『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』
長い。書名が。しかしそのままの本だ。「一般男性」が括弧つきである理由は「はじめに」を読めばわかる。読み終えると「男らしさ」にも括弧をつけたくなるかもしれない。
著者の清田さんは「桃山商事」という恋バナ収集ユニットの代表だそうだ。主に女性たちの話をたくさんきいてこられた。
(こんな記事もありました。ユニーク。)
そのなかで著者は、彼女たちが発する「男の考えていることがよくわからない」という声に賛同し、この本ではその男性たちが「何を感じ、どんなことを考えながら生きているのか、その声にじっくり耳を傾け」る作業を行っている。もちろん、著者が聞いた女性たちの「男の考えていることがよくわからない」という声は、特定の男性を思い浮かべるところに端を発していると思われ、本書に登場する男性たちもその彼女たちの特定の相手ではない。しかもたった10人の男性たちが「男の考えていること」を代表できるはずもない。自身でインタビュアーも務めた著者も当然そこに「それぞれの人生」という固有性を見出す。しかし同時に「驚くほど似通った価値観やメンタリティが浮かび上がってくる瞬間」も多く体験したという。
読者が本書を読んでそれを体験するかどうかはわからないが、私は読んでいてそれぞれの語りごとに思い出す顔があった。このインタビューは、著者の細心の注意によって加工されている。私たちの仕事における多くの症例報告がそうであるように、そのような加工は素材の生々しさを剥ぎ取り、第三者に伝わりやすい形にそれを変形する効果がある。つまり、こうして抽象度をあげることでより多くの人がそこに自らの体験を投影しやすくなる。私が自分の知っている顔をどの話に対しても思い出したように。本書の表紙のイラストにもそのような意図があるのだろう。三十三間堂で自分に似た顔を探せてしまうのも私たちのそういう性質ゆえだ。
とはいえ、このインタビューは「男性たちの正直な気持ちを知ることを目的とするため、質問や相づち、個人的な価値判断などは一切入れず、それぞれ「語りおろし」という形でありのままを伝えられたら」という考えのもとになされたと書かれてもいる。誰もが知るようにありのままという言葉は厄介だ。このありのままにも著者自身が即座に括弧をつける。言葉は語られてしまえば独り歩きする。「ありのまま」にはあっというまに色がつく。ある人にとっては我が事のようであり、ある人にとっては普遍的な事柄として、あるいはある人にとっては、、、と。
昨年『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房)という大変軽妙で悩ましく、しかし他者と社会の中で生きる希望をくれる本(必読!)をだされた社会学者の朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)という本がある。私も仲間に勧められて読んだ。朴沙羅さんの父親は在日コリアンの二世で、母親は日本人だ。父は10人兄弟の末っ子、つまり朴さんには在日一世の9人の伯父さんと伯母さんがおられる。この本は、その「面白い」伯父さん、伯母さんの生活史を聞き取り考察を加えたもので、在日コリアンの人の歴史を知る上でも必読だと思うが、聞き手と語り手の呼吸や語り口、その場の空気が伝わってくるかのような生き生きとした書き方がとても魅力的で、「声」で語ること、それを聞くことを大事にしたい、と改めて思わせてくれる本だった。
一方、この『自慢話でも武勇伝でもない~』は先述したように、一切介入をしないという方法をとっている。そのため、文章がさらさらと流れ「読み」やすく、ひとりひとりの語りが発生する土地の違いのようなものを感じることはできるが、あまりによどみなく、彼らがそれぞれ異なる形で体験したであろう様々な情緒に直接的に心揺さぶられることはなかった。これは著者が「プライバシーの保護の観点から」彼らの語りを加工したせいではないだろう。20年近く、非常に多くの人の語りを聞いてきた著者には相当の具体例の積み重ねがあり、それはこれらの加工によって抽象化されたとしてもそのリアリティを失うことはないだろう。だったら、もしかしたらこのよどみなさこそが、著者が出会ってきた女性たちがいう「男の考えていることはわからない」ということと関係しているのだろうか。わからないが、私には形式の作用というか効果が大きい気がした。
