曇り空。虫の声が減った。七十二候では蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)だから?春頃の蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)と対となる言葉。でもこの場合の「虫」は蛇かな。秋の虫は死んでしまったのかしら。そのままどこかに身を潜めて冬を越せる虫もいるだろうけどあんなに高らかに鳴いていた虫たちはどこへ?「卵で越冬」というけどそれは卵を産みつけてその子が越冬するということだよね?まさか自分が卵に戻ってしまわないよね?でもさなぎになるときは幼虫は溶けてしまう(わけではないのか?)のだから卵を産みつけるというのは卵になると言えなくもないか。人間の場合、子供産むこともできる人はできるけど言葉を残せるというのが「卵で越冬」とニュアンスに近い気がする。
最近、日本の戦中ー戦後思想を学ばなくてはと思っている。2024年4月からの朝ドラ『虎に翼』が男性中心ではない人権を一貫して描いたわけだけど、多くの人が胸打たれたのは自分がしてほしかったのにされてこなかったことに光が当てられたからだと思う。そしてそれが法という言葉に、あるいは人と人とのやりとりで言葉になっていくことの良さと難しさ、その葛藤を描いたのも個々人が何に価値を置いているのかは人それぞれであり、それが明確になることで協働が可能になり、言葉にすること自体が次世代に対するその人の態度になるという点で、ここでも言葉は卵だった。もちろんそこから生まれるものはまた別物になるわけだけど。言葉も人も難しい。引き継ぐのは構造だけではない。『虎に翼』で主人公は個人の権利を十分に守られながら育った女性だった。つまりそれは当時の社会を取り巻いた思想から距離を取れたということだと思う。彼女たちは当然法律以外の本も読んでいる知識人だと思うが、少なくとも主人公は本は本として読むことができた人なんだと思う。ある思想への強い傾倒は個人の怒りから生じる場合が多いと思うが、自分の言葉が大事にされている人はひとつの思想に依存することをせずに済む。だとしても当時の空気を作ってきた様々な言説があり、その背景にも様々な哲学や思想があるわけで、それがどんなものだったか、男性ばかりが著者のそれらについて考えてみたいと思った。丸山眞男(1914年生まれ)とか鶴見俊輔(1922年生まれ)とかは読んできたけど私は彼らの背景を知らないし色々繋がっていない。そしてとりあえず法と宗教、日本の場合だと天皇制を絡めて考えられそうな本ということで南原繁(1889年生まれ)、橋川文三(1922生まれ)を読んでみた。もっと読みにくいかと思ったら全くそんなことはなく、橋川文三の本は書き方からして学びが多い。が、読んだそばから忘れていくので日本の思想の歴史が私の中で繋がるのは相当先だろう。私自身の背景をなすものとして意識して学んでいきたい。
今日も眠い。なんとかがんばろー。