明け方のまだ暗い空に大きな布を広げよう
透かしてみえる小さな世界
混ざってく光がまだら模様
ー石若駿 feat.角銅真実 「Asa」 (『Song Book』収録)
石若駿のプロジェクト『Songbook』シリーズは本当にいい。角銅真実さんの声がとても安心する。お二人は藝大で打楽器を専攻した先輩後輩関係にあたるらしい。
精神分析学会でも音楽を取り上げるとのことで聞こうと思っているがまだきちんとチェックしていない。Institute of Psychoanalysisでも象徴化されない経験の新たなコンテイナーとしての音楽ということでセミナーがある。バイオリニストのSara Trickeyがバッハのthe Chaconne for solo violin from the Partita in D minor by Bachを演奏してくれるらしい。精神分析で音楽を語るとしたら特にこの曲だと反復が重要になってくるのかな。フロイトはグスタフ・マーラーの分析はしたけど音楽に親しむ人ではなかったらしい。フロイトの部屋に音楽関連の機材ってあったっけ。あとで写真を見直してみましょう。
先日、友人にコロナの症状に「風味がわからない」という症状が残ることがあると聞いた。「風味!」と驚いたが抹茶風味のチョコレートのチョコの味はわかるのに抹茶の風味がわからないという話を聞いてなるほどと思った。そして日本のお菓子や料理がいかに風味を大切にしているかという話になった。またこれも一例だがコロナで味覚障害になった人が回復するときに甘味と酸味を最初に取り戻したという。これも動物としての人間を実感するエピソードだった。母乳と腐った食べ物の対比を思い浮かべたからだ。そして今度は母乳を飲まない赤ちゃんの話になった。お母さんも赤ちゃんも双方大変だろう。これは腐っているぞ、食べさせてはいけない、という嗅覚を働かせるのは母親のほうであり、早期の母子はやはりユニットとして存在しているのだ(cf.ウィニコット)と思わざるをえない。もちろんその役割はすぐに父親にも共有されるだろう。
そうだ、これも今書かなければいけないもの(全然書けない)で取り上げようと思っているのでメモがてら書くが、精神分析家のビオンが1978年7月3日のタヴィストック・セミナーで
「私たちはこの残骸すべてを見て、その中に何らかの生命の火花vital sparkを探知することができるでしょうか」(2014, p.54)
という問いを投げかけている。
ウィトゲンシュタインは
「私が変化しない二つの顔をじっと眺めていたとする。突然、両者の類似性が閃く。こうした経験を、アスペクトの閃きと私は呼ぶ。」(私が引用したのは古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHK出版)p274)
「アスペクトの閃き」というのはビオンのいう「直観」ときわめて近いものとして私は実践にもとづく感覚から捉えているがそれによって捉えたものをどうするか、ということについても考える必要がある。あくまで患者「と」の体験である精神分析においてどちらか一方が何かを捉える(それだとおそらく「理解」の範疇)ということはない。その二人の体験には必ずぶつかり合いが生じる。ビオンが「火花」という言葉にその事態を含んだかどうかはわからないが理解ではなく体験を重視したのは確かだろう。
ということで書かねば。
どうぞ良い一日を。