かりんと饅頭、美味しい。やっぱりかりんと饅頭は美味しい。「やっぱり」をつけるなら「かりんと饅頭は美味しい」は一回でいいよね。熱い緑茶といただきました。
女の権利が脅かされる出来事って事件化されていなくても第三者に話せば「ひでえな、クズだな」と言われるようなことは色々ある。たとえば、妻、愛人、ビジネスパートナーと都合よく使い分けをしていることを搾取として自覚しないどころか、こっちには怪我をさせたけどあっちにはしていないから大丈夫、となかったことにできる「俺倫理」を持っている知識人もいる。また、単なる快楽の種類に基づく使い分けをみんなを少しずつケアしてあげてるつもりでいる勘違いフェミニストである賢人もいる。しかし、都合よく扱える女が複数いても足りないこともあり、SNSで「がんばる」宣言をして「いいね」をもらわないとがんばれない50代もいる。この例は、女は数ではないということを示してくれてはいるが、その場しのぎの部分利用でそこそこ満足できればそれで構わないので、そういう自分のあり方についてはどうでもいいらしい。複数の人を「ケア」しているつもりであるがためにダブルブッキングなどスケジュール管理できなくなって苛立ったり自己嫌悪に陥っている人を見たときは、この人その前に何か感じないんだ、と思ったりした。彼の主観としては「まさか俺様が女を見下したり傷つけたりするなんて」という感じだろう。女の方も見下されていると思いたくないので美味しいもので「満足!」となかったことにしたり、それこそ身体的な満足を優先することもあるのでお互い様となってしまう場合もある。相手を部分利用するだけではなく、自分をスプリットさせる防衛を使ってしまう。ナルシシズムが傷つかないための防衛は次から次へ発動する。傷ついてもそんな人が支えてくれるわけはないし、そんな人と関わっている間に失ったものにあとから気づいても戻ってこないのだから難しいことだ。人が健康に一人の全体として大切にされながら生きる時間を奪っておいて平然と快原理、一次過程優先でいられるのも人間だし。残酷。など事件化されない出来事にも事件になるものと同じ芽が潜んでいるとみて基盤となる構造は同じでもたまたまそれが表面化しないような環境があったとかなかったとか正当防衛とかいって責められる前に責めておいて黙らせるとかいろんなふうに出来事は処理されるわけだし人間関係は厄介だ。
今日も色々あるでしょう。自分を大切にがんばりませう。