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精神分析

謝罪とか言葉とか。

古田徹也『謝罪論』(柏書房)を前に謝罪のメールを書いた。たまたま読んでいる途中で置いてあっただけだが。古田徹也はこの本でも「小さな子どもに「謝る」ということを教える場面を想像してみよう」と子どもと大人のやりとりから始める。2022年10月にでた『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)の冒頭は幼稚園に通う娘さんとのやりとりで、これが本当に心つかまれるものだった。今回は単に子どもが言いそうないくつかのことが書いてあるのだがこれが早速生き生きしている。言われればどれも聞いたことのある台詞だがスラスラと書き言葉にできるのは生活で子どもと密に関わっている人だからだろう。私は古田徹也の著作や講義のおかげでウィトゲンシュタインに触れ続けているが『このゲームにはゴールがない』もウィトゲンシュタインと自由に距離をとりながら対話する書き方がすごかった。「子どもが「痛み」という概念を習得するプロセス」とか「子どもが言語ゲームを始めるとき」など「心」って、「心をもつ」って、ということが詳細に議論されているのでこちらもすごくおすすめ。にしてもこれにしても『謝罪論』にしてもめちゃめちゃややこしいことによくここまでピタッとくっつきながらいくつかの視点から描き出せるよなあ、と思う。子どもの言葉も生き生きと描き出せるわけだ。『謝罪論』も最初から謝罪のややこしさがすごくわかるから「もう謝罪という言葉を一度なくしてみたほうがいいんじゃないの?」とか思わなくもないが、そんなことをしていたら多くの言葉が消滅してしまう。というか言葉は取り消し不可能だからこうやってややこしい議論をしなくてはいけなくなるのだ。難しい。ややこしやー。「すみませんではすまないんだよ!」みたいなこと言いたくない。内心「私何ややこしいこと言っちゃってんだろう・・・」と思うだろうし。とにもかくにも下訳をお送りするのが少し遅れます、という謝罪メールを書いた。クスン。思ったより時間が取られていて困るが小さなお出かけもしながら息抜きだけは上手にやっている。言い方を変えればサボるのだけはやめられないってやつだ。「サボる」って言葉もさ、とか始めたくなるがそんなことしてるから時間がなくなるのだ。今日は少しだけ遠くへ。電車の中で頑張ろう。みんなー、と意味もなく呼びかけたくなるなあ、今日は。対面で会える日々だけどコロナもインフルエンザも本当に流行っているからお気をつけてお過ごしくださいね。では。