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読書

冬がきたり『黒人理性批判』を読み始めたり。

お茶と羊羹でのんびりした。早朝が終わりつつある。部屋の気温もまだ低いはずなのにやっぱりまだ大丈夫。でもやっぱり寒いと身体が確実に変化を起こす。きちんとメンテナンスしないと。してもしても何か起こる年齢かもしれないけど対症療法でいけるならそれはありがたいことだし。

昨日、また本屋さんへ寄ったらAchille Mbembe(アシル・ムベンベ)の『黒人理性批判』が出ていた。宇野邦一訳で講談社選書メチエから。あまりパラパラできなかった。最初から視線を固定してきちんと読まないといけない本だった。待っていた本でもあったのでオフィスに戻りながら電子書籍で購入。少し安い。フランス語は英訳を介さずに訳されている本がいい。やっぱり言葉へのこだわりが違うし言葉が持つ歴史などそこにこめられているものを知っている人の翻訳はそれだけで勉強になる。著者のアシル・ムベンベはカメルーン生まれ、パリで学び、アメリカでも教え、アフリカに戻って活躍する哲学者・歴史学者・政治学者。一文一文の積み重ね方がすごい。ハイライトでいっぱいになってしまいそうだから途中でハイライトするのをやめた。ゆっくり読もうと思う。

みかんとキウイをもらったので早速みかんを一ついただいた。すっきりした甘さ。冬だねえ。冬は本当に辛いけど食べ物は本当に美味しい、というか食事のときに幸せを感じる瞬間が増える。しみるなあ、と。にしても今朝はなんだかバタバタなのでとりあえず行こう。どうぞ良い一日を。

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映画 精神分析 音楽

北村紗衣連載、『8 Mile』、『女の子のための西洋哲学入門』、NewJeans

朝焼けが始まる。細い月も東の空に。今朝は河口湖の金多留満(きんだるま)の富士山羊羹。京柚子味。包み紙では金多留満は「多」に濁点がついている。洋菓子みたいな包みなんだけど出てくるのは富士山。京柚子味は透明な黄緑。さっぱりな甘さで美味しい。あ、でも結構甘いかも。でも美味しい。なんといってもきれい。河口湖の定番土産。湖は囲いという感じでいい。琵琶湖くらい広くなってしまうと海みたいだけど遠くても先が見えるってなんか安心するのかもしれない。昔、バド部の合宿で行ったのは河口湖だったか、山中湖だったか。あの時みんなでもっと観光も楽しめばよかった。ひたすら練習をしていた。といってもサボり好きの(ゆえの)弱小チームだったからみんなでワイワイしにいっていた感じだけど。それでもひどい筋肉痛でフラフラになるくらいには練習した。その後、バド部はすごく強くなってしまったそうだ。あの頃の私たちはなんだったんだろう。隣のチアがマドンナの曲で準備運動をしているのに合わせて踊りながら打ったりゲラゲラ笑ってばかりでひたすら呑気だった。ある試合で私が相手のエースになかなか点をあげなかったら(といってもひたすら拾うだけのミス待ちで時間がかかるだけで着々と点は取られていた)相手チームが泣き出して(最初はこちらを笑ってたのに)かわいいユニフォームの女子大を舐めているな、同じ女子なのに、と思ったこともあった。弱小だからせめてユニフォームはかわいくしたのにそういうのがムカつくみたいな感じなのかしら。今はあんなの着られないから(シンプルな白のミニスカートタイプってだけだったけどね)着ておいてよかった。今またこの歳で筋トレはじめて数十年ぶりにひどい筋肉痛を経験しているけど今週は関節痛。痛みは増えるものだ。減らし方も学んできたが関節痛の対処はよくわからないから様子見。身体がなんとか健康を保ってくれますように、いうのが一番の願い。

前にも書いたけど『8 Mile』が公開された頃、私はアメリカが身近だった。ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドのエスカレーターから大きなエミネムのポスターが見えた。『8 Mile』のエミネムはなんか弱々しくてどこか上品で私は大好きだった。その映画をフェミストで批評家の北村紗衣さんの連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」が取り上げていた。さすが、プロは違う。

「デトロイトの自動車工場ってかつては全米をリードする、エネルギッシュなところだったはずですよね。それがいまや、隠れてこっそりセックスするようなしょぼい場所になっている……みたいな。」

たしかに。唸った。デトロイトといえば自動車工場だった、そういえば。当時の私は白人、黒人という軸は持っていたけど(自分もアジア人として差別されたからわかりやすかったのか?)、当時のアメリカの状況を政治的、歴史的、地理的な文脈(ほぼ全てではないか)で考えたことがなかったし、アレックスのことこんな風に考えたことはなかった。ラビットの母親のことは色々思ったがそれは女として、というより母親としてであって、というか母親は女でもあるという視点がどこか欠けていたと思う。精神分析が持つ父権性や母性を別の言葉で記述できないかという格闘をこうして内側ですることがなければずっと何も思わなかったか、口先だけだったかもしれない、と思うと恐ろしい。男たちの世界の当たり前を何も感じずに素敵素敵と言い続けることすらしたかもしれない。誰々にもいいところが、とか、そこじゃないだろう的な表現をしていたかもしれない。ということは当時、このような記事を読んでもあまりピンとこなかった可能性があるということだ。今、読めてよかった。

