて何度も失敗している。それを解消しようと長靴だけが増えてしまった。適切な時に履かなければ意味がないのだが空模様が怪しいぞというときは長靴を履いてしまうようになったら失敗は減った。大雑把に対処していくのはオシャレではないが不快でない方がいい、私の場合。今朝はカラスの声が大きい。ゴミの日じゃないけど。いや、ゴミの日ではないからか。

水村美苗の『日本語で書くこと』を読んでいた。好きなんだ、水村美苗の文章。2009年に出版されたエッセイ集に少し加筆修正がなされて2022年に文庫化されたものだ。装丁は安野光雅。小説を書くことについて書きながら自由自在に本の案内もしてくれている。色々と読むべき本はあるがこういう本に出てくる本は特に信頼して読めると思う。私は手当たり次第に本を読んできたが結局はこういう本に出会うのであってまずは王道と出会うことで歴史を知るということが大切なのだろう。途中、読書に耽っていたらこんな時間になってしまった。今日も長い。頑張ろう。一日得した気分の二月でも気は抜けない。明日から三月。もう手遅れかもしれない、という気分にもなるがまだ遅れてないからなんとかしよう。長靴はこう。

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読書

本と本屋と

おなかがすいた。でも今朝も飲み物だけ。外が明るい。洗濯機をかけていたのを忘れていた。先日名古屋駅にくっついている高島屋の8階にある三省堂浅田彰『構造と力 記号論を超えて』を買った。この本自体は持っているが文庫版には千葉雅也による解説がついている。それ目当てだ。ものすごくスッキリした解説。なんらかの枠組みを提示されることで本はグッと読みやすくなるがどんな枠組みを提示されるかが非常に重要。本当に助かる。それにしても久しぶりに充実した本屋へ行った。私が最も使う新宿の本屋たちは私にはどんどん使いにくくなっていると感じていたので嬉しかった。千葉雅也たちがではじめた頃の新宿ルミネのブックファーストは現代思想の本も充実していてたくさん買った覚えがある。そこも先月閉店したと聞く。池袋はどうなのだろう。リブロで千葉雅也の選書フェアなどで色々買ったがそこももうない。ジュンク堂などは相変わらずだろうか。この小さな街に越してきた頃には駅近くの本屋のほかに本当に小さな本屋が数軒あった。今は私が一度も寄ったことのない本屋が一軒だけ残っている。街の本屋に専門書は求めていなかったし夜遅く帰ってきてもパッと寄って本を見られる環境はとても恵まれていた。

本屋へ行くと子どもたちが読んでいる本も気になる。まだ二語分がではじめたくらいのこどもたちと本をよむのも楽しい。重たそうなのに片手で引き摺るように持ってきて自動的に膝に座る。膝が足りない時は少し一触即発の雰囲気になるがみんなに見えるように絵本を少し上に掲げるとすぐにそちらに目線がいく。とても集中してみえるのに「おーしーまい」となると我先にと次の絵本を私の目の前に差し出してくる。本屋でも子どものスペースが充実しているところは多い気がする。名古屋三省堂はどうだったか。意識してなかったけどとにかくどのフロアーも人が多く活気があった。

今日も風が強いのだろうか。どうぞみなさんお気をつけて。

アイデンティティ・ポリティクスを超えて――『構造と力』文庫化を機に/浅田 彰

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映画 読書

カカオとかテンペストとか。

鳥が鳴いているのを耳で探しながら聞いていたら二度寝してしまった。しっかり夢も見た。最近の夢はみんなで一緒に動きながら何かをやっている夢が多い。どうにも眠いので普通の濃いめのアールグレイを入れた。ハーブティだとまたまったり眠くなりそう。冬の間にもらったチョコがなかなか減らない。今日はこれ、今日は・・・と食べ続けているような気がするのだけど。今日は剥き出しになっていない金の包みにくるまっているのにした。どうしてこれだけくるまっているのかしら、と思って開けてみたけどその特別さはよくわからなかった。ただ、甘い!びっくりした。このちっこいのにどれだけの甘味を詰め込んだのか。句友でもある和田萌監督の映画『巡る、カカオ〜神のフルーツに魅せられた日本人〜』の「うま味」の話をまた思い出してしまった。あれもみんなで何かやる話。映画のおかげでカカオがすっかり身近になった。先日、筑波実験植物園の熱帯資源植物温室でもカカオを見つけた。そこは本当に暑くて迷い込んだ先で知り合いにあったような気分だった。

昨晩は河合祥一郎によるシェイクスピア新訳シリーズの第15弾『新訳 テンペスト』を読んでいたらあっという間に2時を過ぎていた。私が演じながら読んでいるとミランダがちょっとバカっぽくなってしまう。父プロスペローに「聴いているか」と問われる理由が単に集中できず眠りこけてしまう自分と重なってしまう。ミランダはいい子なんだけどあまり思慮深くないというか男に囲まれた世界で育つって苦労も多かったんだろうなと思ってしまう。キャリバンは当時王女が嫌なやつのあだ名にしていたエピソードがあるほど不快な人物として描かれているがものすごくイキイキしている。ミランダの母親が全く描かれないのに対しキャリバンはおふくろの存在を軸に言葉を紡ぐ。自分の言葉は育てられたものでもあるゆえ誰にも奪われるものかという矜持を感じる。舞台で観たい。戯曲は面白いな、と思ってもう一冊読んでしまっているのが町田康『口語 古事記』。これはいい意味でずるい面白さで戯曲ではないのだけどなんか近いものを感じる。軽みとイキイキさがにているのかもしれない。

さて、今日も休みという感じはないができるだけ色々進めよう。東京寒い。でもこのくらいの寒さはなんてことないはず。どうぞ良い一日を。

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精神分析 読書

言葉とかそれ以前とか。

急がねばなのにのんびりしてしまった。「しまった」が「島田」になってしまった。島田さんという大先輩がいた。その人のおかげでどんな場所でも果たせる役割があることを学んだ。しかも明るく伸び伸びと。昨晩は読むべき論文の上で佐藤りえさん発行の文芸個人誌『九重』3号を広げたら止まらなくなってしまった。小津夜景さんも書いていた。やっぱりいいなあ。

”のびのびと発想する一番の秘訣は「無責任になること」ですが、人ってなかなかそうはなれない。”

と小津さんが書かれていた。本当にそうですね。

かささぎのこぼす涙をおつまみに 小津夜景『花と夜盗』より

もそういう感じ。4号の今泉康弘さんの作品もいいです。川柳のような雰囲気もあるけど景色が見える。あるはずのない景色まで不思議なく見えるのが不思議。

はあ。素敵な言葉たちと触れるのは幸せ。なんだけどやらねば。つくばのコート・ダジュールのパルメザンチーズサブレも美味しかったからがんばらねば。間に合わないよー。

フランス精神分析の本を読んでいる。ラカンは晩年、フィクションの次元なしに真理は成立しない、という言い方ではなく「嘘つきの真理」という言い方でラカンのいう「現実的なもの」を位置づけた。が、この時点で嘘になりえないものなどないという感じがするのでどっちが外部かという話でもあるか。ともにこぼれ落ちるものを掬い上げるとき分析主体がというより分析状況は「歴史化する・ヒステリー化する」ことを試みてるらしいがこれも「現実的なもの」に形を与えようとする行為なのだろう、か。

とかね、こういうややこしいことを考えてると言葉の美しさが取りこぼされていく感じがするでしょう。私のまとまりのない思考でぐちゃぐちゃ考えるのはそこそこ汚い行為ですよ。嘘も意地悪もいっぱい。言葉以前の世界に言葉に戻ろうとしてるんだから仕方ないけどね。適当なこと書いてないでやろう。ああ、もう少し何か食べたいけどちょっとやってからにしなさい。はい。どうぞ皆さんも良い一日をお過ごしください。

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読書

絵本のこととか。

空がきれい。月がまだ高いところで光っている。今朝はあまりお腹がすかないな、と思ったばかりなのにこうして何かを始めるとすぐにお腹がすいた、となる。食欲で満たされるのはおなかだけじゃないけど持続時間が短いからなあ。おなかを満たしてくれるのは食欲だけだから必要ではあるけどこんなに食べるのが好きだと困るなあ。

そうそう、今ともだちの編みメーション作家のやたみほさんがいがきけいこさんと「アメチャウ国の王さまと恐竜」という2人展をやっている。行かねば。場所は神保町のこどもの本専門店ブックハウスカフェ。展示自体は小さいと思うけどかわいい実物を見られるだろうし(受注販売だそうです)靖国通り沿いにある大きな本屋さんで絵本もたくさんあるからカフェでゆっくりしながらお気に入りの一冊に浸るのもいいと思う。そういえば昨年は素敵な絵本とたくさん出会った。保育園で子どもたちにせがまれて読む絵本も「へー」と思うものもたくさんあったし、保育園では子供たちの読み方(読み聞かせているのは私だけど)が本当に面白いしかわいい。ただそれ以上に慌ただしいので絵本の名前をゆっくりチェックし直す時間もなくどんどん記憶から抜けていってしまう。カフェとか図書館とかで出会った絵本の名前も覚えていないから忙しさのせいでもないけど。「谷川俊太郎 絵本★百貨店」ではじめましてだったり再会したりした絵本たちも素晴らしかったな。展示も工夫が凝らされていて遊び尽くした。詩の世界はこんなに楽しいということを改めて教えてもらった。旅先で読んだ絵本はその土地のもの。松谷みよ子監修だった。松谷みよ子は海軍の施設で働いていたんだよね。戦争中に童話を書き始めた。私はどの作品もとても好き。保育園にも松谷みよ子の作品は大抵置いてある。私はやっぱり小さな頃に衝撃を受けた『モモちゃんとアカネちゃん』が一番かな。松谷みよ子は数年前に亡くなってしまったけど、私が同じく小さな頃から読み耽っていた谷川俊太郎はまだ生きている。私もこんな年齢なのにもっとずっと生きて詩を書き続けている。すごい。かなり上の世代の人とも谷川俊太郎の話で盛り上がったりできるくらいshared realityになっている。生きた移行対象。すごいことだ。

さてさて今日も色々。がんばりましょう。本当におなかの疲れが出てくる頃みたい。七草粥も優れもの。どうぞよい一日を。

追記:松谷みよ子さんのことを調べたら戦争体験を語ったNHKのアーカイブがあった。「狂い出さないためにいるためには〜」

「明日生きている保証のない時代」

昭和20年2月3日の出来事と新聞記事。松谷みよ子さんの証言。徳川夢声の日記。

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お菓子 読書

12月1日朝

ちょうどいい温度のお茶と聖護院かぶらのお漬物。まんまるでまっしろ。そういえば昨日の月もきれいだった。雲に包まれていてもそこに月があるんだなとわかる見事な明るさだった。悪者に呑み込まれちゃった主人公が復活するときに黒い内側からブワッって光が溢れる描写があるけどそれみたいだった。聖護院かぶらは真っ暗な土の中でよくもこう真っ白に育ったものよ。京野菜は今ではすっかり馴染みのものも多いけどきっとまだ知らないものもあるのだと思う。少し甘めのお漬物で食べすぎちゃいそう。後柿とみかんを少しずつと勝沼のお土産の最後の一つ「しっとりぶどうチーズケーキ」。作っているのは長野の「れんがはうす」というところらしい。パティシエマークがかわいい。これも美味しい。最近の焼き菓子はしっとりが上手。私は泉屋のクッキーみたいなパサっとした硬いお菓子も大好きだけど最近は歯も欠けやすいから柔らかいお菓子の方が安心するようになってしまった。歯医者さんは私の歯が欠けるたびに「噛む力が強いから」と笑うのだけど硬いものを食べるために歯ってあるんじゃないっすか、先生、と思うけど口開かれてると無力。日曜日にやっててくれるし  「キャプテン翼」でサッカーやっていそうな容姿でとても親切な先生なのだけどムー。最初、岬くんみたいって思ったのだけど岬くんを調べたら私の思っていたのと違った。どちらかというと翼くんだった。「キャプテン翼」は生まれてはじめて自分で買いにいった漫画。岡山県津山市の商店街の本屋で。私も休み時間はいつもサッカーやるような「ボールは友達」に「そうだよね!」と思える子供だったしうまかったし、サッカー。結局親にねだってはじめて買ってもらったのはバスケットボールで部活もバスケ部に入ったけど。それでもボールは友達だから毎日学校に持っていっていたらなぜか持ってくるなと注意されて教室で使うわけでもないのになんで、と無視して持っていってた。おさがりのエナメルの紫の大きなショルダーバッグと。ミッキーの。ランドセルもいいランドセルで気に入ってたけど先生に注意されてもそういうことがしたかったのね、当時の私は。今は毎日でっかいリュックで移動してるし運動なんて全くしない大人になったのに。ミッキーのことはよく知らなかったけどエナメルのムラサキというところが素敵だったんだ、多分。こうやってプチヤンキーってできていくのね。高校生になって本格ヤンキーの友人がエナメルのムラサキのバッグ持ってて似合っていた。私もその年齢まで待つべきだったな。当時私はすごく背も小さかったし引きずるように持っていたような気がするもの。彼女は背も高くて明るい茶色のながーい髪も似合ってた。バイト先では嫌味と悪口しか言わないお客さんに文句を言わせない迫力があったしアイスクリームを盛るのも上手だった。私は下手すぎてついにはやらなくていいといわれた。私なりにがんばったのだけど私なりはどこまでいっても私なり、と当時学んだ。不器用な人は器用な人に助けてもらえばいいのだ。みんな元気ならいいな。まだ10代だった私たち。

10代といえば最近読んだ本で一番良かったのは

アリとダンテ、宇宙の秘密を発見する』(小学館)
著/ベンジャミン・アリーレ・サエンス 訳/川副智子

シンプルな言葉が響くのはこの年代ならでは。「ボールは友達」だって子供の言葉だからいいわけでしょう、大人が書いたものだとしても。この本で「会えてよかった」に傍点がつくわけも。冒頭の二行は思春期の患者からも大人の患者からもよく聞く言葉。そのあとの母子の会話に胸が小さく何度もギュッとなる。この感覚も10代のものだ。星を見上げたりしながらぜひ。でもまだ朝が始まったばかり。今日もなんとか過ごしましょうね。外は寒そう!暖かくして出かけましょう。

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舞台 読書 音楽

11月23日朝

今朝はいつだかどこだかのホテルからもらってきたほうじ茶。いい香り。昨日はコンビニで珍しくほうじ茶を買った。冷たいのはあまり飲まないのだけど「あんこたっぷり!シュー」と。変なところに「!」があるなと思ったけど別の種類の「シュー」もあるのね、きっと。

昨晩も遅くまで本を読んでいたのは覚えているけどどうやってベッドにいったのか覚えていない。きちんとベッドにいて起きたときが夢かと思った。

乾燥がひどい。ユースキン使っても乾燥で傷見たいのができてしまう。足首が乾燥するのは靴下があってないとかあるのかしら。むくみもひどいし。あったかいほうじ茶で循環良くなるかしら。

今日はウィニコットフォーラムに登壇。オンラインだから登壇ではない、ということを書くために登壇と書いてみた。どこまで言葉を曖昧に使うかとかも含めてウィトゲンシュタインをもっと引用しながら話したかったけど咀嚼が追いついていないので古田徹也さんの本を紹介だけしてウィニコットの「ひとりの赤ん坊というのはいない」というテーゼ(っていう?)を中心に日常語で書くことと絡めてお話しするよ。

昨晩は2022年11月に出た『言語はこうして生まれるー「即興する脳」とジェスチャーゲームー』モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター著 、塩原通緒訳。ちょうど一年前だね。これすごく読みやすいのだけどいつも途中までになってしまう。なぜだろう。面白いのにね。とまた古田徹也さんの本を読んでいた。こっちは決して読みやすいとは思わないけど読んじゃうのはこっち。ふティぎ。お茶を飲んでいる時は「ち」が全部「ティ」になる癖がある。言語はこうして生まれる。

