カテゴリー
精神分析、本

ウィニコット「ー家族療法ではなく ーケースワークでもなく ー共有された精神分析」

以前、ウィニコットフォーラムにて発表した原稿を簡略にしたものを一部載せておく。

テーマ「ウィニコットと家族」

ウィニコットの症例といえば(スクイグル・ゲームがふんだんに使われたコンサルテーションの事例集である)「子どもの治療相談面接」と(成人の治療報告である)「抱えることと解釈」、『ピグル』の3冊は、小児科医であり精神分析家であるウィニコットと対話したいときに欠かせない。


特に「子どもの治療相談面接」では『ピグル』において議論の的となった「オンディマンド」という治療設定を選択するときの精神分析家としてのウィニコットの考え、そして「主観的対象」という「ピグル」の発症に関わる発達最早期の赤ちゃんの状況を示す概念について重要な記述がされている。


『ピグル』は、ウィニコットの死後、1977年に出版され
た『ピグル』というニックネームの女の子の精神分析的治療の記録。セッション自体は1964年から1966年にかけて、オンディマントという設定で16回。

 
ウィニコットの二番目の妻、クレアが書いた序文によると、ウィニコットは、この治療を「ー家族療法ではなく ーケースワークでもなく ー共有された精神分析」と記録していた。


ここであえて「家族療法でもなく、ケースワークでもなく」と書かれているのはおそらく、この治療プロセスの重要な要素として、セッションとセッションの間に交わされた両親との手紙や電話による多くのやりとりがあり、そこから読み取れるウィニコットのマネージメントの仕方や母親の態度の変化など、「共有された精神分析」であるそれを読者が別のものとして受け
取るかもしれないことが想定されたからではないか。


 ウィニコットは、家庭や家族を子どもの病気の唯一の原因としたり、治療のターゲットにしたことはない。彼はそれらを「環境」という言葉に含め、発達最早期には環境と個人は融合したユニットであると考えた。そのため、環境が個人を抱えることに「失敗」したり、環境が個人に対して果たすことのできなかった役割については記述したが、それが扱われたのはあくまで転移状況においてである、という点において、この治療は家族療法でもケースワークでもなく、精神分析であると考えたのだろう。

カテゴリー
Netflix お菓子 精神分析、本

三体、ほっこり餅、夢判断

 コーヒー&和菓子。机に向かうのが遅くなった。最近、帰宅するとNetflixの『三体』をちょこちょこみている、と早朝からすでに朝を2時間ほど過ごしたにもかかわらず書き始めたら昨晩より前に頭が戻った。朝らしさいっぱいの部屋なのに。昨晩もちょっとみた。『三体』は読もう読もうと思って読んでいないので何も知らないがこれはこれで面白い。すごいコンパクトにしちゃってるんでしょ。でも私はこれでいいや、みたいになってる。しかし、すごいね、原作も役者もゲームのことも知らない私みたいな人でもこのなんとなく知っている全く知らない世界を作り上げてしまうのだから。あ、しまった。こんなこと書きながら京都土産の「ほっこり餅」を食べてたらあっという間になくなってしまった。もっと味わって食べようと思ってたのに。この若菜屋さんのお菓子はほんと小さくてかわいい。ペタッ、モチッとした生地でニッキの香りほんのり。パクパクしちゃったけどニッキの味が残ってて美味しい。やっぱり知らない世界を知らないようにえがくって本当に難しいんだな、とまたドラマのことを思い浮かべてる。けど、味覚は「うん?何この味?」ってかなり新規性を感じるものがあるね。歯磨き粉とかも。この前、いつもと同じメーカーだからとあまり何も考えずに買った歯磨き粉が使い始めて何回かはいちいち「なんじゃこの味」となった。でも今は慣れてしまった。この最初の未知との遭遇の時間の短いこと。貴重。今年はもっとベルクソン勉強したいな。昨年、平井さんに問いを発したもののそれをしたことで自分が考えていたことにも疑問符がついた。この前のクドカンドラマはタイムマシンだったけどあれも既知である未知との遭遇だよね。そうそう、タイムマシンの物語って19世紀末までなかったそうですよ。アインシュタインの相対性理論が契機らしい、って何かで読んだ。でも記憶が意識されている以上、脳の中はいつもタイムマシン状態なわけだから「これタイムマシンものじゃない?」って今からなら思える物語はたくさんありそうですよね。神話とか。でも空間というか場所の移動、というのはかなり特殊な事態なのか、よく考えれば。一番そういう世界をたやすくこなしてるのは夢ですかね。昨晩、NHK Eテレで『夢判断』のことやってたけど立木康介さんの説明も面白かった。伊集院さんが指摘してたけどこんなこと自分でやってしまうフロイトやっぱり変だろう、と思いながら楽しくみた。しかし、なぜこの番組は岩波版の『夢解釈』ではなく古い訳を使ったかな。いろんな事情があるのかな。昨日はエイプリルフールだったけど「なにか嘘ついた?」という会話しかそれらしいことはしなかった。楽しい嘘ならつきたいもんだ。今日はどんな感じになるかな。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析、本 読書

『佐多稲子 傑作短編集』

紅いもタルトにミントティー。喉、鼻、頭痛をスッキリさせたい。

昨日は佐多稲子の短編集『キャラメル工場から ─佐多稲子傑作短篇集』(佐久間文子編、ちくま文庫)を読んでいた。最近、戦争、特に敗戦と憲法について考えていたからそのつながりで手に取ったのだろう。本屋での行動は大体無意識から始まる。佐多稲子は1904年生まれ。平成何年だか、10年かな、94歳まで生きた。大正モダンガールといえばなんとなくいい感じだが共産党、戦争、震災とも切り離せない作家であり、朝日新聞の戦地慰問に行ったことは敗戦後もずっと彼女を苦しめた。林芙美子もその一行の一人だったが同じように苦しんだ。何がなくとも本人は苦しんだだろうけど周りからの批判も強かった。今と変わらず人は好き勝手いうのである。無事に帰ってきてくれて本当によかった、とはならないのか。ならないのである。無事に帰ってきてしまったがゆえになんか言われるのだ。彼らが兵士の話を聞いたり、こういう文学を書いていなかったら私たちは敗戦や小林多喜二の死から何を学べただろう。人の死から学ばない人は人が生きていることも喜べないのだろうと思う。この時代は日本の精神分析導入期とも重なり、私はその文脈から敗戦などについて色々考えていたのだが、1920年代にフロイトの翻訳をした安田徳太郎は佐多稲子同様、小林多喜二の遺体と対面した一人である。私は長編を読んでいないのだけど佐久間文子の編集による佐多稲子のこの短編集は多分とてもバランスがいい。デビュー作「キャラメル工場から」は実体験からとはいえひろ子の目が捉える一瞬一瞬がリアルな格差を感じさせ心揺さぶる。どの作品も女の痛みや怒りを登場人物の対話によって正当なものとして浮かび上がらせる。以前、人の言葉を「全部正当防衛のつもりでしょうけど」とかいったバカ男がいた。自分への怒りを感情ではなく道具としてしか受け止められない人は相手を見下しその怒りを相手だけのものとして押し込めようとする。自分のダメさを知るのが恐ろしいからだろう。そういう人が哲学教えてたりするのだから哲学者たちの言葉もかわいそう。見下されたことのある女たちには佐多稲子を勧めたい。一緒に泣いてくれるし怒ってくれる文学だと思う。

カテゴリー
精神分析、本

あちゃこちゃ。

今朝は亀屋万年堂の桜いちご大福。甘酸っぱい。最近二度寝してしまうから朝の時間が減っている。夜も遅いからきちんと寝たほうがいいのだけど作業は朝やらないと全然進まない。鶴見俊輔コレクション『旅と移動』(河出文庫)に入っている「キラーニーの湖ーアイルランド」というエッセイがある。私はこのエッセイが好きだ。「嘘」や「にせもの」について考えるときにその光の部分を示してくれる。そうか、嘘やにせものというのは何かからの距離の問題なんだな、と「旅と移動」という題名からふと思う。定点にいればそれは確かなものかもしれないが移動すれば途端にそれは不確かなものとなるかもしれない。私たちは常に動き続ける世界で自分の居場所を守ろうと必死になるところがある。それはなにかしら確かなものがないと自分の輪郭を保つことが難しいからだろう。境界はたやすくぼやける。もちろん動き続けるといってもほとんどは身体を伴わないわけで脳と心の世界の話だが。色々知らないことが多いが知らないなりに何かを語るとしたら自分の体験を語るのが一番確からしいかもしれない。しかも実感を伴うものを。それはそうと、と書いてみたものの頭があっちゃこっちゃいっていて定まらない。止まれ止まれ。ドードー。どうして馬とかに「ドードー」っていうのかな。語源はなんだろう。「まあまあ落ち着いて」の「まあまあ」と同じ?「まあまあ」もどこからきたのかな。「ママー!」って子供が叫ぶのとはだいぶ雰囲気が違うけど音は同じ。色々聞こえてくる音を勘違いして受け取っていて気づいて恥ずかしくなったりひとり笑っちゃったりすることが多いのだけどこの辺にも受け取り手の限界を感じる。限界があるから笑えるのだろうけどちょっと間違いすぎだろう、と自分に対しては思ったりする。こんなんで大丈夫では全くないけれど仕事に関しては経験が支えてくれていると思う。やっぱり私はそこを支えに頑張っていかないとな。ないものはないのだから助けてもらいながらやりましょう。ないものと決めつけないで「絶対あるぞ!」と思って何かを頑張ることも大切だと思うけどね。人それぞれ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
精神分析、本

国際女性デー、本

著名人の訃報が相次ぎいろんな人がいろんなことを書いているのを目にした。私は「えっ」とはなるが「ショック!」とかはならない。大抵はその人自身というよりはその人が生み出したものに育てられたり共にあってくれたことに対するいろんな気持ちが一気に押し寄せてくるから「ショック!」となるのだろう。私もショックと言えばショックだが「!」がつく気持ちにはほとんどならない。自分の年齢がもう人生後半だからかもしれない。長生きする場合もあるだろうけど明らかに衰えたり不調をきたしはじめる身体は確実に死に向かっているという実感を私にもたらすので「ああ、こういう死に方もあるんだなあ」などぼんやり考えたりはする。

昨日は国際女性デーだった。最近ミモザをたくさん見かけていたのでもうすぐなんだなと思っていたけど昨日だった。特に意識していなかったがちょうど出たばかりの本がその日にふさわしかった。Relational Perspectives seriesから

Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance

この本は、ザビーナ・シュピールライン研究協会というのだろうか、The International Association for Spielrein Studiesのカンファレンスでの成果を本にしたものだ。

ザビーナ・シュピールライン(Sabina Spielrein 1885年11月7日-1942年8月12日)はロシアのユダヤ人の分析家である。映画『危険なメソッド』で描かれた通り、ユングの愛人であり共同研究者であったがその後フロイトと出会い精神分析家になった。フロイトの「死の欲動」概念にも影響を与えたと言われる非常に強い思考の持ち主である。最後はドイツ軍によって娘と共に殺された。この本はザビーナ・シュピールラインと同じく、初期の女性分析家たちに光を当てたものだがまったく知られていない人たちのことも書かれているのが興味深い。

序文で編者のKlara Naszkowskaは以下のように書いている。

”This book stems from my deep conviction that we can foster social and ethical change through taking responsibility for the past and through refocusing how we manage the education of it. ”

「この本は、過去に責任を持ち、その教育をどのように管理するかを再考することによって、社会的および倫理的な変化を促進できるという私の深い信念から生まれた。」

“Thou shall not be indifferent in the face of lies about history. Thou shall not be indifferent when the past is distorted for today’s political needs. Thou shall not be indifferent when any minority faces discrimination. […] Thou shall not be indifferent when any authority violates the existing social contract. […] Because if you are indifferent, you will not even notice it when upon your own heads, and upon the heads of your descendants, another Auschwitz falls from the sky. ”

時間がないので最後だけ訳す。2020年1月、アウシュビッツ強制収容所解放75周年記念の式典でアウシュビッツを生き延びたポーランド出身のマリアン・トゥルスキさん(Marian Turski, historian, journalist, and Shoah survivor)がしたスピーチの一部である。

「もしあなたが無関心であれば、自分自身や未来の子どもたちの頭上に、新たなアウシュビッツが空から降りかかってきてもそれに気づかないだろう。」

過酷な時代を患者として(精神分析家はみな患者である時期をもつ)、分析家として生きた女性たちの人生に触れること、しかもまだ語られ過ぎていない人たちのそれを知ることは価値あることだろう。少しずつ読んで学んでいこうと思う。

May every day be International Women’s Day.

カテゴリー
精神分析、本

雪、楽しみは千葉雅也新刊。

昨晩遅くカーテンからのぞいたときにはまだ雪じゃなかったのに朝起きたら真っ白。気温が低すぎないから積もらなそう。これでようやく春かしら。もう春だよね。お花がいっぱい。でも桜の時期にもう一度くらい降るかしら。確定申告があと一歩。これまではただ憂鬱だったけど色々と気づくことの多い作業だった。やり始めたらサクサク進んだ、ような気がしていたがかなりの時間を割いた。まずい。精神分析で生活していくためにはもっとがんばらねば。基本給のない世界だから。東京の電車、もうちょっと雪や風に強くなって。今日は全く問題ないけど。昨年後半は時間感覚が明らかにおかしく雑な作業をしてしまった。今年はみんなのがんばりに支えられて結構がんばってるつもり。何やってても楽しいと思うほうだけどやりたいこと考えたいことはたしかにまだまだ山積み。組織に属している限り役割も引き受けていかないとだし。みんながんばろーね。ひとりしごとだけどひとりの学問じゃないもんね。楽しいといえばもうすぐ千葉雅也さんの新しい本『センスの哲学』(文藝春秋)がでる。とても楽しみ。これまで千葉さんの日本語にどれだけ助けられてきたか。ドロドロしたものをSNSと実際でスプリットしてるどこか気持ち悪い言葉とは全然違う。私が思う普通の思いやりはああいう文章に滲んでいる。千葉さんの小説に出てくる暗さとか揺れとか本当に繊細な色づかいを感じませんか。そしておしゃれ。千葉さんのイベントに行くとそのセンスに学ぶことが多い。言葉の使い方もそのひとつなんだろうなあ。千葉さんの一連の作品とかnoteとか読んでいるとそれだけで相当勉強になる。こういうのも立場曖昧にして小手先で言葉使う人は人の身体や心も適当に使うよな、という学びがあってこそだけどね。がんばってどこか飛び込まなくてもそういう体験なら山ほどするでしょう、きっと。でも美しい日本語に触れたり様々な質をもつ繊細なモノに触れることは意識的にしないと難しいと思う。私は日々いろんな人に実際に深く関わっていく仕事だからそういうものとの出会いに恵まれていると思うし千葉雅也さんの最初の本の頃からずっと追えているのもラッキーだった。あ、私の仕事はそれぞれの人の言葉というものに驚きを持って出会うことが多くてそれはとても繊細だけど力強く鮮やかだったり全くの空虚だったりして私は精神分析のおかげでそれと出会えるようになったと思っているってこと。プロセスを共に過ごすこと。ただそれだけのことだけどただそれだけのことではないことが生じる。そういう地点を目指しているというのもある。意識的にではないけれど。だって起きてしまうでしょう、ここだと、という感じ。起きてしまうことに対してどう自分のこころを動かしていけるかは訓練でどのくらい無意識にチャレンジできるかというかそれを信頼して委ねられるかにかかっている気がする。怖いことだから。フロイトが限界ある自己分析にも関わらずその領野を開いてくれたことに超リスペクト。いかん、普段使わない言葉を適当に使ってしまった。せっかく美しい日本語のことに触れたのに。今日もなにがあってもなくともなんかよくわからなくともそれぞれとりあえずはじめていますか。東京の雪は午前のうちにやむ予報。それでもどうぞ足元にお気をつけて。

カテゴリー
精神分析、本

マクドゥーガルとかボノーとか。

週末はフランスの女性分析家たちの本を読んだ。

ひとつはジョイス・マクドゥーガルJoyce Mcdougall(1920-2011)のThe Many Faces of Erosの最後のパートPartⅤ Psychoanalysis on the couchのChapter13 Deviation in the Psychoanalytic Attitude。患者との関わりを逐語的に抜き出し主に同性愛に関して多面的な理解を示しながら進んできたこの本だがこの章でのマクドゥーガルは珍しく症例なしで怒っていた。この時代にエロスの領域の臨床を語ることは困難も多かっただろう。いざ臨床場面になってしまえば同性愛のみが大きなテーマになることはなく、マクドゥーガルの症例の記述をみればそれは明らかなのだが、その背景で彼女が何と戦いつつ何を願いつつ臨床をしてきたかを垣間見るような章だった。

もうひとつはエレーヌ・ボノーHélène BonnaudのLE CORPS PRIS AU MOT : CE QU’IL DIT, CE QU’IL VEUT『言葉にとらわれた身体 現代ラカン派精神分析事例集』(誠信書房)の3章 身体に支障をきたすこと(透明な身体、動揺)10章 身体の出来事(症状と語る身体)。ラカン派には珍しく症例中心のこの本が身体とシニフィアンの関係を重要視していることは書名からも目次からもわかると思うが、事例の記述の仕方はIPAの精神分析家たちの書き物と比べると非常にコンパクト。シニフィアンが刻み込まれた身体の出来事を享楽する患者のあり方はよくわかるが治療者の関わりや逆転移はほぼ見えないというか見せない。個人的には患者の症状の背後になんらかの「知」を想定し、それに本人が気づくことを大切にしているんだな、と思った、というかそれって無意識の意識化ってこと。私が読んだこれらの章は非ー意味として身体に書き込まれたパロールをエクリチュールとして関われるようにするという事例が多かったように感じた。

マクドゥーガルは国際精神分析協会(IPA)所属の精神分析家でエレーヌ・ボノーはJacques-Alain Miller率いるthe École de la Cause freudienne (School of the Freudian Cause)のメンバー。 全く異なる書き手の二人は依って立つ理論がまるで異なるが、アンドレ・グリーンが対立するのはECFの人たちらしい。誰が誰の何に向けてものを言ったり書いたりしているかは歴史や背景を知らないとわからないことが多い。ラカン派は自我心理学に対する敵意は顕にするがそれはもうみんな知ってるから言わなくてもいいよという感じがする。読みながら「それって自我心理学のこれでも説明できるじゃん」と思ったりしたがその系列で育ってきたわけではない理論にそんなことをいっても仕方ない。私も最初に中心的に学んだのは自我心理学なので用語には馴染みがあるが臨床を考える時にはだいぶ思考の流れが違うのを感じるのだから安易に置き換えてはいけないなと思った。

なんか眠くてほぼ寝ながら指を動かしているが二度寝したい。でもいかなくては。鳥さんが鳴いておる。今日もがんばろう。

カテゴリー
精神分析、本

1月7日(日)朝

急に空が明るくなった気がした。ブラインドやカーテンの隙間から覗いている空はまだ暗い。目線をずらしたときに部屋の明かりが揺れて空の光と錯覚したのだろう。昨年からますます目が見えにくくなり世界の光を瞬時に捉えることができなくなったように感じる。視力にあった老眼鏡に作り直したが改善した気もしない。本を読むのも異様に疲れるのでそんなに読んでいない。専門書は難しくて同じ箇所を何度も読むことになるので目がよかったときとスピードはそんなに変わらないけど疲れる。今、私の左腕の向こうに積み上がっているのは『対象関係論の基礎 クライニアン・クラシックス』『転移分析』などなど。全て何度か目を通しているはずの本だが何度読んでも同じようなスピード。理解が深まれば深まるほど疑問も生じてくるからそうならざるを得ないのだろう。

私が所属する日本精神分析協会(JPS)は国際精神分析協(IPA)のthe Asia Pacific regionの一つだ。先日、Asia Pacificとはということでウィキペディアを見ていたのだがそんなに明確な区分がなされているわけではなさそう。環太平洋(パシフィック・リム)の方がすっきり。「パシフィック・リム」って映画があったけどみていない。菊地凛子が出ている映画。菊地凛子は今朝ドラにも出てるでしょう。数回見たけどつけまつげがすごく似合う。趣里の演技がすごく可愛らしくて切なくて単発でみても泣いてしまう。

ここまで書いて放置してしまった。何を書こうとしたのだったか・・・。まあよい。今日もがんばろう。

そうだ、と思い出したけど大したことではない。アジア太平洋とか環太平洋みたいな集合体としての地域概念は単に地理的な分類ではないのだろうけどIPAの場合はまだ地理的分類という感じがする。というのはこの分類自体新しいからそこが集合体としてどう機能する必要があるかの模索はこれからなのかもしれない、とか考え出すと終わりのない議論になりそうな論点ばかり見えてくるけど「違いこそ強み」と言えるかどうかだろうか。私はあまりそういうポジティブさはないなあ。違いは当たり前とは思うけど。違うもので集合体を作ったら当然そこに類似点と相違点を見出す動きが起きるだろうけどその分類には個人の欲望が見え隠れするわけでしょう。するとその個人とやらをどこまで広げておくかが重要になるわけで個人的には(ややこしや)自分の子供が大人になる頃(今は30代半ばくらい?)までの未来なら具体的に想像できるかもよ、と思っていて、曖昧に「子供たちのため」「未来のため」とかいうより、その辺までの未来をいろんなデータをもとにシミュレーションしつつ現在のあり方について考えるというのができることのひとつかなあとか思ったりしている。