昨日、アガンベンを勉強しながら「なんか結局男の本ばかり読んでるよな」と思った。分析家仲間とは女が女の分析家の本を読む、ということを続けてるけど。お昼に本屋に寄ると『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』が並んでいた。メリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー編、三木那由他+西條玲奈監訳、青田麻未/安倍里美/飯塚理恵/鬼頭葉子/木下頌子/権瞳/酒井麻依子/清水晶子/筒井晴香/村上祐子/山森真衣子/横田祐美子、共訳の本。「女の子かあ」と思って捲るとすでにそこに抵抗を覚える人に向けた言葉が書いてあった。あえてこういう本を出していく必要があるんだな、まだまだまだまだ。しかし、こういうのだって女の心身をものあつかいするような男の本と並んでいたりそういう人が書評書いたりおすすめしたりするわけで「変わらないよね、世界」とまた失望する。しかしこういう本が翻訳されること自体に希望を持つ必要もある。自分のことは棚上げしないと仕事にならない、というのは実際あるけど重大な問題であるという認識が足りないことに変わりはない。まあ、私もそうだった、という話でもない。色々難しいものだ。自分はどうありたいのか、何を大切に生きていきたいのか、そういうことをずっと考えていくのが日常をかろうじて守るのだろう。

今朝もジョン・バティステの『Beethoven Blues』を聴いている。Be Who You Are で共演したNewJeansが大変そうだ。世界に認められた若者も守れないとしたらこれからどうするつもりなのだ。昨日はイマニュエル・ウィルキンスの口承音楽について読んで考えていたが当たり前の自由を必死に守るための音楽だけではなく、もちろんそこに潜在する自由こそがインパクトを持つとしても、若い世代がひたすら自分のために伸び伸びと発する音楽も早く聞こえる日がきますように。

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イベント 精神分析 音楽

イマニュエル・ウィルキンス、vessel、托卵

空がすっきりした青になってきた。今朝は栗のお菓子と熱いお茶。あったかい。昨晩からアルト・サックス奏者、Immanuel Wilkins(イマニュエル・ウィルキンス)の前作『The 7th Hand』を聴いている。「Lighthouse」という曲に毎回ひっかかる。気に入っている。

今回も柳樂光隆さんのインタビューを読んでから聴いているのだけど今回の記事はイマニュエル・ウィルキンスの

「僕は「vessel」(器)、もしくは何かをアーカイブし、伝えるチャンネルとしての「body」(体、塊、物体)という概念に対する強いこだわりがある」

の言葉から奴隷貿易によってアメリカに渡った黒人がどのようにその文化を継承してきたかなど広い視野へ導いてくれるものとなっている。

精神分析ではビオンの「コンテイナー」を使うことが多いけれど「vessel」という言葉もより身体と近くていいなと思ったりもした。ビオンが見ていた臨床素材が違いすぎるので「コンテイナー」は意識して使わないようにしている。あまりに簡単に使われるようになってしまったものはできるだけ使わないで敬意を保ちたい。

先日、上野の「鳥」展で知ったことをあれこれ披露しようとするたびにすでに忘れていることの多さと記憶の曖昧さに気づく。知ってはいたが何度も気づく。例えば「鳥って方言があるんだって」「へえ」「・・・・」と私が面白いと感じた鳥に関する知見を紹介できない。托卵とメスによる性別コントロールについてはそこそこできたが、托卵のことは知っている人が多いのね「鳥」展にはちょうど鳥が別の鳥の卵を捨てる瞬間の写真もあった。これヒナの段階でする場合もあるみたい。鳥には鳥の進化があって、うわあ、人間と同じ、と思うこともあるけど、人間がこれではまずいだろう、と思い直すことも多い。なんのために言葉を持ってなんのために思考できるようになったかといえば鳥たちみたいに生きられないからなわけでしょう?違う?持っているものの有限性が異なるのに都合のいいとこだけモデルにするのも違うでしょ、と思う。まあ、色々自分にだけ都合良すぎだろ、と思うことが多いからそんなことを思うのだな。それぞれがつたなくてもなんでも自分の言葉で自分の中の矛盾を抱えていけますように。

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精神分析

勉強とかやってみるとか。

昨日は帰ってくるまではそんなに寒くなかった。もう寝ようかな、というくらいにとても寒くなってきた。雨の音も強くなっていた。少し勉強しておかないと、と机の前に座ったが眠くなるばかり。いつのまにか突っ伏して寝ていた。いけない、と思ってまた寝た。再び起きたら結構な時間。寒いのがいけないんだとベッドへ。起きたら洗濯物ができあがっていた。朝はそんなに寒く感じないのが不思議。バタバタ動くからかしら。旅に出ると早朝散歩に出るけど朝だと寒くても大丈夫。最近は冬は南に行くから楽なだけかもしれない。

昨日、勉強しようと思っていたのは、またラットマン(鼠男)とウルフマン(狼男)の関連。せっかく精読しているので深めておきたい。特に、フロイトにおける強迫神経症の病理を攻撃性、つまり肛門性愛の観点から辿ること。ラットマンではもっぱら能動的に記述された肛門性愛はウルフマンでは受動的なものになる。フロイトは肛門に器官として受動的な役割を与えているけど排泄やそれと混同される出産は必ずしもそうでもないだろう。なのでこれはきっと肛門性愛以外でも説明ができるのだが、たとえば「眼差し」という線で考えていっても結局他者の身体を必要とすることは変わらないので別の身体図式で考えることもできるが肛門でもいい、というかむしろわかりやすいし、臨床経験がそうであるならその線で考えるのが妥当だろう。そもそもサディズムとマゾヒズムがたやすく反転するように能動と受動の区別は曖昧だ、などなど。クラインのいう攻撃性もそのあとに確認する。