朝からjon batisteとSamphaの動画をみて相変わらずコーシャス・クレイ聞いてまた素敵な余韻に浸ってしまう。違うのを聞きたいなと思いつつ戻ってきてしまう。そしてこんな感じの曲もやるのね、と以前の曲からも発見。MVも面白い。不動産屋さんで働いてたんだって、コーシャス。あんないい声で物件紹介されたらきっとおうちもいいおうちと思って借りてしまうかもなっ。

大急ぎで色々書きまくった勢いでさらに書いておきたいけど眠くなっちゃった。ケムリ研究室の『眠くなっちゃった』は本当に悲しくて素敵なお話だったな。ケラ&緒川たまきはほんと素敵カップル。前にしもきたでお二人を見かけたけど緒川さんがケラさんにくっついてニコニコおしゃべりしててすごくかわいかった。ケラさんが緒川さんをはじめて使った舞台も思い出すなあ。あれは何年前だろう。別役実の脚本だったっけ。

今日はみなさんおやすみかな。それぞれいい1日になるといいですね。いいこと降ってきたり落ちてたりしますように。

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読書

微か

きれいな空。この時期の空は本当に特別。風は少し冷たい。髪が濡れているとちょっとひんやりするが少し動けばなんてことはない。長袖Tシャツになにか羽織るものがあるだけで大丈夫。微調整でなんとかなる世界っていい。どうして、とイスラエルとパレスチナのことを考える。微かなんて言葉は命を奪われる可能性の高い人の最後の希望の言葉としてしか使用されない世界が戦争なのではないか。私はウクライナに対するロシアのときと同じくイスラエルのガザに対する攻撃のニュースに驚いてしまうと同時に何か知るたびにあまりに知らないと知る国のことを学び始めた。なにを手に取っていいかわからなかったのでとりあえずシリーズで気に入っている高橋正男『物語 イスラエルの歴史』(中公新書)を読んでいた。

あとがきに簡潔な紹介があるので引用しておく。

「本書は、西欧中心史観とは異なる、アフロ・ユーラシアからの視点で、一日本人歴史家の複眼を通して、歴史・民族・宗教をキーワードに、一神教徒にとっての聖都イェルサレムを基点として、近年の考古学・歴史学双方の研究成果を踏まえて、古代から現代まで──父祖アブラハムから中東戦争まで──のイスラエル四千年の興亡史の枠組みを一般読者を対象に綴った歴史物語である。」

「物語である」というところは大切だし注意が必要なのだと思う。どのような物語を選ぶのもその人の自由だがその物語が多くの場合、なにかの物語に取り込まれるようななにかしらの方向性をもっている。この本は少し前の本だけど(といってもイスラエル国独立60周年の2007年)今のことはニュースで追える。と思いたいのだがSNSはダメだ。私に基本がないからその情報をどう信じて理解していけばいいかわからない。そこに正反対の言葉や矛盾や悪意が撒き散らされていることならわかる。なので私はまずは一人の人が書いた本で学ぶ。次はダニエル・ソカッチ著『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』でどうだろう。誰かにアドバイスをもらおう。

人の心は常に分裂気味でとても複雑であるというのは前提のはずで、多くの微調整の結果なんとかやっていられるのだと私は思っているが、そこに大雑把な仮のまとまりをもたらすのが言葉だろう。評価が真っ二つに分かれる人や状況の場合がわかりやすいかもしれない。そこで用いられている言葉そのものもそうだがその使われかたに注意を払うとそこで消されてきたであろう言葉に出会うことがある。というよりもいつもこれだな、という感覚によって導かれるその人の言葉のルーツへの興味と出会うといったほうがいいかもしれない。沈黙であれ饒舌であれ大抵の人は受け継がれてきた言葉に微調整なり大変革なりなんらかの操作を加えながら使用している。戦地での言葉はどうだろうか。言葉を発するだけで殺されるような環境で思い出す言葉はどんなだろうか。

こんなたっぷりとした朝の光を浴びながらとても暗い気持ちになる。願うことや祈ることもどうやったらいいのかと戸惑うがまずは学ぼう。微かさが普通の希望とともにあればいいなと思う。

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言葉 読書 音楽

かわいいといえば、とか。

眠い、すぐに眠ってしまう。急に涼しくなったから身体がついていかないという人が多い。私もそうなのかもしれない。あくびばかりでる。仕事のことで音声入力を使ったら変換間違いがおかしかったのでふざけて関係ないことも入れてみた。「あくびが出てしまう」と適当な口調で言ってみたら「歯茎がでてしまう」と出た。変換後の文章を文字としてみても変換前になにを言ったのかわからない。「粘着の間違い」ってあるんだけど私はなにを言ったのだろう・・・。英語だったらもっとひどいんだろうなあ。「人間は弱いかな」とかもある。絶対こんなこと言っていない。弱いだろ。言ってもいないのに返事しちゃった。こういうことって実は日常的に起きているのかもしれない、と思うと少し心配ね。でもそこから生まれる遊びもあるかな。ここでもたまに変な間違いしてるんだろうね。

私が思わず「かわいい」というと「かっこいい」と言い直す園児がいた。「かっこいい」と言い直すと満足そうだった。彼女は結構大きくなっても「かわいい」という言葉がしっくりこないようでみんなが「かわいい」というものにもそんなに興味がもてないようだった。「きれい」「すてき」という言葉はとても自然に使っていた。ちっちゃい子が「すてき」とかいうとかわいい。その子の前で赤ちゃんのことを「かわいい」と言ったら「私は?」と言われた。あらあら。「すごくかわいい」と言うとそこそこ満足そうだった。

かわいいといえば暮田真名さんの川柳に「かわいい」という言葉を使ったものがあったがなんだったか。(「かっこいい」だった!in『ふりょの星』左右社)暮田さんが「暮田真名以外」というアカウントに載せているstand.fmのラジオが秀逸。やっぱり頭がいい。声もいい。喋り方もいい。淡々とした一人漫才も面白い。一人喋りがこれだけうまいのだから漫才もできちゃうだろう。というか漫才の才能がある人は一人喋りがうまいのだろう。なんてことない出来事の一部を広げていくしかたが新鮮ですごくいい。記憶力もいいのだろう、というか暮田さんはとても頭のいい人だと知っている。川柳に記憶力は必要ないと暮田さんはおっしゃると思うのだけど辞書に載っていない言葉を含め、語彙力は絶対に必要だと感じる。あと軸のブレなさ。教え方とかもびっくりするくらい上手なのですよ、暮田さん。誰にでも通じるものにする工夫をずっとしている気がする。川柳をというよりあの教え方を体験しにいくのもいいんじゃない?と思ったりする。それにしても暮田さんの文化は新しい。最近「くるり」の新譜が出たが「くるり」くらいだと共有できるのかな。ブルース・スプリングスティーンは共有できないかも・・・。知識としてはできるけどこの熱狂とかあの想いとか。最近、柳樂光隆のプレイリスト「for Joshua Redman”Where Are We”」に大好きなブルース・スプリングスティーンを発見して再び聞いている。柳樂光隆さんの記事を読むようになってよかった。自分の音楽の歴史が想起されたことに驚いた。記憶力ないのに。Netflixでは今も『SPRINGSTEEN ON BROADWAY』が見られる。『ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝』(早川書房)と繋がってるんだと思う。この本はファン必携。かわいい赤ちゃんのときの写真から始まりますよ。赤ちゃんはかっこいいとはいわないよね、あんまり。行動にはいうと思うけど。そうか、彼女は「かわいい」は見かけのことというか全体を表す言葉としてはしっくりこなかったのかもな。

今日はいいお天気。乾燥もはじまった。身体大切に過ごしましょう。

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短詩 言葉 読書

言葉の使用とか。

大学って非専門家をお友達感覚で専門分野の先生として使う時代なんだっけ、今って、しかも人の心身を傷つけたり搾取したりする人に、と思うけどこういう事例って国立大学でもあるようなので引き受けた者勝ちということになるか。勝ち負けではないが被害者側が相当の負担をおって事件化しない以上、一方で搾取しながら他方で稼いでいるわけだから経済的に敗北感があるとしたら被害者の方だろう。搾取側に勝利感はないだろうけど。そういう意味では常に勝利している、というか弱い立場に立てないためにそうなっているのだろうから。ナルシシズムという言葉も薄っぺらいし邪悪という感じの悪でもないし思考停止というのも違うし、と考えるときに田野大輔、小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)はとても参考になる。歴史研究者と哲学研究者という異なる専門家の対話によってハンナ・アーレントの<悪の凡庸さ>という言葉というか、これは概念になっているわけだけど、それをプラグマティックな発想のもとに割り切って「使う」のか、その言葉の使われ方、受け取られ方の変遷を含め、それが現代の私たちの文脈にもたらす意味を探るのかという対比も非常に重要な論点だと思う。

私たちは大抵何かの対立軸で物事を見ているわけだけどそれがそれぞれ異なることを前提にしないと話が通じないこともある。それとそれはそもそも意味的に対立するものではない、とか、歴史上の文脈が全く異なる言葉を無理やり対立するものとして使っていたりする場合もあるからそれはそれで違いを明らかにすることが必要だし。こちらを言いたいがために持ち出した何かがその人がいうとそれっぽいのに私が言ったら全くそれっぽくないという場合はそれがそれっぽいのは行動の勢いによるものであって言葉の意味ではないわけね、ということもあるし、いつどこの誰の何をどんなふうに見ているのか、どうしてそういうふうに見ているのか、という5W1H的な問いは常に大事と。さてさて果たして今は有効ではない言葉なんてあるのだろうか。果たしてその一言でその人を説明できる言葉なんてあるのだろうか。

ちなみにnoteにも引用したがアーレントの『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』の以下の部分は事件化しないと決めた問いについて法と政治がらみで考える場合に有効だと思う。

「ここでわれわれの関心をひくのはもっぱら君のしたことであって、君の内面生活や君の動機は犯罪的な性格を持っていなかったかもしれぬということや、君の周囲の人々の潜在的な犯罪ではない。」
「政治とは子供の遊びの場ではない」

–『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)より

暮田真名さんのラジオについて書くつもりが全く別のことを書いてしまった。いい感じなので聞いてみてね。ではでは。

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読書

『なぞなぞえほん』とか尾久守侑のペソア伝書評とか。

だいぶ涼しくなってきたけどまだ蒸し暑い。つけると寒いし消すと暑いものなーんだ。この時期のエアコン。大人向けなぞなぞだな。小児発達クリニックでADHDやASDの幼児さんのグループを彼らが思春期になるまで担当していたけど(その後は個別)中川李枝子作 、山脇百合子絵の『なぞなぞえほん』(福音館書店)を使ったことを思い出す。楽しかったね。みんなもう成人した。とても大変でとてもかわいかった。こういうのは常にセットだ。お母さん、お父さんもお元気だろうか。いろんなことありましたよね。今もですよ、と笑われそう。

今日は『週刊文春』を買わねば。精神科医で詩人の尾久守侑さんが、澤田直さんの『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』(集英社)の書評を載せているとのこと。尾久さんの第4詩集『Uncovered Therapy』(思潮社)もとてもよかったのだが詩集にどう感想を述べていいのかわからず何も書いていなかった。尾久守侑の書く世界は私も普通(何が普通かわからないとはいえ)よりはよく知っている病気の世界でもあり言葉の意味の世界で生きようとするとすぐに迷子になる。記号としても同じ言葉がなんどもリフレインされてそれもまた軽い眩暈を引き起こす。この詩集は最初から順に読むのがいい。尾久守侑のはどれもそうだと思う。リフレインしながら意味を強めていくのではなく意味をずらすようなリフレインが少し不穏。そういう詩人がペソア伝の書評を書くなんてとても素敵。この詩人はあの詩人のことをどう思ったのだろう。読もう。

昨日、ハクビシンを見た、とかハクビシンは駆除の対象である、とか、スーパーでみた景色のこととか、オフィスからも帰り道でもずっと見えていた月について話したこととか、来年シドニーで発表することにしたこととか色々書きたいことはあるけど時間切れ。

あっという間に週末。疲れましたね?私は疲れてます。でもがんばろう。良いこともあるといいですね。

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読書

本屋へ行くなど。

二度寝してしまった。気持ちよかったけど朝やるべきことが何も進んでいない。持ち帰り仕事もそのまま持ち歩くことになりそうだ。

本屋に行くとSNSで見かけた本以外の本にたくさん出会えるからとても楽しい。インターネットはなんでも見つかる場所なのかもしれないが、私の場合、そこから得られる情報は限定的。そういう使い方しかしていないということだろう。バウンダリーのなさに怖さを感じてもいるので現実の場所の自由に動けなさ(opossition)は必要だと感じている。もちろん障害や困難に関してはできるだけ安全で動きやすくあるべきと思う。

昨日、時々行く本屋へ行った。時間が限られていたのでなんとなくわかっている目的の棚へ直行。ゆっくりと本のそばを動きながら、ワイヤレスイヤホンで話し歩きしながら、カップルで顔を寄せ合いながら、いろんな人がいろんなことをしている間をすり抜けて急ぐ間にもいろんな雑貨や雑誌や大きな写真集が目に入った。大型の本は普段あまり見られないのでその場でめくってみたいがこの日は表紙だけ見遣って通り過ぎた。

あった。古田徹也『謝罪論』(柏書房)刊行記念、古田徹也選書フェア@代官山。選書された本は土居健郎などすでに持っている本もあったが少しパラパラして数冊購入。幅広い。昨日はオープンレター訴訟の件で「謝罪」という言葉をいつもより多く見かけたのでみんなもこれ読んだらいいのでは、と私も古田徹也『謝罪論』を読み始めた。ノンフィクションライターの高橋ユキさんのおかげもあるが法律が絡む場所での(どこでもそうだが)人間関係はとても複雑で気持ち的にはどこにもいけなくなるような出来事がたくさん起きていると学んだのでいろんな観点から知っておきたい事柄がある。

さて時間がない。出かけよう。皆さんも良い1日を。

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読書 音楽

秋、80年代、ラジオ

涼しい。半袖だと少し寒い。今日は長袖で出かけられる。嬉しい。別にいつでも長袖着たければ着ればいいじゃん、という話ではないのである。どんな格好してても暑いぜ(でも電車は寒いぜ)、という日々がようやく終わってのびのびと秋の服を着られるのが嬉しいのだ。今年は本当に「秋なのに」という残念な気持ちが続いた長い長い夏だった。これ当然「春なのに〜♪」のメロディにのせて書いているわけだけどこの曲は春に期待しすぎだ。「春なのに」ではなく「春だから」だよ、と突っ込む人もいたと思う。現実、春は別れの季節なのだ。そう考えると「秋なのに」は暦に引っ張られすぎかもしれない。お天道様がそうならそうなんだよ、と素直に長い残暑を受け入れることも大切かもしれない。でも暦はもともとお天道様の事情に合わせて生活してきた人たちが作ったものなのだからそれが合わなくなってくるというのは環境問題、マジでやばいですよ、という話でもあるのである。本当に。ちなみに「春なのに」は1983年1月11日に発売された柏原芳恵の12枚目のシングル(by wikipedia)である。当時はみんな「こんにちは、柏原芳恵です」と真似していた。私はひたすら「ハロー・グッバイ」の冒頭を歌っていた。「紅茶のおいしい喫茶店♪」と。でも「こんなかわいいカップになりたい」とは思わない、と話したら「えー、そう?」と言われた。なりたい人もいるのか・・。「美女と野獣」のチップを思い浮かべた結果らしいが、あれ魔法かけられちゃてるわけだし。ちなみに(二度目)宮本浩次が歌う「春なのに」もいい。宮本浩次は何を歌ってもいい。

身体の強張りが強い日はこうしてタイプするのも苦痛だが一度座った場所から動くのももっと苦痛、ということでどうでもいいことをばーっと書いてしまった。いや、どうでもよくない。1980年代の歌と共に育ってきたのだから。どの曲も歌詞はツッコミどころ満載だがとても切なくもなる。

この前、 HelloTaroさんのニセコのコミュニテイラジオの番組RadioAmbient 026 : The Bookends Vol.01にお邪魔して主に私たち世代の曲に谷川俊太郎の詩を載せて遊ばせてもらった。ストリーミングありなのでよろしければ。ただおしゃべりをしているだけなのだが1970年代生まれの方には響く曲もあるかもしれない。