2007年に三省堂から出た『世界言語のなかの日本語 日本語系統論の新たな地平』という本があって環太平洋という視野を持って言語の成立と変遷を眺めてみる試みがなされている。日本語の系統問題はそれまで正しいとされてきた学説が間違っていたとわかったことでどこにもいけなくなってしまったみたいなんだよね。今までそうだと思っていたものを間違っていたと認めるだけでも大変だろうし新たな視点を持ち込むことは至難の業だと思うけどこの本は環太平洋という視点を持ち込んだらこう考えられるのでは、ということを書いている。日本語の場合だったら「環日本海」という視野を維持しつつということでもある。何を考えるにしても狭めたり広げたり行ったり来たりして大変だよね。迷ってばかり。といっても自分が生きているうちに行けるところは具体的にも抽象的にも限られているわけだからとりあえず今日、とりあえず明日、でもやっぱり昨日も、とかウロウロしながらやるのも悪くないってことね、多分。

カテゴリー
精神分析、本

距離、言葉、秘密

なにやら素敵なデザインのドリップコーヒーをいただいた。お味も美味しゅうございます。ありがとさんです。美味しいショコラのスイートポテトと一緒にいただきました。

この前、ドゥルーズ研究者の小倉拓也さんが秋田で研究をされていること自体に意味があるのでは、と精神分析にとっての中央であるロンドンではなくスコットランド、エディンバラで分析も受けず分析家になった精神分析家、ロナルド・フェアバーンのことを思ったりしながら書いた。いわゆる「中央」との距離というやつは結構重要なのだ。言語だって変わってくる。精神分析だって初期の論文は全部ドイツ語。でもフロイトがロンドンに亡命したり、戦争が中心を変えた。それまでもどの国で誰が何を、ということは本当に色々あったわけでそれはジョージ・マカーリ『心の革命 精神分析の創造』(みすず書房)に詳しい。

今ぼんやりドナルド・フェアバーンと書きながら、あれ、フェアバーンもドナルドだっけ、ウィニコットと同じ?あれれ?と思ったけどロナルドである。なんでドナルドとかロナルドとか似てるけど違うみたいな名前ができてきたのかな。伊藤とか佐藤とか武藤とか古藤とか江頭とか、あ、江頭だと漢字は「頭」になった。そうか日本語だと漢字で由来も変わってくるか。ドナルド、ロナルドとかきながら、なるほど、とかロナウジーニョとかも浮かんできた。ロナウジーニョは昨日のTBSラジオ「#こねくと」で書評家の渡辺祐真/スケザネが、古田徹也『謝罪論――謝るとは何をすることなのか』(柏書房)を紹介するなかで石山蓮華のエピソードに出てきたお名前。いいエピソードが出てくる素敵な紹介だったでのぜひ。『謝罪論』はとてもいい本だよ、と言っていたら私の周りでも「買ったよー」という人が何人かいて嬉しい。あーでもないこーでもない、こういう場合もあるけどこういう場合は、とか色々考えられるのはいい本だと思う。

毎月、ラカン派以外のフランスの精神分析家の文献を読んでいる。フランス精神分析においてはラカンとの距離は重要だ。この前はセルジュ・ティスロンの『家族の秘密』を読んだ。秘密の言葉に関して「追放された言葉、あるいは情熱(ふりがなはパッション)に覆われた言葉」という項目があってhomonyme,paronyme,allosème,cryptonymeというフランスの精神分析家のニコラ・アブラハムが分類した秘密を伝達する媒体についての4つの語法を知った。こういう考えはフランス人には馴染みがあるけど日本人には、というから子供の遊びはこんなのばかりだし、私なんていまだにやってる、というようなことの子供の遊びにはありますよね、という話だけした。秘密や恥についてもフランスと日本ではその言葉が使われるときに前提とされるものが異なるという話は重要だと思った。ティスロンがここで秘密を取り上げているのは精神分析が秘密を取り扱うものだからであり、トラウマとの関連においてなのだけどヨーロッパでトラウマというとき、そこには必ずホロコーストが背景にあり、日本だったら原爆、阪神淡路大震災があるなど。今まさに起きている戦争はそれ自体もトラウマとなるし、今を生じさせているトラウマの歴史にも目を向けざるをえない。先日、最初に挙げた小倉拓也さんが秋田魁新報の連載に書いた記事『「逃げて、生きる」という平和試論』を読んだ。言葉や戦争について考えるときに保持しておきた視点だと思う。ホロコーストに関して読むべき本は山ほどあるが『ホロコースト 最年少生存者たち 100人の物語からたどるその生活』(柏書房)は精神分析家がそこにどう関わったかの一端を知ることができるし、生活史に耳を傾ける臨床家にはおすすめしたい。紹介代わりに『子供の虐待とネグレクト』(日本子ども虐待防止学会)に掲載された森茂起先生の書評はこちら。

東京は今日もいいお天気。忙しい毎日だけど健やかに過ごしたいものですね。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。

カテゴリー
精神分析、本

binocular visionなど。

雨?南側の大きな窓を開けたらやはり雨。さっきは「降り始めた」と思ったがずっと降っていたのだろうか。そういえば昨晩はひどい雨の中を帰ってきたのだった。ジーンズも雨用のはずのスニーカーも少し寒くて羽織った薄手のパーカーも結構濡れたがもう帰るだけだからと全く気にならなかった。濡れたものは乾かせばいいだけだから簡単でいい。今朝は涼しいが熱気の澱みを感じてエアコンを短時間つけた。

昨晩、友人に“binocular vision”について聞かれた。精神分析家ウィルフレッド・R・ビオン が使用した言葉だ。ビオンはできるだけ抽象度の高い言葉、意味に汚染されていない言葉、例えば数学で使われるような言葉を用いた。binocular visionはvertexのひとつでありそれをviewpointとは言わないというようなことである。binocular visionは双眼視とか両眼視とか複眼視とか訳される。簡単にいえば二つあるいはそれ以上の異なるvertex(頂点)から一つのものを見るということだ。日本の精神分析家の北山修が『共視論』(講談社選書メチエ)で述べたのは発達心理学の用語であるjoint attentionを拡張したものだった。母と子が二人で同じものを見ることについて北山は浮世絵研究を基盤に論を展開した。ビオンも母子関係をモデルにしているが彼が注意を向けたのは乳児と乳房の関係というようなより早期の原初的な関係でありbinocular visionはひとりの人の内的な複数の視点のことである。他に、精神分析の対象を眺めるためのvertex(頂点)として“reversible perspective”や“hyperbole”などもある。これらの複数の頂点、パースペクティヴがどのように“selected fact” (選択された事実)と連接していくのか、あるいは別のfactと連接していくのかを見立てていくのも精神分析家の仕事だがそこに正解があるかというと「ない」というしかないのですべきことはひたすら現象の描写ということになるだろうか。

ビオンの解説としてわかりやすいのは松木邦裕『精神分析体験:ビオンの宇宙』(岩崎学術出版社)だろう。

ちなみにそこには「’双眼視(もしくは両眼視)binocular visionは、ふたつの異なる視点からひとつのものを見ることの大切さを取り上げています。平たく言うなら、同時に複数の視点を持つことです」と書いてある。シンプルだ。

今日はビオンとウィニコットの「退行」概念についてのセミナーがあるので友人が質問を投げかけてくれてよかった。セミナーは英語なので思い込みによる理解は避けたいがどうなることやら。

そして秋彼岸。お墓参りに出かける方は足元お気をつけて。

カテゴリー
精神分析、本

関わったら見守る

麦茶をゴクゴク。水分!でもあまり減らない。けどまた作った。水分とっていきましょう。さっき窓を開けたけどあまり風を感じず閉めて冷房をつけた。滑る窓だから気をつけながら。ベランダに一歩でもでれば風を感じたかもしれない。風の通り道に立てるかどうかはその一歩の違いが大きいときもある。まあいい。今朝も早くから仕事だ。

嘘つきな愚痴り上手って言葉、なんか変かもと思いつつ使った。嘘つき「で」愚痴り上手でもいいのだろうけど嘘ついて人傷つけておいてなに上手につらがっちゃってんの、という意味であれば前者の方がしっくりくる気がする。言葉は感覚の問題だけど調べていくと意外と本質的な差異にもとづいた判断してたりもするから無意識ってすごい。

先日、『「日本に性教育はなかった」と言う前に
ブームとバッシングのあいだで考える
』堀川修平著(柏書房)刊行記念イベント、松岡宗嗣×堀川修平「性教育から考えるバッシングの過去・現在」をアーカイブ視聴した。性教育の歴史や実態を知るうえで大変勉強になったがこういうのは内容よりもなぜそれらをあえて言っていく必要があるのかという当事者やそれに関わる人たちの切迫感を受け取ることで学び続けることが大事なんだなと思った。すぐに「自分とは関係ない」という態度をとりがちな私たちという指摘を聞き流してはいけない。みんな関係あるのだから。一度関心を向けたならその先を見届けよう。見たくないものは見ないことができてしまう私たちだからこそ。自分が嘘つきであることだってすぐに忘れてしまう私たちだからこそ。いやもちろん「そんなつもりはない」のだけれど。

眠い。今朝も早くから仕事。月末事務仕事もイヤイヤやろう。今日は木曜日。

カテゴリー
精神分析、本

『まんが親』、フロイト技法論集から「勧め」論文。

おなかが気持ち悪い。おなかすいてないのに食べたのがいけない。すいてないなら食べなければいいのだけど食べないわけにもいかないのよね。食べてる間はおいしいし。あとでこうなるのもわかってるけど。

昨晩も今朝も吉田戦車の『まんが親』を読みながら時折声を出して笑っている。ほんとこどもあるあるで面白いんだけどさすが漫画家は子育てに苦労しながらも子供の言動をメモしてネタにしてるのね。面白いと思ったものを掴むのがうまいからこっちも面白いけど「え?そこ?」みたいなことを書く人がいたらいたらで面白いかもしれない。が、子供の言動こそが「え?そこ?」に満ち溢れているからどこを拾ってもあるあるとして面白いのかもしれない。大人はつまんねーな、と言ったところでおれも大人だし、というか相当大人。若くはないが私よりはずっと若いみなさんに教える立場になってからもそこそこの年数が経つが一方でまだ訓練途上でもある。分析、スーパーヴィジョン、セミナーの三本立て。そして毎月のミーティング。セミナーはもう規定時間数は修了しているが勉強に終わりなしなので今も参加することもある。先生方の教え方からも学ばないといけない。

昨晩は私が主催するReading Freudで『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)の「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)を読んだ。先月読んだ「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)の続きとして読める。「精神分析を実践する医師への勧め」の22−23頁でフロイトは患者に自由連想を要求する精神分析を実践する医師であるならば患者と同じように以下のような態度を維持する必要がありますよ、ということを書いている。単なる技法の羅列ではなく、これこれこうするならばこれだってそうなのだからこれこれこういうふうにすべきでしょう、みたいな書き方をフロイトはよくしていると思う。説得力がある。

「単に何か特別のことに注意を向けることなく、耳にするすべてに対して(私が以前に名付けたものと)同様の「平等に漂う注意」を維持することである。」

「すべてに等しく注意を向けるという規則が、批判や選択なく思いついたことをすべて話さなければならないという患者への要求に対する必然的な対応物であることはわかることだろう。」

「医師に対する規則は、次のように表現することができるだろう。「自分の注意能力に対してあらゆる意識的な影響を差し控え、自分の『無意識的記憶』に完全に身をゆだねるべきである」。あるいは純粋に技法的に表現するならばそれは「やるべきことはただ聞くことであり、何であれ覚えているかどうかに煩わされるべきではない。」

など。これに続いて記録をとらないことの勧めも理由つきで書かれている。そして私が最も好きな一文もそこに。

「一方、最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。分析家にとっての正しいふるまいとは、必要に応じてひとつの心的態度からもう一方の心的態度へと揺れ動き、分析中の症例については思弁や思案にふけることを避け、分析が終結した後にはじめて、得られた素材を統合的な思考過程にゆだねることにある。」

この論考の後半は分析を行なう人は自分も分析を受けるべきだということがいくつかの観点から書かれている。

「他の人に分析を行おうとする者は全員、あらかじめ自分自身が専門的知識をもつ人に分析を受けるべきである」

「自分自身のこころのなかに隠されたものを知るようになるという目的が、はるかにより素早くより少ない感情的犠牲で達成できるだけではない。書物から学んだり講義に参加したりすることでは決して得られないような印象と確信とが、自分自身とのつながりにおいて得られるのである。」

など。21頁から33頁、全部で21段落。コンパクトだ。

昨日読んだ「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)は35頁から61頁、全45段落。前の「勧め」論考の2倍近く頁を割いて「さらなる勧め」をフロイトはする。

こちらは「治療の開始について」とあるように分析を実践する医師の基本的な態度というよりは初回面接や治療初期の段階における設定や患者も疑問に思うであろう事柄(お金や時間)に対する態度について詳細に書かれている。まさに今日、私がグループで中堅のみなさんと話し合う事柄だ。

そろそろNHK俳句の時間だから細かく書かないけど「まずこれ読んで」と言いたい。

それではどうぞよい一日を。

カテゴリー
お菓子 精神分析、本

Netflix、フロイト読書会、お菓子

早朝からNetflix三昧してしまった。「その女、ジルバ」とか「クィア・アイ」とか。「クイア・アイ」相変わらずいいわ。この上品なハイテンションも好きだしみんなすごくよく相手の話を聞くしいうべきことをはっきりいうところも好き。ポジティブになるって一人じゃできないもんね。大事にされて真剣に考えてもらえることは時にうざいし拒否したい気持ちの方が大きくなることもしばしばだけど変わらなければという人には欠かせない関わりになる。クィア・アイはそれぞれの専門性を生かしたチームでやってるのもすごくいい。変化のためにはいろんな方向からの支えを準備していくことが大切になる。前もってではなくて同時進行で。前もっては難しい。何が起きるかは誰にもわからないから。でもパターンというのはあるから積み重ねられてきた歴史は大切。だから勉強も必要なのね。友達も大切。積み重ねといえば何年も続けているフロイト読書会、フロイト全集を最初から読んできて主要論文は2巡目、3巡目になるわけだけどみんなの読み方がすごく変わってきた気がする。こうなるとみなさん優秀だから私は教わることの方が増える。「それは精神分析でなくても理解可能」という範囲での対人関係的な読み方ではなくなってきて、自分の枠組みを壊して広げた感じ。強烈なわからなさの中で持ちこたえてるとこういうことが自然に生じる。多分みんなはまだ「わからないわからないわからない」の中にいるような気持ちでいると思うけど。わからないはそりゃそうでしょう。わかるというのがどんな状態なのかと聞かれたらわからないでしょ。だからわかるわからないの軸はとりあえずなくしてその場にとどまることでいいんじゃないかな。人間関係だってひどい人はいっぱいいるけど心ある人もいっぱいいるから判断は速すぎない方がいいかもね。違和感は大切にした方がいいけど。

今朝は相変わらず長野のお土産の「栗のガトーショコラ」でした。なめらかな生地で小さくてきれいで美味しかった!

今日も雨?今はくもり。このまま降らないといいね。傘持ち歩くとなくしちゃうもの(そういう人多いでしょ?)。それでは今日もご無理なく。余裕なくすと悪循環始まっちゃうからいろんなこと受け止めつつも真に受けすぎず距離取りすぎずゆらりゆらりやれたらいいかもね。わからないけどね。

カテゴリー
精神分析、本

早朝『ヒステリー研究』を読んでいた

深夜と明け方の間くらいからスズメが鳴いていた。夏至を過ぎても日の出はまだ早い。「日が短くなったなあ」と感じる日は本当にいつの間にか訪れる。毎日毎日空の変化を感じていたとしても。なつかれくさかるる、あやめはなさく、はんげしょうず・・・と唱えていたとしても。あ、薬の飲み忘れに気づいた。何か唱えるって大事かもしれない。

空から少し暗い色が抜けてきたのをみてフロイト『ヒステリー研究』を読んでいた。新しくした遠近両用のメガネが合わず本を読むのに一苦労、ということで前のメガネを使っている。またメガネ屋さんにいくのに時間作るの辛いな。さてフロイトとブロイアーの共著でありながらその対立点が明確になった『ヒステリー研究』。岩波版だと『フロイト全集2』。1は失語症論。3は心理学草稿。4、5は『夢解釈』。『夢解釈』を精神分析の始まりとすることが多いけどそのエッセンスはその前夜に全て、といえるくらい出揃っている、と思えるほどその後も長く検討が続けられる論点が提示されている。フロイトとブロイアーは二人とも臨床医であったがヒステリーに性的要因を見出すフロイトにブロイアーはつきあいきれなかったようだ。というより実際にアンナ・Oの治療をしていたのはブロイアーであって、強烈に性的な感情を向けてくる患者といたらそこで生じる混乱や衝動に対処することにいっぱいいっぱいになってしまい理論的考察をする余裕などないというのが臨床的リアリティであるようには思う。ましてやそれを性的なものとして捉えるのはかなり勇気が必要なのではないだろうか。今、精神分析を実践する私たちだって性的なものに対する態度は様々な否認と抵抗と共にありその捉え方や表現に決まったものがあるわけではない。性的なものは言葉にすればするほど混乱を生じさせるようなところがあるし。ということを学ばせてくれる本でもあるのだ、これは。精神分析における「重層決定」「情動」という言葉の登場もこの本の理論的部分と言われている。もちろんこれらの言葉自体は他の分野でもすでに使われていた。今読んでいるフランス精神分析の本は「情動」に関する考察でまるごと一冊という感じだし何年経っても謎なのに重要という概念は結構あるものだ。

もうこんな時間。準備準備。今日は再び雨が降りそう?こっちはまだ降っていません。少し涼しいのは助かりますね。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

カテゴリー
お菓子 精神分析、本

お菓子、Webちくま、メタ

今週は信州のお土産で朝を過ごしています。昨日のはnoteに載せてしまったけど「ヌーベル梅林堂」の「くるみやまびこ」ハーフ。アンガディーネ(伸ばすって知らなかった)みたいなお菓子でとても美味しいのだけどウェブサイト見てびっくり!7年間保存できる「くるみやまびこロングライフ」バージョンもある。信州だから登山用の非常食にもと。すごい。私の想像ではロングライフバージョンは少し乾いた味がしてる。それにしても「7年」というのはどういう基準から算定されたのかしら。すごい。今日はお土産さんのSHINSHU BLACK TEA COOKIE & CREAM 信州 紅茶のミルククリームサンドクッキー。これ美味しい。ザクザクした生地と紅茶のクリーム。なんだか懐かしい味がする。

いちいち動きを止めるような衝動が生じるけどそこそこのスピードで進まなくてはいけない。みんな他人を利用しながら生きているということに痛みを感じつつ自分がそうしている仕方を確認しつつ。とどまるには自分をメタで見ていくしかない。

本が助けになる人にはWebちくまのこんな連載もいいと思う。堀越英美さん(@fmfm_nknk)の新連載「あなたの悩み、世界文学でお答えします。」。面白かった。

https://www.webchikuma.jp/articles/-/3127

私はジェインみたいになれない、「強火と弱火を自在に操る」なんて、という人もいるでしょう。というか大抵の人はそうでしょう。でもその物語を読んでいるときは少なからず主人公に同一化するわけで実際にそうなれるかどうかよりもひとときでも違う自分になれる自分を発見することの方が大事なのかも。だって「私にはできない」でも「私なんてどうせ」という言葉でも相手になってみようとした結果の言葉でしょう。相手の立場になってみる方法なのね、読書は。最初から拒否的になることだって生じるでしょうけどそれはそれ。自分の気持ちが自分の想定とは異なる方向に動く予感を感じるだけで苦しくなる場合だってある。それもそれ。そういう心の状態にひどく傷つけられる場合もあるけどそういう心は傷つくことをしたくないのだから心を動かせる側がメタを目指したほうがいい。弱者だから傷つく、苦しむ、という場合もあるけれど強者(大抵変化を嫌う人)の脆弱さの投影を引き受けている側面も大きいと思う。だから憎みつつもそれに覆われてしまわないことが大切なのでしょう、ジェインのように。でもこれはやはり文学でのお話。それはそれはひどい結末のお話も「単なるお話」と思うこともできるね。物語に入ってみて出てきてなにかを思うとき、それは入る前よりも自分を客観視できる状態なんじゃないかな。すぐにそうできなくなってしまうかもしれないけど。実際の人間と関わるっていうのは大変だ。でも人がいる限り、人でいる限りしかたないからプチメタ大事かもね。ヘビメタみたい。また言葉遊びに入ってしまうからこの辺にしとこう。プチコントロール。明日は夏至。寂しいな。とはいえ暑さに気をつけて過ごしましょう。