カウチでの自由連想という特殊な設定を体験する人は少ないが、そこで語られることの豊穣さには目を見張るものがある。それは意味内容の話ではなくて言葉を発すること自体のインパクトから生じる心の動きの複雑さだ。お金も時間もかかるが、いつ死ぬかわからないならなおさら自分に投資することで他者に貢献するという選択も悪くない、と自分の体験から思う。もちろん優先順位は自分にしか決められない。私は10年前の自分のまま生きていくこともできただろうが、今を知っているとあのまま生きていくのはキツかったな、と思う。精神分析家になりたい、とコンサルテーションに訪れる方はいるけど、資格にこだわって結局精神分析から遠ざかる人も見てきているし、精神分析は心理学でも医学でもないので自分の専門性は放っておいて自分の限られた人生のためにまずは投資してみればいいのに、と思ったりする。何度も書くけどお金と時間はかかってしまう。しかし投資というのは目に見えないものにしていることが多いし、精神分析家になりたいならその道は通るしかないけど、その欲望が行動を邪魔するならそれはとりあえずおいておいて自分が何をしたいのか考える場として使うほうが役立つかもしれない。「受けたい分析家がいない」というのも聞くけど「この人がいいよー」という類のものではないし、今の自分と遠いところに行きたいなら、自分で選択したら何かいいことがあるという錯覚こそ遠回りになると思う。どっちにしても一度関係が始まれば幻滅は常に生じるし、こっちじゃなくてあっち、というのはそういうときこそ思うわけだけどその事態をどう超えていくかだろう。我慢する、とかではなく。私が思うに、自分が相手を知っている、ということはないし、自分が自分を知っている、ということもない。どれだけ異質なものに出会っていけるかが臨床の仕事でもあるので、それを生業としている私にはそういうこだわりはなかった。組織には疑いを向けていたから組織に入っていない人に、と通ったこともあったけど結局その体験を通じてIPAという組織に入ったわけだし。何が起きるかなんて誰と会ったとしても何かは起きるし専門家という枠を信頼できるかどうかでしかない。そこから導かれる自分の無意識自体は変わらないと思う。そう思えるのも随分経ってからになるから全然信じられないと思うし、意識の領域であれこれやっているうちは大変だろうけど。信頼性の薄い世界だね。でも今周りに信頼できる世界なんてあるかしら、とも思う。自分が自分を生きるためにはこれこれこうして、というのはなくて、どれもこれもやってみないことには、という話か。今日もがんばりましょ。

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精神分析、本

鳥、鼠男、狼男

朝焼けがきれい。鳥の声を聞く前に暖房をつけてしまった。それでかき消されるような声ではないけれど朝を始めるための色々な音に私の耳が慣れるまではひとつひとつの刺激が強い。すぐに馴染むけれども。名古屋で適当に降りた駅近くの川で見た川鵜と白鷺のことを思い出していた。こちらをすごく意識しているかのような白鷺となんにも興味がなさそうな川鵜の対比もとても面白かった。いつまででも見ていたかった、というか結構長い時間眺めていた。途中、橋を渡るカップルが「まだいる!!」と川鵜を指差して大きな声をあげていたから川鵜にとっても長丁場(?)だったのだろう。田中一村も鳥大好きだったが川鵜の絵は見たことがない気がする。赤翡翠とかのインパクトに埋もれているだけかもしれない。尾長や木菟の絵もよかった。上野の展示よりも千葉の展示が何かこう一村への愛とプライドを感じたな。空いてたからのんびり見られたしね。

さて、昨晩深夜の読書は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)だった。仕事から帰って一通りのことをするとすでに深夜なのだがなんとなく何かをいつもちょっと読む。専門書以外で読みたい本が山ほどあるが教える仕事もしていると気づいたときにまとめておかないと、ということも多い。ラットマンとウルフマンはフロイトの5大症例のうちの二例である。今年度のReading Freudで精読してきた。特に心的両性性について臨床的な実感と生活者としての実感がこもった議論ができたのはよかった。ちょうどいい感じで読み終わりそうだ。来年度は『心理学草案』に戻るが、その良い準備にもなった。強迫神経症は岩波書店の『フロイト全集3』で「心理学草案」の次に載っている1894年「防衛ー神経精神症」1896年「防衛ー神経精神症再論」においてコンパクトかつ緻密に論じられている。ラットマン(鼠男)とウルフマン(狼男)はその後の精神分析理論の展開を生み出す種となった。ヒステリーの受動性と対比される強迫神経症の能動性とサディズム、肛門性愛という欲動の問題などその後の理論化の大きな流れがここに始まる。

今日は腰が痛い。これはぎっくり腰というより筋肉痛っぽいから安心。ぎっくりの痛みが怖くてメンテナンスしているからね。良い一日になりますように。

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精神分析、本

ウィニコットの『子どもの治療相談面接』を読んだり。

空がグレイ。色々心に置いておくにはこのくらいの空がいいのかもしれない。天気予報は晴れらしいのでこんなことを思ったことさえすぐに忘れるかもしれないが。いろんな人との繋がりがあるとここの人たちは今もうひとつ別の場所で起きたばかりのことを何も知らないという当たり前のことをふと思うことがある。知らないことだらけが基本だから自分のことは自分で、というのが大切、と私は思う。言い回しをいくら変えても自分の正しさを手放さないことには何も変わらない。それはイコール間違っている、というわけではないにも関わらず。こちらでいかにも深刻そうな、実際深刻な出来事が生じていても、その場で密かに受け取った全く別の関係からのメッセージに愕然とし心囚われていることもしばしばだ。その場の気分や何かを共有することを強いることはできない。一方、簡単にわかったような顔しないでほしいし、反論されたらすぐ反論、みたいなことが生じる場でも共有を求めたがるのも私たちだろう。自分の思う反応がほしいがために人は自分に没頭しない。人に依存する。それはとても普通のことだ。