今流れているのは小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」♫

良い日曜日を。

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読書

かつしかけいた『東東京区区』

部屋は涼しくも暑くもないけどこのルイボスティーを飲んだら暑くなってしまう。飲みたいけどちょっと我慢。フルーツを先にいただいて水分補給しました。もうすでに熱中症っぽい症状に何度かなっているが水分補給って難しいなと思う。水分取ってもずっと暑いところにいたらだめみたいだし意識しているのだけどどっかで注意が足りないのかしら。私は一人だとあまり冷房つけないからそれもいけないのかもしれない。あ、隣のおうちの雨戸がガラガラ音を立ててる。おはようございます。昨日は芥川賞と直木賞の発表直後に本屋さんに行ったのだけど店員さん走ってた。市川沙央さんの『ハンチバック』、受賞おめでとうございます。早速「芥川賞受賞作!」という札がピンで止められていた。「(賞の)発表があったばかりだから」と店員さんは慌ただしく動きながら営業の人に遠くから大きな声で謝っていた。営業の人もなすすべなしという感じで帰っていった。ここの店員さんはとても親切だけど多分そんなにキャパが広くない。聞き慣れた声を聞き、時折走って通り過ぎる店員さんを見送りながら賞の発表があるって大変なことなんだなと思った。

先日から紀伊国屋書店新宿本店で大きく場所をとって紹介されているかつしかけいた『東東京区区』もやっと買えた。noteに書いたけどこの前から紀伊国屋書店に向かう地下道からの入り口が閉鎖されていてこの暑いのに地上を行かなくてはいけないのです。駅から近いけど。閉鎖されているのを忘れてまた地下から行ってしまった。もー。あまり考えず1階、2階、3階をうろうろしていろんな話題の本をみながら「ないなあ」と思って確認したら8階だった。そうか、コミックだものね。コミック売り場ですよね。ありました。サイン本は有人レジで(私はセルフレジ使うの下手だからどんな時も有人レジだけど。友人レジってうっちゃった)とあったから聞いてみたらありました。サラさんのイラストだー。サインと一緒に描いてくれてました。サラはインドネシア人と日本人の両親のもとに足立区で生まれたそう。大学生でイスラーム教徒です。このおはなしはサラさんが葛飾区立石のエチオピアのカフェに立ち寄るところから始まります。そこで出会ったのがカフェを営むエチオピア出身のお母さんと小学生のセラム。二人が道に迷っているときにこれまた偶然葛飾区亀有に住む中学生春太と出会います。お散歩友達になったこの3人が東東京を散策しながらその歴史やそこでの人々の思い出、それぞれの考えと出会っていくこのマンガ、街の描写もリアルでのんびり念入りに散歩したくなりました。東東京、いわゆる下町には馴染みがあるので知っている景色もたくさん。でも全然知らなかったということばかりで(登場人物たちでさえそうでした)とても懐かしく興味深くこの本のルートを休みのお散歩コースにしようとか、句友たちと吟行もいいなとかワクワクしながら読みました。立石図書館、小岩図書館も出てくるし区の図書館やこの地域の学校の図書室に置かれるべき本かも。こうやって自分たちのいる場所、育ってきた場所を知れたらとてもいいと思うのです。

最近ノスタルジックになる本ばかり手に取っている気がするけど自分の体験に沿ってくれる素材があるってありがたいことですよね。外部記憶装置としても本に助けてもらっています。話題になる本ばかりではなくそれぞれがそれぞれに気になった書物と良き出会いをもてますように。涼しいお部屋で隙間読書を楽しめたらいいですね。それでは今日もお気をつけてお過ごしください。

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散歩 読書

カフェ、アイドル、比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)を読み始めた。

暑すぎる日に寒すぎないカフェを探した。土地勘のある場所だから使い勝手のいいカフェの寒さは大体知っている。あそこなら、と思って自動ドアを入ったらさむっ。入った途端にさむっ。やっぱりやめよう。涼みに入ったみたいな感じになった。ならあそこは、とまた少し歩く。え、ここ2階だったんだ、地下だと思ってた、というと2つあるんじゃない?と言われた。なんだその発想は、と思ったらそばに同じ薬局が2つあったからという。なるほど。ほんとなんでこんなそばにね。でもこの薬局、わりと2軒の距離が近いところにあったりするよね。カフェは2階にしかなかった。お互い10年ぶりくらいかもと話しながら大きい4人掛けのテーブルへ。寒くない。やったー。気楽に動きすぎて上着を忘れたのだ。超寒がりの私は定期を忘れても上着は忘れないのに。どこもかしこも寒いでしょ、夏は。週末は外でぼんやりしすぎて熱中症っぽくなってダウンしたけどね。夏生まれなのに全然上手に過ごせない。体調の崩し方も歳とって変わってきてるし困ったもんだ。

遠くでアイドルグループが歌うのを大きいパラソルの下からぼんやり眺めていた。ご当地アイドルとして自分たちで店のプロデュースもしながらいろんなところでライブをしているとのこと。自分たちプロデュースのライブ場所を持っているのはすごいよなあ。小さな野外ステージを降りるなり物販。手売り。遠くてあまりよく見えなかったけど踊りがザ・アイドルという感じで「推しの子」を思い出した。この暑いのにめちゃくちゃ動く。すごい。名前紹介とかもパターンが決まってるよね、グループって。すごいリズム。それに呼応して客席からあがる野太い声。ほお。様式美、といえば比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)をKindleで読み始めた。体調を崩すと活字も読めなくなるがなんとなく読む気になったので安心した。

表紙がすごくいいのはKindleでもわかる。内容は出版社のサイトを見てほしい。ためし読みもできる。暴走族とヤンキー、レディース、田舎の山の麓育ちの私にはとても身近だが今はもうその形式自体古いのだろう。彼らの面子を重んじるあり方や様式美を渋谷センター街に見出すことは難しい。コギャルだってもう昔の話だろう。加害とか被害とかいうわけ方も知らず性愛と暴力に翻弄されるような10代の居場所探しの日々が意外なほどゆったりした時間感覚で著者自身の本作りの歴史と並行して書かれているこの本にひたすらノスタルジックな気持ちになるのは世代ゆえか。体調ゆえか。レディースと名乗ったティーンズたちは大人になっても魅力的だ。そう描かれる。文章に勝手に著者の想いを想像してはやはりノスタルジックな気持ちになった。居場所という言葉も苦手だがこの本にはしっくりくる。しかしまだ途中。

今日もすでに暑い。昔の夏の思い出を語ったりしよう、寒すぎないカフェとかで。どうぞお気をつけて。今日は火曜日。忘れないように(忘れそう)。

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コミュニケーション 精神分析 読書

問う

問われることを極度に嫌う人が問いを大切にするのはなぜかという問い。問いって本当に終わりなきもの。一問一答が見えなくしているものについてはこの前のグループでも話し合った。一問一答で問いを狭め仮の答えを欲しがっているとしたらそれはなぜか。こぼれ落ちるものが増えるだけとわかっているのに余計なことをしてしまうのはなぜか。子供といると「なに?」「なんで?」とよく聞かれる。泣き叫ぶ赤ちゃんにこれかなあれかなと何かを提示しても泣かれるばかり。なすすべなしと「うんうん、やだね、泣いちゃうよね」と抱っこしていると指しゃぶりを始めたりさっき拒んだおもちゃを気にするそぶりを見せたり。答えってなんだろう、と問いはいくらでも出てくるが答えってなに?「適応」ってなに?というのもよくある問い。誰に?何に?あなたに?社会に?あなたが社会ってやつ?「逸脱」ってなに?何から?どこから?あなたのルールから?お互いにお互いのこと考えたらそんなに差はできないはずだよね。いろんなことは差異で語ってるんだよね、私たち。みんな違ってみんないい、とか悪いとかではなくてとりあえずみんな違う、ただそこからなんだよね。違う?永遠に問いの型にすることはできるのだけどどっかで答えを決めたいね、仮でいいから、という場合もある。同じ、違うというマッチング課題は具象と抽象の行き来を見ることもできるけどずっとそこでゆらゆらしていられないことってある。朝がきたら仕事行かなくちゃ、学校行かなくちゃ、とか実際それをするかどうかはともかくなんらかの「次」っていつも準備されていてプレシャーをかけてくる。身体を自由に動かせなくなってしまった人と目で話す。これ?こっち?次は?これ?・・・と繰り返す。目の光を追っているような気がしてくる。それがいつの間にか言葉になる。できるだけ言いたいことと近い言葉でありますように。願いながら問い、仮の答えを探し、それを繰り返しなんとなくのまとまりを一緒につくる。言葉にならないものが言葉になっていく。それが正しいか間違いかはともかくとして。「クィア・アイ in Japan!」の印象的なシーンを思い出す。プライベートな関係は外からは見えないもので溢れてる。だからプライベートなわけで自分のあり方に侵入されない場所がないと人は壊れてしまう。ウィニコットのいう「孤立」がありうる場所を。問いの基本は相手がいるということ。=言葉があること。耳が聞こえない親である斎藤陽道さんご夫妻と子供たちの関わりを描く斎藤陽道さん原作のNHK Eテレの手話アニメーション「しゅわわん」で斎藤さんが「好き」という手話の起源を考えるシーンがあった。人はなぜ起源を考えるのだろう。なぜルーツを探るのだろう。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)の著者は流刑地を辿りながら追放された3人が見たであろう「陸の端とその先の果てしない海」を眺める。そして自分がここにいる理由を見出す。「存在するものはすべて、なんらかのかたちで痕跡を残す。(中略)ここでは、ほかの場所では不可能なかたちで、その人たちを取り戻すことができる。」私たちは、相手や別の可能性を想定する問うという行為を言葉以前からしてきた。ウィニコットのいう「孤立」はその源泉なのだろう、ということに仮固定しておく。そして次へ。きっとまたここへ。その繰り返しを問いとともに。今日はお休みの人も多いだろうか。すでに暑いけどどうぞお気をつけて。お大事にお過ごしください。

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読書

読書、学び

どんなに暑くてもあったかいお茶は美味しい。相変わらず長津田の菓子処かわはらのお菓子。今日は「おのたち」。ひらがなのそばに小さく漢字で「お野立」と書いてある。戦時中に天皇陛下が立ち寄ったところということらしいです。だから菊紋みたいなかわいい形なのね。原材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、白餡、チーズ。チーズだったのか!良い並びですね。バラバラと並べるだけで美味しいものが出来上がるとわかりますね。

昨日は移動途中に図書館に寄りました。久しぶりに行ったけど冷房がちょうどよくて快適でした。調べ物に行ったのですが結局持っていた本を貪り読む時間になってしまいました。昨晩ツイートしたこちらの二冊。

『帝国の追放者たち』(柏書房)のことは昨日も少し書いたけど同時代をそれぞれの国で生き、故郷(ルビはホーム)から別の見知らぬ土地へ流された3人の人生をたどり、実際にその足取りをたどる紀行文学(っていうんだって)。故郷とかホームシックという言葉なんてあまりに使い古されているように感じていたけど使い古されるほどに捨てきれぬ言葉なんだと感じた。

最近、トランス差別に関わる編集者や作家の方々が本が「間に合わなかった」とそれがその時期に必要だから書かれ出版されたにも関わらず被害を食い止められなかったことを悔やむような言葉を書いていたけど本ってきっと私の仕事と同じで即効性とかないと思う。SNSで「これ読んで勉強して」みたいな言葉がヘイトを吐く人たちに向けて書かれたりするのを見るけど学ぶ気などサラサラないからそういう言葉が吐けるわけだからそういう意味では本って無力でさえある。読んでも都合のいいようにしか解釈しないでしょう、きっと。残念なこと。ものすごい読書家で書評とかいっぱい書ける人でも単純なやりとりを悪意まじりでしか読めない人だっているのもよくあること。急に「それはどこに書いてあるんですか」とか圧かけてきたり。コミュニケーションって文字のやりとりだけではないなんてそれこそ多くの本に書いてあるのでは、と思うけど意外と書いてないのかしら。だとしても書かなくても伝わることってたくさんあるはずだよね、相手を人として扱うならば。学びは結局姿勢の問題なのかも。実際、学びってどこでも可能で『帝国の追放者たち』を読みながら私は在日の人やトランスの人たちのことを想った。それそのものが書いていなくても人の人生から大切なものを奪う人たちの思惑とそこを流されずに(あるいは流されながら)生きようとする人たちの物語として浮かびあがるものは共通する。文庫化された『パチンコ』も日本が朝鮮半島を統治下に置いた年から物語は始まる。場所は釜山の島。ここでも故郷とは、母国とは、という問いを立てざるを得ないがこの本は人物描写が驚くほど繊細で自然に心を重ね揺さぶられてしまうのが一番の特徴だと思う。状況がなんであれ彼らは生きていてその苦悩や優しさに胸打たれる。傍観者になんかなれない。そういう気持ちを起こさせてくれる本は知識とは異なる形で学びを提供してくれている。むしろ知識より生々しい形で直接的に。良い本に出会えてよかったです。

さて今日は土曜日。三連休の方もいらっしゃるでしょう。少し涼しいといいですね。引き続き熱中症には十分お気をつけてお過ごしください。

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読書

お茶、九段下、本

今朝は久順銘茶のティーバッグのシリーズからオレンジのパッケージの桂花美人茶。これ金木犀の香りがついてるのね、ほんのりと。お茶ごとにパッケージの色が違うのだけどどれもとてもきれいで置いておくだけで楽しいし美味しいから好き。

九段下のファミレスへ行ったら「武道館でイベントがあるから90分制で」と言われた。どっちにしてもそんなに長時間いないから大丈夫なんだけど武道館でイベントがない日は時間制限もないのかな。店内には外国の人がたくさんいた。なんのイベントだったのかしら。コロナとは関係なく長らくいってないなあ、武道館。最後に行ったのはいつだろう。aikoのライブかな。違うかな。人が集まれるようになってよかったですね。千鳥ヶ淵の緑がとてもきれいでした。

早朝から窓を全開にしているのだけど風がそんなに入ってこない。穏やか。

最近読んでいた本がそばにあるのだけどバラバラだな。

斎藤志歩『水と茶』(左右社)は句集。斉藤さんの句は情念を感じなくていい。あくまで軽やかにしかし丁寧に面白く日常を切り取る。

五十嵐大『聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は生活史ともいえるかなあ。聴こえない親を持つ、聴こえる子ども、コーダ(CODA)である著者が母からゆっくりと聴き取りをしながらその歴史を知ろうとするプロセス。そこに歴然と存在する差別。先日判決がでた優生保護法について具体的に実感を持って知るためにも多くの人に大切に読まれてほしい。

永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。読書ってどんな行為なんだろう、ということに関心がある人にお勧め。取り上げられている作品もいい。

又吉直樹『月と散文』(KADOKAWA)。10年ぶりのエッセイ集とのこと。常に仮人格と対話しては声を出さないじっとりしたちょっと意地悪な笑いを生み出す書き方は梅雨の読書にピッタリ。

風が入ってきた。洗濯物は外に干した。ノースリーブだとまだ寒い。はあ。がんばらねば。がんばろう。

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精神分析 読書

『言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 ❨中央公論新社❩を読んだ。

二度寝、三度寝。コーヒー飲んでくしゃみがふたつ。雨はまだまだ降っている。どうしましょう。被害が広がりませんように。きっとこのあと何事もなかったかのように晴れるのでしょう。残酷。