カテゴリー
俳句 精神分析、本

句友、一生(という時間)

暗い時間に呟きをコピペして長文にして呟きの方を消した。ここではただ指任せで書いている。空の明るさだけで起きてしまうとまだ早すぎる。トモコスガさんが「オランダの夜10時過ぎが明るすぎ」と写真を載せていた。さっきまでの東京の空と似たような色。でもないか。こっちはなんか黄色がかってる気がする。

週末、句会でたくさんの人と会って楽しかった。みんなは3年ぶりといっていたけど私は句会自体にほとんど出られていないのでもっとぶりかもしれない。新井素子さんがいらした句会ぶり。あの日と同じ服を着ていたことに会場で気づいた。同じ季節だったのだろう。コロナのおかげでと書くのは間違いかもしれないがコロナ禍ゆえに声だけの交流が始まった句友もオンラインのみで交流していた句友もいて「ここでははじめまして」と笑い合った。会えると思っていなかった遠くに住む句友も前日の激しい雨にも負けず現地入りしていてとても嬉しかった。夏の着物でいらした方たちの生地や帯にも見入ってしまった。とても素敵だった。私も自分でちゃっちゃと着付けできれば仕事あと急いで行かねばであっても着物に着替えて行きたいけどそんな日がくるとは思えない。

昨日は同じメンバーで2年目を迎えたスモールグループでの事例検討会でこちらも毎回のことだがとても勉強になった。一応私は指導する側だけど指導というよりファシリテーター役。役割としても学びが大きい。初回面接を検討する月一2時間半の会だが今回も妙木浩之先生の『初回面接入門』(岩崎学術出版社)にすでに書かれていることを実感して笑い合った。笑えるのは何回も読んだはずなのに何もわかっていなかったということに気づくからだ。臨床的な実感は本の中にあるようでない、でもある、ということなのだろう。

そんな日がくるとは思えない、というので思い出した。昨晩スーパーに寄ると私の前に店を出た人が1リットルパックのぶどうジュースとストローを持っているのが見えた。私が一生やらないであろうことをこの人はこれからするのだなあと思った。あの手持ちの雰囲気からしてこのあとおうちで紙パックからストローで直接飲むんでしょ。150mlくらいだったら私もグラスで飲む機会もあるかもしれないがぶどうジュース1リットル、紙パックからストローで、はないなぁ。多分、きっと一生ないな、と思った。誰かはしていても私は一生しないであろうことなんて数えきれない。することよりもしないことの方が多いに決まってる。なのに「一生ないな」と思う対象がこれかよ、という感じもあるが日常の発見というのはそういうものでしょ?いちいち正確に本を読むことからはじめなくても(そんな読書家なのにそれ、みたいなのもあるから)豊かな日常はそこかしこにある。臨床も同じ。

さっきから激しく鳴いている君は誰なのだ?ヨシキリ?昨日はムクドリが二羽茂みにいた。この時期のムクドリはやたら茂みにいるのだけど低いところのほうが美味しいものが多いのかしら。そこにウグイスみたいな鳥もやってきたんだけどホーホケキョって鳴かなかった。あなたはどなた?なめらかな羽に見えた。

友達が主に怒りに共感するメールをくれた。女の辛さを共有できる女友達がいるのはありがたい。彼女とも会いたい。幸いなことに私はコロナで失った人はいなかった。途轍もない苦しみは知ったし人はいつ死ぬかわからないという実感は強くしたけど。今日もいろんな人と会い、話す。主に聞くほうだけど。試行錯誤を続けよう。なんとか持ち堪えよう。「もちこたえる」か。昨晩の大河は悲しかった。おっと、ネットで拾えた歴史の資料を読んでしまった。こういうところが慌てて失敗する原因を作ってるって流石にこの歳になればわかってる。でも治らないな。どうにかなると思ってるからだろうな。ダメね。そんなこんなであっという間に時間が経ってしまう。いや、辛く苦しいときは時間なんてあっという間に経ってほしいかもしれない。そうなるとそれは無理なんだ。辛いね。でもなんとかやろう。そうはしたくない、そうはなりたくない、という気持ちに素直にやっていけたらいいように思う。

今朝のお菓子は以前働いていた神奈川県大和市のおみやげでした!

カテゴリー
精神分析、本

國分功一郎さんゲストのイベントへ行った。

今日も雨。昨晩帰宅する時間には小雨だったけどまた本格的に降っていそう。寒いし。寒さをもっと強く意識してしまう前に早朝から諸々済ませた。

7日(日)夜は「グリーフと哲学の夜 傷は癒えるのか、癒されるのか、癒すのか 」という國分功一郎さんゲストのイベントへ行ってきた。國分功一郎weekひと区切り。主催は「グリ哲2023プロジェクト」ということで袰岩奈々さん、森幸子さんを中心に普段から何か一緒に活動されているグループの企画という印象だったけど詳細はわからない。東北、関西、九州からこのためにいらした方々もあって同窓会的雰囲気もあった。お隣は関西の読書会グループの皆さんだったらしく國分さんの本はこれよりこれがいいなどなどとても盛り上がっていらした。みんなすごく楽しみにしていたみたい。もちろん私も。場所は国分寺のカフェスロー。昨年、川柳の暮田真名さんたちのイベントをしたカフェかと思っていたら違った。あちらは反対側の出口の胡桃堂。中央線は三鷹までしか馴染みがないからたまにいくと駅の中からキョロキョロしっぱなし。胡桃堂にいくのも迷ったけど駅の反対側のカフェスローにいくのも迷った。1、2分は結構自信満々に迷った。でもここを渡ったら変わるはずの町名が変わらない。迷うのもいつものことだから「こっちのはず」という予測ではなく「迷うはず」という予測に基づいてすぐ引き返した。予測モデルの話が今回ありました。熊谷晋一郎の当事者研究を参照したお話が多かったからね。さて、19時開演、18時半開場の予定が18時開場に早まったにも関わらず18時半少し前に無事に到着したときにはすでにたくさんの人がワイワイガヤガヤ。手作りイベント感があってよかった。私より年上の皆さんが多かったように見えた。質問もその場で紙に書いて集める形式だったけどたくさん出ていたし、國分さんが答えるというよりは考えこむ國分さんと一緒にみんな考えこんでまた書くみたいな感じもよかった。記憶と感情の話をするときに國分さんはフロイトの快原理を引用していた。國分さんと千葉雅也さんは精神分析理論を十分に咀嚼している哲学者なので聞きやすいし考えやすいのだけど哲学者はここでこうやってこれを持ち出すのかとかは新鮮だった。傷と痛みについて考え言葉にすること自体にどうしても攻撃性が含まれやすいことに國分さんがとても自覚的で慎重だったのも印象的だった。「サリエンシー」を導入の用語としながらそれの使えなさ、使用の難しさについて開かれていくプロセスも興味深かった。ちなみに熊谷晋一郎さんはもう「サリエンシー」という言葉は使っておらずどんどん考えも言葉も進化させているとのこと。お二人の『責任の生成 中動態と当事者研究』(新曜社)は必読でこうして痛みを伴いながら考えることをさせてくれる本だった。言葉にできない重苦しいような息苦しいような感覚が自然に大切にされる双方向的で対話的な時間は貴重。帰り道、そばを歩いていた人たちの会話が聞こえてきたがそれぞれに國分さんを通じてじっと考えさせられた様子で共感した。とても久しぶりに國分さんとお話できたしなんだか安心した。

さてさて今朝も木曽路の和菓子が甘さ控えめでおいしいです。熱いお茶と一緒に。みなさんも体調崩さないようにお気をつけてお過ごしください。

国分寺駅南口

カテゴリー
精神分析、本

漫画、フロイト、オグデン

昨晩は大正ロマン関連を色々チェック。旅に出るから。袴で街をそぞろ歩きしたい。今朝は吉田戦車『伝染るんです。』をパラパラ。少しずつ積み上げられた本と論文の整理をせねばと単に別の場所に移動させるようなことをしているときに見つけてしまった。ちっこい文庫。『はいからさんが通る』ではなくこっちを見つけてしまった。これ帯もつけっぱなしにしてたんだ。1巻「読んだらキケン!』2巻『不条理来襲』3巻『枠組み破壊』4巻『爆発的伝染力』5巻『非常識の完結』。『伝染るんです。』なんだから4巻のはどうかな。まあ大きなお世話かな。今こんなことしてる場合じゃいないんだよー(泣)。でも面白いよー。それにしても部屋がひどいことになっている。

Reading Freudも事例検討グループも始まったからインプットを増やしていかないとなのに別のことばかり調べてしまう。英語論文とか最近ちょっとしか読んでないからめちゃくちゃ読むの遅くなってるし。そんな賢いわけではないのだから真面目にやらないとなのにね。あー、吉田戦車とか大和和紀天才。フロイトと同じくらい読むべきものたちと思う。

一応、私が読書会でいつも言っているフロイトの書き方に意識を向けることについて話すためにオグデンの2002年の論文を再読したのであげておこう。これはオグデンの単著に入っていただろうか。訳されていないけど誰かが編集している本に入っていることは知っているけど書名を忘れてしまった。漫画読んでないでこちらをチェックしないとね。

Ogden, T. H. (2002) A New Reading of the Origins of Object-Relations Theory. International Journal of Psychoanalysis 83:767-782

The author presents a reading of Freud’s ‘Mourning and melancholia’ ということでフロイト全集14の『喪とメランコリー』をオグデンが再読。この論文は対象関係論のはじまりと言われている論文。これは十川幸司訳の『メタサイコロジー論』にも収録されているからそっちで読むといいかも。フロイトが短期間で一気に書き上げたというメタサイコロジー論文の中でも最重要。

オグデンが重要と考えるのはvoice。太字は私が太くしました。

the way he was thinking/writing in this watershed paper.

オグデンはのちに‘object-relations theory’(対象関係論)と呼ばれる心の改訂モデルの背景にあるフロイトの考えを以下に要約。

(1) the idea that the unconscious is organised to a significant degree around stable internal object relations between paired split-off parts of the ego

(2) the notion that psychic pain may be defended against by means of the replacement of an external object relationship by an unconscious, fantasied internal object relationship

(3) the idea that pathological bonds of love mixed with hate are among the strongest ties that bind internal objects to one another in a state of mutual captivity

(4) the notion that the psychopathology of internal object relations often involves the use of omnipotent thinking to a degree that cuts off the dialogue between the unconscious internal object world and the world of actual experience with real external objects

(5) the idea that ambivalence in relations between unconscious internal objects involves not only the conflict of love and hate, but also the conflict between the wish to continue to be alive in one’s object relationships and the wish to be at one with one’s dead internal objects.

要約だけだとまあそれもそうかという感じかも。症例の話がないとということで興味のある方は本文も読んでみてください。

ちなみにオグデンは下に書くフロイトの論文の終わりの部分を引用して患者の実際の生活に根ざしていないと精神分析もthe self-imprisoned melancholic who survives in a timeless, deathless (and yet deadened and deadening) internal object worldと変わらないよ、ということでこの論文を閉じています。

Freud closes the paper with a voice of genuine humility, breaking off his enquiry mid-thought:

—But here once again, it will be well to call a halt and to postpone any further explanation of mania … As we already know, the interdependence of the complicated problems of the mind forces us to break off every enquiry it is completed—till the outcome of some other enquiry can come to its assistance .

オグデンは少しだけ省略してしまっているので十川訳の方からこの部分を引用しておきます。
「しかし、ここでは再び立ち止まり、まずは身体的苦痛、それからその苦痛と類似した心的な苦痛の持つ経済論的な性質への新たな理解が得られるまで、マニーについてのさらなる解明は延期するのが適切だろう。周知のように、錯綜した心的な問題は相互に関連しているため、他の研究成果を役立てられるようになるまで、このような研究は不完全なまま中断せざるをえないのである。」

これぞフロイトの書き方という感じがする。フロイトには常に次へ継続するための中断がある。実際、ここに書かれたことは継続的に探究され別の論文に書かれています。フロイトを読み始めるとこうやって読み続けることが必要になってしまうことをみんな無意識的に知っていて敬遠してしまうのかな。ここに書いてあることがよく掴めなくてもまた出てくるから大丈夫、ということを私はよく言うけど。精神分析みたいな心の探求は時間がかかってしまうのですよ、反復につぐ反復を扱うから。まずは反復を認識するところから時間がかかるし。うーん。体験と結びつくと多分かなり読みやすくなるのだけど読むために体験するわけではないしね。精神分析を体験するのはフロイト全集を買うよりもお金もかかるしそう簡単におすすめできるものでもないし。うーん。悩ましいですね。とりあえず読んでいきましょう。

カテゴリー
あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析、本

プリズム、やり直し

鳥が鳴いてる。カーテン開けられない。飛んでいっちゃうから。でもカーテン開けないと見えない。生活はジレンマだらけだな、とか急に大きそうなことをいってみる。鳥の世界の方がずっと広くて大きいけど。

すぐそばでスズメの大きな声がした。一羽じゃ出せない大きさ。『スイミー』(好学社)を思い出した。そっちの方を見上げる。いた!小さな木にいっぱい止まってる。一緒にいた人は最初気づかなかった。まさかこんないっぱい木と同じような色したのが止まってるって思わなかったみたい。毎日そこがねぐらなの?こんなに風が強いのに一晩中そこでそうやって丸まって寝るの?大好きなスズメのことも全然知らない。

まさかこんないっぱいいるとは、そうなんだよね。こっちは大体いつも同じ目線でしかものをみてないから向こうにとっては当たり前のこともすごく新鮮でびっくりちゃうことがあるんだよね、という話もした。よくよくみるように知るようになってから全然見え方が変わったものや人について話し、話しているうちにそのものや人のことをもっと共有したくなったといって色々教えてくれた。私は私でまた別の印象を持つわけでそうするともっとそれらについての見え方って変わる。プリズム♪YUKIの曲、よく歌ってたな。

♪いじわるな人がとやかく言うけれど 私は、どこかでまちがえたかしら?♪

今日はまちがえないぞ。この前すっぽかした予定を移してもらったの。すっぽかしたのだから移してもらったとは言わないか。すっぽかすつもりはなかったのだけど。すっぽかすつもりですっぽかす人だっているでしょ。日曜日に何も予定がない日はないはずなのにその日は「何もない!」と勘違いしてプチトリップに行ってしまった。そしたらLINEが。がーん。アイフォンに入ってない。入れたはずなんだけどなんかアイフォんのカレンダーに同じ予定が二重で出ることがあってその一個を消すと両方消えちゃうみたいなの。どうして?同期の問題?動機の問題?いやいや。だっていつもすごく楽しみにしてる予定だもん。そこでやり直しの機会をいただいたわけです。ごめんね、みんな。お詫びのお土産あり〼。お詫びのお土産って言うのも変か。でも本当ごめんよ、ありがとう。

昨日も海外でトレーニングしている友人からのメールでさ、とまた私側の忘却による不義理があったわけですが何度でもやり直せる関係の相手だからきっと大丈夫。ごめんなさい。

やり直せない関係は自分か相手が死ぬ場合以外、本来あるのかしらね。コミュニケーションを断たれることはやっていきたくないというコミュニケーションだからやり直す以前。基盤が壊されてしまうわけだから。やり直しには共有された何かが必要だものね。精神分析の防衛機制の分類は本当に有用。そういう分類でも使って仮の理解しなくちゃ耐え難い心ない反応にもたくさん出会うものね。こころが壊れないように、殺されないようにできることを実際に死にそうな人たちと一緒にいて自分たちが共有できそうなのは言葉だから言葉中心にできることを探って作り上げてきた治療文化を外側からわかったように語る人もいるけどそれはそれでコミュニケーションする気がないというか知的に素早くコミュニケーションできる人としかコミュニケーションしたくないとか色々あるのかしらね。私はコミュニケーションは時間をかけて続けていくものとしか思っていないので「正しさ」について何かいいながら何かの方法を「これぞ正しき方法」みたいに教えている人とやっていくのはいまのところ難しそう。どんな丁寧な物言いでどんなに信頼されていても陰で人を切り捨ててるような人がそういう教えによってお金をもらっていたりもするわけで、でも現実ってそういうことに溢れてる。教員のセクハラとかもそうだろうし。私たちの仕事だってある人にはこうである人には全く別物だろうし。だから実践を通じて訓練するわけだけど。ほかの人にいっても「まさかあの人が」と一面的な見方しかしてもらえず偏った聞き方しかしてもらえないようなコミュニケーションは死にたくなるほど苦しいしそうやって傷ついた人たちと関わるような仕事だから今日もいいとか悪いとか正しいとか間違ってるの前に何度でもやり直せるための条件について考えましょう。それを壊してくる圧力や暴力のことも同時に。

カテゴリー
精神分析、本

ジェンドリン『プロセスモデル』を読んでいた。

 

ユージン・T・ジェンドリンの『プロセスモデル 暗示性の哲学』(みすず書房)を読んでいた。ジェンドリンといえば来談者中心療法(Person-Centered Therapy)の創始者、カール・ロジャースの統合失調症に対する治療に関する研究であるウィスコンシン・プロジェクト(Wisconsin Project)のメンバーで、その後フォーカシング(focusing-oriented therapy)を開発した人。ウィーン生まれ、ナチスを逃れてアメリカへ移住、シカゴ大学で哲学のPh.D、その後ロジャースのいるウィスコンシン大学精神医学研究所へ。私が若い頃は村瀬孝雄先生とかまだ生きていらしたけど大体の臨床心理士は特定の治療技法の訓練システムに入るなら海外へいく必要があった(ABAだってそうだったから諦めたし)時代だったから日本で学ぶならその技法の「大家」と言われる人のセミナーに出たりという感じで、特定の技法というよりいろんな治療法を満遍なく取り入れていた牧歌的な時代だったと思う。CBTと精神分析の対立は一部ではあったみたいだけどどちらも日本でトレーニングを積んでいる人は少ない時代だったし(精神分析は今もだけど)私の学習環境や臨床環境は極めてのどかで恵まれていたと思う。今も当時の同僚は友達として助けてくれる。私にとってフォーカシングもそういう技法の一つだったのだけど村瀬孝雄の話を聞くために講演会に行ったらちょうど亡くなってしまってそれ以来フォーカシングは遠くに行ってしまった気がする。私は精神分析のトレーニングに入ったし、身近な友達もそれぞれ別の技法へ向かってフォーカシングを使った臨床をしている人がいなかった。あれから30年近く経って私が唯一ジェンドリンといえば日本では、ということで知っているのは末武康弘先生だけど今回の『プロセスモデル』は末武先生たちの翻訳。難しい本なはずなんだけど意外と読みやすく感じるし註が勉強になるしフロイトとかウィニコットとか出てくると嬉しい。

中身について書こうと思っていたのに思い出話を書いてしまったらまあいいかという気分だな。みすず書房のサイトとかをご覧くださいね。フォーカシングの背景をなすジェンドリンの哲学が詳細に書かれているから。私はもう技法としてフォーカシングを学ぶ余裕はないけれどどの技法もその技法がどうやって生じてきたかを学ぶことはこうやってしていくと思う。ジェンドリンは体験と体験過程(ing系が大事ということ)を分けてフェルトセンス、IOFI(instance of itself)という普遍原理を想定し意味創造プロセスを理論化しようとした人なのだと思う。それは人間だけではなく生命体全体の進化に関する心理学でもあった(雑すぎるので興味がある方は本をお読みくださいね)。インタラクションファーストであるのに言葉を持つゆえの不自由さを持つ人間の知覚以前の場を身体に見出してそこで暗示されているfelt meaningに触れていくことが新たな意味の想像へ繋がるという身体とシンボルの橋渡し的なことをジェンドリンは考えていたのかな、というのが私の単純な理解。とにかく知覚以前を「暗示性」という言葉で明示していきたいという感じ?そうそう、翻訳の副題「暗示性の哲学」なんだけど本文中では暗示はインプライとカタカナで表現されている箇所が多いのも印象的でした、とかいってパラパラ読みだからあくまで今のところの印象。

誰かのいっていることにはその背景があるって考えるのは普通だと思う。誰にでも個人の歴史を超えた歴史が備わっているわけだから。だから何というわけではないのだけどそういうこと考え出すとこっちではこんな苦しくてでも本当にそれはどうしようもなくて何をどうしたところで何かが終わることなんてないんだみたいな辛さに覆われてしまうときがある。大抵は目の前のことに追われているからそれに呑み込まれずにすんでいるけどそういうときに本がベストセラーになったりする学者とかそうでない人がラディカルな物言いしていると「あなたはご自身もそこに含まれているって覚えてらっしゃいますか」と言いたくなるし、逆に一方では「ただの言葉」であるそういう表現に対してその人の人生全部乗っかってないと嘘つきだみたいにいう人にも「あなたその人の誰ですか」って言いたくなる。なんで生活を共にしているわけでもない人に一貫性押し付けられなきゃいけないんだよ、しかもその一貫性って矛盾だらけのおまえのだろうが、と汚い言葉遣いで言いたくなったりね。人間って矛盾だらけだから苦しんで苦しんでそれでもなんとか生きてるんじゃん?と思わないですか?だからなんかもう本当に辛いけどなんとかやろうねくらいのちょっと思考停止したことしか言葉にできなかったりするわけです。たしかに言葉は頼りないよ、ドクタージェンドリン。でも新しい体験に開かれているはずだよね、人間も。完全に自分に都合のいい読み方をしている部分だけ書いてしまった。みんなはどうかな。今日はお休みですか?お休みの人もそうでない人もどうぞご無事で。体温調節も難しいけどお気をつけてお過ごしくださいね。