精神分析はその人自身が変化を求める限り有効だが、相手がいくら求めたとしてもこちらがそれに協力できないと感じた場合は引き受けることはできない。責任の所在を明らかにし、その多くが自分にあるという話をどっちが言った言わない、あなたのことを思って、自分のせいではない、などの水準でしている間はなかなか難しい。今こうしている自分はもしかしたら、と自分にとってもあり得ないと感じられるけど実はそうかもしれないとも感じる心の動きに直面させられたときに抵抗しつつも取り入れる兆しが見えるかどうかを観察することがアセスメントとなる。

昨日の初回面接を検討するグループでみんなで考えたことを思い浮かべながらウィニコットの依存概念を見直さねばと思って『子どもの治療相談面接』(岩崎学術出版社)を読んでいた。これはスクィグルという描画遊びを使った子どもの初回面接(あるいは、繰り返される初回面接)の記録なんだけど一対一の密な状況を維持することがいかに大事か、そしてそれを邪魔しない保護的な環境がいかに必要か、つまりみんなでその人が一人でいられる設定を作っていくことの価値を問い直される本である。夜も二つのミーティングをこなした後にぼんやり読んでいたのだけど訳者が意図して解説を書かなかったのがとてもよいと思った。私ももう歳なので自分の仕事にもっと没頭したく、最近は、受身的に知識を求めてくる人には別の場所を紹介するようにしている。同じようなことに強い興味を持つ人たちと学術的な議論を深めていきたい気持ちが強い。もちろん私はそれこそ後身のためと思うから。受身的に教えてもらうことが前提となっている人は教えてくれなかった、と言いがちなので(現在、30代後半から40代前半の人たちが「教えてもらえなかった」というのを多く聞いてきた。そのたびに大学ってそういうところなの?と思っていたしそう言ってきた)自分から学びに(私の仕事の場合は臨床実践を含む)いく人たちと作業したい。少なくとも私の世代はそれが普通だったと思う。そういう意味でもこういう本をしっかり読み込んでいくのは楽しい。先人たちの実践と学問的な格闘は凄まじいものがあるのだ。趣味でやる学問なら解説も必要だが自分のやっていることなのだから自分の実践と考えと対峙させながら読む必要があるし、ウィニコットの場合、ウィニコット自身が読者が自由に読むことを推奨している。当然それは好き勝手にということではない、という解説などしたくもないだろう。今はいちいちそういうことをいわないと伝わらないことが多いがウィニコット的な言い回しで読者の自由を許容していくこと、つまりたやすく依存させない工夫が必要なのだろう。そのためにはまず自分、という循環。ということで今日も一日がんばろう。

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精神分析、本

ウルフマン症例

すっかり空が明るい。今朝はのんびり珈琲。あとふわふわのオレンジ味のリトルベル。河口湖チーズケーキガーデンのお特パックに入っていたお菓子。まるっこくてかわいくておいしい。

昨晩のReading Freudは『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)の後半、「ある幼児神経症の病歴より」(一九一八[一九一四])(=ウルフマン症例)の「Ⅳ 夢と原光景 Ⅴ 若干の議論」。精神分析は元来夢解釈の作業であり、この症例は戦前、戦中に書かれた最後の症例だと思う、たしか。フロイトの5大症例はこの時期までに出揃い、その後の理論的変遷の種は蒔かれた、という状態。ウルフマンも財産を失うなどして巻き込まれた第一次世界大戦の時期は1910年にできた国際精神分析学会(IPA)にとっても危機だった。フロイトはアドラー、ユングとの葛藤を抱え、1914年の「精神分析運動の歴史のために」(全13)   では 「以下に精神分析運動の歴史について文章を寄せるが、その主観的な性格や、この中で私に課せられる役割について、誰も驚く必要はない。精神分析は、私がつくったものだからである。」と書かざるを得なくなる。たとえユングが会長であっても創始者は自分だ、ということ。ユダヤ人ではないユングを会長にすることで精神分析をそれではないものにしたのはフロイトであり、というか、学術的な問題と情緒的な問題を分けられないのは精神分析の特徴でもあるのでユングはフロイトと離れられてよかったのかもしれない。学術的な話し合いならともかく、とユングも嘆いていたらしいし。さて、ウルフマン症例も世界大戦やこれらの精神分析運動の影響を受けており、今回読んだ「若干の議論」では精神分析家の中に想定される反論に対してあれこれ議論している。しかし、この議論の争点は私が精神分析学会にではじめた頃に大きく取り上げられていた心的現実とは、という問題でもあり、セクシュアリティをどう捉えるかという基本的な問題でもある。現在はこういう根本的な精神分析概念について議論するということが学会では減っているので古典を読み続け海外のジャーナルから文献を探すのが大切。当時生き残ったIPAに所属する私はそういう話を真剣にしたい人たちに橋渡しすべくこういう活動を細々続けよう。今日は初回面接を事例を用いて検討するグループとか3つのグループがある。大変だー。いいお天気だけど寒いいかな。また篭りっきりになりそうだけど冬の間は諦めましょ。どうぞ良い一日を。

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Netflix お菓子

冬支度、ムーミン谷のお菓子、『天狗の台所』

薄いダウンを羽織ったまま寝た。冬用のモコモコの敷布団も毛布も出したけどカバーをかけるのが面倒で適当に羽布団の上に置いたまま寝た。すでに色々な暖かグッズがベッドに置いてあるせいでぬくぬくのまま朝になった。少し汗ばんだ気さえする。昨日今日と空が明るくなるのが早い気がする。実際、日の出は1分、2分、3分あたりの間隔で遅くなっているはずだから気のせいに違いないが。私がこうしてPCに向かうのが数分単位で遅くなっているのだろう。今朝は時間があるから冬支度を整えるために部屋を温めたり、作業に取り組むための構えを作っていた。寒いと本当に何もする気が起きないのでガンガン温めて一気に作業してから出かけたい。

