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精神分析における愛とセクシュアリティ

精神分析の概念を研究する時間で私が選んだのは「セクシュアリティ」だった。最初は精神分析における「愛」とは、と仲間たちと考えたかったけどある対談を聞いて「フロイトって愛についてはあんまり語ってないの?」と思ったところからなんとなくの調査(上部を拾っただけだけど)を始め、一応こんなことを紹介がてら話したので載せておく。

十川先生の本に関連した記事はこちらに。https://aminooffice.wordpress.com/2021/01/01/『フロイディアン・ステップ』/

 精神分析家の十川幸司は『フロイディアン・ステップ』(2019,みすず書房)の刊行記念対談において「フロイトは性の偉大な理論家ではあったけども、愛の理論家ではなかった。彼は愛の背後に、必ずリビードの働きを見て取る。・・・フロイトの(唯一の)愛の理論は、「欲動と欲動の運命」(1915)の最後の部分で論じた、愛する―憎む―無関心という三つの感情の相互関係の分析です。このさいにも、フロイトはこの三つの感情を性欲動との関連で捉えようとしている。フロイトにおいては重要なのは、やはり欲動であって、愛ではない。・・一方、ラカンは愛の偉大な理論家です。」と言った。

 私はここで「へー、そうなんだ」となった。

 一方、その対談の相手であった立木康介は『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』(2016,水声社)のなかで「フロイトがそれを創造して以来、精神分析とは愛についての言説である。」と述べた。そして、ラカンがセミネール「アンコール」で述べた「愛について語ること、精神分析の言説においてなされるのはそれだけだ」を引用し、「話す主体の心の病はすべて「愛の病」である」といった。つまり、エディプスコンプレックスは最初に経験される愛の挫折であり、ヒステリーは自らの欲望の満足を放棄しても、他者が自分を欲望し続けるように策を凝らす。そして強迫神経症は自らの欲望とあからさまに衝突する義務や志向で日常生活を埋め尽くすことで、愛する対象に到達するのを無限に先延ばしする。一方、愛の挫折を本当には経験したことがなく、欲望のプログラミングによってその挫折の予感から身を守り続ける主体の構造が、フロイト的な意味での「倒錯」であると。


 それではフロイトは、ということで『フロイト全集別巻』の索引をみると(というか別巻は総索引、年表、主要術語訳語対照表なのだが)愛、性愛、恋着という愛にまつわる用語が多く使用されていることがわかる。「愛」という項目は総索引の最初の項目であるところもなんだか良い。そして「愛情生活/性愛生活」と一緒くたにされているところを見るとやはり十川がいうようにフロイトはラカンのいう「愛」というよりは「性」の理論家だったのかもしれない。ためしに「愛」の中でも最初にあげられている「愛情生活/性愛生活」がフロイト全集のどの論文に出てくるかをみてみよう。

フロイト全集 別巻より
⑤夢解釈⑥ドーラ、性理論三篇(性的異常、幼児性欲、思春期の形態変化)⑦日常生活の精神病理学にむけて(決定論、偶然を信じること、迷信、様々な観点)⑨『グラディーヴァ』、精神分析について、子供の性教育にむけて⑩鼠男 11、レオナルド・ダ・ヴィンチ、男性における対象選択のある特殊な型について 12、転移の力動論にむけて、性愛生活が誰からも貶められることについて 13、ナルシシズムの導入にむけて、子供のついた二つの嘘、精神分析への関心、転移性恋愛についての見解 14、狼男、戦争と死についての時評、転移神経症展望、欲動転換、特に肛門性愛の欲動変換について 15、精神分析入門講義(人間の性生活、リビード理論とナルシシズム)16、処女性のタブー、「子供がぶたれる」、『宗教心理学の諸問題」第一部「儀礼」への序文 17、快原理の彼岸、集団心理学と自我分析(恋着と催眠状態)、女性同性愛の一事例の心的成因について、嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的規制について 18、「精神分析」と「リビード理論」19、素人分析の問題、フェティシズム、ドストエフスキーと父親殺し 20、文化の中の居心地悪さ、1930年ゲーテ賞、リビード的な類型について、女性の性について 22、精神分析概説(性的機能の発達)