著者は、10人の男性のインタビューの後に得た印象をそれぞれの語りの後に記している。その短い文章が挟まれることで、私たち読者は今読んだばかりの男性の語りに個別具体的な印象を見出すことができる。
著者は、この男性たちの語りはこうだが語られた側からしたらそれは別の語りになるかもしれない、という可能性を常に考慮に入れている。「おわりにー「感情の言語化」と「弱さの開示」の先にあるもの」で、著者は自分が「多数派という枠組みの中で守られ、様々な優遇や恩恵を知らぬ間に享受してきた“マジョリティ男性”だった」ことに気づくまでの著者自身のプロセスを書いている。そして「男の考えていることがよくわからない」と言う女性たちがいう「男」とは「この社会のマジョリティとして生きてきた男性たちではないか」と言う。
著者自身の言葉は少ない本書だが、男性に対しても女性に対しても一貫して流れているのは、これらを読む女性たちのこころの動きに対する配慮に加え、たとえ“マジョリティ”であったとしてもそこに潜むそうではない部分、いわばその人だけが持つ感じ方や考え方、あるいは体験に侵入しないようにという配慮のように感じた。私にはこの配慮が、介入を控えるという形式を採用したことと通じているように思えた。
もう少し具体的に書いておく。もし、彼らの語りがいかにも特定の相手に向けた形で対話の形で記述されたとしたら、著者が危惧するようになんらかのトラウマに触れる可能性は強まるだろう。特に、性が軽んじられたり、暴力的な関係においてはそれらが身体に与えるインパクトに比して言葉は貧困でパターン的になりがちだ。女性たちの「わからない」という言葉が傷つきの体験を伴う場合、その体験の再現にさえなるかもしれない。しかし、本書では彼らの語りを聞く相手の存在を意識しないですむため、読者は自分のペースや距離感でその語りに接近することができ、受身的に内容だけを取り込みながら読み進めることもできる。つまり、話されている内容が陰影や情緒で膨らむには読み手の能動性を発動させる必要があり、読みながら急激に自分の体験を近づけてしまうような、自動的に何かが生じてしまう危険性は遠ざけられる。少なくとも男性同士の対話として記述されるよりは、と思った。
私は、最初、それぞれの語りに対して「これって男性に特有のものなのかな」などと思いながら読んでいたが、身体性の関わる描写が増えるにつれ、違いはたしかに存在するし、お互いの想像力と対話が欠かせないことも改めて感じた。
著者の言葉は、内省的でシンプルで中立的で柔らかい。私が感じたように、読者がするかもしれない負担が減っているとしたら、直接彼らの話をきいた著者のこころがたくさんの作業をしてくれたおかげかもしれない。ただ聞く、というのはなかなかできることではない。
さて、題名に戻るが、もし、男性の話が「自慢話」や「武勇伝」に聞こえるとしたらそれは固有の事情以前に歴史も関係していることも意識できたらと思う。朴沙羅さんの本でもそれを学んだ。そしてもし「生きづらさ」を感じるとしたら、その歴史に対してあまりに受身的に巻き込まれているせいかもしれない、とも考えてみたい。
「らしさ」というのは曖昧なものだ。それをめぐってあれこれするよりも目の前の相手や状況に対する自分のあり方に少し注意をむけてみるのもいいかもしれない。自分が何者であるかはすでに内からも外からも規定されているかもしれないが、結局はなにかひとつの分類におさめられるものでもないだろう。そして自分のことをこうして静かに聞いてくれる誰かに話す機会を持つことの重要性も思う。たとえそこに多くの間違いがあったとしてもそれはたやすく個人の問題に還元できることではない。小さな声で届く範囲でなされること、それがより広い視座をもたらしてくれる可能性はこうして実際にあるのだから。