ハーブティーを入れた。夜寝る前用の。また眠くなってしまうかなあ。実際、あくびが止まらない。お菓子はMOOMIN VALLEY PARKのニョロニョロスティック。結構しっかりしたニョロニョロと同じ棒状の生地に白餡が詰まっている。甘さ控えめ。りんごの味がちょっとするかな。美味しい。袋だけ見るとフィナンシェみたいなのだけど和菓子でちょっと意外なのも楽しい。ムーミン谷にお土産を持っていくとしたら和菓子かしら。

料理をしながらNetflixでなにかしらを流していることが多い。最近は『天狗の台所』。美味しいものの話をしているときに勧められた。確かに泣けてくるくらいきれいで美味しそうな食材とお料理が登場する。そして一条天皇はどんな役でも美しいのね。オンくん役の越山敬達くんがとってもかわいくて驚いたが『Season2』では大きくなっててびっくり。子供は一気に変わるよねえ。思春期になった子たちと昔の写真をみたりしていると自分で自分のこと「かわいー」とかいって懐かしい話をしはじめたりする。それもかわいい。生意気盛りがそういうときだけ子供がえりしたり。複雑な時期には媒介が必要ね。オンくんがお兄ちゃんと距離を縮めていくにはおいしいお野菜が必要だったしね。

さてさてこの週末も色々大変だ。いつもよりは時間あるから冬支度しっかりして臨みましょう。

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イベント 読書

朝ごはん本、松谷武判展

ぼんやり。空の白みが増している。あと一ヶ月で冬至か。急に寒くなった。こうなるのではないか、と思っていたが今年はいつもより身体のメンテナンスをしているから大丈夫なのでは、と思っていたわけでもないがやっぱりダメだった。必要なこと以外ほぼしなくなる。紅茶とお菓子を手にする前に河出文庫『ぱっちり、朝ごはん』を手にとった。黄色の表紙に目玉焼きとハムとトマトとレタスとブロッコリーが載ったお皿が描いてある。ざ、朝ごはん。山崎まどかさんが西荻窪の「こけし屋」の朝市のことを書いていた。懐かしい。憧れの朝市だったが一度も行けないまま店は閉じた。「こけし屋」のモーニングには何回か行ったことがある。西荻窪でコンサルテーションの仕事があるときは毎回それを楽しみにしていた。この本はいろん人が思い思いに朝ごはんについて語っている大変魅力的な本だがこれを読んでもおなかはいっぱいにはならない。今日の私はこれを読んだらなおさらおなかがすいた、さあ、朝ごはん!という気分にもならない。とりあえず暖かいところでじっとしていたい。

オフィスの最寄りは京王新線の初台駅というところでバレエや音楽会などが開かれる新国立劇場がある。私のオフィスは東口で劇場に併設するオペラシティと呼ばれるビルが近い。オペラシティにはカフェやレストランや銀行などがある。あ、そうだ。昨日振り込みに行ったのに別の店へ寄ったら忘れてオフィスへ帰ってきてしまったので今日こそいかねば。それはともかく、今3階のアートギャラリーで「松谷武判 Takesada Matsutani」展をやっている。このギャラリーは良い展示が多く、なによりオフィスから近いのが素晴らしく今回も行った。予想していたよりずっとインパクトが強く、唇と乳房とペニスをひたすら連想させるような膨らんだりめくれたりしているものたちは生々しさはなく、解剖学的だったり、水墨画のようだったり、こういう多彩さもあるのか、と大変面白かった。このギャラリーは広くないので途中で疲れることもなく、結構話題の展示でも平日の変な時間に行く私は混雑に出会ったことはなく、今回も一つのスペースに一人でいられる時間が長くひたすら作品と一緒にいて大変満足した。平面にはできないこの展示をひたすら写真に撮るのも楽しかった。やっぱ写真には、と確認しながら写真でも悪くないか、と思ったり。次回の展示も面白そう。寒くても通り道なら行く気にもなる、きっと。

昨日はメルツァーを通してフロイトを読んでいた。少ししか読めていないが再読なので発見があった。今日も少し読もう。良い一日になりますように。

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精神分析

俯瞰、洋梨、グループ

きれいな空。遠くでカラスが鳴いている。鳥たちは街を俯瞰できるからいいな。中井久夫はいってもいない街の鳥瞰図を知識から書けたと聞いたことがある。患者さんでもたまにこれができる人がいる。これまで会ってきたたくさんの子どもたちの中にもいた。すごく素敵な能力だと思う。書けることがそのまま考えることに繋がるわけではないけれど立体的な思考がなければ書けないわけだから。平面に線もひけない状態を知る私はその状態に共感するわけだけれど。

上野原の「びりゅう館」で買ってきてくれた塩山の洋梨を食べた。常温で食べ頃を数日待っていた。昨晩、お、そろそろ、と思って冷蔵庫に入れて、今朝むいた。つるんと手から逃げられたりしながら。甘くて美味しかった。洋梨は独特の甘さがありますね。