 ざっとこんな感じである。確かにフロイトの愛は。。。幅広い。

 ラカンは、フロイトが「欲動と欲動の運命」(1915,『メタサイコロジー論』所収)において「むしろ愛を全体的な性的傾向の表現とみなしたいのだが、それでもやはり問題は解決しない」と述べたことを重視した。それに対して立木は先にあげた著書で「ラカンの「性関係はない」というテーゼですら、愛の問題に終止符を打つには十分ではなく、このテーゼが愛について意味しうるのは、せいぜい、愛の成就は性関係の充足という形を取らない、ということでしかない。反対に、愛が性関係の不在を補填する可能性は、おそらく常に開かれている」と述べた。その行方は著書を読んでいただくとして、私はやはり、フロイトの愛について考えるとき、彼がその本性を見出したというセクシュアリティに注目したい。なぜならフロイトのテキストにおいて、セクシュアリティは、異性あるいは同性を対象とし、セックスを目標とした本能行動であるだけでは決してなく、精神分析におけるそれは、人間のこころの組織化の中心をなすものであるからである。したがって、その概念の射程の広さとその使用について確認しておくことには意味があると考えるからである。

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精神分析、本

「終わりのある分析と終わりのない分析」

「無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。」
ー『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也著

有限性についてはいつも考えている。わざわざ考えなくてもそのなかに身を置いて日々を過ごしているのだけど。

 フロイトは「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937,『フロイト技法論集』所収)において、彼の患者、ウルフマンに対して分析の期限設定を設けたことについて再考している。フロイトは患者から学び続けるという点でも天才だと思う。そのなかでフロイトは「そもそも分析にそのような(自然な)終わりがもたらされる可能性はあるのだろうか」と自問する。そして「分析家と患者が精神分析セッションのために会うのを止めたときに、その分析は終わりである」と一応の答えを出し、「終わっていない分析」と「不完全な分析」を区別する。同時にフロイトは、分析の「終わり」について「分析が続行されたとしてもそれ以上の変化が期待できないほどの広汎にわたる影響を、分析家が患者に対して与えたかどうか」という観点からそれが起こりうる可能性についても検討する。

 フロイトは「できるだけ早い対処」を願っていた初期の患者に対して、主に訓練分析として分析にきていた後年の患者はとは「治療の短縮」は問題にならなかったという。なぜなら彼らの治療の目的は「彼らのなかにある病気の可能性を根本的に枯渇させ、彼らの人格の深く進行する変容をもたらす」ことだったからである。さらに、分析作業によってなされるのは欲動を「飼い馴らすこと」であり「量的要因の優位に終止符を打つ」ことであると言えるかもしれない、と書いた。

 この論文は私に、フロイトに対するフェレンツィのあり方について書きたくなる気持ちも生じさせる。それはまさにフェレンツィが描き出した大人と子どもの構造的な違いとそこで生じる混乱という観点からなのだが、それについてはまた別の機会に書いてみたい。その準備としてひとつ書いておくとしたら、フェレンツィは、分析家が自分の「間違いや失敗」から十分に学んでいること、そして「自分の人格の弱点」を克服していることに分析の終わりはかかっているとして、暗に、というかほぼ明確に自分の分析家であるフロイトの責任を問うた。フロイトも愛弟子フェレンツィの名前を出しつつ、それに応えるようにこの論文を書いた。つまりこれは、精神分析家の資格認定に関する問答でもある。

 さて、フロイトはこの論文の後半、「分析はほとんど、あらかじめ満足のいかない結果となることが確信できる、あの「不可能な」職業の中の第三のもののように見える」と精神分析を教育と政治と並べる。ビオンは精神分析を「思わしくない仕事に最善を尽くすこと」といったが、もとより精神分析は「ありきたりの不幸」(フロイト)を視線の先におくことから出発した。それから長い思索の時間を経てフロイトは欲動を「飼い慣らすこと」にその目的に据えた。私はそこにフロイトの有限性に対する基本的な態度を見てとるし、ウィニコットの理論構築の基盤にも同様のものを感じる。

 欲動を「飼い慣らすこと」。。体験的にはわかる気もするが、精神分析体験は決してそれだけではないという実感もある。それについての考えを促してくれる良書(今のところ最強の一冊かも)が2019年に出版された。十川幸司著『フロイディアン・ステップ』がそれである。

 療育の現場では「スモールステップ」という言葉をよく使うが、私は「ベイビーステップ」という言葉をよく使う。こころの変容は決められた枠組みのなかで小さなステップを患者と分析家がともに踏み続ける時間の記憶の集積だ。それは有限に違いないけれど、いつかたどり着くかどうかさえわからないどこかのなにかへ向けられていることを思えばそれを無限にしておくことも可能だろう。

 全く違うことを書くつもりだったのだけど、千葉雅也氏の言葉から思い浮かんだことを書いてみたらこんな風になった。書くことは不思議の連続だな。