言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 著❨中央公論新社❩を読んだ。精神分析における言葉の活用はいつも興味の中心なので言語学に関する本はそれなりに読んでいると思うが難しいのが多いから全然こなせていない。その点、この本は書き方も多分優れていて(私には優劣はわからない)引っかかりなく入ってきた。内容とは関係ないけど私はこの本を発達心理学の本だと思っていた。もちろん今井むつみさんはそれがご専門ということだし、言語は習得のプロセスと切り離せないわけだから発達心理学は常にその背景にあるわけだが、大学が発達心理学専攻で発達心理学の勉強が楽しくていまだに保育園でも仕事をしている私は「今は記号接地問題とかいう概念も扱うんだ。発達心理学もどんどん進化してるんだなあ」と思って嬉しく楽しく読んでいたのだ。なぜそんな発達心理学寄りの気持ちだったかといえば秋田喜美さんを秋田喜代美さんと間違っていたから。私は卒論で幼児に『赤ずきん』を読み聞かせてその感想を聞き取り分析するということをしたのだが参考文献のひとつが読書の心理学を研究されていた秋田喜代美さんの論文だった。今でもきちんと研究しておけばよかったなあと思うほど先行研究も現場(保育園)での調査も楽しかった。そんな誤解のもと『言語の本質』を読んでいて秋田さんはすっかり言語学の人になったのかと思いこみ、発達心理学の広がりに勝手にワクワクしていたわけだ。それはともかく毎日いろんな人の言葉を継続的に聞いているにも関わらず、というかその体験が増えれば増えるほどその人の言葉の習得や私が相手の言葉をキャッチする仕方などへの関心は深まるばかり。「そういう意味で使ってたのか」と聞き手だけでなく話し手自身が驚いてしまうような言葉の使い方使われ方も多いので話を聞く、聞いてもらう、というのは本を読むこととはまるで異なる体験ではある。生きている人を相手にするのだから当たり前だが。だからこそこういう専門的な本を読むことは大切。相手の言葉を大切にするためには忍耐と工夫と内省が必要。そのための支え。なんかすでにすごく売れているらしいのでみんなの基盤にもなってくれるかな。内容について全然書いてないけど「とりあえず読んでみて」というお勧めができてしまう本です。

はあ。雨やまないねえ。すでに被害がでている地域にこれ以上の被害が出ませんように。このあともたくさんのサポートを受け取れますように。どうぞお気をつけて。私たちも気をつけましょう。

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読書

寝不足、鳥、魚

寝不足、というと普通はあまり寝てなくて眠い、きつい、辛いというところまで含むのだと思うのだけど私の場合の寝不足は単なる記録のようになっている。眠れないとかでもないし。朝から夜遅くまで仕事していれば疲れはするけど仕事自体にリズムがあるから楽なんだろうね。そのあとにさらにミーティングや読書会があるとさすがにぐったりだけどミーティングは相手にもよる。そりゃそうか。体力とか雑談力とかもう少し生かした方が健康に良さそう。雑談力は単に相手に無理させている可能性もあるからともかく体力に関しては時間ができたら友人の卓球部(なのかな)に入りたいな。

今週は愛鳥週間ということでいろんな鳥のグッズとか画像に出会えて楽しい。もう名前忘れちゃったけどとてもきれいな色の鳥のイラストをあげている人がいて私もこういう鳥に会いたいな、どこにいるんだろう、と思っていたら「私もよくみます」「可愛いですよね」みたいなコメントがついていてその鳥は私が知らないだけで意外とメジャーらしいということがわかったりする。毎日鳥と動物と花とお菓子ばかりチェックしているけどそういう時間は素敵な時間だから睡眠と同じくらいの効果があると思う。この前さかなクンの本『一魚一会』を読んだけど素人でもこうやって時間を忘れてしまうのだからあれだけおさかな大好きのさかなクンがああなるのはごく自然だよなあ。とてもいい本だった。学びとか愛とかって殊更そんな言葉使わなくても伝わるんだな。優しい世界はそう感じることができる人あってこそでその人たちの使う言葉がそういう感受性を育ててくれるのかも。前に竹芝のイベントと和歌山のとれとれ市場のイベントでさかなクンをみたことがある。どちらも偶然だったけどめちゃくちゃ説明がうまくてすごく魅力的だった。和歌山にいたさかなクンはその少し前まで東京で仕事をしていたらしくその移動の速さに驚くツイートがたくさんあるのをあとから見た。大変だ。でも本当に貴重なお仕事をしてくれてるんだなあ。すごい。

あー、こうやってサラサラ書けるのはいいねー。仕事のことは言葉にならないことばかりだし考えあぐねるにも考えること自体が難しかったりする。言葉にならないところで何か考え続けている感じ。特殊な注意状態。こうやって書いているときも特に何も考えていないけど極めて意識的でこれは精神分析でいう自由連想ではないんだな。自由連想は全然自由じゃないもの。「思い浮かんだことを全て話す」というのはこういうのとは違う。フロイトの教示の仕方がまずいとしたらどういうふうにここで患者にやってもらう作業を伝えたらいいのかなあ。

洗濯物できた。今日も長いぞ。がんばろー。

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散歩 読書

新宿中央公園、白州正子、散歩

いいお天気。今日もずっと晴れるかな。週末、オフィスの近くの新宿中央公園はとても混んでいた。ちびっこ広場には何組の親子がいたのだろう。新しい滑り台も子供たちに埋もれていた。大人たちは話しながら遊びながらぼんやりしながら長時間ほとんど立ちっぱなしだろう。子供たちを見守るのも休日の大仕事。大変だ。大混雑のちびっ子広場をパンキッシュな大きな人の後をくっついていくことで無事に抜けフットサルコートを右手に前からくる犬や人を避けながら歩いた。桜色はほとんど見かけなくなりいろんな色のチューリップが咲き誇っていた。チューリップは花びらが大きいから存在感があるけど目線は随分下の方だ。空に伸びる大きな木の新緑の眩しさや都庁の高さに気を取られていたらすぐそばで咲き並ぶチューリップに気がつくのが遅れた。いつもはひとりずつ座れるベンチもカップルや親子とや友達同士か他人同士でいっぱい。春の週末はみんなアクティブで賑やか。子供たちもチューリップみたいだな。新学期だね、クラス替えとかどうだったかな。とりあえず1週間がんばろ。

今日もすこしお散歩する時間がある。最近は読書よりも作家について調べたりゆかりの地を歩くことが多い。暖かくなって身体が動くようになったから。関節の痛みもよくなると嬉しいけど動いているうちはまあいいかとも思う。

私が開院時から長く勤めてきた町田市鶴川のクリニックは4月から大きく耐性が変わった。まだ週2通っていた頃は長いお昼休みにいろんなところを散歩した。駅の両側は川沿いも駅ビル側もすぐに上り坂になるがお花や木々を楽しみながら歩いていると小道に突然小さなカフェが現れたりして楽しい。住宅街に美味しいパン屋さんもある。

鶴川には白洲次郎(1902-1985)と正子(1910ー1998)夫妻が昭和18(1943)年から住んでいた「武相荘」がある。この季節もきっと美しいだろう。駅から遠いのと入場料が高いのが残念だけど丁寧に作られ保存されてきたお庭や陶器や家具に囲まれてしばしそこの住人としてゆったり時の流れを味わう贅沢を時々なするのもいい。

正子は永田町生まれで自伝を読むと自分の足でよく動く人だなという印象を受ける。その足取りについていく散歩をするのもいいかもしれない。正子は裕福な家に生まれ自伝を読んでも「うわあ、とってもお金持ちだなあ」と思うのだが両親が付き合っている人物が財閥の人たちだったりするから本人は貧乏な家に生まれたと思いこんでいたというのだから子供の世界というのは面白い。永田町あたりは今はなんだかあんな感じで人の生活を感じにくいが戦前は美しい桜並木のある屋敷町だったという。誰かがこうして書き残してくれているおかげでその土地が最初からこうではなかったと知ることができる。無機質だったり荒地だったりみえる空間に自然や人々の暮らしを見ることができる。さっき書いたように白州正子の文章は彼女が実際に自分の足を使っている感じがよくわかるのでやっぱりついていってみようかな。それにしてもこの前も何かで書いたけど太田道灌ってどこにでもいる印象がある。江戸城作ってるのだから私の行動範囲からしたら当たり前なのかもしれないけど他の県でもよく見かけるからなんか「あーまた会ったね」みたいな気分になる。なんで正子から道灌を思い出したのか。永田町の日枝神社繋がりですね。

自分に見えるものなんてとてもわずかだけどいろんなふうにいろんな人やものに助けてもらいながらなんとかやっていきましょ。まずは今日のお昼までとかちょっとあそこまでとか区切ったりしながらベイビーステップで。

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読書

春の嵐、土地

昨晩から風が強い。今日は春の嵐とのこと。暖かいだけいいが雨も降るかもなのかな。レインコートを持っていこうかな。でもどこにあるんだっけ。

先日、代官山蔦屋書店で行われた「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ/『スティーブ&ボニー』刊行記念 安東量子×竹内公太×山本貴光」というイベントの中で安東量子さんがハンフォードは最初から荒地だったわけではない。先住民などかつては人が住む土地だったのだ、というようなことを話していた。私が高橋ゆきさんのノンフィクションを好きなのも扱われる事件がその土地と大きく関係しているからだが、その土地の歴史を知ることはそこで生じた出来事の見方を変えるように思う。昨日のブログでも土地の名前を並べ立てた。

ウィキペディアでは「ハンフォード・サイト」はこう説明されている。

‘‘ハンフォード・サイト(the Hanford Site)はアメリカ合衆国ワシントン州東南部にある核施設群で、原子爆弾を開発するマンハッタン計画においてプルトニウムの精製が行われた場所である。その後の冷戦期間にも精製作業は続けられた。現在は稼働していないが、一部の原子力専門家から「アメリカで最も有毒な場所」「(事故が)起きるのを待っている、地下のチェルノブイリ」と言われるほど、米国で最大級の放射性廃棄物問題を抱えており、除染作業が続けられている 。””

また「これまでの歴史」として

““ここはコロンビア川、スネーク川、ヤキマ川の合流点に当たり、伝統的にインディアンの諸種族が出会う地点であった。1860年代に、ヨーロッパ人・アメリカ人が入植を始め、リッチランドなどの町が作られた。””

と書かれている。そうなんだね。ここで作られた「ファットマン」がもたらした被害は数字にできる範囲では「死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7 km2、全焼全壊計約1万2,900棟」だという。これもウィキペディアから。

色々なことが思い浮かび繋がっていき暗澹たる気持ちになる。想像するとはそういうことなのだろうと思うし、この暗澹たる気持ちがどこからきているのか自分に問うことでせめてそれに持ち堪えるということが大切なように思う。

昨日読んでいた『RiCE』という雑誌でイタリアンのシェフが引用していたネイティブアメリカンが大事にしているという言葉を思い出す。

““土地のことは七世代先のことを考えよ””

その土地やそこで生きた人々や起きた出来事に対してどのくらいの過去や未来を想像できるだろうか。そうするなかで問い直される現在を自分はどう過ごしていくべきか、べきというのはないとしてしてもどうしていきたいか。すぐに忘れたり忘れられたりすることに「まただ」と感じながら想起される事柄を今度こそ大切にできるだろうか。自分のことも疑わしいが意識的に疑ったところで起きることは起きるだろう。疑うよりも立ち止まること。情報ばかりスピードが速い世界で自分なりに立ち止まること。今日も一日。春の嵐に足元とか傘とか取られてしまわないように気をつけて過ごしましょうね。

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読書

八戸、福島、神保町、渋谷など

今朝は「八戸港のお茶時間」を。日比谷OKUROJIにある青森県八戸圏域のアンテナショップ8base(エイトベース)で素敵なイカの絵に惹かれて書いました。オンラインショップで見ると黒っぽいイカの絵だけど今のパッケージの方が薄茶色で良い気がする。最近はお菓子はみんなバラで買えるから色々試すことができていいですよね。中身はイカの形をしたパイ。「イカスミ入りのクレームダマンドをパイ生地で包んで焼き上げました」とのこと。クレームダマンドってアーモンドクリーム。うん、たしかに。イカスミの味はよくわからなかったけど、そもそもイカスミの味って「黒い、しょっぱい」とか拙い説明しかできない気がする。そんなことないですね。わたくしの語彙力の問題でござるな、きっと。

「わたくし」と書いて今、東京都現代美術館で行われている志賀理江子×竹内公太「さばかれえぬ私(わたくし)へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023受賞記念展」に行かないとなと思いました。竹内さんの作品はこれまでもどこかでみているのですが、先日、代官山蔦屋書店で行われた安東量子さんのご著書『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)刊行記念イベントでお名前を目にして改めてチェックしてみました。ちなみにその日のイベントのテーマは「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ」、ゲストは安東さんと同じ福島県いわき市に住む(移住されたそうです)アーティスト竹内公太さん、司会進行は『スティーブ&ボニー』に帯文を寄せられた山本貴光さんでした。短い感想はツイートした通り。たくさん思うことがあったけど安東さんがご著書に書かれた体験や竹内さんが実際の大きさで再現しようと試みた「風船爆弾」のことを立体的にイメージすることができました。竹内さんの作品は風船爆弾と実寸大のインスタレーションということなので体感もできそう。「地面のためいき」という作品だそうです。

昨晩はクラウドファンディングに参加していた堀切克洋さん編集の『神保町に銀漢亭があったころ』(北辰社)も届きました。俳人の伊藤伊那男さん(銀漢俳句会主宰)が脱サラして開店した神保町の居酒屋「銀漢亭」、私も一度だけ行ったことがあります。穏やかで楽しい時間を過ごすことができました。吉田類とも鉢合わせたかったな。コロナ禍で休業したまま閉店したこの店で出会い、語らい、句会をするなどしてきたみなさん130名による寄稿を銀漢同人の堀切克洋さんが編みあげ、味のあるカバーイラストも素敵な一冊となりました。とても早いお仕事でこの本自体がまだあったかい(だけではないかもしれないけど)思い出の数々を語らうきっかけとなりそうな賑やかな一冊です。

渋谷センター街入口の大盛堂書店にも寄ることができました。『つけびの村』『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』(どちらも小学館新書)どちらもとても面白かった高橋ユキさんのノンフィクション本選書フェアに行きたいなと思っていたのです。選書リストをみたら桶川ストーカー殺人事件とか佐世保小六女児同級生殺害事件の本は読んだことがあったけどどれもこれも読みたくなるものばかり。時間がないから慌ててパラパラしたけど迷ってしまって結局、小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』(幻冬舎アウトロー文庫)、永瀬隼介『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)を購入。まずは『冷酷』の方を読んでいますがこういう取材って本当にエネルギーがいるというかすり減るというか大変そうです。著者の小野一光さんと高橋ユキさんの対談も載っていてこういう取材はこういうところに留意するのかなど勉強にもなりました。人間って、私って、私たちって、とぼんやりしてきてしまいますね、こういう事件のノンフィクション本を読むと。うーん。

今日は木曜日。なんとかやっていきましょう。

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散歩 読書

「あー」

4月1日になってしまった。昨日終わるはずのことが何も進んでいない、ということは・・あー。もう毎日「あー」だよ。いってるだけでなにも進まないじゃんね。人には原稿催促とかしてるのに。いけない。

昨日、夕方オフィスのそばを歩いていたら途中の駐車場でお財布(たぶん)をポーンっと空高く投げた人がいた。「たかっ!」と思って横目で見ながら通り過ぎるとその人はそれを上手に受け取って何事もなかったかのように車へ入っていった。大人になってもやるんだねえ。そんな気分になったんだねえ。どんな気分だったんだろ。駐車場でお金払ったあとについやってしまう癖とかなのかな。私は長らく何かを空高く投げてないな。子供たちと遊ぶときはやるけど。小学校からの帰り道、給食袋とか投げながらみんなで帰った気がする。あれ投げやすいもんね。その人を見ながら小学生のときたまたま目に入った手頃なサイズの石をそれがドブ川とかに落ちちゃうまで蹴りながら帰ったことも思い出した。

