久しぶりに明るくならない朝。グレーという時点で夜よりはずっと明るいけど。今日は曇時々雨らしい。天気予報のアプリでは雷注意報の⚡️がついている。
朝から晩まで働いて家に着くともうかなり遅いので積み残した作業は朝やるしかない。夜のうちにやっておきたくてもダラダラするばかりで全く進まないので睡眠時間にしたほうがいいとなる。朝の作業はなんの苦もなく機嫌よくできる。
とまで書いて別のことをはじめてしまった。ここは何も考えずに一気に書けることしか書かないのだけどその短時間ですらもたなかったのか、と注意のそれやすさに苦笑する。ちょっと別の部屋へ行った時にちょっと気がかりなことを見つけたからだろう。ついでにスマホで処理水に関する記事を読んでいた。
昨日「ウィニコット「移行対象と移行現象」(1958 )を読み直してウィニコットってモーニングワークについて、つまり抑うつについてどう考えているんだっけと「原初の情緒発達(1945)に戻る。」と書いたhttps://twitter.com/amisoffice1/status/1693397880621662657?s=20
どちらの論文も北山修監訳『小児医学から精神分析へ ウィニコット論文集』(岩崎学術出版社)に収められているが「移行対象と移行現象」は2015年に改訳が出た『改訳 遊ぶことと現実』にも収められているのでそちらで読んだ方がいい。ウィニコットの論文を読むのはフロイトの論文を読むよりもずっと骨が折れる。言葉にできないことを言葉にしようとするときにどんなことが生じるのかを読者に体験させることに関してはウィニコットは成功していると思うが、これを普通に読むだけではほとんど理解ができない。私の主催するReading Freudに出ている人はウィニコットの読書会にも参加しているがこれまで難しくて敬遠してきたフロイトがウィニコットより「読める」ということには同意する。ウィニコットは読者に乳児や乳児とユニットをなす母親に備わっているような創造力を要求する。これがどれだけ骨の折れる作業かは普通に育児を想うだけでわかるだろう、経験者であればなおさら。その大変さが否認されまくって母親に責任を取らせているのが現状だろうけれど。さて、フロイトと異なるのはウィニコットが言葉にしようとしている言葉にできないことは「原初の」状態であり、精神分析状況における二人が体験する非常に激しく厳しい側面であるということだ。「移行対象と移行現象」においてウィニコットはこの論文は「対象というよりも、対象を使用すること」について書かれたものであり、そこに含まれる「逆説」が「受け入れられ、耐えられ、尊重され、そしてそれが解決されないように求めている」と書いている。「対象というよりも、対象を使用すること」に関するさらなる考えはもっと後に展開されることになるがウィニコットがいう「逆説」はこの論文の数年前に書かれた「原初の情緒発達」においてはほとんど精神分析状況、つまり転移状況における愛と憎しみの分かち難さにおいて衝動的に行動しないこと、思考することとして記述されていると思う。ウィニコットはそうとははっきり書かないが精神分析を体験した人ならその状況がいかに耐え難いものかしかし耐え得るものかそして耐える価値のあるものかを知っているだろう。ウィニコットはまだ見ぬそこへ向けて希望を持つという無意識的努力を読者にも要求しているのかもしれないが、ウィニコットの人気はBBCラジオなど一般の人に向けた講演や講義ゆえではないだろうか。もちろんウィニコットの語りが小児科医としての豊富な臨床体験だけでなく精神分析体験に裏付けられているゆえでもあるだろうけれど。ウィニコットを読むためにはフロイトとクラインを読むことが必要だ、というのはウィニコットを読めば読むほど痛感されるものであり簡単に推せる相手ではないことは確からしい。