カテゴリー
コミュニケーション 精神分析、本

三木那由他さんの本のこととかを少し

昨日、三木那由他『グライス 理性の哲学』(勁草書房)を開いていたはずが持ち歩いたのは小さくて軽い古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)で読んでいたのはもはや紙ではなくkindleの三木那由他『話し手の心理性と公共性』(勁草書房)。三木さんは文庫じゃないのは両方勁草書房なのね。書いてみてようやく意識することってあるね。

書くことに関する本も山ほどあるねえ。私も辛いときほど小説を書きたくなって小説を書くための本とか何冊か読んでるけど書き物に生かせるほど読んでも書いてもいないねえ。でも小説でなくても、こんな駄文ブログであっても、書くことで自分をどうにかこうにか保とうとしているところは多かれ少なかれある。ひどいことって色々あるから。個人の体験で外側に見えているのってほんの一部。いろんな話を何年聞いても、まだ本人が知らなかった本人のことがたくさん出てくるんだから。そのプロセスでまとまらなかった断片がなんとなく居場所を得たりもするから量的な問題ではないけれど。言葉はいつも必要だし、コミュニケーションに関する本、言葉に関する本も出続けるよね、そりゃ、という感じかしら。言葉にできない、ならない出来事って尽きないけど。悲しいことに。苦しいことに。物言わせぬ圧力をかける側が相談って大事だよねとばかりに周りに上手におはなしして同情共感されているのをみたりするとそれはそれで地獄だったりするし(私は「地獄」という言葉を使うたび九相図を思い浮かべています。あれについてはまた別の機会に。)コミュニケーション大事だよ、相談大事だよ、と言いつつそのあり方によってはそれ自体がまだ誰かの傷口を広げるわけだ。そういう困難や不均衡は生じるわけだけどそれこそ言葉を持ってしまった以上そういうのは仕方ないのでそれぞれがどうにかこうにかやっていくために今日もまた言葉に困り言葉に助けられながら。

三木那由他『話し手の意味の心理性と公共性』はグライスの意図基盤意味論(これは『グライス 理性の哲学』で詳細に書かれている)に対する批判から共同性基盤意味論を立ち上げることによってコミュニケーションにおける話し手の意味の公共性に注意を向けさせる本である(と思う)。そこでは共同的コミットメントによって誰かと出会い、共にあることが重視される。私はこの考えはウィニコットのshared reality、サリヴァンのconsensual validation と重ねて考えることができると思って読んだ。精読すべき本だと思うので近いうちにしよう。

カテゴリー
精神分析、本

精神分析家、Loewensteinの論文

準備準備。精神分析における言葉の活用は私のテーマだけど難解だから勉強してもしても、というほどしてないのだけど、いやむしろ勉強が足りないので準備がたくさん必要。今度セミナーがあるのです。

まず読んでいるのはルドルフ・ローウェンシュタイン。ラカンの訓練分析家です。立木康介さんは『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(2023,講談社選書メチエ)でルヴァンシュタインと書いている。Loewensteinは1898年1月(生きてれば125歳)ポーランドで生まれたユダヤ人で、チューリッヒで中等教育、ベルリンの精神分析インスティチュートで精神分析の訓練を受けた多言語話者の医師で精神分析家です。いろんな国で生活していろんな言葉を話しているから呼ばれ方も色々ですね。パリではパリ精神分析協会(SPP)の設立にも関わってラカンをはじめフランスの分析家の最初の世代の育成に貢献しました。1940年代になってニューヨークに移って自我心理学の発展にも貢献。精神分析に関するいろんな協会の会長や副会長をしていてパリともずっと良好な関係を保っていたみたいですよ。ラカンは何も語っていないみたいだけど彼にとってLoewensteinとの分析は良きものではなかったみたいだし自我心理学は彼が激しく批判する対象となったけど立木さんがさっきあげた本の注でLoewensteinの発音がラカンがオマージュを捧げたマルグリット・デュラスの小説のヒロインの名に発音が酷似していることを取り上げていて分析関係の外からの見えなさと事後性についてちょっと考えました。私たちは自我心理学をその理論や技法が移民問題の歴史と繋がっていることを理解しながら学べたらいいと思う。それは言語の問題にも繋がっているでしょうから。

昨晩読んでいたのはこちら。すっかり寝不足。

Loewenstein, R. M. (1959). Some Remarks on the Role of Speech in Psychoanalytic Technique.

2003年に出たこちらにも所収。Influential Papers from the 1950s Edited By Andrew C. Furman, Steven T. Levy

論文が載ったのは1956年のInternational Journal of Psycho-Analysis 37: 460-468(メモ)。

すごくたくさん読むものがあるんだけどどうしましょう。やれるところまで、といういつもの感じにしかできないけどなんとかがんばりましょう。東京はさっむいけどいいお天気です。みなさんの場所はいかがでしょう。お元気でお過ごしくださいね。

追記。論文に関するメモ:

「精神分析は探索的な方法と治療的な方法の両方を有しており、それは、もっぱらことばの領域において生ずる長く続く体験と過程なのである」

「精神分析は、二人のあいだでの特定のコミュニケーションのやりとりで有り、一種の対話であり、それ以外の全ての対話とは全く異なっている。」(→技法論)

目標指向性を持つ意識的な思考を止めるー自律的自我の統制と退行ー分析家の自我機能への委託ー無意識の系へ

ソシュールのラング(記号)とパロール(話し言葉)の違いから考える。

Karl Buehlerによる送り手と受け手の間の言葉の機能の分類(1、表示する機能あるいは描写する機能、認識する機能、2、表現する機能 3、訴える機能)

分析家は患者の訴える機能に応答することを差し控え認識する昨日による解釈を通してそれを表現する機能へと変換させることを目指す。→患者が今まで利用することのできなかった知識を想起し表現できるように(ワーキングスルー)

Nunbergによる分析における言葉の機能の分類(1、魔法の機能≒カタルシス機能、2、言葉は行為の代用品である)

あみメモ:一方、攻撃性の関与する部分において「言葉は単なる行為の代用品などではない」とある。もし著者が言語を発話する行為として捉えているとしたらその後に続く「侮辱的な言動や皮肉あるいは軽蔑の表現」も行為なはずなのでそう捉えていないということか?「自我に対する言葉の機能」という言葉が引っかかる。抵抗によって言語化が困難になる際、分析家は超自我でもあると同時に補助的な自律的自我機能として機能する。この場合、言葉は「単なる」行為ではなく、というが、これは行為だろうと思う。また「さらに言語化により聴覚を通じた現実的価値の付加も起こる」とあるが理解がやや直線的に感じてしまう。一方で以下みたいに書いているわけだし。

Cassirerは分析プロセス自体そのものにおいて言語の目的化の機能が果たす重要な役割を強調したが「話されていないことばは私たちの奴隷であり、話されたことばは私たちを奴隷にする」というのも本当である。

転移状況における感情や情動の言語化の問題も検討。言語化と特定の内容を伴った情動との結びつきが確立されるまでにもまた言語化。内的現実と外的現実(共有された現実)としての情動へ変容。自らの意図や動機を言語化することで洞察を得る。そこから想起される反復。洞察へ向けた繰り返される抵抗のワークスルー。情動の言語化に対する抵抗の由来は2つの動機付けの形。言語化の放出機能と拘束機能。どちらも防衛(抵抗)のためにしようされるかもしれない。記憶の言語化ではなく言語化による想起。無意識から意識へ。行動から思考へ。一次過程から二次過程へ。

言語ー意識的な考えが内部で構築されるのを可能にしてくれる足場として機能。知性化は空っぽの足場。

あみメモ:解釈の使用が重要というより使える解釈とその場所を準備、提供することか。

フロイトがしたように記号としての言葉、暗号化されたメッセージを理解すること。シニフィアン・シニフィエの関係。その間にもさまざまに変化する型がある。分析過程(≒話すという行為)は一次過程と二次過程において無意識の語彙による表現を引き出し、思考は通常の言語に翻訳され二次過程優位のもと洞察を得る。

「分析の状況が、「注意と現実吟味とが外界(分析家)から引き抜かれて、患者の内的体験へと移される状況を患者のためにつくり出す」のである」

動機づけの複雑さ、他の人の精神状態の理解、過去の体験と現在の体験の区別。←意識の系の獲得。

「まさに人間は、言語を使用することによって、ようやく時間と空間において遠くはなれた所にある出来事にさえ現実性を与えることが可能になるのだし、さらには彼らと今ここに存在する出来事とを見分けることも可能になるのだ」=洞察と言語化による現実吟味。

「なによりもまず、コミュニケーションは、言語のすべてではないし、ことばのすべてではない。」

「もし言語化とことばが、洞察を得るという治療上の効果をあげるうえで欠くことのできない役割を果たしているというのならば、それら(言語化とことば)だけが、そのことを行う唯一の要素ではないのである」

あみメモ:全体にうーんという感じ。speechの捉え方が直線的すぎでは。ラカンのテーゼは自我心理学の文献を読むときに常に思い出しながら。

「無意識はひとつの言語のように構造化されている」

カテゴリー
精神分析、本

立木康介『ラカン 主体の精神分析的理論』を読み始めた。

寒いですね。コーヒーもとっくに冷めてしまいました。電気膝かけのおかげで足は暖かいけど床に足がついちゃうと寒くてブルブルしています。ということで動けない朝。どうしましょう。

Instagramに載せたけど立木康介さんが『ラカン 主体の精神分析的理論』を贈ってくださいました。いつも大切に読んでいます。この前のフーコーの本はちょっと難しかったけど、その前の『女は不死である ラカンと女たちの反哲学』はとても面白かった!今回はラカンと哲学者、まずはアリストテレスとの本気対話。立木さんのさすがの明快さでさらっとフランス精神分析史におけるラカン理論を概観したあと「はじめに」で「アリストテレスを読むラカン」。このあともしばらくアリストテレスが特別に扱われる様子。読み進めるのが楽しみです。昨日、なんとなく高橋澪子著『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』を再読しててアリストテレスのところを面白いなあと思っていたのだけど精神分析との関連で読むのがやっぱりスリリングですね、私には。

書いている間は少し寒さを忘れるけれど色々書くにはまず読まないとですね。楽しみです。風邪ひかないようにしましょうね。

カテゴリー
うそもほんとも。 精神分析、本

パターン1

こちらが真剣に情緒を表明するとすぐに茶化したりふざけたり挙句の果てには怒ったりしてそのまま受け取れない年上がいる。(情緒的な物語にしない工夫。相手を選ぶ基準1)これまでもこれからもそれでやってきた(いく)のだろうから年齢は関係ないのだけど特になんの知識もないのに弱者(子ども、女性、障害や病気を抱えた人など)を利用するのはどうなんだろう。このくらいの歳になればそんなことくらいわからないでしょうか、と思うけどわからないからそうなってるんだよ、と言われればそうだねえ。まあ本人に「そんなつもりはない」のならいいのかもしれないというか仕方ない、のか?でも自分が受け入れられない他人には容赦なく戦いの言葉をぶつける人が不特定多数の集団には「オープン!みんなウェルカム」みたいな態度とるのはなー(こちらをみなければ全てがみえる。葛藤の芽をつむ)。そういうのを見ると「あーいつもの。お得意の。」(設計パターンとして把握)となるけど慣れるのもよくない気がする(力動的理解は常に新たな軌道を示す)。誰か(弱者)を「排除」した結果できたスペースを「あれは排除ではない。別の人のためのスペースを作ったんだ」と言う感じで「次」でどんどん埋めていくあり方ってみんなも知っていると思う(ここでも部分を全体に回収して対立を回避)ある意味信仰(一神教的排他性、子孫度外視)の対象となるのに成功した「豊かで親切な」人(自分が人に恵まれているがゆえに)なのかもしれない。自分が超自我になってしまえば(そういう幻想を持てれば)罪悪感に苛まれる必要もないし、そうなるとつまりストップもかからない。「え?悪いのは自分じゃないでしょう、それ決めるの自分だから」って(心的な死という次元の死)ワイドショーとかで人気の当事者の現場に土足で踏み込み叩かれるとすぐに怒って「わからないおまえらがバカ」と言わんばかりに自説を言い募るなんとかさんと同じだなと思うけど本人は「真逆だ」と思っているはずで確かに表面上はもう一定数の高評価を得ているのでこんなこという方がきっとバカだし、またひどいこと言われちゃうから我慢。すでになかったこといなかったことにされてる場合、伝える機会もないけど。排除というのはコミュニケーションを断つことだから。で、誠実に話し合うなんてそもそもできないからいつまでも茶化したりふざけたり。はあ。妻(夫)にそうされるって口とんがらせていたくせにやってるの自分じゃん、とね、言いたかった(相手を選ぶ自分側の基準2=いつでも捨てられる)。そういう機会も奪われてしまったのだけど。人の言葉も時間も睡眠も奪える万能的な力を「それは魔力だよ」と退けるのが精神分析でいう去勢かも(知性化の無力)通じにくい概念になっているのはフェミニズムとの関連だけでなく無意識の領域に人が耐えられなくなっているからでしょう(まさに知らんけど)なんでも持ってる方が偉い、と。ペニスでもなんでもいい、と(身体のもの化。怖いのは去勢よりも何かをもっていないことで追放されること)そうですか・・・。そうでしょうか?こんなことも前ならいくらでも話せたのに、どうして?あ。(そうでもなかっただろうという現実検討)この無限ループ。よくない。(物語作りの失敗)また明日。すぐにきてしまうけれど。

この本について書こうと思っていたのにまた今度。精神分析に関心のあるサイコセラピストが読む哲学入門として一番おすすめかも。「私」についてとても丁寧に掘り下げられているので精神分析においてもあまりに使われ方の多様な「自己」について考えるのにもとてもいいと思う。

「問い」から始まる哲学入門 景山洋平(2021,光文社新書)

カテゴリー
精神分析、本

下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』を読み始めたり。

「疲れた」という感覚がよくわからなくなってるな、と思いながら早朝のコーヒー。今日もちょっといいドリップコーヒー。理由は思い当たる。いつかどっと出たら嫌だなと思うけど「いつか」のこと考えてもね、とすぐに思う。

自分は神話の世界の誰かみたいにおぞましくも悲しくて愚かな生き物なんだ、それから逃げ出したのは誰?私のせい?それとも自分自身を私に投影したせい?あなたと私は違う、ただそれだけのことをどうして愛せなかったのか、どうしてあんなに無理をしてまで愛そうとしてしまったのか、死にたい気持ちを眠るふりしてごまかしてしかたないしかたないと毎日を過ごす。一方でなかったことにしないためにおそろしく冷静に分析を繰り返す。痛みの上書きと別の観点の発見とそれでも問い続けるべきことの確認、行動するならミニマムに効果的にという原則を忘れないこと。お互いこれまでの繰り返しとして傷つくのではこのしんどい作業には意味がないから。

さて、最近「心とはなにか?」という問いをめぐる本がまたでていた。新しい本と知らずたまたま見つけた(新しいから見つかったのか)下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)。著者のお名前が爽やか。文章もあまり考えずに読む分にはサラサラと読める、というか私は哲学に詳しいわけではないから素直に物語的に読めるだけかもしれないけど負担の少ない文章と感じる。どうせ答えのないことを考えるなら軽やかな方がという気分でもある。序章でこの本でやりたいことの説明がされて本編というのかな、第一部は「心のなかった時代」としてホメロスからはじまる。メタファーと概念と存在の関係を心と身体の関係と共に考えていく仕方も流暢で先日の妙木先生の講義のよう。哲学の本は私の現場とは遠いので悪意や憎しみを向けられることでほぼ死んでしまった部分を知的に手当てしてくれるところがある。自分の歴史の紡ぎ方に新しい風が拭いてくれますように。もう毎日願うばかりだな。引用されている文章を引用したいけどそれってなんか野暮な気がするからしない。

散歩日記(新百合ヶ丘ー若葉台間)を書こうと思ったのに関係ないことで時間になってしまった。写真だけ載せておこう。句会のお題で出たときにはまったく身近でなかった烏瓜がすっかり身近になったお散歩でした。

カテゴリー
精神分析、本

精神分析基礎講座関連メモ

電子レンジが壊れたのでトースター生活。朝はパン♪のつもりでいつものコーヒーより少しいいドリップコーヒーにしてみてるけどいつもお菓子が豊富にあるので大体朝はそれらとコーヒー。空がきれい。

先日、月一回の対象関係論勉強会(精神分析基礎講座)で午前に岡野憲一郎先生がサリヴァンとコフートを、午後に妙木浩之先生がエリクソンを中心とした米国自我心理学の流れをお話しくださった。以前、この講義を聞いてから考えようと曖昧に放っておいた米国精神分析の流れが非常によくわかった。そういえば、とすごく久しぶりに岡野憲一郎先生のブログをみてみたら講義当日もそれまで通り脳科学関連のことを書いていらした。岡野先生とはじめて個人的に言葉を交わしてから20年近く経つが当時から私は「先生の得意分野は脳科学」といっていたからずっと精神分析と脳科学の知見を関連づけた論考や本を出し続けているわけで、その下書きのような感じでブログもずーっと書いておられる。私のこんな徒然日記とは違って読めば学べる毎日更新の教科書みたいな水準をきっとサラサラと。今回の講義はサリヴァンの理論にあまり踏み込まなかったので基礎を満遍なく学びたい受講生には物足りなかったかもしれないがサリヴァンの特異性は知っておくべきことと思うので詳しく教えていただけて良かったのではないだろうか。中井久夫のように著名な先生が訳したからサリヴァンもメジャーというわけではなく、ある意味彼はマイノリティを生き抜き自分が何度かの大きな危機を生き延びた体験をそのまま理論に生かし、独自の実践機関を立ち上げてきた。中井先生もそういうところおありだけど。統合失調症が持つ「希望」の部分もしっかり理解するにはサリヴァンの治療論は必読な気がする。

そしてこの講義まで曖昧にしておいた米国精神分析の歴史については妙木浩之先生の講義が素晴らしかった。妙木先生の資料サイトはこちら小此木啓吾先生みたいだった。東京国際大学で亡くなった小此木先生の研究室も引き継いだのは妙木先生だものね。小此木先生はアンナ・フロイトやいろんな著名な精神分析家と実際に会話した体験なども交えて世界中の精神分析家の人となりや立ち位置や理論をいろんな視点から教えてくださるものすごい先生だったけど(講義の時は野球をよく聞いていらしたけど)妙木先生は視覚教材を使うのもすごくうまい(岡野先生も)から受講生も情報量に圧倒されながらも混乱はしなかったのではないか。私はかなり整理されたが調べねばということも増えてしまった。エリクソンを中心にした米国の社会保障と貧困の側面からみた精神分析家の移動についての話は興味深かった。ビッグデータ分析については同じく米国の話ということで以前教えてもらった『誰もが嘘をついている〜ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』(セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ著、酒井泰介訳)も参照した。この本、第2章は「夢判断は正しいか?」だし軽妙な語り口に振り回されながら「データやばい、というか人間やばい」ということを忘れないために読むにはとってもいい本だと思う。

それはともかくエリクソンの発達段階、ライフサイクルの考え方だけではなく、彼が受けた差別や精神分析家としての歴史を見直すことは大切だと思った。先日インドの精神分析の大きな流れにエリクソニアンがいることをインドの精神分析家に教えてもらったがエリクソンが書いた『ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起源』(みすず書房)は関係あるのかと妙木先生に伺ってみた。それはわからないということだった。最近、インドのジェンダーとセクシュアリティに関することを調べていて地域差がものすごいと感じていたが技法にエリクソンの相互作用モデルが最も適切な地域というのはあるのかもしれない。また、高校生の時に好きで集めていたノーマン・ロックウェルがエリクソンやロバート・ナイト(ブレンマンが書いているロバート・ナイトの説明はこちら)、マーガレット・ブレンマン(最初の女性分析家,インタビュー動画はこちら)のポートレートを描いていたことを知れたのも嬉しかった。エリクソンとロックウェルの関係についてTwitterに載せたのとは違う記事はこちら

