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俳句 読書

風、俳句らしさ

キッチンの窓を開けたらカーテンが少し揺れた。でも風は入ってこない。多分南側の大きな窓を開けたらスーッと涼しい風が入ってくるだろう。開けてみた。入ってこなかった。そして暑い。空を見ると秋を感じるのに気温が秋を感じない。残暑というには情緒が足りない。いや、情緒は外側を捉える自分の方にあるとしたらそれは私側に足りない。冷房の温度を下げるのではなく扇風機をつけた。風を欲している。台風ではなくて。

投句の〆切が重なった。今回も一気に作って推敲しないまま出すことになるがなんとか数は揃った。「推敲の時間が楽しい」とか言えるようになりたいが間に合うように作っただけよしとする。

岩波書店の月刊広報誌『図書』8月号を本屋さんでもらってきた。日本文学研究者で翻訳家のディエゴ・マルティーナの文章を読んだ。「ウンガレッティの“俳句”と感性」。webでも読める。「俳句らしい何か」とは何か。ウンガレッティという人はイタリアの詩人だそうだ。ここには彼が第一次世界大戦の戦場で書いた詩がのっており、これは自由詩か俳句かという話がされている。そもそもイタリア語なのに、と思うかもしれないが、近年、俳句はイタリアでも人気があり、翻訳された句集が書店に並んでいるという。もちろんディエゴ・マルティーナさんが翻訳した句集も。そしてなんと教科書にも授業にも取り入れられているという。

私も小6のときに授業でやった。覚えているのは塾の宿題。はあ、作らなくては、と今と変わらない感じで575、57577を組み立てる。俳句と短歌を作る宿題だった。短歌に「ひまわり」を使って俳句に「月」を使った、ということは季節はどっちだ。ちょうど今頃の宿題だったのだろう。俳句は母に叱られてしょんぼりした気持ちのまま月を眺めながら作った。俳句のことは575で作る以外わかっていなかったが、つまらない俳句であることは自分でもわかった。しかし、創作する楽しさが少し湧いたのか、その後に作った短歌は結構大胆にできて大層褒められた。昔から単純だったのだろう。私はいまだにとりあえず575、そして当時よりは季語を意識して作るくらいのことしかしていないし、詩人でもないから、これが俳句か詩かなんて問いも立てる必要がないのだが俳句の先生は俳句の中に詩を感じることが大事だとおっしゃるし、特に分ける必要もないのだろう。ディエゴ・マルティーナさんの文章もそんな結論を導いている。

あ、洗濯物ができた。外に干そうかな。昨日は夕方の風は気持ちよかったけど朝は暑かった。今日もそんな感じかな。どうぞ良い1日を。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生