開業して7年経つけどフロイトを読むReading Freud(そのままだけどキノドスの真似)とか事例検討グループを続けてきたのはよかった。心理職の世界は30代になってもまだ自分のことを若手、未熟、と言い続けている場合が多いけど私はそういう話がでるたびにそれでは困るのでは、と言っている。他の職種のみなさんとの仕事ではそういうことはないので臨床の難しさがそう言わせているのだろうとは思うけどあえていう必要もないと思う。なんかそういう言葉が親しみやすさ的なものと繋がっているようで、学問とは、といつもなる。臨床も学問も孤独だし、そこでもがくうちにできる相手が職業上はいい関係になりうるかもしれず、学術的な議論以外の繋がりばかり作っても、と私は思うので、ひたすら難しいフロイトを読み続けるとか初回面接を細かく検討するとかしつづけてきてよかった、となおさら思う。実際、メンバーの皆さんは学問としての精神分析や臨床を楽しめるようになっているし、資格によって何者かであるかを規定しようとする思考とは異なる世界でどんどん力をつけていってほしいと思う。外側からなにか言っていても飛び込まない限りは自分とは無関係だし、時間はどんどん経っていくし、飛び込んでみたら自分たちの想像とは全く異なることが起きているということがわかってあれはなんだったんだろうとなるだろう。今の自分が今どうしたいのかを考え続けることが私はとても大事だと思う。

それにしても頭が痛い。外側も痛い。ぶつけた覚えがないというのも怖い。病気も怖いけど、ぶつけたことを忘れているのでは、と思ってしまうのも怖い。自分の記憶の曖昧さはいつも信用できないけど信用できる部分を活かして今日もがんばりましょう。いいお天気になりますように。

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ルイーズ・ブルジョワ展、共有

きれいな空。まだ濃い。熱い紅茶が美味しい。

六本木の森美術館でやっている「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」へ行った。もっとゆっくりみたかったがエネルギーも足りなかった。かなり疲れたがとてもよかった。27年ぶりの日本での展覧会ということだが、私はこの人の名前は知っていた。彼女が精神分析に長く通っていたので精神分析の文脈で。ジュリエット・ミッチェルが結構最近も取り上げてきた気がする。そしてメルツァーとの共著で有名なメグ・ハリス・ウィリアムズも彼女について書いている。ジュリエット・ミッチェルはフェミニストだとは思うけど、精神分析的にはラカン派でもなさそうだし、いまいち位置付けがよくわからない。メグ・ハリス・ウィリアムズはメルツァーと共著を書くくらいだからクライン的に作品を解釈するわけだけど、私は今回実際に作品をみて乳房とペニスの結合はこうやって表現できるのか、とすごくびっくりした。布と糸を使うのも彼女の人生にはずっとあったものなのだろうけど意識と無意識をそれらで表されるとものすごく新鮮でちょっと考えてみたいことが増えた。

昨日はネット上でもみんな谷川俊太郎の話をしていた。本当にたくさんの投影をうけている詩人なんだなぁ、と少しおかしかった。普段の人間関係で共有というと片方しかそれを喜んでいない場合もあるがあそこまで歴史も長く懐の深い音の世界だと誰もが密かに好きでいられる部分をもてるのもいい。おおざっぱな判断と解釈はみんながいっていることを自分の発見として自分だけが満足となる場合が多いけど特別なときだけではない感覚は共有できなくても全然いいが表面的ではないのでじんわり共有できる場合も多い。谷川俊太郎の詩のように押し付けがましくなくいきたい。あれこれ大変だが今日もがんばろう。

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精神分析

谷川俊太郎さん

谷川俊太郎さん、亡くなったか。いつまでも生きていると思ってしまっていたが。私が生まれてはじめて詩人として知った詩人はあの人だろう。そういう人は多いと思う。水木しげると妖怪がセットなように谷川俊太郎と詩は絶対的なまとまりだった。この場合の詩はジャンルとしての詩ではなくて谷川俊太郎のそれであってもうそれだけでひとジャンル確立されていた。昨年、友人のラジオで谷川俊太郎の「みみをすます」で遊ばせてもらった。私の開業の始まりのウェブサイトにも載せた。いくつかの展覧会も毎回最高に面白かった。言葉にはここまでの力があるのかと思った。彼はここ数年の日本をどう感じていたのだろう。自由な生き方に見えるがどの時代においても自由を獲得する努力を怠らなかった結果なのだろう。見習いたい。彼の詩を読めば文字は音そのものでどこにでも連れていってくれる乗り物になる。実際にお会いしたことはないけれど私の人生のこんなに長い時間、私の心にいてくれてありがとう、と思う。

今日も河口湖チーズケーキファクトリーの抹茶ケーキとあっつい紅茶。今朝はあまり寒くない。寒いといっていたようなのだけどあれれ。寒いはずが寒くないのは私としては大歓迎だけど。昨日は寒かった。かなり厚着をしていた。毎年着込む以外の調整をしていない。そうだ、オペラシティの雑貨屋さんに行ったら白湯専用のマグカップが売っていた。お湯を入れるとすぐに白湯と呼ばれるくらいまでに冷ました上に保温してくれるようなことが書いてあった。ペットボトルで白湯があるくらい貴重なものになったね、白湯。その店はクリスマス用の雑貨も売っていたけどまだ端っこに置かれていてメインになるのはこれかららしい。売り場移動中、みたいなことが書いてあった。オペラシティの地下一階、外の広場のイルミネーションの設営も始まって点灯の確認作業をしていた。ベーシックな色合いがかわいい。今年はどんなクリスマスツリーになるのだろう。雪国はもうとても寒そう。当たり前に雪が降っている。厳しい季節を無事に過ごしてほしい。富士山の冠雪はどうなったのだろう。この前、新幹線の中から見たときは白くなかったのだけど。今日もいろんな景色の中で自然に過ごせますように。どうぞよいいちにちを。