日本の精神分析はどうなっていくかな。サリヴァンやエリクソンのようにフロイトとは根っこのつながりをあまり持たない独自の方向へ進んでいくのか、それができるだけの強力なパーソナリティと人間関係と機動力と資本を持つ人が現れるのか、それとも地道に忠実にオーソドックスな方法を目の前の患者に合わせて丁寧にカスタマイズしながらやっていくのか、いろんな可能性があるだろう。私は後者だけで精一杯。寒くて辛いけどなんとかやっていこう。みんなもなんとかね。またね。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ジェンダー関連メモと映画メモ

「退行的な胎内への回帰幻想=母幻想におぼれそれにしがみつく者と、母子の間にすら存在する自我と他我の相克を凝視する者とでは、どちらが子どもに対し、また人間に対し、本当の愛情と理解を持っているといえるだろうか。」

ー『増補 女性解放という思想』(ちくま学芸文庫)江原由美子著

「中絶」や「子殺し」の問題に取り組んだリブ運動に関する論文から引用。愛情ってなんでしょう。

この論文はこちら(2022)にも所収→『リーディングス アジアの家族と親密圏第3巻 セクシュアリティとジェンダー』 p383「第19章 女にとって産むこと産まぬこと」

先日、インドの女性の精神分析家の話を受けて、同じくリーディングス アジアの家族と親密圏第3巻 セクシュアリティとジェンダー』の「第12章「男性の概念」とは何か。ー名誉殺人における「名誉」」を引用しながら議論。手紙書かなくては。

彼らにとって「名誉の損失」が、苦痛を構成するほどのものだとされれば、それは暗に「正当化されうる動機」となるのである。言い換えれば、もしある女性の人格が「邪悪」あるいは「ふしだら」とみなされれば、男性は理由なく彼女を殺すことができる。上記の理由づけは、例外なくすべての人の生存権と平等権を認めるインド憲法に反している。❨246-247❩

増加する暴力に対する一つの可能な解決策であったはずのカースト間結婚の社会的受容への道筋は、欲望、道徳、名誉のイデオロギーの中に失われてしまったのである。

女性は名誉の貯蔵庫であり、男性はその管理人なのである。❨248❩

先日「名誉毀損」という言葉を法の文脈で使ったけど使いながら「名誉って」となった。まずはいつもこんな気持ち。もしジェンダーに関する困難や問題を構造の問題として考えるなら個人的な人間関係はひとまず棚上げして同じ困難を抱えるものという「共感」から始めてはどうかしら。

映画「ケイコ 目を澄ませて」をみた。最近はなかなかない音と光がツルッとしてなくてリアルで岸井ゆきのはやっぱりとてもよかった。このことから書こうと思ったのにメモから書いてしまった。そんなこともある。大体そんなかな。良い一日を。

カテゴリー
精神分析、本

超省エネの日々(行動とか構造とか選択とか)

おはよー。ダラダラした気持ちでやらねばらならないことに使う部分だけ動かしている。超省エネの日々。元々ダラダラ人間だけど、と言いたくなるのって村田沙耶香『コンビニ人間』のBBCバージョンを聞いてるからだね。何かを形にし続けなければいけない人は省エネが苦手な人が多いように思う。「評価なんて」と言いつつ自分が自分に対して一番厳しいことに気づいていなかったりする。ナルシシズムといえばそうだけどそういったところで多かれ少なかれ誰にでもある部分だしね。ただそうなると自分の不全感や苛立ちを身近な人にぶつけたり、その罪悪感をどうにかするために別の誰かをお世話したり、いい部分だけ見てくれる人に愛してもらったり・・。人間って常に自分の欲望を巡って他人に何かしている感じがありますね。だから日々の生活を過ごしながら、週何回もカウチの上で一定時間自分の中の対象を相手にし続ける精神分析は有効(雑な結びつけ)。私はどんなにダメージを受けているときでも精神分析のことだけは考えていられるのだけどその程度には身についてるのかね。だから鏡見ながら自分を解剖するみたいに「あー、これか、いたたっ」となってる。痛くて辛くて苦しくて目背けたり暴れそうになってもどこか冷静に動く部分が保たれている。それでも多分行動したらまずいことが起きるだろうとも思う。相手あることは推測を常に超えてズレがすごいし、大抵はそういうズレに耐えられない。悪いことに最初から非対称な関係だと「対話」どころか圧力で隙間なくして従わせるほうに行きがち。大きい声で言われたりするだけでもそうなる。内容のことだけではない。自分のことだってわからないのに相手のことなんてそう簡単にわかるはずないだろう、と思うけど「知る」という方向にいかない。で、拗れて法的な問題にせざるを得なくなったりする場合もある。そうなると省エネとかいってられないし、そうしかできないから省エネと言ってる可能性もあるとしても慣れないことに頭も体力も時間も使わなくちゃいけなくなって本当に大変なことになる。だからそうならないように、あるいは自分からしてしまわないように自分を相手に観察を続け自分と対話し続ける場所って大事。自分に対して慎重になれる。パフォーマンスは悪くなるけど結果的に現実の複数の対象を守ったりもする。愛憎がスプリットしてしまう行動は避けたいでしょう、誰だって本来は。耐えられないからそうなりがちだけど。

upしないまま仕事してしまった。最近やったと思ってできていないことが多い。この前もさー、というのはさておき、心と法の関係はそれこそ超自我とかいう心の水準と行動の水準では全く異なるので判断や選択は簡単じゃないはずなんだけど今ってすごくお気軽にされるから怖いなあと思う。「晒せばいい」とかいう心性とか。自分が晒される可能性に関してはどう思ってるのかなと不思議に思う。そういうことを言える人の中にはすごい物知りで味方も多い人もいるわけだけどそういう人は「勝てる!」って感じなのかな。人間関係は戦いではないけど(これ書くの何度目だろう)。女性が弱いわけだ。こういう構造からは逃れられない歴史があるものね。そんななか女一人で戦うリスクをとることの大変さときたら。彼女たちがそれにかけた時間とエネルギーを思うといたたまれない。でもそんなこと言ってないで彼らが戦ってよかったと思えて再び似たような負担を経験しないですむように、もう彼女たちが孤独を体験しなくてすむように女も男も協力していくことなんだろうけど今日もまた別の被害者が出て立ち上がれる人は立ち上がってみんなひとりで泣いてという現実を想像するのもたやすい。こういう個人のものすごい負担を通じて少しずつ変化してきたのが現在でこれからもこうやって進むしかないのかな。戦いたくなどない。戦うなら賢く。賢くない場合はどうしたら?職種や組織に守られていない場合は?黙ってるしかないのかな。女性がはまりこんでいる構造について普段づかいで考えられる本として脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書)はいいかも。そういう背景にある構造を忘れて個人的なこととして処理されそうなときに読むと軌道修正してくれるかもしれない。歴史上の女性たちのエピソードも面白いから読みやすいし。法律では大抵はそれが公にされることで不都合を被る方に選択権があるはずなんだけどそれも危うい。日常でも「選択の問題なんだから好き好きでいいんじゃない?」という人もあるけど「選択」って高度に知的な行為だと思うから結局守られないことの方が多いと思ってる。やっぱり強者と弱者にわかれてしまうというか。あーなんか省エネで書いていると話が飛ぶというか具体例書くエネルギーがないからすっ飛ばしちゃってる。頭の中で色々やってないで地道になんとかしましょう。今日は鳥さんをとりにいきましょう。あとでインスタに載せましょう。鳥はかわいいです。

カテゴリー
精神分析、本

「ヒステリー研究」を読んだ。

フロイト全集2』(岩波書店)に収められた『ヒステリー研究』はやはり何度読んでも面白い。暫定報告の後、有名なアンナ・Oの「観察1」、病歴AからDへと続くが、GWでは通し番号らしいのでSEがなぜアンナ・Oだけ「観察」と分けたかは謎。今回の読書会では「病歴A エミー・フォン・N夫人」を読んだ。1889年、まだ33歳のフロイトが「催眠下で探求するというブロイアーのやり方(多分カタルシス法)」を用いてみたこの治療の経過報告はかなり詳細でヒステリーと呼ばれた患者の表情や姿勢、仕草まで描写が非常に細やかな描写がされている。ほぼ毎日朝夕の1日2回、サナトリウムに会いにいっていたらしいフロイトと患者のやりとりも私たちが現在症例報告で聞く内容よりもずっとvividで詳細。なので後年、患者の娘が母の治療に関してフロイトに向けた非難にも、それに対して誠実に謝罪と説明を行うフロイトにも共感できる。何が生じていたのかが推測できるから。もちろん治療上の失敗はあってはならないが何が「失敗」となるかはまだその時にはわからない、というのは日常生活における人間関係でも同じだろう。私たちのグループはすでに通しでフロイトを読んでからここに戻ってきているがいずれ書かれる『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)に収められた論文の源としてもこの症例報告は大変貴重で読み直す価値があるだろう。

それにしても私たちが向けている相手への関心というのは特殊なんだなとつくづく思う。SNSで上手に誰かを揶揄し、上手に愚痴って少し離れた場所から中途半端な(ほどよいといえばいいのか?)「ケア」を求めるようなあり方が一般的な今となっては精神分析なんて不要と思われても仕方ない。が、しかし、これによって生きる希望を見出している人も少なからずいることは国際的にこの学問が生き残っている(IPAのサイト参照)ことからも嘘ではないとわかってもらえるだろう。国内ではIPAの精神分析家はこれしかいない(日本精神分析協会のサイト参照)けど日本でも女性の精神分析家が増えてきた。フロイトの症例が示すように「上手に」いろんなことができない人(そんなことしたいともそんなものほしいとも本当は思っていないであろう人)たちが精神分析そのものではなくても精神分析の知見を生かした心理療法を受けにこられてなんとか日々を過ごしているのも本当。

先日、身内が精神病院に入院しているという英語圏の方がお喋りのなかで以前よりはずっとましだけど病気の人に対して社会は優しくないよねというようなことをおっしゃっていた。本当にそうだと思う。障害に対してもそうだ。これだけASDという言葉が一般的になったのに私が長く時間を共にした重度の自閉症の方たちはどこへ?とよく思う。大声をあげたり突発的な動きも多い彼らと一緒に電車に乗っているときの周りの見えていないかのような視線もたまに思い出す。見ないものは見えないもの、見たくないものは見えないもの、というのも今やデフォルトだったりして、と割と身近なところでも思ったりする。どういう風に訴えていけばいいのかな。くだらないと思いつつ小さな戦いは続けていくけど。

『ヒステリー研究』のエミーの症例では患者が精神科病院における治療に対する不安や恐怖を訴える場面がある(74頁)。この問題はいまだに継続しているがフロイトが医者としてこの話に防衛的になることはなく中立的だ。こういうフロイトの姿は別の論文でもみられる。しかしここで重要なのは精神科病院が抱える問題それ自体ではなく、フロイトがこの話を患者から自分への怒りとして聞き取り内省したところだろう。フロイトはこの場面で自分の聞き方が彼女の話を中断させていたことに気づく。そして「こんなやり方では何も得られていない、あらゆる点に関して最後まで彼女の話を傾聴することなしに済ませるわけにはいかないのだ、ということに私は気づく。」と書いている。フロイトは失敗しては気づき、また失敗し、を繰り返す。私たち臨床家は皆そうだろう。それを「失敗」と呼ぶことに躊躇があったとしてもそれを「失敗」と認識することはやはり重要であり患者に対する関わりを硬直化させるわけにはいかない。

さて、今日も一日。たとえ優しくない世界でもいいことあるといいですね。とりあえずいいお天気。暖かくしてお過ごしください。

カテゴリー
精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

カテゴリー
精神分析、本

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』を読んでいた。

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(藤本一勇訳、法政大学出版局)を読み始めた、というかほぼ読んだ。文庫より少し大きいB6型判、講演のための発表原稿だがその内容ゆえに当日はこの4分の1しか読むことができなかっただそうだ。著者はインターネット上にすでにいい加減な形で拡散されている講演の断片ではなく、全体を分かち合うために本書を書いたという。それでもとてもコンパクトな本だ。9月に同じ訳者、同じ出版社から出た『カウンターセックス宣言』と併せて読むのもよいかもしれない。

まず、扉の謝辞に目が留まった。感謝を捧げられているのはヴィルジニー・デパント。『キングコング・セオリー』(柏書房)が話題になった著者だ。プレシアドとの関係は訳注に書いてある。

この本は「フランスの<フロイトの大義>学派を前にした、一人のトランス男性のノンバイナリーな身体による講演」の記録であり、ジュディス・バトラーに捧げられた一冊でもある。

2019年<フロイトの大義>学派、つまりラカン派が開催した「精神分析における女性たち」をテーマにした国際大会で行われたこの講演、聴衆は3500人、ラカン派に属する臨床医や大学人が対象だったようだ。日本の精神分析学会のような感じか。

著者は哲学者でありトランス・クィアの活動家だという。

「精神分析がそれを用いて仕事をしている性差の体制は、自然でもなければ象徴的な秩序でもなく、身体に関する一つの政治的認識論であり、そうしたものとして歴史的なものであり、変化するものだということです」(53頁)

「訳者あとがき」で書かれているように著者が「フロイトやラカンの精神分析理論をかなり単純化しているきらいは否めない」が、精神分析における「性差のパラダイムと家父長制的ー植民地主義的な体制とが振るう認識論的な暴力」(95頁)はこれまでもこれからもずっと批判の対象になるべきテーマであり、以前も書いたようにそこに最初に鋭く切り込んだのは「女性」分析家たちだった。とはいえ精神分析の訓練を受け、実践をし、その内部にいる私たちがこの講演の実際の聴衆のように居心地の悪さを感じた、感じない、その内容に賛成、反対とか、あるいは自分は女だから、男だからとかいう水準で反応したらそれこそ変わる気のない精神分析ということになるだろう。私たちが著者の戦略的かつ勇気ある提案に応答するためには患者との臨床体験をもとに慎重に言葉を使用していく必要がある。精神分析は個別の欲望のあり方に注意を向ける独特の学問であり実践である。「〜すべき」が外側からではなく自分の尊厳と関連づけたところで語られ実践されるように支援していく、その姿勢は分析家個人にも向けられるべきであり、たやすく手離せないものや言葉があるのならそれは何か、何故か、と考え続けることが大切なのだろう。

今は何かが普遍的になる時代ではない。どうなるかわからない、そういう時代だ。いや今がというわけではないか。ナチスの侵攻による大量の精神分析家の亡命によって協力せざるをえなくなった主にアメリカ、イギリスの精神分析家たち、それによって大論争もまきおこり、精神分析における政治的な状況も変化した。フロイトだってまさか姉たちをガス室で殺され、自分がロンドンで死ぬとは思っていなかっただろう。

予言の書という言葉を聞くが内容は知らない。まさかこんなことになるとは。夢にも思っていなかった。これからもそんなことの連続だということだけは予言できるかもしれない。一貫した思考など、一貫したあり方など、と私は思う。変化を厭わないがそれに伴う揺れやぶれに持ち堪えるのは苦しい。でもだから一緒にいる。自分を思うことが相手を思うことと離れすぎてしまいませんように。今日もそんなことを願いつつ。

カテゴリー
精神分析、本

昨日はウィニコットフォーラムだった

関西の友人から羨ましい写真が送られてきた。え、東京にきてるの?と一瞬思ったけど違う、東京の友人が向こうへ行ってるのだ。女性の精神分析家が書いたフェミニズム関連の論文を女が読むonlineの会の友達(その後延々おしゃべりもする)。そしてなぜ東京の彼女は向こうへ?そうか、ウィニコットフォーラムがあったのか。私は週末も仕事をしているので精神分析学会以外は役割がないかぎり参加していないけれどいけばよかった。ウィニコットフォーラムも去年はオンラインだったもんね。現地開催、よかったよかった。あ、そうだ。『ピグル』(金剛出版)の読書会の記録もしておかねば。

それにしてもこれは完全に羨ましがらせる写真ではないか。いいなーいいなー(と送った)。でもよかった。個別には会えていてもなかなかみんなで会えなかったものね。素敵なお知らせも聞けた。少しずつ別の場所へ。励まされる。

今朝はぼんやり植物と進化のことを考えていた。今日は雨か。あの木々や花々や実たちはどんな風に過ごしているのだろう。あまりに多様なあり方には出会うたび驚くばかり。小石川植物園にはニュートンの生家にあった木の枝を接木した「ニュートンのリンゴ」、メンデルの実験室から分株してきた「メンデルのブドウ」がある。私はそのメンデルの法則にはそぐわない食虫植物をはじめて出会ったときから愛している。植物が昆虫を食べるだと?神への冒涜では?と言った人がいたとかいないとか。ダーウィンがone of the most wonderful [plants]in the worldといったのはハエトリソウ Flytrapという食虫植物。個人的にはマイナーな異端児同士、ひっそり仲良くしていきたい。

フロイトもウィニコットも愛したダーウィン。ウィニコットは高校時代にはまったという。ウィニコットがダーウィンにどう影響を受けたかはいろんな人が触れていたと思うのでそのうちまとめたい(気持ちだけは)。

関連して思い出したが、学会のセミナーで私はウィニコットを引用した先生にその先も引用する必要を言ってみた。

ウィニコットは書いた。

引用はA Primary State of Being: Pre-Primitive Stages from Volume 11 of The Collected Works covers The Piggle (1971) and Human Nature (1988)、邦訳は『人間の本性 ウィニコットの講義録』(2004、誠信書房)から「第5章 存在の原初的状態:前原始的段階」。

「個々の人間存在は無機的なものから現れた有機的なものであるが、時がくれば無機的な状態に戻るものだ」

Each individual human being emerges as organic matter out of inorganic matter, and in due time returns to the inorganic state.

私はこの文章には続きがあると言ってみた。

ウィニコットは括弧付きの文章を続けた。

「(しかしながら、これも本当は正しくない。なぜならば、人間は卵から発達するのであるが、その卵には、何十億年も前に無機物から有機物が生じたとき以来受精してきた先祖のすべての卵以来、現在に至るまでの経緯があるからである)」

(Even this is not true altogether since the individual develops from the ovum which has a prehistory in all the ancestral ova fertilised since the original emergence of organic matter from inorganic several million million years ago)

私はここには親から子へと連綿と受け継がれてきた歴史があり、決して無機的な状態に戻ることはないということも同時に言っていると思うので、とウィニコットのパラドキシカルな書き方と併せて話した。

・・・ここまで書いて寝ていた。まずい。もう行かねば。みなさんも雨の道をどうぞお気をつけて。午後は晴れるって聞きました。でも寒いから体調にもくれぐれもお気をつけて。今週もなんとか過ごしましょう。

カテゴリー
精神分析、本

ぼんやり。ハンナ先生の講義関連も少し。

道路が雨に濡れている気がした。音で。南側の大きな窓から空をみようと思ったのにお湯を沸かして戻ってきてしまった。こういうことはすぐに忘れてしまうのだから耐え難いやりとりも早く忘れてほしい。iphoneで天気をみた。☀️マーク。お湯沸いたかな。コーヒー。今朝はお菓子が豊富にあるけどどうしようかな。ここ数日果物を切らしてしまっている。何がほしかったのか帰ってきてから気づくのだ。ぼんやりしすぎている。悲しい。

あーメモ帳をばら撒いてしまった。どうせ見返さないのだから捨てておけばよかった。拾うときに見返すか。そのために落ちたのか。

先日、英国精神分析協会 Fellow、Brent Centre for young peopleのMs. Hannah Solemani先生のレクチャーを受けた。ハイブリッドで現地参加は二人だけだったので直接お話できた。Brentセンターは個人がチャリティーによって立ち上げたのに今は政府の助成金も受けながら無料で子どもの心理療法を行ったり、セラピストを学校に派遣したりしているらしい。ロンドン北西部という比較的貧しい地域の子どもたちのために立ち上げたといっていた気がする。どうやってそういう良い循環を作り出しのだろう。

Hannah先生は素敵な人でhusbandといらしていた。海外からこられる先生はパートナーが同席していることが多い。専門が異なるのにじっと話を聞いている。今回はBrent Centreについての補足をHannah先生にそっとメモで渡しgood pointというようなことを言われていた。とても静かでスマートな佇まいだった。

以前、同性愛者の精神分析についてどこの国からか忘れてしまったが分析家の先生がいらしたときにその原稿の翻訳を担当したことがあった。論文を読んでいるときには特に何も思わなかったが当日先生がパートナーである同性の方と親密そうに話しているのをみて論文の重みは増した。精神分析は性、つまりカップルについて考えることなので当然か。

内容は思春期の精神分析についてだった。久しぶりにこの領域の知見に触れた気がした。私も思春期の患者と長く仕事をしているが改めて学ぶとこの時期の特殊さに驚かされる。投影同一化のバリエーションについて意見した。忘れずに考え続けられたらいいと思う。

と書いてみたが頭がひどくぼんやりしている。そういえばさっき洗濯が終わった音楽が聞こえたかもしれない。今日もみたくないものをみては差し込まれるような痛みにじっと耐えながら過ごすのだろう。もちろんそんなことばかりでもないだろう。