今朝は東海道土産の「宮まんじゅう」をいただきます。これスタバのナッツのクッキーと味が似てるの(と私は思うの)。熱田は古称が「宮」で熱田神宮の門前町、東海道五十三次の宿場町。東海道をずーっと歩き続けている人からのお土産。箱に書いてあるのは廣重の浮世絵。夜の馬追い神事なんだけど最初見たとき、何かの戦いかと思っちゃった。美味しいですよ、コーヒーとも合います。スタバでも和菓子出せばいいのにね。おー、熱田にスタバある!「ミュープラット神宮前店」。私なら店舗限定でコラボするな。あとひつまぶしの何かとかと。昔、熱田に行ったときに蓬莱軒というひつまぶしのお店へいって待ち時間に熱田神宮を散歩した。そのあとも学会で名古屋に行ったときに行ったなあ。そのときは名古屋に住んでる友人ご家族にも美味しいものご馳走してもらったんだ、そういえば。いろんな土地の食べ物をその土地でいただくって贅沢ね。冬は南へ、夏は北へ、春は真ん中らへんと日本全国旅してきたけどまだまだ全然知らない食べ物がたくさん、ということはわかってる。お仕事がんばって備えなくては。胃腸も丈夫にしなくては。これは無理だな。でも大丈夫。昔からだから不調の時の対処に慣れているのですね。合う薬を持ち歩くとか。あとはどのくらいそれが対処すべき不調かもわかるようになってるかな。わからないときもあるけど。

3月は高橋ユキさんの『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う 』(小学館)の文庫版が出てすぐ買って読んだけど(特製しおりも素敵ですよ)、そこで取材中の高橋さんがおなか痛くなっちゃう場面があるのですよ。あそことても共感した。私も以前はいろんな現場を回ってたからはじめての場所でそうなるとほんと困りますよね。緊張とかもあるのかしらね、と思うけど。この本は本当に面白いですよ。高橋さんもいっていたけど誰にも共感できない。理解しようとすればするほど謎が増えていく。人間をきちんと捉えようとしてその単体ではなく出来事を含めながら追っていくとこういう感じになるんだなあと臨床家としての実感とも相俟って何度もパラパラしてしまう一冊になりました。おすすめ。

しまった。熱田神宮の門前、ということでベルクソンの門前にたったぞ、ということを書こうと昨年たくさんでたベルクソンの本とかイベントのあれこれに思い巡らしていたのに全然ベルクソンのこと書いていないじゃないか。いつものこととはいえここまで一言も触れてないとは(見返した)。あー。毎日「あー」ではじまる朝なのです。4月もきっと色々ありますね。あーとかうーとか言いながらなんとかやれますように。どうぞお身体は優先的にお大事に。

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読書

白桃烏龍、國分功一郎『スピノザー読む人の肖像』を読んだ。

白桃烏龍が今朝も美味しい。今我が家にあるお菓子でこれに合うお菓子がない。白桃烏龍と一緒にもらった小さなかわいいドライフルーツは合いそうだけどもったいないからまだ開けたくないし。でも何かちょっとお菓子をと思って小さい葉っぱ型のチョコを食べた。小さくても味はチョコだからなぁ。別々に美味しい。

國分功一郎『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)をようやく読み終えた。政治家であり哲学者であるライプニッツに対するスピノザの政治的嗅覚が描写される冒頭はワクワクする。スピノザという人間がどういう人だったか直接的に書かれているところはどこもワクワク読める、といっても本をオフィスにおいてきてしまったので引用とかしたいけどできない。でも問題はその人となりを形成しているであろう彼の哲学的思考だ。この本は2011年1月に出された國分さんの博士論文を元にした本『スピノザの方法』と繋がっている。私はその頃から國分さんの講義を何度か受けているのでなんとなく聞いたことがある言葉もたくさん出てきた。もしその経験がなかったら多分読み終われなかった。そのくらい難解。特に『デカルトの哲学原理』に関する部分は頭がだいぶおかしくなった。國分さんはこういう思考に持ち堪えながら実践も続けている哲学者なんだな。若者たちを惹きこむアニキ的魅力に溢れているし、地域の声を驚きと共感を持って聞く聴力もすごい。これらは私が理事をしていたNPOにきていただいたことがあってその時に思ったことなんだけど國分さんの聞く力は聴覚から違うのではと思うくらいすごいですよ。哲学者としての激しさも人間らしくて怒りを具体的な実践に生かしていく様もすごいのはみなさんご存知の通り。その人の頭の中はこんな複雑なあれこれを何年も何年も巡らしているわけでしょ、すごすぎる。國分さんもライプニッツやスピノザと同じく政治家でもある哲学者なのね。実践って本当に大変なことだと思う。読むだけならもっと楽しかったり面白かったりする哲学に関する本はたくさんあるけれど、言ってることとやってることがあまりに違うと「誰にだって事情はある」と思うしかないし、やってることがあまりに心ないと「語るだけなら心などね」と思う、しかない。もちろんそれが自分に関わることだったらそんな悠長なことは言ってられない。そういうときに國分さんみたいに実践する哲学者のあり方と思考は勇気をくれる。國分さんは『スピノザの方法』のあとがきで

「誰かと一緒に読む」あるいは「誰かと一緒に考える」とはどういうことなのか考えねばならないと思っている。

と書いた。それを実践しているのがこの“読む人スピノザ”を読む國分さんと一緒に読んで、考えることをさせてくれる『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)なんだと思う。とても大変な本だけど新書で持ち歩きやすいしとりあえず読み進めて読み終えてまた読んでを繰り返していると馴染んでくる。私はこの本は立ち止まってしまうことが多くて苦労したけど頭がおかしくなる感じは「誰かと一緒にいる」ってこういうことが起きるってことだよなと日々の仕事における感触と同じで読み進める動機になった。現実は厳しい。「誰かと一緒」に心が伴ってしまうことに耐えきれないと本の部分的な引用ばかりして上手になかったこと、みなかったことにしてしまう場合もあるけどそういう都合のいい使い方はできないこの本は実践に必要な思考の練習の場を提供してくれているという意味でも貴重。私は苦労したけどみなさんはどんな体験をなさるでしょう。興味のある方は読んでみて。一緒に考えていきましょ。

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散歩 読書

日記

先日、編集者の天野潤平さんのツイートを見て聞いてみた小沼理さんのポッドキャストがとてもよかった。一緒に少し涙ぐんでしまった。

ハッシュタグの「いちなが」とは小沼さんの2020-2022年の日記を本にした『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)のこと。

https://twitter.com/onumaosamu/status/1577859428883521536?s=20

「わたしは思い出す」とは「大地震後の11年を生きた、ひとりの女性の育児日記」。さっきツイートしておいた。

私は毎日書いているという点では日記っぽいここでの文章を読み返す作業はしていないがいずれするかもしれない。少なくともバラバラと創作や画像を置きっぱなしにしているnoteよりは読み返す可能性は高い。毎日書いていれば私なりのその日その日が現れているだろうし少なからず生き延びるために書くという側面があるから。生き延びるというとなんだか大仰だとすれば今日もとりあえずこうしているなあ、という観察を記録する感じかな。たしかに生き延びることを意識的に課題としながらなんとかやっている日々はあれど。

先に挙げた二つの日記はまさに「日記」だ。何が起きたとしてもそれぞれの日常というものはある。「奪われた日常」という表現が持つベクトルとはまるで異なる、何がなくとも失われたり何かが生じたりするその日その日を綴った結果、自分がそこで生きていたことを意識した、そんな感じか。

昨日、コキアと菜の花がたくさん咲いている場所の無人直売所でみかんを買った。そばに「みかん」と書いてあったからみかんだと書いているが、これはネーブルだな。皮が剥きにくいし。同じ場所に「ネーブル」「八朔」とも書いてあった。「八朔」はドンドンドンと3つ網におさまっていたのがそうだと思う。別の直売所では売っている方もそれがなんなのかすでに曖昧なのか柑橘というものは桜と同じようにしっかりそれが何という名前を持っているものとそうでないものがあるのか「みかん?」とクエスチョンマークつきの看板を出していた。道にもところどころオレンジのみかん的なものが落ちていて、カラスがその断片を加えてバッサバッサと飛んでいく姿もみた。黒にオレンジが映えていた。いろんな種類の桜もみた。遅咲きの梅もまだまだ咲いていた。菜の花は完璧に主役だった。Twitterにも載せたが桜の花びらが菜の花に落ちてまるで蜜を吸っている虫や蝶々みたいでとても素敵だった。小さい子たちに混じってローラーコースターにも載った。お尻が痛かった。もう色々軽やかには動けない。ということでこんな時間までダラダラしてしまった。動かねば。

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読書

3月11日(土)朝

3、11を意識するなかでの早朝の地震。みなさん、大丈夫でしたでしょうか。それまでの出来事の体験の仕方によって同じ出来事をどう体験するかは異なると思いますができるだけ安心できる状況にありますように。

俳人の池田澄子さんのこととか写真家のトモコスガさんのこととか何冊かの本のことが頭にあるのですが早朝から次から次へと注意が移り変わってこうして椅子に落ち着いてもすぐに別のことでぼんやりしてしまいオハナシニナリマセン。いよいよ手首の痛みが強くなってきたのも困り物です。友人から良い理学療法士さんを紹介してもらったので伺ってみようと思います。

今年の冬も少ない数の洋服を着回している間に春になってしまい昔からあるのに一度も着なかった服が大部分でした。少ない数のそれらをおしゃれ着洗いで洗濯してしまったのでようやくそれらからどれか選ぼうかなと思っていますがしばらく暖かい日が続きそうだから花冷えのときまでそれもお預けとなりそうです。

森茉莉が『記憶の繪』の中で「関東大震災」「震災風景」という短文を書いているのをご存じでしょうか。森茉莉は「例によって私は地震でも平然として、」と書き始めたしかにそれは特別なものとしては扱われません。森茉莉の書く出来事はうとうとしながらみるやけにリアルな夢のようでもあり現実に対して頑固に距離をとっているようにも私には感じられます。書き物にするというのはそういうことなのかもしれませんが大きなことを大したことないとするわけでもなく、情緒的でありながらもいつもどこか少し別のところへ気が逸れている様子を私は好ましく感じているのだと思います。

最初に思い浮かべていた何冊かの本とは別の本のことを書いてしまいました。誰に頼まれて書いているわけでもないのでそれは全くの自由なのですがなんだか不思議な感じもします。

先のことはわからないことだらけで見えないこと知れないことは不安を生じさせるかもしれませんが私たち自身が有限の存在であることを考えれば、などと考えているうちにこんな時間。急がねば。急げる余裕があるのは良きことなのでしょう。それぞれの土曜日を安心してお過ごしになれますように。

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読書

高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』文庫版を買った。

高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』(小学館文庫)を購入。渋谷駅を出てすぐの大盛堂書店でサンバイザー広告を出していると呟かれていたので頻繁に前を通るのに最近寄っていなかった大盛堂へ。半蔵門線を出てこの階段でいいのかなといくつもある地上への階段を適当に登ったら地上に出るなり大盛堂。「おお!これがサンバイザー広告!」と結構感動した。小さいのに写真でみるよりずっといい感じにヴィヴィッドだった。本自体は文庫の中でもかわいらしいサイズ。レジ前に積んでくれていたのですぐに手に取れた。店員さんがサイン本かどうかも確認してくれた。「しおりも入っていますか」とおずおず聞いてしまった。入っていると知っているから大盛堂にきたのになんだか不安になってしまった。


noteにも書いたけどノンフィクションは伏線回収とか不可能なので好き。現実の複雑さ、解決しなさがそのまま描写される。特にこの著者の書き方が好き。変な興奮も強い主張もなくごく普通の感覚とスピードで真相を追う(という表現はしっくりこないのだけど)感じがすごいと思う。私はニュースレター「高橋ユキの事件簿」も購読しているが、noteでも本書が書籍化するまでの流れも読めるし、弁護士ドットコムの連載とかいろんなところで著者の記事は読めるので本書とあわせてぜひ。主に裁判の傍聴席から、そして本書のように現場から、裁く目とは異なる視点で事件を丹念に追う著者の作業はSNSとかでサクッと記事や写真を拾って上から目線でなにかいう作業とも呼べないようなお手軽作業とは全く異なりとても貴重だと思う。そこでは実際の人がきちんと生きている。この本の現場は山口県周南市。小さな小さな村で起きた殺人放火事件。私は今回文庫化にあたり著者が再び現場を訪れ加筆した新章から読み始めた。現場へ行きたいと思った。事件の現場としてではなく。当たり前だがどんな土地の生活にも歴史がある。小さな村で多くの人が殺害されたあとも生活は続いている。今まさにこの瞬間も。

私は学会や旅で日本全国行っているので事件の現場を訪れることも多い。あえて訪れる場合もあるし、偶然犯人と同じルートをいっていたという場合もある。当事者ではない自分がその生々しい事件が起きた後の場所に立つときの、解釈できない出来事にとどまらざるをえないあの感触は独特だ。著者はそこにただとどまることをしない。真相を知ろうとする。自分の生活を維持しつつ取材に向かう著者の胆力のみならず現場や当事者に対する配慮ある距離感にもじんわり様々なことを感じさせられるこの一冊、少し不気味で(先入観のせいかも)美しい著者お手製のしおりと共に手に取ってみるのはいかがだろう。私はおすすめしたい。

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短詩 読書

『アンソロジスト』、時実新子『小説新子』を読むなど。

時実新子という川柳作家がいる。現代川柳の暮田真名さんが早稲田大学大学院で研究しようとしている対象だ。ということを以前伺った。

紀伊国屋書店で待ち合わせをした。お目当ての『アンソロジストvol.4』(田畑書店)を見つけた。川柳の本が増えている気がした。暮田真名『ふりょの星』は相変わらず平積み。表紙の吉田戦車の絵はやはり最高にかわいい。吉田戦車の川柳とか面白そうだ。『走れ!みかんのかわ』(河出書房新社)とか組み合わせ可笑しいでしょう。彼は音程はどのくらい意識しているだろうか。暮田さんは今号の『アンソロジスト』「スケザネ図書室」に「音程で川柳をつくる」という短文を寄せている。暮田さんが教える仕事が増えるにあたり「でっちあげていかなければ」とでっちあげた「作句のルール」のひとつだ。でっちあげというわりに超真面目に実践が紹介されているのが暮田さんらしいズレだと思う。超音痴の私にはやはり難しそうと不安になったがここで挙げられている方言がそうであるようにイントネーションというのは音痴のもつ特性とは少し別のところにあるような気がするからなんとかなるだろう。五七五に五七五を意識せずに言葉を入れ空席の数にはまる言葉が聞こえてくるのを待つようにすればいいらしいっすよ、先輩、という感じですね。

この『アンソロジスト』を指にはさみ(薄いのだ)平積みを眺めているとどーんと目に入ってきたのが『小説新子』(小学館)。そう、最初に書いて忘れていたわけではないよ、川柳界の与謝野晶子と言われた情念の女。この方、第一句集も『新子』。自分をどどーんと出してくる。ペンネームではあるけれど。

いやあ、すごかった。見も知らぬ家へ嫁へ行く『嫁ぐ』で幕を開ける新子の半生。暮田さんは新子をどうやって扱うのだろう。この人でっちあげ要素ゼロではありませんか。あまりにストレート。結婚の約束までしてくれた初恋の人を追い返した母。親には親なりの理由がある。

河口月光 十七歳は死に易し

読み始めてまもなく最初に登場する川柳だ。つまりこれは新子が十七歳で嫁いでからのお話である。

この続きは今度書こう。同時代のいろんな女が思い浮かんできてしまったのでキリがなさそうだ。女の言葉というものがあるかどうかは知らないが言葉から意味を外してなお残る情念みたいなものがあるとしたらそれをどう表現しよう。

なんてことを意識的に考える時間は今日もないがこう書いておけば突然どこかで何か思いつくかもね。花粉が辛いけどまたね。元気で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。

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俳句 読書

『スティーブ&ボニー』、3月11日、春の雨

寝不足。眠い。色々思い出したり考えたりしていると陰鬱な気分になってくる。さっき安東量子『スティーブ&ボニー』(晶文社)から引用したツイートをした。私はつながるための言葉を戦いの言葉に変換され言葉を交わすことに絶望したことがある。やっぱり、とどこかでわかっていたはずなのに希望を持ってしまったことにも重ねて絶望した。安東さんは絶望しながらも動き続ける。それをたやすく希望の証左とはいえないだろう。ただ福島で生きてきた人、福島を生きる人にとって絶望したからといって切り離すなんて何を?という感じではないだろうか。そんなことできないから絶望しながらでもこうやって生きてるんだよということではないのか。この本はアメリカで開かれた原子力に関する会議に招待された安東さんの孤軍奮闘日記でもあり様々な交流の物語でもある。そこでの講演内容を知れるのも貴重だし、それに対する聴衆の反応と安東さんの想いを知れるのはもっと貴重だ。あと1ヶ月でまた3月11日がやってくる。何度も何度も記憶を戻し、あれはなんだったんだろうと問い続ける。せめて誤解に基づく非難を回避する努力なら続けていけるのではないだろうか、こういう研究と現場を行き来する実践家の本を読むことで、と改めて思った。