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イベント 写真 散歩

出不精ながら

今朝は河口湖チーズケーキガーデンの特売抹茶ケーキ。チーズは入っていないから余った抹茶で作ったりしてお安かったのかしら。安かったんだって。ポロポロするけどそのポロポロもちまちま食べたくなる美味しさ。いい香りだし。河口湖の紅葉の名所「もみじ回廊」もそろそろかな。東京もだいぶ色づいてきましたね。立冬を過ぎたとはいえようやく秋になったのでアクティヴになりたいけどなんか暑かったり寒かったりで今日はお出かけ日和だみたいな気分にならないというか、元々出不精なだけだけど、色々行きたいな、と思うばかり。でもこれは行っておかねば、というものでオフィスから行きやすいところには立て続けに行きました。もっと寒くなったらいよいよどこにも行きたくなくなるから。

上原沙也加さんの台湾を舞台にした写真展は馬喰横山駅から数分。近いのに迷ったから汗かいたけどオフィスのある初台からは一本。

細井美裕さんの初個展「STAIN」は神宮前2丁目。神宮前にはオフィスから西参道を歩いて明治神宮へ入り、明治神宮を抜ければ着くのだけど神宮前2丁目は駅からちょっと遠い。千駄ヶ谷駅から行くのとたいして変わらない気がする。あの辺は好きな通りなんだけど私の中では目的なく歩いていると出るような場所で全然通りを覚えられず毎回迷い、今回もギャラリーのすぐそばを何度も通り過ぎて汗だくになった。なんでこの季節に汗かかなあかんのか、と思いつつ。

そして瀬尾夏美さんたちNOOKの事務所「Studio 04」でやっている「現代・江東ごみ百鬼夜行」。江東区西大島の大きな団地の一階。西大島も初台から一本。

どれも行ってよかった。世田谷文学館とかはもっと行きやすいのだけどちょっと変わったところにいきたい欲望も働いてしまう、でも行きやすいところ、と思ってしまうし。絶対行きたい展示があと二つあるけどこれらは遠くはないが面倒・・・。来年「美」について語る機会をもらったので美しいもの、こと、にはたくさん出会いたい、というか体験から考えたいが。

新宿中央公園が毎日きれいだからいいか。今日は雨なのかな。でも晴れてきたかな。いいこともあるといいですね。

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精神分析 言葉

NHK短歌、ムーミン、精神分析

NHK短歌を見た。大森静佳さんのムーミンの歌、すごく良かった。ゲストは大好きな祖父江慎さん。ムーミンはいろんなことを教えてくれるしこうして今にも受け継がれている。すごいことだ。今、我が家にはムーミン谷のお土産が色々ある。埼玉のだけど。

空が水色。テレビ見てるとあっという間ね。

精神分析のことなんだけど、週4日も同じ人のところへ通っていると相当量アウトプットしつづけることになるわけで、あれは特異な体験だったな、と思う。沈黙も対話によって生じる沈黙と自分のなかで記号化できないなにかを感じ取っている間の沈黙では異なるし、こうやって一人でアウトプットしているのとカウチで分析家の隣でアウトプットし続けるのって全然違う。

今も昔もだろうけど精神分析を受けているといえば即、知りもしない人の家の台所事情やライフプラン、夫婦関係や家庭状況にまで言及してくる人もいますがそれはそれ。推測も憶測も自由。でも財産も生活も共有しているわけでもない人がプライベートな部分に踏み込むことがあるとしたらそれには守りが必要でしょう。自分の判断だ、自分の選択だ、と言ったところでそれは実に揺らぎやすいものなので誰かに何か言われるとすぐに揺らいでしまうのが私たちですがそういう揺らぎも大切にすべきだしされるべきでそういう作業を始めた人を邪魔しないでほしいなと思う。学術的な議論としてするならともかく。精神分析は侵入する、されるがたやすく生じやすい設定だけど、それは関係が近いからだけでなく、人の心は脅かされやすいから。そして脅かされると攻撃に転じやすいから。だから精神分析家の方は訓練を必要とする。特定の他人に自分を晒しつづけるという訓練を。それは同時に誰が相手であっても晒すものではない自分(境界)を作るプロセスでもある。他人とどう関わるかは自分の自由である、ということを各々の倫理において確立するプロセスと言えばいいのでしょうか。被分析者の方も精神分析家になるための訓練が目的ではないとはいえ体験としては同じ。狩野力八郎先生が患者さんの方が家族よりも自分のことをわかっていると思うとおっしゃっていましたがこれも単純に受け取るべき言葉ではないでしょう。私も「ある面では本当にそう思う」と思っていますが。ラカンが精神分析を受けた人は精神分析家であるといったのにも非常に納得していますがこれも単純な話ではないでしょう。精神分析家は偉い人でも優れた人でも性格のいい人でも全くなく(そういう人もいるでしょうけど精神分析がそうしたわけではないと思う)非常にマイナーな職業にも関わらず資格として考えるとなんとなく持っている人、待っていない人みたいな分類のもとに思考が展開してしまう場合もありますね。子供がいる人いない人みたいなものでしょうか。だったら子供がいない人にももっと寛容であってほしいな、同時に子供がいる人にももっと手厚いサポートをしてほしいな、とかも思いますがそうはならない思考が展開されるというか停止するというか、とにかく決めつけが入りやすい類の問題なのでしょう、何者かであるというだけで。外側から何かをいうことのたやすいこと!学問に対して自分倫理を持ち込むことに危機感はないのかと思うことはしばしばですが、自分は自分で誰かとは全く異なる生活と運命であるはずなので自分の考えや欲望に注意を向けることがとても大切でしょう。精神分析家としてはそのための時間と空間を提供しているつもりですが人と人との関係は操作できるものではないので一緒に作業できるようになるまでは安全や安心とは遠いのかもしれず、そういう現実と出会いながら対話を続けていくことが必要なのでしょうね。継続的な関わりの中で自分自身が実感を掴んでいくこと。その実感も一瞬にして幻に変わる場合もあるけれど、それにも素直に出会っていくこと、歳をとればとるほどそれまでの経験で様々なことを語りがちですし、若ければ若いで少ない経験で語りがちですが、事実として語り継ぐ責任はそれぞれにあると同時に、自分の体験の不確かさを他人の言葉でたやすく補完せずに持ちこたえていきたいものです。ムーミン谷の優しさを思い出しながら今日もがんばろう。