みなさんもどうぞご無事で。昨日は立冬でしたよ。暖かくしてお過ごしくださいね。

ちなみにハンナ先生おすすめの本はこちら。

Inside Lives 

Psychoanalysis and the Growth of the Personality

By Margot Waddell

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

11月2日朝、追記はオグデンのウィニコット読解

朝、起きたての息って音が独特。うーんと唸りながら大きく長く伸びをした。精神分析は週4日以上カウチに横になって自由連想をするのだけどカウチでの息遣いは横になった瞬間や寝入るまであとは朝のそれに近い気がする。こんなことを意識するのはこの技法くらいか。

そうだ、『フロイト技法論集』は引き続きおしていきたい。というか精神分析を基盤とするどんな技法を試すのであれフロイトの主要論文は共有されていないとお話にならない。

暖房、今日は足元のファンヒーターのみ。これそろそろ危ないのではないか、というくらいの年数使ってるけど危なげない音を立てて順調に温かい風を送ってくれる。なんて優秀。気持ちがどうしようもなくても寒いのはどうにかしたい。そんなときしがみつかせてくれる。が、そうすると熱すぎるし危険。人を癒すって大変だ。いつからかそういうものを求めなくなくなったというか普通に癒されてしまうことが増えたのかな。毎日、大変な状況、ひどい気持ちを抱えてくる人たちの話を聞き、たまに私も何か言いながらふと笑い合うこともしょっちゅう。それは一般的な癒しとは違うのかもしれないけどなんか心持ちが変わる瞬間ではある。もちろんそんなに持続するものではないし、1セッションの間にも揺れ続けるわけでそれを継続することでいつの間にかそれまでとは異なる感触に気づいて驚くわけだけど。時間をかけて。そうなの。時間かかるけどというか時間かけましょうね。自分のことだから、自分のことは周りと繋がっているから。辛くて辛くて本当に辛いけど大切にしよう。

今日は移動時間が隙間時間。何読みましょうか。國分功一郎さんの『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)って買いましたか?すごい熱量ですよ、最初から。ライプニッツから。続き読もうかな。でもオグデンの最新刊も今度は訳しながら読みたいしな。ま、電車での気分で。

みんな朝ごはんは食べるのかな。私はお菓子と果物とコーヒーばかり。子どもの頃は朝ごはん食べないと叱られるでしょ。実際朝ごはん食べてきてない子どもって午前中の体力が持たないんですよね。みんなが食べられる状況にあるとよいのだけど。私なんか省エネに次ぐ省エネだけど子どもにはそれも難しい。しなくてもいいことだし。今日もがんばりましょうね、なにかしらを。

追記

結局オグデンを訳しているのでメモ。

2021年12月にThe New Library of Psychoanalysisのシリーズからでたオグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”

私が訳しながらと言っているのはウィニコットの1963、1967年の主要論文2本を読解しているチャプター。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

オグデンがウィニコットの言葉の使い方ひとつひとつに注意を払いながら読むと同時に自分の言葉の使い方にも注意を払いながら書く仕方はあまりに緻密で読むのも大変だけど読解をこんな風にしていくことこそ精神分析の仕事でもあるし大変でも楽しい。

たとえばここ。Kindleだからページ数よくわからないけど2章の袋小路コミュニケーションの前。

The idea of communicating “simply by going on being” may represent the earliest, least differentiated state of being that the infant experiences, and that experience may lie at the core of the non-communicating, isolate self. (I twice use the word may because these are my extensions of Winnicott’s thinking.)

精神分析学会の教育研修セミナーでビオンとウィニコットの再読を続ける先生方と行った「知りえない領域について―ビオンとウィニコットの交差―」で取り上げた論点でもある場所。オグデンもこだわってる。ちなみにここで吟味されているウィニコットの論文は新訳、完訳ver.がでた『成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社

カテゴリー
精神分析、本

『個性という幻想』『実践力動フォーミュレーション』

ツイートもしたが自分のための備忘録。精神分析関連の本。

12月の精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)は岡野憲一郎先生による「サリヴァンとコフートと自己心理学の流れ」の講義。私は司会を務めるので2022年10月に出たばかりのサリヴァンの本を読んでいる。KIPP主催のサリヴァンフォーラムに申し込むのをすっかり忘れていたが出席された方に聞くとサリヴァン(Sullivan,H. S 1892―1949)のオリジナリティはもとより阿部先生が大変個性的でとても面白い会だったそうだ。サリヴァンの翻訳といえば中井久夫先生のイメージが強いが、阿部先生が今回訳出された日本語版オリジナルの論集は個人の病理を実社会に位置付けるサリヴァンの主張の源泉を感じさせてくれるものだと思う。各論考の冒頭にある《訳者ノート》が大変ありがたい。

個性という幻想』(講談社学術文庫)
著: ハリー・スタック・サリヴァン
編・訳: 阿部 大樹

「本書は初出出典に基づいて新しく訳出した日本語版オリジナルの論集である。ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、 その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、 そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。」(14頁)

ちなみにこの本に収録された12編のうち11編は、日本で唯一未訳の著書“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences”(1964) にも収められている、とのこと。

“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences” は1934年から1949年に亡くなるまでのサリヴァンの社会科学に関する17の論文を集めた著作らしい。題名からすれば精神医学と社会科学の融合となる。

サリヴァンは当時、米国精神分析の中心だった自我心理学に対してインターパーソナル理論を用いた精神分析をトンプソン Thompson,C.らと模索した。これがその後1960年代からのシェイファーらによる自我心理学内部からの批判とどのように連動したのか忘れてしまったかいまだ知らないでいるが、自我心理学に対する批判がその後の米国精神分析の多様化を導き、関係論の基盤となった。この辺は岡野先生のご講義で確認してから書いたほうがよさそう。書いてみるとなんだか曖昧。

次は、筆者の皆さんからということで編集者さんから送っていただいた実践の本。感謝。

実践力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト法』 (岩崎学術出版社)

「事例から学ぶ連想テキスト法」の実践の記録。

第1章で土居健郎 『方法としての面接 臨床家のために』 (医学書院)に立ち戻らせる妙木浩之先生のさりげなさ。わかるわからないの議論をはじめ、「見立て」とは何か、ということを考えるときに土居先生のこの本は必須なのだ。

そして妙木先生考案の「連想テキスト法」とは、「事例概要を構成するナラティブ(物語)を一度分解し、さらに再構築するための方法」であり、フロイト『夢解釈』、ノーベル経済学賞受賞の心理学者ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の合わせ技として説明。「三角測量による客観性も、また同時参照によるリフレクションも働かない」よくあるスーパーヴィジョンの形式ではなくそれらを可能にする方法として考案された「連想テキスト法」はグループでの事例検討会に最適であり、私も妙木先生のフォーミュレーションのグループの初期メンバーとしてこの意義は確信して自分のグループの基盤にしている。

実践編に入る前の妙木先生の説明(1章)はもちろん必読だが、理論がないところにフォーミュレーションは成り立たないので基礎として知っておかねばならない精神分析的発達論のまとめ(3章)も役に立つ。実践編では主要な病理毎に一事例取り上げられ、その連想テキストが提示されその結果どのようなアセスメント/フォーミュレーションがなされたかが記述される。「ヒステリー」 の症例が取り上げられている(5章)のは力動的心理療法の歴史を考えれば当然だが価値がある。基礎を押さえつつ書くためのモデルとして手元に一冊置いておきたい。

カテゴリー
精神分析、本

TAILPIECE

なんともいえない空の色。前の家の屋上が濡れている。昨晩は雨降ったっけ?帰宅したときは降っていなかったような気がするけどうろ覚え。傘も持っていなかったと思うのだけど。うろ覚え。

いろんなことがぼんやりしていく。あんなにいつも心を占めていたものも曖昧に解体されていくよう。軽い頭痛と眠気。このくらいならちょうどいい。はちみつ紅茶で身体が熱くなってきた。身体が上手に狂気を捌いてくれてるのかしら。

この前もここで引用したのだけど小児科医で精神分析家のウィニコット(1896-1971)の本に『遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)というのがあって、原著Plaing and Reality(1971)と一緒に読むのが常。本の最後はTAILPIECEで閉じられる。なんか素敵な単語と思って日本語を見ると「終わりに」と訳されていた。オンラインの辞書で調べると「書物の章末・巻末の)装飾図案」とか。これ素敵と画像で調べると面白い装飾がたくさん出てきた。weblioで調べると「尾片、尾部(の付属物)、(弦楽器の)緒(お)止め板、(書物の)末章余白のカット」とある。画像だとギターの弦を止める部分がたくさん出てくる。書物だと単なる「終わりに」ではなさそう。ちょっと余ったから何か書いたよ、みたいな感じかな。他の本はどうなっていたっけ。オックスフォードのThe Collected Works of D. W. Winnicottではどうなっているのかな。後で見てみよう。多分、ウィニコットとtaleという単語が響き合うからなおさら気になったんだと思う。

TAILPIECE(後半のみ引用)

This conception-perception gap provides rich material for study. I postulate an essential paradox, one that we must accept and that is not for resolution. This paradox, which is central to the concept, needs to be allowed and allowed for over a period of time in the care of each baby.

これはウィニコットの生前に編纂されたものとしては最後の論文集となる一冊。TAILPIECEはウィニコット理論のまとめみたいな文章なんだけどThis conception-perception gap とか音もいい。ウィニコットのパラドックスに対する態度は一貫していて最後のこの部分はこう訳されている。

This paradox, which is central to the concept, needs to be allowed and allowed for over a period of time in the care of each baby.

私はひとつの本質的な逆説を措定する。それは,私たちが受け容れなければならず,そして解決されるべきではない逆説である。この発想にとって中心的なこの逆説は,おのおのの赤ちゃんの世話のなかで,ある程度の期間,くりかえし許容される必要がある。

これは本当に重要な治療態度だと思う。

ウィニコットの書き方って曖昧で読みにくくて読み手を選ぶのがもったいないところだと私は思うのだけどわざとそうしてるみたいだし、臨床素材がそうなるのは仕方ないと思う。

ウィニコットが自身の死を意識する(途中病気で会えない時期もあったり)年齢になって取り組んだ2歳の女の子との精神分析的治療の記録『ピグル』THE PIGGLEの「はじめに」INTRODUCTIONでも「私は、記録をとったときのままに、曖昧な素材を曖昧なまま意図的に残しておく。」と書いてある。

I have purposely left the vague material vague, as it was for me at the time when I was taking notes.

ーD. W. Winnicott, November 22, 1965

臨床においてというか、人間関係はテキストを読むのとは異なるのでvagueであるのは前提なのではないかな。ASDの人たちの困難はその曖昧さや多義性にとどまることが難しいからというのもあるけどASDと言わなくても私たちってどうしても何か意味を固定したがるところあるよね。言葉遊びの仕方も曖昧さが好きな人と正確な意味が好きな人とでは違うと思うし。好みの問題ではないのだろうけど「そういうのが好きなんだよね」ということにすると大体のことは納得がいったりする。しない?とりあえずそう考えておくと少し楽な気がするけどそうでもないかな。

雨の音がした気がした。窓を開けてみた。やっぱり雨の跡だけ。今は降っていない。これからかな。ぼんやりと解体されていく悲しくて傷ついたような気持ち。さっき食べたりんごはちょっと不気味に赤かった。切ったら白くてちょうどいい甘酸っぱさだった。

TAILPIECE、今の私ならこのリンゴを切る途中を書くよ。実際描いたら「これは何??」って言われそうだけど🍎(←りんごの絵文字、反映されますように!)

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ウィニコットの「自己」

雨の音が止んだ。走り去る車の音は雨の日のそれだけど。

まとまった時間がとれないので深夜や早朝の作業が増えるが静かな時間に耳を澄ますのはいい。

ウィニコットは「生まれる体験というのは幼児がすでに知っていることの誇張された一例なのである」といった。そして「生まれている間は、幼児は反応する存在となり、重要なものは環境である。そして生まれた後には、重要なものは幼児である事態に戻る。・・・・健康な場合には、幼児は生まれる前に環境の侵襲に対して準備ができていて、反応する存在から反応しなくてよい状態に自然に守ることをすでに体験しているのだが、この反応しなくてもよい状態が自己が存在し始められる唯一の状態なのである」と言った。(「出生記憶、出生外傷、そして不安」Birth memories,BirthTrauma,and Anxiety,1949,p183)

ウィニコットは「リアルであると感じる」ことを自己感の中心に据えた。ウィニコットの「自己」は新生児に備わった潜在力であり、ほどよい環境によっていずれ自分meと自分でないものnot-meを区別するようになるいわば主観的な感覚のことである。

先の出生に関する論文に登場する患者はウィニコットにいう。「人生のはじまりにおいて、個人は一つの泡のようなものです。もし外側からの圧力が内側の圧力に積極的に適応するなら、泡は意味があるもの、、すなわち赤ん坊の自己であるのです。しかし、もしも環境からの圧力が泡の内部の圧力よりも非常に高かったり低かったりすると、その場合、重要なのは泡ではなく環境なのです。泡が外界の圧力に適応するのです」(孫引きなので原典チェックできてないけど「出生記憶、出生外傷、そして不安」Birth memories,BirthTrauma,and Anxiety,1949,p182-183)

ウィニコットは自己を出生前から位置づけ(彼は小児科医でもあるので自然なことだと思う)赤ん坊が誕生する際、環境から身体的自己に及ぶ侵襲をいかに扱うか、もしそこで自己が環境からの侵襲に反応しなければならないパターンができあがってしまうと、自己は存在し始めることができないと考えた。

ウィニコットはその後、存在することを母と子(環境と個人、殻と核)のユニットとして描写し、殻と核の相互作用によって境界膜と内部を獲得した統一体が成長していくプロセスを記述した。ちなみにウィニコットは「自己」と「自我」の区別を曖昧にしており『原初の母性的没頭』論文において「自我」は「経験の総和」を意味すると述べたあとすぐに「個人の自己は、休息の体験、自発的な運動と感覚、活動から休息への回帰・・・などの総和として始まる」と書いている。

また「始まりはいくつかの始まりの総和であるということを思い出すのが適切だろう」ともいう。(『子どもの発達における自我の統合』p56脚注)ウィニコットはさまざまな水準の精神病理をもつ患者との実践を続けるなかでフロイトの本能論、クラインのポジション論とは異なる仮説をたて、存在の始まりの時期とプロセス、そしてそこで解離、分裂している自己について模索した。「本当の自己」と「偽りの自己」というスペクトラム上の概念がその中心的な概念である。

と理論というのは追い始めるとその厚みを知ることになり、閉じられることのなかったその展開には謎がつきまとう。今回は二つの世界大戦を経験したビオンとウィニコットという精神分析家が存在や経験についてどのように考えていたかをその著作から追うことになるが壮大すぎるので私は私の限界、つまり実践から離れない範囲で何かをいえたらいいと思う。

木曜日、このまま爽やかに晴れてくれたら嬉しいけど予報は曇りみたい。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ウィニコット「対象の使用」について

『遊ぶことと現実』に収められた「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」を再読。小児科医で精神分析家のウィニコットが1968年、NY精神分析協会で行った講演が翌年IPAジャーナルに掲載され、こうして書籍にも収められた。ウィニコットのこの講演はアメリカの精神分析家に受け入れられなかったという。ウィニコットはこの論文で「対象と関係すること」という概念と密接に関連する「対象の使用 use of an object」という概念を俎上にのせた。なぜ受け入れられなかったのか。この論文を読めばわかるだろうか。

読む。

ウィニコットはすでに晩年を迎えていたが、近年になってようやくできるようになったこととして解釈を待つことの意義をまず強調する。ウィニコットはフロイトよりもずっと幅広い病態、特に境界例と精神病患者から多くを学んだ。「答えをもっているのは患者であり、患者だけである」という原則のもと、彼は解釈の作業と関係する「分析家を使用する患者の能力」について論じ始める。

彼がいうには、解釈すること(making of interpretations and not about interpretations as such)は自己分析と精神分析を区別するものであるが、それが効果的であるかどうかは「分析家を使用する患者の能力」「分析家を主観的現象の領域の外側に位置づける能力」が関わっている。

ちなみにウィニコットのいう主観的現象とは原初の対象がまだ「私ーでない」(not-me)現象として切り離された「対象」ではなく赤ちゃんが創造した主観的なものである段階の現象である。その段階の授乳では赤ちゃんは母親の乳房からではなく自分自身からのんでいるのであり乳房はまだ分離した対象ではない。

この論文は後期のものであり、主観的現象という用語のようにウィニコット理論における基礎概念はある程度共有されたものとして論じられている。ウィニコットはここで新しい概念である「対象の使用」を既出の概念である「対象と関係すること」との対比で論じようとするが説明は少しずつ慎重になされる。

「対象の使用」とは精神分析場面では「分析家の使用」のことである。分析家は授乳する母親や教える人とは異なり「分析家を使用する患者の能力」を前提としていない。分析家は患者にその能力がない場合はそう認識する必要があるのだ。ウィニコットは精神病状態にある患者にその能力がないことを認識せず漫然と治療を続けた場合にそれが招きうる深刻な事態を記述し「精神分析は生活様式ではない」と断言する。分析家は分析の作業が終われば忘れ去られる存在だからだ。

ウィニコットが「この論文で述べようとしている局面とは、すなわち、自己ーコンテインメントや主観的対象と関係することから離れて、対象の使用の領域に入っていく動きのことであるp121」。ウィニコットは対象と関係することが対象の使用の前提であり「対象は、使用されるためには必ず、投影の集まりではなく共有された現実の一部であるという意味において現実(振り仮名はリアル)でなければならないp122」という。ウィニコットは環境的な要因を排除したがる精神分析家たちに「もう逃げ道はない」という。「分析家は対象の性質を、投影としてではなく、そのもの自体として考慮に入れなければならないのである」。

対象を主体の体験とする対象と関係することから対象を外的現実の一部であるとする対象の使用へという継起は「成熟過程だけによって自動的に生じるものではないp122」。ウィニコットは対象の存在を「ずっとそこにあったという属性の受容という観点からでなければ記述できないp122)という。そしてウィニコット理論の中心的な考えである「移行対象と移行現象の概念における本質的な特徴は、逆説(パラドックス)と逆説の受容である」ことを読者に思い出させる。「その逆説とは、赤ちゃんが対象を創造するけれども、しかし対象はもともとそこにあって、創造されるのを、そして備給された対象になるのを待っていた、というものであるp123」。そして私たちは赤ちゃんに対して「あなたがそれを創り出したの?それとも見つけただけなの?」と尋ねたりしない。

以上がウィニコットが対象を使用する能力について述べるために述べた前置きである。

ウィニコットは高校時代にダーウィンから強い影響を受け、精神分析の訓練に入ってからはフロイト読解はもちろん、クラインとの密な関係においてその理論を消化しつつ、自らの臨床経験に基づいてオリジナルな理論を打ち立ててきた。二人の精神分析家との分析には満足がいかなかったらしい。

ウィニコットは個人と環境の相互作用において個人が環境に適応しようと奮闘するのではなく、発達最早期には環境である母親が「原初の母性的没頭」によって能動的に赤ちゃんに適応しようと奮闘する様子に光を当てた。ウィニコットには精神分析が排除してきた環境としての母親の役割を見過ごすことはできなかった。それは彼が小児科医として多くの親子を見てきたせいもあるだろう。ウィニコットが環境としての母親(=分析家)に対して与えた役割は「主体による破壊を生き残る」ことである。「対象の使用」を俎上にのせたこの論文には対象と関係することから対象を使用することにいたるプロセスで対象が破壊され続けながらもその破壊性を生き残る様子が描写されている。それが共有された現実を創造し、主体はその現実を使用する。これらの循環によって個人は私以外(other-than-me)の本質を主体にフィードバックできるのである、とウィニコットはこの論文の最後で述べている。循環というのは私の言葉だが。

学会でウィニコットの概念について話す必要がある。読むだけなら楽しいのだが・・・・。まあやるしかない、と言い聞かせつつ。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ウィニコットの言葉

あくびばかりしている。外は明るい。麦茶が減らなくなってきた。水分を意識してとらないといけない季節。

昨日は日本精神分析協会の定例のミーティングがあった。世界中の精神分析協会がそういうことをやっている。

定期的に会うというのは大切なことでそれで足りなければ臨時で会を開催することになる。

たまたま手元にあったジョージ・マカーリ『心の革命』(みすず書房)をぼんやり読んでいた。

多くを破壊され追放され失いながらも死ななかった精神分析の戦後についてこの本は詳しい。

戦争による大量の亡命は精神分析の地政学に変化をもたらした。

英国精神分析協会ではウィーンとロンドン、つまりフロイト(アンナ・フロイト)とクラインをめぐる大論争へと発展した。

その結果、英国精神分析協会における訓練は3つのグループによってなされることになった。

精神分析のコミュニティとは、科学的自由とは、という問題は日本で精神分析的な臨床を試みる人たちの間でもアクチュアルだろう。

さて、この論争の詳細はThe New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊”The Freud-Klein Controversies 1941-45” Edited By Pearl King, Riccardo Steiner(1991)に全て書いてある。大著。

『心の革命』にも引用されているこの大論争におけるウィニコットの発言は印象的だ。

1942年3月11日、The Second Extraordinary Business Meeting(第2回臨時総会)においてウィニコットは単にフロイトを信奉するのではなく科学的であることの重要性を

Freud would not have wished us to limit our search for truth,

フロイト教授は「真実の探究の幅を狭く」したかったわけではない、(652頁)という言葉で示した。

この日の議長はDr.アーネスト・ジョーンズ、出席者は以下の25名である。

Dr Glover, Mrs Klein, Dr Rickman, Mrs Riviere, Mrs Isaacs, Dr M. Schmideberg, Dr Wilson, Dr Friedlander, Dr W.Hoffer, Dr Weiss, Dr Herford, Miss Freud, Mrs Burlingham, Miss Low, Mrs H. Hoffer, Dr Lantos, Mrs Ruben, Dr Franklin, Mr W.Schmideberg, Dr Winnicott, Miss Sharpe, Dr Gillespie, Dr Thorner, Dr Heimann

錚々たるメンバーがどんな立ち位置から何をいったのかを追うのは興味深い。歴史は重要だ。記録も大切だ。

ウィニコットはこの発言の冒頭、I implied that the present chaotic state would be healthier than order resulting from any agency other than pursuing a scientifc aim. といっている。

そして科学的な目的とは何か、についてこう説明する。

What is this scientific aim? The scientific aim is to find out more and more of the truth, I was going to say, to seek fearlessly, but the question of fear and fearlessness must be left out of the definition. We as analysts should know better than most that some fear of truth is inevitable. Playing the scientist can be quite a good game, but being a scientist is hard,.