空が明るくなってきた。今日の東京は「冷たい雨。今日との気温差に注意。」なの?昨晩、電車の液晶テレビ(っていうの?)でそんな予報を見た。まだ天気予報は変わっていないだろうか。「春の雨」という季語みたいに明るく暖かなイメージの雨ならいいけれどきっと違う。だって寒い。

ちとやすめ張子の虎も春の雨 夏目漱石

そうそう。今週も「ちとやすめ」と言い合いながら過ごしましょうか。リラックスするのはとても難しいことだけど力の抜けた柔らかな言葉をかけあうこと自体がそんな一瞬をくれると思うからまず言葉だけでもかな。どうぞ今日もご安全に。

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読書

BB弾、「お前はもう死んでいる」、安東量子『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)

自分を規定しない場所から発せられる言葉はその人の公的な活動しか知らない人にはとても自由で魅力的に聞こえるけどその人の愚痴とか色々聞かされて知っている人には「またそのパターンかよ、つまらねーな」となったりもする。実際、本人もつまらないことには自覚的で相当な後ろめたさを抱えていたりするが(裏話は誰にでもある)優れた編集力だか嘘つき力で面白くないおもしろ黒歴史としてそれを披露することでとんとんにしている。

安全な場所から遊んでもらいたい相手の方へ当たらないようにBB弾を放つみたいなことも年を重ねるごとに上手になる。実際に当ててしまった相手のことは「お前はもう死んでいる」と心の中で葬り去る。俺だって傷つけたくなどない!だから殺しちゃう?思うだけなら自由だ。そうだそうだ。これだっていずれ俺だけのプチブラ歴史として披露されるのだろう。なんの立場でもない俺俺立場は責任取らなくていいから地獄は相手が担うのだ。

BB弾は私が小6か中1のときにすごく流行った気がする。単にその年代が使いたくなる代物だったのかもしれないが。バカをしがちな友人が実際に人に当てて指導されたりしていたがそいつの環境を考えればやりたくもなるよなと思わずにはいられなかった。私もバカでダメな厄介者だったから共感しただけかもしれない。「お前はもう死んでいる」も流行った。いまだにケンシロウの言葉だ以外のことを知らない。友人は父親の後継にはなれなかった。なりたかったのかなりたくなかったのかは知らない。本人にそんなことを考える余裕があったかどうかも知らない。BB弾は世界に対するなんらかの抵抗だったとは思う。

思春期をとっくに過ぎても規定されることを嫌い何者でもない俺でいるという選択もしやすい時代になった、という言い方は嘘っぽいがとりあえずそうだとして真面目でも不真面目でもいられるなんにでもなれる俺で生きていくのも自由。ただどんなあり方も誰かに地獄を味あわせる免罪符にはならない。どこかで私たちは変更を迫られる。

黒歴史か、都合のいい言葉だ。トラウマのせいで進まない時間を過ごす人を葬り去り自分だけ時を進めてそんなことはおきなかったといいたい人にとっては。

友人は「まじめにふまじめ」だった。これはゾロリのこと。以前勤めていた小児発達クリニックの子どもたちにも大人気だった。高校生になって偶然再会したときすっかり背が伸びて誰だかわからなかった。何かを話したが内容は覚えていない。今は何者かになったのだろうか。リアリティを持って語るために自分をある立場に定める。私もいまだその途中だが今日も地獄側から考える。写真は地獄というより鬼。歌舞伎町の鬼王神社の狛犬。すごくいいと思った。節分のときも「福はうち、鬼はうち」っていうんだって。

あ、あとリアリティといえば『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて』(電子あり、みすず書房)の著者、安東量子が昨年末に出した新刊『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)がとても良かった。アメリカを異文化と書きたくなったがフクシマはどうだろう。広島は?長崎は?著者は広島出身で福島で被災した。

「原発事故がおきて社会は大混乱に陥った。なかでも困ったのは、あらゆる関係のなかで意見が対立したことだった。生活の隅々にまで入り込んだ放射線のリスクをめぐって、家族でも、ご近所でも、職場でも、人と人とのコミュニケーションが存在する場面という場面で、意思疎通が難しくなり、しばしば修復不可能なほどにいがみ合うことになった。地元の野菜を食べるか食べないか、子供を外で遊ばせるか遊ばせないか、洗濯物を外に干すか干さないか、そんなあたりまえのことについて言い争う羽目になる日常の暮らしにくさは、経験してみないとわからないかもしれない。」ー3章より引用

著者は2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故のあと、地元で住民のみなさんと地道に放射線量を測定し、福島県内でダイアログ・対話活動をしてきた。事故後の大混乱の中、人間関係の修復という最も重要で困難、しかし不可欠な目的にとってその実践の積み重ねは大きな役割を果たしてきたのだろうと想像する。

その著者がいう。

「意見が違うことはしかたない。まずそれを受け入れた上で、なにかひとつでもいいから共有できるものを探すこと」

「内容はなんだっていい。その人が大切に思っているものをなにかひとつ、些細なものでもかまわないから、ひとつだけでも分かち合うことができれば、意見は対立したままであったとしても、関係をつなぐことはできる。」

この本は、核開発拠点のひとつだったアメリカのハンフォード・サイトで行われた原子力会議に招かれた著者の冒険譚のような一冊だ。著者のコミュニケーション哲学の実践を知れば知るほどその困難な現実に胸が苦しくなるが残るのは絶望だけではない。私は泣き笑いしながら読んだ。そして私たちが大きな組織に向けて細々と続けている運動のことも思い浮かべた。励まされた。あとがきに山本貴光さんに大変お世話になったと書かれていたが、推薦文はその山本さん。

「原子力を語ると、どうして話が通じなくなるのか。それでも分かりあえるとき、何が起きているのか。これは、そんな絶望と奇跡をめぐる旅の記録である」

まさに。読めば実感されるこの文章。多くの人にお勧めしたい。

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『分解する』(リディア・デイヴィス著、岸本佐知子訳)を読んだり。

外はまだ暗い。昨晩も西の空にきれいな月が出ていたみたい。毎日空を眺めているのに昨夜はなんだかぼんやりしたまま家に着いてしまったみたい。『ほとんど記憶のない女』(リディア・デイヴィス著、岸本佐知子訳、白水Uブックス)を思い浮かべる。昨日の朝も記憶のことを書きながら同じ本を思い浮かべていた。意識せずとも家に帰れるだけの記憶をいちいちありがたがって過ごしてはいないがいざそれが薄れてきたら毎日家にたどり着くたびに安堵したりするのだろうか。はじめて一人で学校から家に帰ってきたのはいつだろう。自分のことは覚えていない。ひどく寒い日は家が近くなると涙がでた。

学校が終わる時間になってそろそろあの辺かなと思いながら窓の外を何度もみる。まだかな。時間はなかなか経たない。少しずつ心配になる。大丈夫かしら。迎えにいこうか。でも今日はひとりで帰るのを楽しみに出ていったのだから。紅茶がすっかり冷めてしまった。いつもならそのまま飲んでしまうのに熱いのを入れ直す。また手をつけないまま冷ましてしまうだろう。落ち着こう落ち着こうと思いながらまた窓の外をみる。きた!胸をなでおろす。たまたま窓の外をみたら見つけたという感じで手をふると誇らしそうな恥ずかしそうな笑顔で小さな手を振り返し走り出す。あっという間に後ろ姿も小さくなる。玄関を開けて出迎えたいがそれも我慢。チャイムがなった。おかえり、よくひとりで帰ってこられたね。すごいすごい!

過去の記憶を頭の中で繰り返しているうちに電車を乗り過ごすこともある。昨日は移動の多い日だったがそんなことはなかった。立ち寄った本屋には短詩の素敵な本たちがたくさんあった。あまり時間がなかったので表紙だけ楽しく眺めながらざっと積まれている本を見渡す。あ、右手が届く範囲にリディア・デイヴィス『分解する』が立てかけられていた。すぐにレジへ。絶対に買う本というのは私は多くないが彼女のだけは読む。彼女の短編集はいろんな長さの短編が集められていて1ページにおさまる詩のような短編がとても好きだ。どの話にも小さな衝撃を感じるのは今回も同じだった。冒頭からまだ遠くない記憶が痛みとともに蘇った。それでも彼女が忍び込ませている第三者的な視点に冷静さを保ちつつ読み進めた。重たいけどそこに沈みこむのではなくドライさを維持しながら一定のリズムを感じる体験、彼女の作品を優先的に読むのはその感触に支えられているからかもしれない。

思い出したくないことほど思い出してしまう毎日に今日がこうして積み上がっていく。何をなしえることがなくても日々はそうやってすぎていく。空虚という言葉でそれをうめたとしてもそんなのはただの言葉に過ぎない、と切り捨てることなく沈みこむことで観察者としての自分にも気づく。今日も。今日も。とりあえず今日を。

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読書

金沢とか書物とか

金沢の和菓子だー、と他人の写真をみて羨ましがっている。美味しいお饅頭をいただきながら。熱いお茶でポカポカ。このまま身体が冷めませんように。薄手のダウンも脱いだり着たり。

金沢にはじめて行ったのはまだ新幹線が通っていないとき。調べたら2015年開通だからその前。まだフランス語を習っていて先生に金沢をどれだけ歩き回りいかにその価値があるかを少ない語彙で熱く語ったので2014年かも。精神分析の訓練にはいるので時間もお金も作らなくちゃでやめたんだ、フランス語。訓練終わったらまたやりたいと思っていたけど今はボクシングの方がやりたい。ケイコ(映画)のせいだな。

金沢は本当に天国みたいなところだった。と書いて金沢にはじめて行ったのはもっとずーっと前じゃん、と気づいた。20代の頃だ。福光屋さんの前で「ここなんだろ」と覗いていたら中に入れてくれていろんな段階のお酒を試させてくれたんだ。数年前に行ったときはすっかりきれいでおしゃれなお店になっていた。古き良き時代じゃった。と感じたのはその部分だけで何度行っても金沢は和菓子とごはんと美術と哲学と自然の宝庫だよ。また行きたい。

金沢といえば昨年『世界を変えた書物』(著/山本貴光 編/橋本麻里) という素敵な図録がでた。2012年金沢から始まり各地を巡り2022年金沢に戻り閉幕した展覧会『「世界を変えた書物」展』に合わせて出版された書物だ。内容については前にも書いた気がするのでためし読みもできる小学館サイトでぜひチェックを。自然科学分野を中心に、今となっては偉人のみなさんたちの「初版本」をたくさん見ることができる。まさに金沢という地にぴったりの知の集積と連環。文字は山本さんの解説しか読めないけど(原典はラテン語とかだもの)解説を読むと「へーそうなんだ!」とワクワクしながら眺められる。こういうのをこんなぎゅっとコンパクトに解説したり、こういう本を編集できてしまう知性もどうかしてるのではというくらいすごい。

私は今日も眠くてしかたない。寒さでシャキッとすることもなく色々巻き付けて縮こまるのみ。春よーとおき春よ♪待ってるから早くきて。今日も暖かくして過ごしましょうね。

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精神分析 読書

風鈴、『ケチる貴方』、吝嗇

伊万里で買ってきた風鈴がチリンチリンいっている。早朝に暖房をつけると最初は強風が満遍なく部屋を暖めようとするので風向きによってはうるさいくらい鳴る。これ以上ないスピードで部屋に暖まってほしい私はヌックミーと電気膝掛けにくるまりながら時折伊万里焼の小さな舌が同じく伊万里焼のお椀の下でピロピロしながらリンリンするのを聞いている。夜、佐賀城跡できいた風鈴の音がとてもきれいだった。ひとしきり風鈴にまつわる思い出を語り合い翌日には買っていた。まさか風鈴を連れて帰ることになろうとは。出会いとはわからないものだ。

少し温まってきた。もう少ししたら白湯をいれよう。まだおなかの調子が悪いからコーヒーはやめておこう。先日体調をひどく崩し伊万里でお店の人に教えてもらったイベントへいくことができなかった。定期的に開いている友達との会もキャンセルせざるをえなかった。楽しみにしていた予定がふたつもキャンセルになってヌックミーと電気膝掛けに埋もれながらぼんやり寝たり起きたりした。電気膝掛けを「強」にしていたのでその部分だけ熱くて何度かつけたり消したりした。もっと「弱」方向にすればよかったのだけど調子が悪かったせいかなぜか「切」にしていた。というかこの電気膝掛け、すごく熱くなる部分とそうでない部分があってそのすごく熱くなる部分がやばいのだ。というか大丈夫かな、これ。寒さをどうにかするために必死に巻きつけたり雑に暑かったせいでそうなってしまったのかしら。

昨晩から今朝にかけて『ケチる貴方』(講談社)を読んだ。石田夏穂さんという作家が書いている。なぜ急に読んだのか昨日の今日なのに忘れてしまったがそのときは「読まねばならない本」だと思ったのだ。いざ読み始めたらなんだこれは。私がこれまで体験してきた冷えと寒さに対するすべてが文字化されていた。寒さゆえに冬の到来に怯え春を心待ちにする今、無意識が読むべき本と出会わせてくれたのだろう。この主人公の不機嫌さにも非常に共感する。たとえ別の季節があったとしてもこんな冷えと寒さに苛まれる季節が一年のうち数ヶ月あればこうもなるさ。私もあらゆる温活を試したがこの主人公がえらいのは実行しつづけるところだ。私よりずっと切実に寒さと向き合っている。えらい。というか実際ものすごく切実なのだ。辛い。切ない。

“「寒い」と訴えることには何か他の訴えにはない甘えの響きがある。「お腹がすいた」「眠い」「出掛けたい」は素直に言えたが「寒い」だけは自分が主張することじゃないように感じた。”

ー『ケチる貴方』の最初の方から引用。Kindleなのでページ数がわからない。

これだ。「寒い。死んじゃう。」と毎日のようにいう私は甘えている。小説になるかどうかの違いはここにあるのだろう。極端にスイッチが切り替わってしまう「間」がない世界。それは実は生死に関わるのだ。どうかこの人に口先だけじゃない「ケア」を。自分が求めていたものに気づいてしまう痛みに対してもどうか、と願うのはここまで切実に生きられない私でもそうなんだ。

“私は生来の倹約家、否、吝嗇家なのだ。”

りんしょく、と読むんだよね、と先日のReading Freudでも確認した。『フロイト全集4』(岩波書店)はまるごと『夢解釈』の一冊で5巻へと続く。先日読んだのは「第5章 夢の素材と夢の源泉(B)」。フロイトとの治療設定、つまり時間とお金を巡ってみられた夢として解釈されたある女性の事例(261頁)に「吝嗇」という言葉が出てきて前にも出てきたのにみんな読み方を忘れていたのだ。『ケチる貴方』ではきちんとふりがながふってあった。

だいぶ温まってきた。立ち上がるときに感じるあの冷気を想像するだけで辛いが白湯をのめばまた電気膝掛けのスイッチを切りたくなる。切らずに「弱」の方へという練習も必要かもだが熱々で毎度火傷しながら飲んでいるようなときは一気にポカポカするのだ。すぐに寒い寒いとまたスイッチを入れ直すことになるのだけど。イロイロウマクイカナイね。今週も始まってしまいましたね。どうぞご無事でご安全に。

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俳句 読書

句友とか『青春と読書』とか。

「花の郷 バター」

美味しそうなお名前。美味しいです。町田の社会福祉法人花の郷さんのクッキーをいただきました。

おー、句友の句がNHK俳句に!加藤シゲアキが好きな句と言っている。句も人も素敵な友がたくさんです。大好きな千野千佳さんも北斗賞の佳作に入ったし。みんないつもすごい。千佳さんの三句は昨日『月刊 俳句界 2月号』で読んだ。特別だけど普通、でもやっぱりなんだか特別、今回もそんな景色が爽やかでした。

