夜と朝の風が冷たくなってきた。日中はまだ暑いけど。
SpotifyでThis is 石若駿を聞いている。今思えば柳樂光隆の記事をその人の記事としてきちんと読んだのって石若駿に関する記事ではなかったか。友達に紹介したくて転送したんだ。今急に思い出した。まだみていないがジャズ漫画が映画化された「BLUE GIANT」の音楽を上原ひろみが担当し、石若駿もドラムで参加。先日の柳樂光隆によるインタビューもすごく面白かった挾間美帆も参加。すごくいいサントラ。サントラって今もいうかな。石若駿率いるバンドしてはSongbook Trioが好き。
「〇〇って今もいう?」っていう会話が増えた、と母に言ったら母が笑った。母が何かの単語を使ったあと「まだ関西弁が残ってる」といったあとのおはなし。それは関西弁がどうか怪しい、母には母語(ははご)があるから、と私は言った。母は笑った。母語(ぼご)といったら私たちの場合は日本語だが狭い意味での母が使うという意味での母語が我が家にはあった。私も普通に使っていたら周りに笑われたりして「えーこう言わないの!?」となったことが何回かある。父語もある。おいおい、きちんとした言葉使っておくれよ、だからこんなんなっちゃって、なんて父母のせいにしない(当たり前か)。数えられる程度の語彙がいまだに思い出話として残っているのだからそのインパクトは大きかったに違いないが。
自分が住んでいる街のことを住んでいる人が馬鹿にしちゃダメだよ、今度帰ってきたら再発見してもらおう、名古屋で遊ぶのが不思議と難しいのは「何もないから」ではないよ、だって奈良すごく楽しかったじゃん。平城京の空、すごかったものね、ねー、タクシーの運転手さんの話も。あそこであべさんがね、建物っていいわね、ねー。
隣の市の市役所の展望台から住み慣れた街を眺め、地上に。自分の住む街と比較したくなるのもわかる。私が育てられた街でもある。段差の少ない歩きやすい道を案内しながらゆっくり歩き、話す。さまざまな苦労のなか、私たちにいろんな体験をさせてくれた感謝を織り交ぜながら。東京にもあるデパートのローカルな喫茶店でフルーツパフェを頼んだ。二人でパフェ食べるのなんてはじめてだよね、と。お互いがパフェを食べている姿なんて見たことないのではないか。10代後半、当時の彼とMY CITY(今はルミネエスト)の多分2階、今もカフェがあるところのカフェで大きなパフェをよく食べた。荒井注が隣で一人でパフェだかなんだかを食べていて彼が興奮して小さな声でそう伝えてきたのを覚えている。私はドリフは見ていたけど誰が誰だかあまりよくわかっていなかったから「そーなの!」という表情だけして「この人が、そうかー」と思っていたに違いない。大体いつもそんな感じだから。阿部寛が隣にいたときも私は全然気づいていなかった。なんだか大きくてかっこいい人と電話ボックス(知ってる?)で隣り合ったのだ。今思えば向こうは撮影の合間だったのだろうけど。東京に出てきてからのそんな日々を母は知らないけど話ならいくらでもできる。生きている間は。どちらかが死んじゃっても話すのかもしれないけど。みんなが少しずつ時間をずらしながら死ぬことは当たり前ではないんだな。たくさんの人が一気に亡くなることの言葉にならなさ。辛い。震災も、戦争も。今日の東京の空は静か。月曜日、いってきます。