クラインはこの発言に賛同した。ウィニコットはクラインに師事したからそれを擁護するのは当然と思われるかもしれないがウィニコットはインディぺンデントであり誰かを信奉するよりも自らの臨床体験から精神分析を科学的に探求した人だった。だからフロイト信奉者よりもクラインを支持すると同時に二つに分裂しそうな協会にカオスであることの重要性、真実に対する恐れは避けがたいが探究を続けなくてはならないと語りかけ第三の立場として機能した。ウィニコットの発言を受け、クラインもフロイトを引用してこういった、と続けて書いていきたいがまた今度。

今日もカオスかもしれないがそれぞれの場所でどうぞご無事に。こっちはカラスが大きな声でなきながら通り過ぎましたよ。飛べない私たちは地道にいきましょ。良い日曜日を。

カテゴリー
短詩 精神分析、本

複雑なものとして

ゴロゴロしながらあれこれ複雑な気持ちになりつつ、こういうのもだいぶ慣れたなと思う。それにしてもこういうのってしょうがないとはいえ一体なんなんだろうね、というようなことばかり考えているうちにあっという間に時間が過ぎた。1時間前に考えていたことはもうすでに形を変えている。「ちょっと待てよ」の繰り返しでそうなる。

机に向かってSNSをみたら笑ってしまった。私は知らないが私の知っている人がそれなりに親しいであろう人が私が一番気にしていることを書いていた。

あははと乾いたような笑いとくすくすくすぐったいような笑いの両方。自分に対する自分の態度だっていろんなものが混ざってる。人間は複雑だ。

高橋澪子『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)を読みながら「フロイトの精神分析学までが」「フロイトに先駆けて」「フロイトの<リビドー概念>にさえも相通じる」という言葉に「フロイト警戒されてるなあ」と思った。フロイトは1939年に死んだのでまだ100年も経っていない。とかいったら第二次世界大戦からだってそうということ。

先日、ゆにここカルチャースクールが開催した「短詩トークショー『船コーン 砕氷船(ユニコーンが乗っています)』」のお題が「つの」で短詩集団砕氷船の歌人・榊原紘さん、俳人・斉藤志歩さん、柳人・暮田真名さんがそれぞれ短歌、俳句、川柳を作ったのだが斉藤さん(すっかりファンになってしまった)の俳句に化石がでてきた。新宿紀伊國屋書店の地下にも化石のお店あるよね、という話もされていた。

「一万年ですよ」

と化石を眺めながらその人がいった。そうか、想像もつかない。この100年のことだってこんななのに。子供たちが恐竜とか大好きなわけだよ。あと自閉症の子どもが原初的な、など色々話し出したらキリがない。

精神分析はフロイトの時代よりもさらに原初的なこころについての探究を深め、精神病理に対する理解と対応について貢献してきたが、世間的な関心はいまだフロイトにある。

「要するに、フロイトの結婚は彼に安全な避難場所をもたらしたのである。彼はマルタの個性を抹殺し、彼女を自分の外的要望すべてを叶える女性に仕上げた。彼女はフロイトの大勢の子供達の母親であり、有能な家庭管理者であり、決して不平を言わない配偶者であった。」

ルイス・ブレーガー『フロイト視野の暗転』(里文出版)133ページからの引用である。原書名はFREUD Darkness in the Midst of VIsion.書名通りこれまでの伝記とは異なり引用した部分だけでもわかるようにフロイトのダメなところをたくさん明らかにしてくれる本で大変参考になる。それはそうだ。が、しかし、と思う。

「決して不平を言わない配偶者であった」ってあなた、、、と思ってしまった。確かにフロイト一家には家政婦(というのかな)もいたし、様々な人がフロイトや家庭生活について語り継いでいる。何よりフロイト自身がフリースをはじめいろんな人に対し自分の気持ちを吐露するので推測の糸口はたくさん用意されてきた。

それにしてもだよ、と私は思わなくもない。臨床だけではない、研究だけではない、その両方を経験したうえで書いている、というのであれば(本書の「背景と資料」を参照)こういう直線的でゴシップ的な書き方はどうなんだろう。これでは私たちが普段他人の家庭に対して持ち込む勝手なイメージと変わらないではないか(「私たち」とか一緒にしないでという話かもしれない)。

人はもっと複雑で、だから関係は当然複雑で、家庭なんてその複雑さが蠢きまくっている場所なのではないのか。勝手なこといってんな、とこの類の文章についてはいつも思う。それを誰が書いているかなんて関係なくそう思うのだけどどうなのかな。「決して不平を言わない」人だったかどうかはともかく、それが夫であるフロイトに対してはね、ということであったとしても、これだけ長く暮らしていたら色々あるに決まってるじゃん、と思うのは私が「抑圧」の概念を理解していないからか。この時代の厳しさをわかっていないからか。そうかもしれないがそうでもないだろう。戦争はまだ起きているし、家父長的な意識はいまだ蔓延している。私はそういう世界で言葉を使いながら生活をしている。

心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)で「フロイトは警戒されている」と思ったと書いたが、こっちの方がずっと学問的だ。ヴントの『民族心理学』とフロイトの『夢判断』の出版年が同じであるという“偶然の一致”に対する慎重な姿勢は私たちがフロイトを読むときにも忘れてはならないものだろう。

安易に結びつける。安易に解釈する。「女だから」とかも同じ類だろう。自分ひとりにできることのわずかさを物事を安易に単純化することで否認するようなことはしてはいけないというか、いけなくはないかもしれないけど誰かを傷つけるし分断や差別を招くのではないか、と私は思っている。

少なくとも精神分析に関していえば、現代の精神分析はビオンの「記憶なく欲望なく理解なく」が頻繁に引用される状況にあるわけでフロイトを知るということはそのテクストを精読し続けることであってそういうことではないのでは、と私は思う。

他愛もない一言に涙が溢れた。

誰にも言ってないことを話した。話してから誰にもいえてなかったことに気づいた。

人には無意識がある。無意識という表現があれなら誰にも触れられない領域がある。ましてやコントロールなど。

泣き喚き大暴れする日もあれば穏やかに共に時間を過ごす日もある。そんな日々は共存する。寂しさも孤独も喜びも体験する。人のこころは意外といろんなものに耐えうるらしい。耐え難く辛いとしても。

別れを決断する人たちとも多く会ってきた。彼らがそれを決めたときの表情や言葉。共通する静けさを思い出す。

フロイトとマルタは別れなかった。離婚という意味では。単純ではない繋がりとそれに対して持ち込まれた切断とそこから生じたさらなる繋がりとなどもはや「色々ある」「複雑だ」という以外に描写しようのない関係がそこにはあっただろう。外からは決してみえないものが。

私はいろんなことを複雑なものとして考え続け、躊躇いながら言葉にしていくことを続けていけるだろうか。たった一言に心揺さぶられてしまうのに。すぐにもういいやと思ってしまうのに。わからない。でもとりあえず、いつもとりあえずだ。

今日の百年後、一万年後のことはまるでわからないけれど何かは繋がっていってしまうのだろうからあまりおかしな部分(?)を残さないようにできることをやりましょうか。それぞれの1日をどうぞご無事で。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』をいただいた。

昨晩遅くにコーヒーを飲んでしまった。昨日はそんなにカフェインをとっていないような気がするが朝は紅茶にしておこう、とティーバッグをだした。カフェインであることに変わりないけど気分の問題。あっつい紅茶が美味しい朝になりました。今年も無事に夏が過ぎていく様子。私たちも無事に朝を迎えた様子。

昨晩、帰宅したらポストに厚みのある封筒が入っていた。あれ?なにか本の注文してたっけ、とポストから取り出す。早く見たかったが他の郵便物や重たい荷物のせいで確認できない。部屋に入るまですぐなのにこの短時間が待ちきれない。本が届くのは本当に嬉しい。荷物をドンと置いてチラシを紙袋に仕分けて厚みのある重たい封筒を手に取る。うわあ!と嬉しくなった。

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』(松木邦裕、小波蔵かおる監訳、岩崎学術出版社)をご恵投いただいた。重たいけど意外とコンパクト?と思ったけど他の本と変わらなかった。なんでコンパクトと思ったのだろう。ギュッと詰まった論文集だから?

そういえば最近本屋さんで精神分析の本が置いてある棚の方へいっていなかった。自分で買うつもりでチェックしてあったが大変ありがたい。この本は8月に出たばかりの新刊だが古典だ。

1965年にイギリスで出版された。すでに訳出されている1987年出版の『治療の行き詰まりと解釈』(誠信書房)はローゼンフェルドの後期の思索を解説したものであるが、今回訳出された『精神病状態』は初期の論文を集めたものである。原書はpsychotic states a psycho-analytic approachで、精神病に対する精神分析の貢献の可能性を示した1947年の彼の最初の論文から1964年の論文が収められている。精神分析を専門的に勉強している人はここに収められた論文をすでに英語で読んでいる人が多いのではないだろうか。監訳者のおひとり、精神分析家の小波蔵かおるさんがその訓練中に「なぜこれが翻訳されていないのだろう」と不思議に思い翻訳を申し出たということを「解題」の最初に書かれているが、訓練に入っている人はおそらくみんなそう思っていたと思う。だからこの翻訳は大変ありがたく、これから精神分析を学ぶ人たちがこれまた学ぶことが必須であるメラニー・クラインに始まるクライン派精神分析の初期の成果を追うためにも助けになってくれるに違いない。英語で、しかも精神分析で、しかも理解が非常に困難な精神病の世界のことが書かれた論文たちは読みとおすだけで精一杯みたいなところがあると思う。私はそうだった。多分私だけではないと思うから助けてもらおう。

ローゼンフェルドは1909年7月生まれの精神分析家だ。ドイツで生まれたユダヤ人である、と書くだけで彼が経験した苦労を想像できるだろう。1935年、ナチスの迫害を逃れイギリスへ向かうがそこでも敵国の外国人であるために居場所を得られなかった。しかしなぜか精神療法家としてなら滞在できるということで彼はタビストック・クリニックでの訓練をはじめ、そこでメラニー・クラインの分析を受けた。彼の人生史や人となりは本書の解題にも『行き詰まりと解釈』にも触れられているが、今回の監訳者のもうひとりである精神分析家の松木邦裕先生が昨年2021年に出された『体系講義 対象関係論(下)ー現代クライン派・独立学派とビオンの飛翔ー』(岩崎学術出版社)にはパーソナルな描写もあり、これを読むと論文にも近づきやすくなると思う。どういう時代を生きたどういう人がこれを書いたのかということはどの論文を読む場合にもとても重要だろう。

また、ローゼンフェルドの最も重要な貢献の一つである精神病に苦しむ人への精神分析的アプローチについては『行き詰まりと解釈』の第一章「精神病治療への精神分析的アプローチ」が詳しい。

毎日勉強だなあ、と思いつつ、フロイト以外の精神分析の本をあまり読んでいなかった。古典を読むのは楽しい。目次をみてパラパラとするだけでここに収められた論文のいくつかはぼんやり思い出すことができた。勉強会でも話したいことが増えた。正確に紹介できるようにきちんと読もう。訳者にはフロイトをしっかり読んでいる知り合いの名前もある。頼もしい。翻訳作業でも世代を繋ぎながら精神分析を受け継いでいる監訳者の先生方からこの本をいただけたことがとても嬉しい。もうちょっとしっかりしなさい、というメッセージとして受け取ろう。どうもありがとうございました。

今日は金曜日。週末ですね。無理をしなくてはいけない人もほどほどのところでお茶を濁す練習も大事かも。自分のこころを守ることを優先するってなぜか本当に難しいけど長い目でみれば今そんなに無理しなくてもどうにかなることもあるかもしれない。少しずつ、力抜きつつ、ぐったりするだけではない夜を迎えられますように。お大事にお過ごしくださいね。

カテゴリー
精神分析、本

言える機会

空はグレーと水色のあいだ。グレーと水色なんてただでさえ間の色なのにさらに。間ってどこまでいってもあるのね。

コーヒーが熱い。冷房も入れたばかりだけど飲んだらすぐに汗になりそうな季節はもう過ぎたみたい。虫の声が朝の静けさを守ってる。蝉の声が世界をのっぺりと平板にしていくのとは違う。言葉にできないけどなんか違う。

この前、暮田さんとフェミニストの言葉について少し触れた時に竹村和子の『愛について』は精神分析の知識がないと難しくてとおっしゃっていた。そうなんだよね。でもあそこで想定されている精神分析の「目的」は大分古典的かつ一般的なフロイトに対するイメージであって誤解を招くと思う。私の場合、精神分析の本として読まないせいかそこを「わからない」とはならないかな。精神分析がこうやって捉えられがちなのはわかるけど違うよ、とは思うけど。でも著者はこの主張をするための補助線として精神分析をこう理解して使っているのかと仮固定の場と捉えて読む。

最近ますます複数のことを同時にできなくなっている。例えば今ならNetflix流しながらこうしているんだけど感覚が以前と大分異なる。注意の配分が自然にできなくなっている感じで指の動きとかにもたまに意識的になる必要があるくらい。次にやるべきこともルーティンなのに抜けている感じで時間感覚も鈍くなっているみたいだし。ほんと軽い認知症なのではと思うことが増えた。ただ記憶力は元々相当悪いし、注意力も子供の頃から注意されてばかりだからようやく自分の状態を正確に認識しつつあるだけかもしれないわね。あまり嬉しくないけど自分を知るってそういうことかもね(これ以上みたくないみたいから適当に終わらせようとしている気もするわね)。

あー。さっき書いた本の読み方もこういう適当に割り切ってしまうところが出ているのかもねえ。前提が正しくないのだからそこをどう読むかはもっと正確であるべきなのかもしれないけど。うーん。でもどこに時間をかけるかと言ったら精神分析そのものだからフロイトはもちろん主要な古典を精緻に読むことで暮田さんとのちょっとしたおしゃべりの時に「あれはちょっと違うの」と言えたみたいな関係を持つことが大切かもしれない。言えたのは嬉しかったな。そもそも読めなくても触れてないとその本の話が自然に出てくることはなかったから。

この前もね、とまたとめどなく書いてしまいそうだけどやめとこ。この日記ともいえない朝のこれはなんていうのかしら。もう90日続いてるって通知がきた。衰えゆく認知機能に対する無意識的抵抗かもしれない?「これをやっている今は朝だぞ」ってことを染み込ませているのかしら。そんなこといってないで仕事へいく準備をしましょう。余った時間は精神分析の文献を読みましょう。読みます。はい。

今日は東京は雨が少し降るみたい。少しであってほしいな。

週の真ん中、休みが遠く感じるかもだけどご無理なさらず。無理しなくてもいい環境づくりもしていきましょうかね、少しずつ。

カテゴリー
精神分析、本

小さな抵抗

フロイト、クライン、ウィニコット、ビオンという精神分析の柱をなす精神分析家の理論と十分に対話し、ほとんど公の場には出ずプライベートプラクティスにおいて多様な患者と会い続け(対象の幅広さが別格)、美しい文体で精神分析で生じる現象に理論的意味づけを与えてきたアメリカでは誰もが知る分析家といえばトーマス・オグデンだろう。日本でも人気があり、着々と翻訳が勧められていることは前にも書いた。

オグデンの初期の著作に『こころのマトリックス』(岩崎学術出版社)という本がある。私はマトリックスの意味がよくわからず映画の「マトリックス」もピンときていなかったのだが、この本やその後のオグデンの思索を追い、引用などもするなかで少しずつわかってきた気がする。蜘蛛の巣みたいなものか、と思っているのだけれど違う?

オグデンは乳児のこころのマトリックスは母親のこころと身体というマトリックスの内側にあるとした。確かに乳児の最初の体験の場所は母親のこころと身体であるのはわかる。乳児はそこでみずからのこころのマトリックスを生成するという仮説もわかる。ウィニコットがいうようにそのときの母親は乳児が外的現実を侵襲として体験することのないように原初の母性的没頭によってほぼ乳児と同一化し、内的現実と外的現実のずれを消している、という仮説もわかる。つまり外的現実という世界は乳児が創造したという錯覚を作り出す、というのもウィニコットを読む私にはおなじみだ。

そしてこれらは大抵の場合失敗する。それが外傷となるかならないかは母親次第であり、母親の持つ環境次第である。と書いてしまうと身も蓋もない。

最初に出会う対象をAとしてそれが既にA以上の何かであることはAにとっても出会いにとってもどうにもできないこと。社会状況、経済状況、教育環境なども全て連動している中で、本来境界線などないにも関わらず様々なカテゴリーに投げ込まれることを繰り返すうちなんとなく自分を説明する言葉が増えていき自分もそんな気分になってくる。何かを一括りにするような言葉はほとんど気分や雰囲気で使用されており自らそれに縛られることで自分の衝動や攻撃性や破壊性を抑圧している、と考えることだってできなくはないだろう。子供たちが言葉遊びや反対言葉に大喜びするのは既にその不自由を体験しているからではないか。変化の原動力でもあるそれらは全て抑圧されるべきものではないし、そんなことはできないから、あるいはできないのに無理やりしようとするからいろんなことが起きているとだっていえるかもしれない。

昨晩ごはんを食べながらそんな話をした。細かいことは早くも忘れてしまった。

自分なんて曖昧なものだ、と私は思う。精神分析は母子関係をモデルとして使っているうちに「母」に役割を与えすぎたのかもしれない。精神分析は「自我」に対しても同じことをやったと思う。ひとつの言葉に多くを任せすぎるからなんかよくわからないことになってなおさら気分や雰囲気でその言葉を使うようになってしまい、なんの根拠もないのに「そういうもんだ」みたいな役割に自らも縛られていくのでは、だから「本当の私」みたいな言葉を使いたくなるのでは、など思う。

その人がいたから私はこう考えるようになったのかもしれないんだよ、といい意味でも悪い意味でも思う。それがたとえ悪い意味だとして「あの人さえいなければ」と思ったところで、多分きっと別の似たようなことは起きたと思うよ、もしかしたらそれをするのは自分だったかもしれないよ、と自分に対して思う。誰にもわからないこと、わからなかったことばかりなのに誰かを決めつけて排除することなどできない。そうしていい理由などない。そうわかっていてもしてしまうしされてしまうのだけど流されるままにそれを「そうするもんだ」とすることには抵抗したい。

いつも何かと小さな抵抗を自分に対して試みている気がする。試行錯誤の繰り返しだ。辛くて苦しくて寂しくて泣いてばかりな時だってある。でもそれだって「これってたまたまでしょ」と思う。勝手に自分のことを決めつけない。たまたま自分がいる状況から見えること、そこで聞こえること、感じることに地道に注意を払う。決めつけた方が面倒ではないがその場しのぎは辛いと思う。私は患者に興味を持ち続ける。患者がそうできるようにそうし続ける。そうされることで取り乱すことが増える。取り乱されると私も揺さぶられる。抑圧は万能ではない。さらなる抑圧が生じる。気づきつつもそこに委ねる。なかったことにしない。すると時々どうしようもなく追い詰められた状況からふと解放されるような体験が生じる。力が抜ける。「今まで気づかなかったんだけど」とずっとそこにあったものに気づいたりする。道端の花、とかそういうのではなくて、大抵の人はそこにあると知っていたであろうものが自分には見えていなかったことに気づくようなことが起きる。驚きつつ恥ずかしそうに笑う。笑っている場合ではないということに気づく場合もある。どんな体験が導かれるかは人それぞれだけど「そういうもんだ」「そうするもんだ」と世界を偉そうにくくるよりは自分にも相手にも地球にも優しいあり方な気がする。