そして私たちの俳句の先生、堀本裕樹先生が毎月連載されていた「才人と俳人 俳句交換句ッ記」は最終回。ゲストはやはり又吉直樹。やっぱりとてもよかった。載っているのは集英社のPR誌『青春と読書』です。

そしてこの2月号には山本貴光さんが今野真二『「鬱屈」の時代を読む』(試し読みあり、集英社新書)の書評を書いておられます。前にゲンロンカフェでお二人の対談をみましたけど日本語の言語学についてとても楽しくおしゃべりしててホヘーすげーと思いながら楽しみました。ということで読み始めたらこりゃまたすごい。言葉を丁寧に探索していくのが言語学なわけだけどこの本は言葉にならない、あるいはまだ言葉としての形も持っていないものがどう言葉になっていくのかという言語化のプロセスを本当に豊富な文献の引用を通じて緻密に記述、描写してくれています。普段やりがちな雑な言葉の使用(例えば「レッテル」貼り)に対する反省も促される一冊になりそうです(まだ途中)。

ちなみに今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行のときは山本貴光さんと往復書簡を交わされていました。それはこちらで読めます。

今日も色々(雑かな)あるでしょう。鬱屈した「気持ち・感情」はなかなか言葉にならないかもしれないけれど言葉を大切に人を大切につまりは自分を大切になんとか過ごしましょう。

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読書

本棚、お布団

2年ほど前から冊子になった白水社のPR誌『白水社の本棚』が届いていた。机の上に置いてあったが昨日は気づかなかった。PCの前に座らなかったということだ。2023年冬号から藤原編集室の「本棚の中の骸骨」という連載が始まった。大変楽しみ。Web版と連動しているのかな。「一生読んでいたい」本、が初回。読みたい本ばかり増えるけどこの中の何冊を私はこれから手に取るだろう。本棚を眺めてばかりだから書名は知っていても中身を知らない本ばかり。私はあと何年続くかもわからない限られた「一生」のなかでフロイトだけは読み続けていくと思うけどそれ以外にも本棚で生きているものたちとそういう出会いがあったらいいな。

重田園江の連載も始まった。『ミシェル・フーコー ─近代を裏から読む』を面白く読んだ。今回は「インド映画の破壊力」ということで『RRR』の政治性について。みてないけどそうなのか。インドの歴史は知るたびにほんとになんとも言えない気持ちになる。どの国の歴史も知れば知るほどそうなのだろうけど。牛久大仏が文章に出てきた。

今朝は早朝からざっと家事をしてまたお布団で温まっていた。部屋が温まるまで、と思っていたが案の定長居した。といってもまだ5時台だ。洗面所が寒いから洗濯物を干すのも顔を洗うのも苦痛だけど寒い寒いと騒ぎながら電気ストーブで凌ぎつつ完了。洗濯機を発明してくれたのは本当にありがたいことだわ。手洗いとか冬なんてほんと無理。溜め込んでいたに違いない。

コーヒーを淹れたらまたPCから離れてしまった。部屋はポカポカになってきた。寒い寒い書いたけど今日って特別寒い感じしないのだけどどうなるのかしら。部屋が暖かいからそう思うだけかな。ニュースだけみてビビってるけど。天気予報チェックして出かけないとですね。なんにしても暖かくして過ごしましょ。

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俳句 読書

コーヒー、銀杏、俳句

腰が痛い。指も痺れる。でもこれは危機は脱したな。別の危機はあれど私にできることがあるとすれば最小限のことをするということのみ。よけいなことをしない、誰かを巻き込まない、とにかくシンプルに、というのがモットーだけど相手あることは私だけそう言っててもしかたないし先に何が起きるかは誰にもわからないので受け身でいる。

美味しいコーヒーを入れてもらった。「美味しいコーヒー淹れてあげる」と言われたからコツを色々聞いてみた。「落ち着いて淹れる」みたいなシンプルな言い方だったが確かにコーヒーを驚かせてはいけないというのは聞いたことがある。最初に聞いたときは「コーヒーが驚くのかよ」と思ったけれどゆっくり静かに少しずつ起こしてあげるように淹れるんだってそのときは教わった。今朝も言い方は違うけど似たような感じだった。「落ち着いて」というのは私には難しいからこだわりのコーヒーは淹れてもらうに限る。味はよくわからないけれど美味しいということはわかる。美味しかった。

銀杏の雄雌両方の実をもらった。銀杏は雌株しか実を結ばないようだが実自体には雄雌両方いて、雄は二面、雌は三面なんだって。おばさんたちなんでも知ってる。初対面でも子供に色々教えるみたいに教えてくれる。私も大人になれば色々物知りになるのかと思っていたけど全然違った。でも知らないことばかりでもこうして教えてもらえばいいのだからおばさんになっても無理することもないということは知った。母が歴史に詳しくてそれも「私も大人になれば」とまたまた単純に思っていたがそんなことも全然なかった。当たり前だ。今は小学生とかが教えてくれたりする。勉強している世代の頼もしさ。おばさんたちのは経験知だからくっついてくるエピソードも生活とシームレスで面白い。

昨日は仕事の合間に「稲畑汀子俳句集成読書会 わたしの汀子俳句」というオンラインの読書会に出た。『稲畑汀子俳句集成』(朔出版)は1万2千円!でも5400句近く入っていて昨年5月の発売からすでに3刷。きれいな装丁の「栞」つきで大好きな 宇多喜代子や大輪靖宏、長谷川櫂、星野椿が寄稿。読書会に出たおかげで捲り方がわかった。

読書会のホストは汀子の息子さんの稲畑廣太郎(『ホトトギス』主宰)、ゲストは佐藤文香(翻車魚、鏡)、堀田季何(『楽園』主宰、『短歌』同人)村越敦(澤)、山口亜希子(編集者、書肆アルス)、今橋眞理子(ホトトギス)。テーマは「音」。汀子との距離の違いが生む読みの違いに触れられていたのも面白く、みなさんの対話でひとつひとつの句が瑞々しく生き返るようだったし、俳句界の重鎮というイメージの汀子の姿もまた一人の人として愛しげに語られていてこういうモーニングワークはとてもいいなと思った。

新宿中央公園の脇の道の梅も咲き始めたし春ですね。寒いですけどね。暖かくしてお過ごしください。こちらは汀子の5歳下池田澄子の句。音も文字も楽しくないですか?

また春が来たことは来た鰐の顎 池田澄子

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読書

甘味とか痛みとか

今朝は「九州由来菓子 なんばん往来」をいただきました。カップに収まっている様子からなんとなく薄紙に包まれているのかと思っていたら薄いパイ生地でさらに美味しかった。砂糖が日本にやってきたのはいつだろう。うちにあるのは三温糖と白砂糖とごろりとした黒砂糖かな。料理に砂糖はほぼ使わないから全然減らないけど一番魅力的なのは黒砂糖。もうどなたからいただいたかも忘れてしまった。砕くのが大変で飛び散るのも怖いからガリガリこすりとるようにしたり手間なんだけどあの甘味を知っているとね。喫茶店の剥き出しの角砂糖と小さなトングみたいなのもセットで素敵。昔よく行っていたカフェには可愛い包み紙に入った角砂糖があってそれも大のお気に入りだった。当時はひとつくらいいれてたのかも。ぽちゃんと。だって溶ける様子を知っている。小さな女の子がそれをきれいに並べてバンザイしてたこともあった。美しい秩序。味わい方も色々。

今日マチ子『いちご戦争』(河出書房新社)を読んだことがありますか。手のひらを少しはみ出るくらいの小さめの本。いちごを抱えて眠る女の子が表紙の白い絵本。あ、カーツーンという言葉が作者にはちょうどいいみたい。甘くて痛くて切なくて悲しくて残酷でファンタジーは決してファンタジーで終わらない。甘くてきれいなお菓子を食べながら心を抉るようなおしゃべりを繰り広げる女の子たちが語り継いでいるのはもうそこにはいない人たちの痛みかもしれない。

私が会ってきた、今も会い続けているたくさんの少女たち、それぞれの戦い、それぞれの戦い方、どんなに戦ってもたとえ勝利をおさめても最後は大人たちに絡め取られるかもしれないという子供の現実。エーリヒ・ケストナー『ふたりのロッテ』を思い出す。何度も何度も読んだ二人の戦い。あれこそシスターフッドの源流か。子供としての権利を使い子供ゆえに分断され奪われた権利を取り戻す。ひとりではどうにもならなかったけど二人なら変えられるかもしれない。ひとりのときは気づかなかった大人の汚さも知るけれど。ケストナーの生育史を考えればこの物語に直接描かれてはいない分断は生死に関わる。一方、大人の世話がなければ生死に関わる子供の世界は常に戦いを必要としているともいえる。彼らが権利のための戦いを続けられるように受けてたてる大人になっているのだろうか、私は。はぁ。ついため息が。ごめん、がんばる。『ふたりのロッテ』みんなに贈りたい。図書館でみてみてね。

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読書

なめらかな社会

鈴木健『なめらかな社会とその敵 ─PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論 』(ちくま学芸文庫)の文庫版が昨年10月に出たのでなんとなく読んでいる。幅広い。第一部は生物学。第二部は貨幣システム(経済学)、第三部は投票システム(民主主義)、第四部は計算と知性、第五部は法と軍事。これをなめらかに統合していくという壮大かつ具体的な試みの様子。そのためには世界をみる仕方を変えていく必要がある。どうやったら複雑なものを簡単に単純化しないで複雑なまま世界をみていけるだろうか。そのために個人ががんばるのではなくて技術のアップデートをできないか、という「希望の書」(と書いてある)のはずなんだけどまずこれをがんばって読む必要があるわけですね。

ただ、なんとなく読めてしまうのは平易な言葉で書かれているというのもあるけど冒頭のエピソードにこころ掴まれたからかもしれない。著者は14歳の時、西ドイツの日本人学校に通っていて修学旅行で東ドイツへ入ったことがあるそうだ。ベルリンの壁を越えて。そこで2週間前に東ドイツからこの壁を乗り越えようとして失敗し犠牲になった人の名前が刻まれた記念碑を目にする。その5か月後、ベルリンの壁は崩壊した。

この理不尽たるや。犠牲になった人々にだけではなくそれを見せられる側にとっても。著者は人間がこのような境界にまつわる原体験を忘れることを知っている。それが強烈であればあるほどそうかもしれない。だからこそそれを単純化せず考え続けるための方法を模索し具体的な提案を行う。

私はひたすら人間同士のことに巻き込まれて生きている状態なので内容を追うことはできても(多分)本当そうだなと納得はできても今はこのような実装の手順を現実的に感じることができない。そんな自分を変えないと世界なんて変わらないということかもしれないが今私こっちで必死だからそっちでやって、みたいな気持ちにもなる。なんかどっかで個人の努力を求められている気がしてしまうのだろう。著者はむしろできることをできる範囲でやるとしたらこんな感じもありなのでは、ということを書いているような気もするが内容の理解とそれによって感じたり考えたりすることはまた別ということか。でも実際勉強になる、まだ途中だけど。こういう本が2013年に出ていたのだねえ。今回はそれからの社会の変化を踏まえて再考された論点も「なめらかな社会への断章 2013-2022」として付け加えられている。

本については出版社のサイトと鈴木健さんが書いた記事「なめらかな社会」とオルタナティブな未来への実験:鈴木 健(特集「THE WORLD IN 2023」)をご参考までに。

それにしても人間中心主義を逃れることってできるのか?人間なのに、ってところに戻ってしまう。人間のいない水準でものを考えることを可能にするのが技術なのかもしれないけど。科学技術は着実に発展しているわけで、なのに戦争はこんな身近で起きてて社会の分断だって止まらない。ということを言い出したくなるのはこの本が今の私にすぐに役立ってくれない!と思っているからかもしれない。何か役立てようと思えば何だって役立つがそれだったら何読んでも同じだろうしね。自分が言ってほしいことだけ取り入れたいってことになるものね。でも戦争中だって人は本を読んできたでしょう。きっと読みもしない本を大切に持ち歩いたりだってしたでしょう?他人からみたらどうでもいいことかもしれないけどそれは他人だからそうでしょう。それかもう他人事にしちゃいたいからだよね。そういうことができないかしたくない人は足掻くしもがく。悪あがきかもしれないけど私は自分から「悪」はつけない。いい悪いの話じゃないと思うし。こういう人間が300年後(だったか)を想像し実装を試みる人間の本を読むこと自体、なめらかな社会志向かもね。楽天的というか能天気かもしれないけど。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 読書

マアム、「心配」、上野千鶴子

とても大きくて甘い苺を食べて調子に乗って苺のカントリーマーム、違うマアムか、いざ書くとなるとわからなくなるものね、書いてみてあれ?と気づくものでもあるけど、こうやって。そのね、カントリーマアムをですよ、あれ温めると美味しいでしょう、だから電子レンジにインしてチンしたわけです。ちょっと背中向けて冷蔵庫開けたらPPPってなって振り向いたらすごい煙。警報器がならなくてよかった。カントリーマアム一枚で朝っぱらから何やってんだ。煙追い出すために窓開けたからせっかく暖まったお部屋もまた冷えちゃったしもう苺の色もなくなったマアムをちょこっと齧ってみたけどだめだ。焦げすぎて食べ物ではなくなってる・・・というブルーな早朝でした。空はまだブルーではないですね。うすーい水色。それにしてもあんなお焦げになってしまっても甘い匂いだけはする。マアムの甘味、力ある。

このブログはうそほんと話の集積だってここでよく書いてるけど意外な友人がこれを読んでくれていたらしくしかも心配までしてくれた。全部ほんとの話だと思ったみたい。別のところでも書いたけどここは私が小さな頃から見たり聞いたり読んだり体験したりしてきたもので臨床上のリアリティと結びついてある程度パターンになっているものを素材に指が動くままに書いている。それがどんなささやかなものであったとしてもなんらかの体験に基づかない文章なんて書けないとはいえ吟味が必要なことはこんなサラサラ書けない。実際の体験ってものすごい複雑で、しかも具体的な相手がいる場合は言語も相当不自由になる。精神分析では自由連想と名付けられたものがいかに困難かということを体験するわけだけどそれと同じ。書きものでも指が動かなくなる。年末年始の休みの間はまるで書けなかった。仕事で構造化されている日常から離れたことでパターンが見出せなくなってしまったみたいだった。その分、知らない土地で新しい体験もたくさんできたからそういうことを重ねていくうちにいずれそれらもここで書けるような形に変化していくんじゃないかな。フロイトは「欲動と欲動の運命」のなかで精神分析が科学であるということをいうために体験と抽象概念の関係を冒頭で述べているのだけど、それはフロイトがいわゆる4大症例を体験した後だからこそのこと。それはそれとして、たとえここで書くことが全て今の私に起きていることだとしても心配しないで大丈夫。というか「心配」って力のある言葉だと思う。早速この言葉をめぐるキッツイエピソードも思い出すけど加工できないくらい生々しいので書き言葉にできない。みんなが「心配」って言葉を使うときはどんなときだろう。この言葉はとても興味深い言葉なのでまたいずれ。書きながら自分の状態を観察しているとも何度か書いたけど、今こうして思い出すとキッツイエピソードに対して「あれはなんだったんだろう」という問いが生まれて少し距離ができる。ごろんと転がしておくしかなかったナマモノが思考の対象になってくる感じ。昨日も書いたかもだけど言葉にすればいいってものでは全然ないのだけど言葉にしたときのこういう動きには十分な注意を向けることが大切だと思う。

あ、時間が経ってしまった。インスタにも載せたけど今『上野千鶴子がもっと文学を社会学する』(朝日新聞出版)を読んでいて読み耽ってしまっのだ。私は上野千鶴子の書くことには違和感も多いけどその違和感がどこどこのこの部分って特定できるくらいはっきりした文章だと思うからもやもやもしない。それでも言葉にするとなると曖昧になってしまう。そういうのの明確化に付き合ってくれる先生みたい。そういう意味でも強い。対話を拒む書き手もいるものね。今朝は何気に力とは、強さとは、ということも考えつつ書いていた。カントリーマアムの甘い香りが残っていたところから。言葉にしてるのってほんと一部。今日も少しずつ何かしらやりましょう。

