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精神分析

夏休み、雷雨、Mahalel, A. T. (2023)を読むなど。

昨晩はクーラーをつけずに南側の大きな窓を半分だけ開けていた。網戸がついているのが半分だから。月がきれい月がきれいと毎日言いながら帰ってきているが昨日もいよいよ満月らしく月の写真をあげている人がたくさんいた。私も。一昨日は一昨日の朝の空の写真をあげている人がたくさんいた。私も。陽射しは強いのに鱗雲に「秋になっちゃった!」と何回もシャッターを切った。とりたい方向をむくとどうしても太陽が目に入ってしまいしばらく目がぼやけていた。いけない。今朝はまだカーテンを開けていない。蝉の声がクーラーの音の向こう、カーテンの向こうに聞こえる。ああ、逗子に行きたいな。逗子の岩場をぴょんぴょんどんどん進む子どもを何かあったら自分が殺されるよー、と私にいいながら友は声かけをしていた。子はとても人間らしかった。海沿いの食堂の駐車場でワカメを買い、小さな市場で魚を買った。帰れば父親が捌いてくれる。海で育つというのはこんな感じなのかと山育ちの私には眩しかった。その子ももう中学生。海を見下ろす山のお家に遊びに行きたい。葉山の美術館も行きたい。彼らのおかげで逗子葉山はとても身近になった。鎌倉へ歩いていく道もわかる。子どもたちが夏休みに入ってから自分はいつも通り毎日朝から晩まで仕事しているのにどこかへいくことばかり考えている。気持ちだけ夏休みでなんだか得した気分だ。今年はいろんなお祭りも久しぶりの開催となる。仕事で阿佐ヶ谷へ行ったら8月4日から始まる阿佐ヶ谷七夕まつりの準備が始まっていた。大きな吹き流しがしゃらしゃらと音を立てるなか小さな赤ちゃんを抱っこしたお母さんが「サラサラいってるねえ」と話しかけながら通り過ぎていった。当日はとても混雑するだろうけど準備期間の朝もいい。長く通っている街なのにこんな光景ははじめてだったかもしれない。開催期間中に少しだけでも寄りたい。

昨日はIPAジャーナルのおすすめ記事を教えてくれるメールに先日ここでも取り上げたアナト・ツール・マハレルの名前を見つけた。早速読み始めた。フロイトの夢思考とベンヤミンの弁証法的イメージとDenkbildを再検討しながらそれらが表象不可能な表象をどう書き出しうる(表現ではなく)か、つまりトラウマの歴史を追憶するための空間を作り出すことは可能かという問題意識のもとに書かれた論文らしい。ここではフロイトとベンヤミンの後期の著作をナチスの台頭に直面したヨーロッパのユダヤ人知識人の文脈で取り上げられており素材となるのはフロイトのlast Moorish kingとBenjaminのangel of historyである。経験を言葉にしていくことと歴史を構築していくことは常に表象不可能なものとの格闘だ。そのための視点のひとつを提示してくれる良い論文だと思う。

Mahalel, A. T. (2023) The Visual Image and the Denkbild: Sigmund Freud and Walter Benjamin on History and Remembrance. International Journal of Psychoanalysis 104:527-545

昨日は突然のものすごい雷雨の中避難場所として入ったカフェで「一つだけ空いている」と通してくれた席で一気に読んだが目が一気に悪くなっているので文字を読むのは苦痛だ。あのくらいの異変が環境側に起きていたからこそ安定を図るために身体が何かしなくてはと動いてくれたのかもしれない。自分のことなのにままならぬことよ。空が再び明るくなってからカフェは一気に空いた。

おなかが空いた。今日はどこのお土産だったか。葛餅があるのだ。紅茶入れちゃったけどお茶ももらったんだった。せっかくだから入れ直すかな。でもお茶のパック開けるのもったいないなとかいっていないで資料の手直しと印刷をせねば。あー、ということで8月2日。なんとか過ごしましょう。