「こころをつかう」という表現が苦手だ、ということは以前にも書いた。こころって誰かが使えるものではなくて常に受け身だと思うから。心揺さぶられたり心苦しくなったり。たとえ能動的に誰かを心から締め出したくなったりしたところでそんなことはできないから私たちは苦しむ。もちろん苦しまない人もいるだろうけど、私は、そして私が会っている人たちはこころなんていうあるんだかないんだかわからないけどたしかに自分の身体の内側でうごめているものに苦しめられたり、色々している。
色々と雑に書いたのは苦しいだけではなくて、そこから救われたと感じたり、誰かへの愛しさでいっぱいになったり、心白くなるほどに自分や相手を区別しない瞬間もあると知っているから。
首都高の真下の寒椿、手入れのされていない枯れ木にまみれて小さな赤い花をたくさんつけていた。たくましいなと思った。もっと栄養を与えてもらったら、もっと別の場所に植えられていたら、と一瞬思ったけど、これはこれでこうして私が目を止める鮮やかさで咲き、人知れず散っていくであろうことにもなんの想いももたないのだろうから私の大きなお世話は素直に「たくましいな」「かわいいな」でとどめておくべきなのだろう。
花の名前も鳥の名前もそれらをいくら愛でたとしても覚えることができない。でもそれが特に必要というわけではない。いつも似たような人の似たような行動に似たようなことを感じてばかりいるわたしの「こころ」なるものがどうあろうと、わたしになにがなくともそこにいてなにかを感じさせてくれる存在をありがたく思う。
時間は有限だ。どうであってもいつか終わる。今日のわたし、今日のあなた、今のこころ、なにがどうなるのかまるでわからないけれどこうしている間にも太陽は少しずつ高いほうへ。私の小さなオフィスに差し込む光とそれが作る影もいつのまにか姿を変える。「いつのまにか」動かされるこころのようなものを静かに感じながら今日も過ごせたらと願う。