土居健郎も中井久夫も価値の棚上げについて考えていた人だと思う。そしてそれを言葉の問題として位置付けていたように思う。間違いを指摘し、正しさを伝えることはもちろん大切だ。そしてそうされることに強く抵抗を示し頑なに修正を拒む人たちがいたとしてもそれが「悪い」わけではない。誰だって一人で勝手にそうなったわけでもないのだから。いろんな気持ちになりながら今日も過ごすことになるのだろう。何かを決めつけては頑なになって苦しくなってひどいこと考えたりもするだろうけど行動するなら言葉にしてみるという行動を優先したい。相手がいなくてもこうして書いたり考えたり。寝るのもいいかも。時間が過ぎるのを待つよりはいつの間にか過ぎていく時間に委ねるのも。蜘蛛ってそういう時間を過ごしているようにみえるけど餌がかかるのを待っているわけだよね。うーん。生きるって難しい。

今日は祝日。ハンモックに揺られていつの間にか寝てしまっていい夢とかみられたらいいのに。ハンモックないけど。お休みの人もそうでない人もまずどうにかしたいのはこの暑さか。気をつけて過ごしましょ。

カテゴリー
精神分析、本

わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。

カテゴリー
精神分析、本

つもりはつもり

こんなでもやっていけるもんだな、と感心する、自分に。世界に。

本を読んでいても患者さんの話をきいていても「よくそんなこと覚えてるな」と思うことが多い。記憶力の問題も大きいだろうけど自分がいかにぼんやり世界と関わってきたかを思い知らされる。

川添愛さんという言語学者であり作家でもある多才な方がいるが、『言語学バーリ・トゥード』(東京大学出版会)の面白さはすごかった。同じ年齢で文化も共有していて書かれていることもそれが誰でそれがなにかはわかるのだけど、私は細かいところをなにも覚えていない。私にとって川添さんはもうなんかすごすぎるのだが特別というわけではなくて誰と話してても私はそう感じやすい。そのくらいぼんやり生きてきてしまった。が、最初に書いた通りこんなでもなんとかなっているので大丈夫だよ、と誰に言うでもなく書いておく。自分にか。

この本の最後は、といきなり最後に飛ぶが「草が生えた瞬間」ということで書き言葉の癖について書かれている。三点リーダーとかwとかそれがのちに草になったこととか全然知らなかった。私いまだに(笑)をたまに使うくらいだし…。←これが三点リーダーと呼ぶんだって、私はこれよく使っちゃう・・・。悪いことではないが何事も過剰はよくない気がする。

この本、2021年5月にでてすぐに読んでまだ一年くらいしかたってない。こうしてめくれば「ああ」と思い出すこともある。が、ごくわずかだ、私の場合。最後からめくるのが癖だからさっきはいきなり最後に飛んでしまった、と一応意図を説明してみようかと思ったがそんなのなかった。「あとがき」から読む癖は変わらないな。変えようとしない限り変わらないのが癖か、というとそうでもない。いろんなことの複合体というかなにかがまとまって仮固定された形なのだろう。忘れる忘れないでいえば、本の最初、つまりもっとも集中してなんどか読んだ可能性のある箇所を「こんなこと書いてあったのか」とまた新鮮に読めてしまったりすると「大丈夫かよ」と自分に思うがさっきも書いた通り大丈夫。縄文時代と古墳にだけやたら詳しかった時代なんて誰にでもあるでしょ、ということにしておこう。

ダチョウ倶楽部の上島竜兵が亡くなったときに思い出したのもこの本だった。表紙にも登場している。「意図」と「意味」の違いを説明するときに使われるシーンはもちろんあのシーンだ、と私でもいえるくらい、さすがにダチョウ倶楽部のあのネタは有名だ。彼は「AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか」という二番目の話に登場する。

「知るかそんなもん!」と絶叫したくなる例も面白い。上島竜兵は誰もがその「意図」をわかる形で正反対の「意味」の言葉を伝えたが、「たいていの言葉については、話し手が「こういうつもりで言った」とか「そういうつもりじゃなかった」ということができてしまう」ほどにその意図は個別的で読み取ることが難しい。

私の臨床でもよく聞く言葉だ。「そんなことはわかってる。あなたが意識できていることなら私がなにかいうまでもないでしょう」と私は思う。特に精神分析は無意識や「こころ」と名付けられるものなど捉えられなさ、わからなさのほうに常に注意を向けているのでそういうつもりじゃなかったのに今ここでこれが生じていることに関心をもつ。私たちをおかしくさせるもの、苦しくさせるもの、それを同定することは多分無理だ。でもピン止めする(北山修が使う言葉)、仮固定(千葉雅也が使う言葉)することはできる、他者がいれば。もっともひとりだったらずれ自体に気付く必要もないのかもしれないが。

今日二度目のブログを書いてしまった。こんなつもりじゃなかった。書かねばならぬものは別にあるのだ。はあ(これにもwとか草みたいな記号的なにかはあるのだろうか)。はあ。

カテゴリー
精神分析、本

アリスのことではなくて単に夏の思い出

この花が咲けばこの季節とわかる。この果実がなればもう一年かとわかる。廃墟、という感じではないな。私がこの道を通いはいじめてから少なくとも2年以上は誰も住んでいないみたいだし。いろんなところをいろんな植物で埋め尽くされてこの時期は中の様子はあまり見えない。でもこんなに色があったら廃墟って感じではない。モノクロ写真の一部に色をつけたみたいな感じとも違う。全部きちんと生きている感じがする。

この道はインターナショナルスクールがあり、私がいくのはちょうどお迎えの時間。日本語と英語を自在に使いこなす親子(男性はほとんど見ない)が続々と集まり別れていく。

はじめて海外へ行ったのは20歳の夏。サンディエゴのSDSUの寮に1ヶ月間。広大な敷地を持つ大学はライブ会場にもなりニール・ヤングとかきてたんじゃないかな。違ったかな。ライブのある日は寮からみた景色がすごかった。毎日プールに入り、海へいき、古着屋とレコード屋をめぐり、最初は甘すぎたお菓子やアイスもたくさん食べられるようになった。友人が恋をした人の結婚相手が海軍の人で海軍専用ビーチでBBQもした。その人がすごくセクシーな水着で犬を連れて海辺を歩く姿が映画みたいでもちろん友人は釘付けだった。日焼けしすぎてカリフォルニアの皮膚ガンの発症率をもとにクラスで叱られた。帰国してから急に体重も増えた。あれだけアイス食べればそうなるよなあ。翌年の夏は六週間、ケンブリッジへ。今度は絶対日本語を喋らないときめて親にお金を借りていった。最高だった。ケンブリッジ大学の有名なカレッジは緑がいっぱいで、庭では無料でシェークスピアがみられた。美術館も無料で毎日のように自転車でブリューゲルをみにいった。児童文化の授業でもブリューゲルの絵は重要で見れば見るほど発見があった。ロンドンにもパリにもウェールズにも足を伸ばした。フランスへ向かうフェリーで死ぬほど気持ち悪くなって以来、車酔い、船酔いに強くなった。酔わなくなったわけではなく酔ってもあそこまでなることはないだろうと思えた。早朝フランスへつき、ぐったりしたままバスの窓からひろーい田舎の景色をぼんやり眺めているうちにパリに着いた。途中立ち寄ったドライブインみたいなところでクロワッサンとカフェショコラのセットだったのかな、を頼んだ。「お前気持ち悪かったんじゃなかったのかよ」と呆れられそうなくらい元気が出た。あの味が忘れられなくてどこいってもクロワッサンとカフェショコラを頼んだ。日本に帰ってきてもそうした。あの味はあの一度きりだった。エッフェル塔の真下でいかにもパリというカフェへいったがお肉が美味しくなかった気がする。必ず一人になれる場所があるというヴェルサイユ宮殿の構内をバスでめぐったが確かにこんなところで読書を、という人がいた。鏡の間ではベルばらのセリフが思い浮かんだ。セーヌ川の船では日本語も含めたくさんの国の言葉で音声ガイドが繰り返されるのが興醒めだった。オペラ座は当時工事中だった。フランスでトレーニングを積んできた分析家がちょうどフランスへいるときであとからその話をした。すでに古い訳のフロイトを読んではいたが精神分析家という存在を当時はまだ意識していなかった。私がはじめて精神分析家という肩書きを持つ人の家を訪れたのはその5年後だ。内戦が続いていたクロアチアの彼は元気だろうか。日本文化をうまく説明できない私の代わりに彼がしてくれた。私よりずっと日本のことをよく知っていた。彼はいつも英語で先生と怒鳴り合いをしていた。いや先生は怒鳴ってはいなかった。怒りをどうにか抑えた声で彼の暴言に注意を与えていた。そんなときの彼は小学生みたいだったが私にとってはさりげなく助けてくれる素敵なお兄さんだった。ケンブリッジでは「これを紳士的というのか」という対応もたくさんしてもらったし、ネオナチの若者には注意が必要だったし、寮の管理人さんやB&Bの宿主には宝くじで待たされたし、お店ではあからさまな差別を受けたし、チェコになったばかりのチェコ出身の私の2倍くらいある優しい彼は美味しいパイを焼いてくれたし、ロシアの家族はロシアのおやつを作ってくれたし、私がスーパーに行く時間に必ずその道をバイクで通るアイルランドの男性とはいつの間にか仲良くなった。みんな今はどうしてるのだろう。差別はやめられてたらいいけど。生きているといいけど。本当に。生きていてほしい。

思い出すことをそのまま書いていたら最初に書こうと思っていたアリスのことを書く時間がなくなってしまった。いつもお世話になっている先生とハンプティ・ダンプティのことで盛り上がりThe Annotated Aliceという本を何度も読んだと聞いた。英語かあ、ともうすでに遠い英語に負担を感じながらネットで調べたらあるじゃん、邦訳。しかもすごくかわいい。アリスはこれからも何度も読むだろうから買った。『ピグル』の言葉遊びの世界にもハンプティ・ダンプティがいる。それにしても『ピグル』を素材にした北山理論の概説書『錯覚と脱錯覚』が「品切れ、重版未定」ってどういうこと?もう買えないの?ダメでしょう。『ピグル』の読書会をしている私も困りますよ、岩崎学術出版社さん。まあ私ひとりが困るならともかくあの本はウィニコットを読む時にも大変貴重なのです。ハンプティ・ダンプティの挿絵で始まる名著なのです。だからお願い。みんなが買えるように準備しておいてくださいな。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

再発見に向けて

今朝もカーテンの向こうがうっすらピンクでそっとのぞいたら思ったより水色混じりのピンクが東の空から広がってきていました。昨晩の三日月はもうとっくに西へ。火曜日の朝です。

昨日、隙間時間になんとなく田野大輔『愛と欲望のナチズム』(2012/講談社選書メチエ,Kindle版)を読み上げ機能で流していました。精神分析におけるセクシュアリティとジェンダーについて考えるとき、フロイトの理論においてそれらがどう捉えられ、他の分析家や患者との関係を通じてどんな変遷を見せたのかを知ることが重要なのは当然です。それはその時代のその社会が精神分析に対して為してきたことを知ろうとすることでもあり、だから私たちはフロイトを断片ではなく読み続けるわけです。

一方、精神分析をなんらかの形で体験しながらそれらを詳細に検討することと彼らとは異なる時代と社会で生きる私たちが自分の文脈の正当化のためにフロイトを断片的に使用することで生じる偏見の溝は埋めようがありません。もちろん体験のみで知る精神分析とも違いはあるでしょう。精神分析が技法として意義があるのはどのようなあり方も当然ありうるものとするからだと思うので何がどうというわけでもありません。ナチズムのように性の抑圧と解放という二重道徳を手に性生活に介入する権力的な精神療法によって「治療可能」であれば生かし、「治療不能な患者の存在は、民族の健康を守る精神療法の限界を露呈させる」として排除するような治療観は持ち合わせていません。

フロイトの性欲動は生の欲動であり、セクシュアリティは異性あるいは同性を対象とし、セックスを目標とした本能行動であるだけでは決してありません。精神分析におけるそれは、人間のこころの組織化の中心をなすものでそこに潜在する拘束力と破壊力は「常に別のものの再発見」とセットで語られるべきものと私は思います。

「常に別のものの再発見」という言葉はラプランシュが、非性的な機能的対象から性欲動の対象への移行について論じたとき、フロイトの「対象の発見とは、本来再発見である」(Freud,1925)というフレーズを用いて「発見とは、常に別のものの再発見である」と明確化したものを援用しました。

メラニー・クラインが鬱病を抱えていたり、不幸な結婚をして妊娠の可能性に悩んでいたことやアンナ・フロイトとドロシー・バーリンガムとのパートナーシップなど分析家の個人史に見られるセクシュアリティに関連する出来事を単にフロイトをめぐる精神分析史におくのではなく、当時の社会の側から見直したうえで現代を生きる私たちのフェミニズムの文脈に置き直してみることも大切だと感じます。精神分析が誰かのこころをコントロールしたり排除したりする文化に加担することのないようにその内側にいる私はああでもないこうでもないと考え続けることが大事そうです。

フロイト
「最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。分析家にとっての正しいふるまいとは、必要に応じてひとつの心的態度からもう一方の心的態度へと揺れ動き、分析中の症例については思弁や思案にふけることを避け、分析が終結した後にはじめて、得られた素材を統合的な思考過程にゆだねることにある。」

ー「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)『フロイト技法論集』に所収(藤山直樹編・監訳、2014)

カテゴリー
精神分析、本

両性具有とか更新とか

洗濯をして麦茶を作ってクラッカーつまみながら珈琲飲んでNHK俳句を少し立ち見してゲストにあんな服も違和感なく着こなしててかわいいな、コメントもいいなと思ったり、「雷」って季語はいいね、とか俳句やってるのにこの語彙はどうかと思うけどそう思って、またバタバタして今なんだけどどうしましょう。仕事もしていたはずなのだけど進んだ形跡が見当たりません。どこ?

そうそう、昨日ブログ書きながら思い浮かんだのは最近読んだ舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』(筑摩書房)、私でも知っている曲ばかり出てくる実感から己のジェンダー規範を振り返ることもできる本の文庫化(単行本は2002年、晶文社)。北山修先生の「あの素晴らしい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」も取り上げられていた。北山先生、「戦争を知らない子供たち」を書いたの20代なんですね。著者がそれに驚いた口調で書いていて私はそれを読んで驚いた。この本、ジェンダーの視点から聴き直すとこの歌詞ってそう読めるんだ、すごいな、そんなふうに聴いたことなかったよ、ということばかりでとっても面白いです。桑田佳祐の歌詞の両性具有性とか確かに!と思った。両性具有という言葉で書いてあったかどうかは忘れてしまったけど。そうだ、忘れないうちにここにメモしちゃうけど両性具有性についてはプルーストを読みたい、とずっと思っているのに断片しか読んでいない。精神分析との関連で、と思うのだけどプルーストとフロイトってお互いのことを知らなかったそう。ほんと?同時代人で二人ともこんな有名で、ユダヤ人という文脈で重なるところもある。ちなみにフロイトの方が15歳年上。プルーストは51歳で亡くなってるけどフロイトは1939年、83歳まで生きた。2019年にプルースト研究者の中野知律さんと精神分析家の妙木浩之先生が登壇した「プルーストとフロイト」という市民講座に出た、そういえば。中野さんの「失われた時を求めて」の話がすごく面白くて私もがんばって読もうと思ったのにあれから3年かあ。一日1ページでも読んでればそれなりに読めてたはず。文庫、持っているはずなんだけど。どこ?

どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』を読んだ影響でApple Musicで1970年代の歌謡曲を聴きながらこれを書いている。今かかっているのは山本リンダ「狙いうち」。この曲のことも書いてあったと思う。

男女という近代的二元論というのかな、その差異によって排除されているものに目を向けるのはもちろん続けていく必要があって、そのために「両性具有」という言葉を使い続けていくのが大切な気がする。精神分析はいまだフロイトの時代のそれが一般には広まっていて実際その父権的な態度から自由になったとはとてもいえない。前にも書いたかもしれないけど、だからこそ国際精神分析協会(IPA)の中にはWomen and Psychoanalysis Committee (COWAP)という委員会があって、社会、文化、歴史との関連におけるセクシュアリティとジェンダーに関する研究などをサポートしている。精神分析概念の修正と更新のため。

これも連想になってしまうけど「更新」といえば、先日、吉川浩満さんが『樹木の恵みと人間の歴史 石器時代の木道からトトロの森まで』というNYで樹木医みたいな仕事をしているウィリアム・ブライアント・ローガンという人の書いた本を書評(「失われた育林技術を探す旅」していた。なんかプルースト的。萌芽更新という言葉をキーワードにした評で私もその言葉にとても惹かれた。それでちょっと調べて驚いたのは「萌芽更新」の英語ってcoppicingでupdateではなかった。意外だった。ちなみに「間伐」はthinning。児童文化の授業でこの「間引き」についてすごく考えたことがあって今も時々考えるのだけど元は樹木を守りその恵みを与えてもらうなかで生まれた言葉なんですよね。 

ジェンダーとセクシュアリティ、差異が排除の理由になどなるはずないのにそうなりがちな現状に対して有効なキーワードを持っていくことが大事そう。

そういえば結膜下出血と汗と涙について書こうかなと思ったのを忘れてダラダラ書いてしまった。まあいいか、日曜日だし(いつものことだとしても)。それぞれに良い日曜日を!

カテゴリー
精神分析、本

非対称

鳥。何を話しているのかなあ。やっぱり小川洋子さんの本はすごかった。通じない言葉のなかをどうやって生きていけばいいのかわからない、と書くのではなくてそれでも淡々と生きて愛して死んだ人のことを書き、その人の言葉を唯一理解できる残された人のことも同じように書いた。残された人も鳥の言葉の方が人間の言葉より理解できた。人間同士のコミュニケーションは上手にできなくて大切な場も奪われた。でも彼らがそういう言葉でそれを記述することはなかった。彼らは被害の言葉も加害の言葉も使わない。

皮肉も冗談も理解しにくい彼ら。静けさ。幸福。暴力。男性であること。女性といること。傷つき。疲労。彼らはそうではなかったけれど、単語だけで伝わっていた幼い日のこと、多分伝わっていたのは言葉の意味ではなく対象を求める気持ちでその内容は必ずしも必要のなかった時代のこと、今はどんなに気をつけても自分の受け取りたいようにしか受け取れない。

この人は一体何を言っているのだろう。言葉を奪われた瞬間を思い出す。あれは愛情ではなく憎しみの始まりだったのか、と一瞬思う。でもそんなものは分けられない。

彼らの世界に行きたい。静かで決して強い言葉で突き放されることのない世界。二人の間に入ることはできないけれど。

ものすごく受け身のままいられた幼い日のこと。何も通じていなかったかもしれないのに通じているという幻想と勝手な空想を維持する時間と場所を与えてもらった。兄弟姉妹で与えてもらう量が違うように感じていろんな気持ちになったこと。例えば「お兄ちゃんだから」「まだ小さいから」という理由で。それが正しさであっても理不尽と感じていたのはそういう理由が欲しかったわけではないからだと思う。人に向ける気持ちにまるで量があるかのように比較される悲しみや寂しさを理解してほしかったのだと思う。

もうこんなに歳をとってしまった。身体もとても変わった。こうなるまで知らなかったことばかりだった。

最初の瞬間にものが言えればよかった。驚きすぎて言葉が出なかった。いまだにものをいえないほど混乱する瞬間があることを知った。後悔では学べないことも知った。

驚きを相手からの加害と感じたとしてもそうしたくないゆえに希望や期待で封じ込めるところからはじまるのかもしれない、どんな関係も。精神分析は原初の傷つきをどうしようもないものとして捉える。それぞれが愛と憎しみを十分に体験する場を設定する。その傷が癒されることは決してない。ずっと苦しいまま。それでも相手の言葉を奪ったり自分の言葉を奪われたりする関係が憎しみばかり生まないように体験を繰り返し、内容を理解される以上の体験を内省の契機とする。

ため息も涙も出るに任せているうちに朝になった。そんな毎日だとしても委ねてみる。力を持つ人たちとの非対称のなかで再び言葉を奪われたとしても強い憎しみに覆われてしまうよりはその方がいいような気がする。

彼らの世界に行きたい。途中からは決して入れないとわかっているけれど。拒絶されないことで安住したとしてもどんなに言葉を使わなくてもそれがない世界なんてないからそれぞれがそれぞれの仕方で傷を負うだろう。それでも彼らは決して憎まないだろう。通じないという現実に希望も期待もしていないから。好きな人ができたとき以外は。

非対称と知りながら言葉を奪う。そんなつもりはないと知っている。それでも痛みが重なればその時の驚きは被害に変わりうる。必死で確認してきた希望や期待が単なるごまかしだったように思えてくる。

混乱したままでも動く必要がある。動こう。これは年をとるとわかる。多分混乱しすぎなければ傷つきを傷つきのまま誰かに向けてしまうことはない気がする。先のことは何もわからないけれど。