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俳句 読書

1月7日小寒

太陽の運行をもとに一年を24等分したのが二十四節気。まずは一年を立春、立夏、立秋、立冬で4等分。それを今度は6等分。春は立春に始まり雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、夏は立夏に始まり小満、芒種(かっこいい)、夏至、小暑、大暑、秋は立秋から処暑、白露(きれいだよね)、秋分、寒露、霜降、冬はまず立冬、そして小雪、大雪、冬至、小寒、で大寒まで。

ちなみに今は1月7日。睦月、二十四節気でいくと小寒。それをさらに3つに分ける七十二候だと芹乃栄。せりすなわちさかう。あらあら七草粥の日?前にいただいた茅乃舎の炊き込みご飯の素の賞味期限がやばかったから慌てて作ったというか混ぜ込んで炊いたチキンライスをいただいてしまったよ。美味でしたからよしとしませう。チキンライスも炊き込みご飯に入るんだねえ。出汁を売るってすごい発想なのではないか?はじめて茅乃舎を知ってだしの試食?試飲?をさせてもらった時にはなんか変な気持ちだったけど美味しかった。今の時期は寒いから温かいだし汁だけでも幸せよね。暖かく暖かく。

ちなみに毎年宇多喜代子さん監修の「俳句の日めくりカレンダー」をもらっているのだけど今日1月7日はね、みんな大好き池田澄子さんの一句。2021年年末に出た『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版)は私の周りにも愛し愛されている人の多い池田澄子さんの豊かさに包まれる句集エッセイだった。1936年生まれの澄子さん、宇多喜代子さんはその一つ年上。戦争を知っている世代のこのお二人の女性たちの声は俳句でも散文でもとても魅力的。

松の内どこでマスクをはずすのか 池田澄子

また書いてしまった。今年こそは俳句をがんばらねば(毎年言ってる)。

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精神分析 読書

学会とか自分語りとか

2023年1月4日から6日までContaining Diversity, Bridging Difference is the theme of the 4th Asia-Pacific Conference, which comes to Delhiだった。インド・・・。行こうと思っていた学会だけど私は日本にいても体調が悪いのに特に悪い胃腸のせいで学会どころではないかも、海の向こうで友達の世話になるわけにもいかぬ、と思っていかなかった。11月にインドの精神分析家とお話ししたばかりだったから頭にはあったのだけどその時に参加費が高すぎるという話が出たのが残っていたのかオンラインで参加できるのに申し込みを忘れておった。スーパーヴァイザーと話しててはじめて気づいた。そして気づいた今、学会は終わっていた。友達からの現地の動画とかみて感激したりしていたくせに。あとで友達の発表は様子教えてもらおう。なんだかすいません。がんばれない以前の問題が色々あるな。組織でやっている学問だからコミットしていかないとね。

今朝はキウイを食べた。柔らかくて甘い。安かったのにね。嬉しい。キウイ畑っていうのかな。夏にたくさんの子供たちを連れてキャンプに行っていた頃にキャンプ場の隣にあった。毎年夏の終わりに開催してたのだけどたくさん実がなっていたと思う。でも収穫って10月とか?でしょ?本当になってたのかな。これ何がなる畑?キウイだよ。とかいう会話をしてたくさんのキウイがなる景色を思い浮かべたのがその後実際に見たキウイ畑と重なって事実みたいになってるのかな。記憶ってそういうものよね。重なり合いながら変化していく。話を聞いていてもそういうものなんだなあって思う。いろんな人のいろんな話をずーっと継続的に聞いていると出来事としては同じ描写でも体験の仕方が全く異なるのはもちろんのこと、患者さん自身「今はじめて思った」とか逆に「話したら全然違う気がしてきた」とか自分の体験の仕方が変わることに気づいたりする。私はフロイトがいうようにsimply listenということでただ聞いてるだけなんだけど患者さんのその感じはとても伝わってくるものがある。内容じゃないんだよね。だから話せばいい、話させればいいというものではなくて基本的には患者さんの世界を邪魔しないように一緒にいることが大切なんだと思うよ、当たり前のことだけど。見たことも聞いたことも想像もしたこともないような出来事について語られることもあればありきたりすぎてどこにも書かれないような出来事もあるけどそれを体験している彼らの全体が大切。私は小説どころか色々書けないけど自分を保つために創作はしていて小説家っていうのは自分の中で話し聞くが両方できるんだからすごい!と思う。金原ひとみの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(2020,集英社)をクリスマスに再読していたんだけどやっぱりすごかった。エッセイなんだけど自分語りとは全く違う。あれはあれで小説読んでるみたいだった。自分語りといえば昨年一番面白かったのが町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』(NHK出版新書)。作家の自分語りって独り言みたいな自分語りと全然違うから読者の自由を奪わないというかものすごく対話的なんだと思う。寂しがりなぼくを、傷つきやすいわたしをそうとは言わずに知って、愛して、みたいな厄介な方向のナルシシズムを全く感じない。ロックだった。パンクだった。めちゃくちゃ面白かった。町田康のアルバムを聞きながら読んだ。記憶の話に戻るけど彼らみたいな作家の記憶って普通の人と全然違う気がしない?脳が違う感じ。記憶と言語は精神分析も専門的に関わるところだからもっと真面目に書けよ、と自分でも思うけどとりあえずここは雑文だから。私のナルシシズムは特に満たされないのだけど創作とセットだとそこそこいいみたい。才能なくてもそれでお金もらわないから気軽に書いてる。この仕事、見えないところでもいっぱい書くのだけどそれもエネルギー使う。ああ。やらねば。で、記憶ね。記憶について考えるといつも私の頭に浮かぶのは日渡早紀『ぼくの地球を守って』。今チェックしたらKindleでも読めるのね。あれは最高だよ。みんなも読んで。ここで試し読みできるって。

もうこんな時間か。朝ちょっと余裕があるととめどなく書いてしまいそう。今日もなんとか過ごしましょう。

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精神分析 言葉 読書

ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

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うそもほんとも。 精神分析 読書

ダラダラと

休みの間、ここで書き散らかしているようなことさえほとんど書けなかった。なんとなく朝ここを開くことが習慣になってしまったので書いてはいた。それに毎日のそういう状態を観察するための場にもなっていたので「あー、こんな風になっちゃうんだ」と知り、辛かった。ここを時間をかける場所にはしていないので時間をかけて吟味することが必要な事柄は何も書いていない。なので中身はえらく薄っぺらいうそほんと話の集積だ。でもここ数日どうしても吟味が必要なことしか浮かんでこず手が自然に動かなかった。だいぶ慣れて感じなくなっていたしびれや痛みも感じることが増えた。ルーティンが崩れるとこうなるのだろうか。抽象化ができず具象的にしか考えられなくなると身体化が生じ行動のほうに拍車がかかりそうになるのか。それは避けたい。そういうときにひとつ有効なのがものがたることなのだと思う。ただ、圧をかけられて黙らされた経験のある人にはそれはもっとも困難な方法だろう。法のもとなら安全だろうか。そんなことはまったくない。一度持ち込んだらものすごい時間とエネルギーを割くことになるしプライバシーを失う覚悟も必要になるかもしれない。精神分析の場なら安全か。そんなこともまったくない。沈黙やプライバシーが守られるという点では安全だろう。でもどこにいても脅かされ続けてきた当事者のこころはそんな簡単にそこを安全だと思うことはできない。自分語りや自分見せが上手な人たちが相手の場合なんて毎日が地獄だろう。もちろん傷つける側の相手にそんな「つもり」はない。お馴染みのありかただ。さらにまいってしまうのは自分たちを被害者だといいながら力を振りかざされる場合か。取り巻きとべたっといろんなものを与えあいながら持ちつ持たれつの関係を作り信じがたい軽薄さを高度な知性か巧みな話術でくるみながら「承認欲求」(普段使わない言葉だけど)を維持し自分より立場の弱い人に「自分が被害者だ、悪いのはおまえだ」と陰で圧をかける。こういう差別や排除のスキルも「コミュ力」に含まれる時代だろうか。

以前、佐藤優が沖縄に向けられた差別について

「差別が構造化されている場合、差別者は自らが差別者であるというのを自覚しない。それどころか、差別を指摘されると自らがいわれのない攻撃をされた被害者であると勘違いする。」

と書いていた。この記事はまだオンラインで読める。まさにこのループだがこの記事にある「微力ではあるが、無力ではない抵抗」という言葉は誰かに「だからがんばろう」というためではなく心にとめておきたい。語ることをあきらめないために。

先日、辻村深月『かがみの孤城』を映画でみた。原作はポプラ社から2017年にでている。学校にいけない中学生たちがかがみの向こうで出会い限られた時間である目的を果たそうとするおはなし。おしゃべりはするようになった。でも実はなにもいっていない。一緒にいられる時間には限りがある。中学生という設定がいい。

「いってなかったんだけど」「いうつもりなかったんだけど」

語るには時間と場所が必要だった。そしてまずはただきいてくれる相手が。この人になら話せるという相手が。小さな子どもも親とみにきていた。どんなことを思っただろう。そんな簡単に言葉にならないか。いい映画だった。

「対話」。流行語かのようにそれだけ取り出されて使うような言葉になった。ものがたることと同時に当たり前になされてほしい一番のこと。

「微力ではあるが、無力ではない抵抗」

可能だろうか。不安だし怖い。そもそも圧をかけられ対話を拒まれたのにそれでもと声を上げ続ける空虚に耐えられるだろうか。その間にも続くそのつもりなき攻撃に耐え続けることはできるだろうか。小説や映画のように「大丈夫」と言ってくれる大人はもういない。自分たちがいう側になった。「全然大丈夫じゃなさそうだね」と私がいい彼らがうなずくことは多い。まずそこからか。全然大丈夫じゃない。だからしかたなく、というのでもいいのかもしれない。だってそうでもしなきゃ、という局面はいずれくるだろう。そのときまでダラダラと小さな抵抗を。自分の気持ちをなかったことにしない、映画ではそんなメッセージも強調されていたように思う。そういう意味では親の判断を必要としなくなった今のほうが自由だろう。なかったことにしない。なかったことにされることがどれだけ暴力的なことかが前よりは理解できているように思うから。

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

語り、消費など

疲労困憊、おなか痛いとか思いながら美味しいりんごを食べたり美味しいかりんと万頭を食べたりいただきものに美味しい美味しい言っている。深刻で呑気。死にたいけど生きてる。みんなそうでしょ、とは言わないけど両立する状態って色々ある。

たとえば、するならそれ相応のリスクを負う、絶対に隠し通さなくてはいけない、そう思っていたのは自分だけで相手は都合のいいところだけ切り取って絶対的に味方でいてくれる相手(いろんな心地よさの維持によって可能となっている関係)に伝えてたと知ってビックリすることがある。マジかよ、と頭を掻きむしる事態に現実的な対応を考えつつ、ああ、またいつものガキくさい感じで(言葉遣い)最新の知見で防衛しながら不満と怒りを出して「えーひどーい」とか言ってもらってるのだろう、ごはんとか食べながら、と呆れ果てる、みたいな。恐ろしく深刻なことを「ビックリ」とか「マジかよ」と表現できるとしたら絶対にこんなことあってはならないと思いつつもアイツならやるだろうと思っていたかもしれない。だったらどうしてそんな相手と~、とひたすら「あれはなんだったんだろう」的な問いの中に居続けるか、戦いの文脈に変えて白黒つけるか、現実的な対処も色々あると思う。なんにしても「好きでやってる」「気持ちいいからやってる」と言われる事態でもある。被害者に対してさえそう言う人はいるのだから。実際脳科学の知見はそんなようなことになってるんじゃなかったっけとかね。でもね、という場合に精神分析の理論は役に立つけど複雑だから書かない。書けない。そうでなくても脳科学的にそうであったとしても身体の状態とか生活状況的に持ちうる時間とか色々違うので個人の話に今それ持ち出すのやめてもらえないかな、と思ったりはする。

女性が女性の話を聞く話、それについて書かれた本については何度か書いた。彼らが自分のことを自嘲気味に描きつつそれを乗り越える書き方をしているときいろいろ感じることがある。決して笑えない苦しい話を笑ってしまうこと、笑いながら話すことは日常的に皆やることだと思うがそれを「消費」する男性のことを思い浮かべてまたうんざりする。『キングコング・セオリー』(柏書房)とかに対してもそうだったよね、とか。ただ私の仕事は言葉にできない人たちがとりあえず語りの場を求めてきたところにあるから「共感」との関連でいずれ。高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)とかカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』(みすず書房)とかも参照してあれこれ書いたメモが発掘できれば。

ところで、最新号の『POSSE vol.52(特集:奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代)』は充実してそう。最近『仁義なき戦い』、潜伏キリシタン、貧困と自殺とかのことを話したりするなかで小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書)を読み返しているせいもあるか。途中までしか読んでいなかったかも。これいつ出たんだろう。あ、昨年か。教育の問題と金融の問題は異なるだろうけど。人間相手という場合も色々だねえ。AIのことも含めて考えざるをえないけど昨日も書いた「性的モノ化」について考えておくと応用が効く気がする。

ああ、あと開業場面はそのお金を払える人たちが来る場所だからっていうのはまあそうなんだけど、そうでない人も来ることがあるとかそれもそうなんだけどそういう話ではなくて、ものすごい貧困を生きてきた人や貧困との関連で病気になったり様々な症状を抱え社会的にもとても難しいことになって通ってくる方もおられるわけで。お金と心の関係とかその資源の利用とかってものすごく複雑だから表面的には語れない。なんだってそのはずだけど。いろんな方々のことを思い出しますね。

オンラインの仕事が始まる時間。はあ。心身というより身体が辛いなあ。頭はこんなこと書ける程度には機能できるか。相互作用の力を信じてるからきっと大丈夫。痛い辛いしんどい色々言いながらなんとかしましょう。

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うそもほんとも。 読書

物語化、『分析フェミニズム基本論文集』、年越の祓

起きてるだけで何もしていないままこんな時間かあ。吉祥寺に住む友達からもらったクッキーがめちゃくちゃ美味しい。住みたい街何位かな。絶対上位だよね。学生時代に家庭訪問したりしたなあ。今だったらもう少しできることあるのかな。いやむしろやらない方がいいことがわかるという感じかな。

お風呂ははいった。ぽっかぽか。今日も柚子入れればよかった。大量にいただいたからね。冬枯れに果実は明るくていい。

いつの間にか他人の時間と場所を自分のもののように扱っている(設計パターン)。いつもそう。女の身体に対してもそう(モノ化)。徹底した受身性で安心させて忍び寄る(反転可能な状態にしておくこと)。同じことをしているのに罪にはならない(与え続けることの成果)。悪意は自分ではなく相手に(サブリミナル効果)。少しだけ罪悪感を感じることはできる(心の機能の査定)が耐えられないからテンションをあげて相手ある相手(ここもポイント)を巻き込んで寄生や依存も相手のものとしてどこもかしこも自分のものに(誇張)。利益が絡むと王様は裸とかハラスメントとか言えない(ここで止めるなら物語化はある程度成功しているが行動するには弱い)。

さて『分析フェミニズム基本論文集』(慶應義塾大学出版会)「4性的モノ化」(ティモ・ユッテン、木下頌子訳)ではヌスバウムの「道具扱い説」より「意味の押しつけ説」を採用すべきとあった。それによって「実際の道具扱いが生じていないときであっても女性が被りうる特別な害と不正ーすなわち、自律性と平等な社会的立場を損なうことーの存在を明らかにする」ことができるから。この本はまだ比較的新しい(そのこと自体がようやっとという感じなのかな)概念の整理と主要トピックを知るのにとてもいい。実感を持って読むことができる。

鳥たちがすごい。あ、遠ざかった。

昨日は散歩がてら年越の祓をしてきた。茅の輪という草で編まれた大きい輪っかを左、右、左と回って拝殿にGO。なにやらくるくる回っているわたしたちをみて小さな子たちが「これやりたい!」とついてきた。サンタさんはもうきたかな。今日も楽しいといいね。メリークリスマス☆