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精神分析

ブラインド、候補生、責任

冷房が効きすぎないようにドアをほんの少し開けておく。ほんの一筋なのに朝日が眩しい。ドアを出てドアを閉めた。リビングのブラインドはいつからか反対向きにできなくなってしまった。だから完全に陽射しを遮ることはできない。間取り的にそんなに不便はないがこの夏の間だけは「閉まらないかなあ」と何度もブラインドの紐を引っ張ってしまう。引っ張りすぎて動かなくなったのかもしれないがもう何年にもなるから記憶がない。

外に出すことはない仕事ばかりしているけど日々工夫しながら静かに格闘している、お互いに。臨床家としてはもう結構なキャリアになってきて教える立場にもいるが精神分析の世界ではまだ候補生だ。候補生になるにも分析受けたり面接受けたり要件を満たさなければならなかったし(なによりお金と時間を準備しなくてはならないとがんばっていたが今だったらそれはやりながらでなんとかなると知っている)2016年に登録されてもう7年。生活を送りながら訓練をすることは大変でしょう、と言われるけれど精神分析の世界はリズミカルなのではじめてしまえば忙しいだけでむしろ手厚い環境の中でいまだにこれだけの新しい体験ができるなんてすごいことだと思っている。訓練を重ねれば重ねるほど驚きは増える。ただ身体に対する不安は増えた。最近なにはともあれ感覚器官が衰えないうちにやってみてもいいのでは、そんなにやりたいのであれば、というアドバイスをしたりもする。基本的なことは大事だ、という認識に常に立ち返るための訓練としてその行き着く先は身体ということか、とかくと大袈裟だけどみんなそこそこのキャリアを積んでから候補生になるので精神分析家になる頃には自分に残された時間というものを意識せざるを得ないと思う。実際、子どもたちの成長や健康の話ばかりしている。精神分析家になれたとしても訓練分析家になるまでにはまた色々積み重ねていかなくてはならない。それもとりあえず生きて目や耳が使えることが大事。多くは必要ないが必要な事柄はある。

なので、もう子供ではないので、親世代に何か責任を求めるようなことはしない。環境のせいにすることがどういうことかということも精神分析を患者としても治療者としても体験することで実感できてきた。法的な責任を除いては責任というのは権利として自分の側にあると思う。立場が危うくなるとしてもそんなことわかってて身体を張って行動しているとエアリプのようにあの手この手で攻撃を受けたりもするが自分の責任で動いているのだから煩わしさはあれど大切にしていることが揺らぐことはそんなにない。責任を持つという権利を行使することを見守ってくれる環境を知っているから言えることではあるけれど。

環境と対象の使用について、直線的な歴史を自分の体験としての歴史に書き換えていくことについて毎日考えている。

今日も朝から晩まで長い。昨晩、友達が月に感動していた頃、オフィスの窓からはまだ月は見えなかった。仕事を終えて窓の外をみたらとても明るく丸い月がすっきりと浮かんでいた。今日も見えるだろうか。どうぞそれぞれに良い一日を。熱中症に気をつけて。