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読書 音楽

『大使とその妻』、中村達、柳樂光隆の仕事など。

湯沸かしポットがくつくつふつふつ音を立てている。カチッとなった。お湯が沸いた。夜中に千葉県東方沖震源の地震があったのか。東日本大震災のとき、千葉も大変だったとTDLの近くに住んでいる友人が言っていた。詳しく聞いたのだけど詳細を忘れてしまった。細かく知るとそれぞれに本当にさまざまなことを超えてきていることに驚く。水村美苗『大使とその妻』の主人公も相手の話を聞くことで感じ続け驚き続け心揺らし続けている人物だ。主人公が知る事実は私たちも知っておいた方がいい事実であり、でもそれは知的水準にとどめておいてはならない類のものだ。そして物語の中で主人公が生きる状況は私たちがほんの少し前まで生きていた現実だ。私たちはたやすく忘れていくけれども。そしてこの本に関して具体的な紹介をしたくないと思うのは私たちの人生はキーワードで括れないということをこの本自体が示しているから。たとえば「東日本大震災」という言葉を使ったとたん、何かのストーリーが思い浮かべてしまうような心性を誰もが持っていると思うが私たちの想像力は相手の人生を知るほど豊かではないということに主人公も何度も突き当たる。それは当たり前だからこそ何度も愕然とし心がずっと揺れる。私たちはすぐに知ったかぶりをして心揺らさないようにするけれど。別の本で短い書評を頼まれているのでそれを読まないとだがまた別の本ばかり読んでいる。その本もすでに話題の一冊だが何か書きたいと思うことがどんどん浮かんでくる本だといいな。私は読まずに書ける方では全然ないから。『大使とその妻』は優しい世界をくれた。またこういう本に出会いたい。人を信じられるようになるような本に。

中村達氏の『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)がサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞した。柏書房のwebマガジン「かしわもち」で連載している『君たちの記念碑はどこにある?』とともに大きなインパクトをくれた一冊である。今年はカリブ〜アフリカ性を考えさせられる本や音楽とメインに出会ってきた。もはや東洋と西洋の二分法で世界を捉えるのは困難だろう。音楽は柳樂光隆のインタビューで黒人のジャズミュージシャンたちの考えやジャズ自体の歴史を知ることで色々触発された。最近でたジョン・バティステのインタビューも非常に良かったし、ジョン・バティステの新しいアルバム『Beethoven Blues』は私もとても気に入っている。前作、前前作と全く異なる方向からだったのでびっくりしたがこういう驚きをくれるという期待を本当に裏切らない。こういうところに彼が黒人であることと向き合い続けることを含む思考の強さを感じる。私は私が知ろうとしてこなかった世界について語る言葉をまだ全然持たないけれど紹介してくれる人たちを含め彼らの仕事を尊敬する。今日もがんばろう。

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精神分析、本

足指、マゾヒズムの本

まだ暗い。朝焼けはまだ始まらない。洗濯物を干した。ハーブティを淹れた。柿も剥いた。この週も週一筋トレ以外身体をほぼ動かしていないのでふくらはぎのストレッチでもしようかなと思ったら自重でも痛くてすぐにやめた。自重だから痛いのか?足裏が浮きやすいので100円ショップの足指開きパッドを久しぶりにしたらこれもまた痛い。ヨガやっていたときは足指マッサージとかグーパーとか色々して温めてから始めるからだいぶ開くようになってきたのにまた戻ってしまった。パッドを入れる段階でイテテとなる。でも以前は5本指ソックスも痛くてすぐ脱いでしまっていたことを考えるとすごく戻ったわけでもないのかな。こういうのは地道に身体に慣れてもらうしかないのだろうねえ。ちなみに小指が薬指にくっついてしまうのって寝指というそうだ。私は身体が硬いのも問題なのだけどいろんなスポーツ選手のメンテナンスをしているトレーナーさんによるとぐにゃぐにゃで困っているバレリーナさんとかもいるらしい。小学校のとき、友達のバレエの発表会を見にいって私には絶対無理なことをたくさんしていたのにもびっくりだったけどメイクにもっとびっくりした。楽屋で見たから近すぎてなおさらだったのだろう。普段と全く変わってしまう。今だったらバレエ自体をもっと楽しんだりできるのに子供の頃はまだ体験が少ないからというか私の注意力が変だからかメインに注目すべき場所と違うところばかり注意が行ってしまっていた気がする。あの子はもうやめちゃったかな。別の友達は大人になってバレエを始めて「あみちゃんも絶対できるよ」と言ってくれたけどその後の自分を見るに懸垂はできるようになるかもしれないけどバレエはやっぱり無理だったと思うよ。あなたと行った渋谷のチャコットはなくなってしまったよ。私は通りを挟んだ無印良品側のバス停からチャコットが壊されていくプロセスを週2回はみながらその友達に心の中で報告していた。今はもうそのバス停は使わないけど跡地はどうなったのかしら。

空が少し薄くなってきた。でもまだ暗い。雨が降ってるのかな。

今朝はMasochism: Current Psychoanalytic Perspectivesに入っているオットー・カンバーグの論文を読んでいた。昔購読会で読んだけどすっかり忘れている。1993年出版、目次はこれ。いろんな立場の人が書いている。

1. Introduction – Robert A Glick and Donald I. Meyers
2. The Concept of Character: A Historical Review – Robert S. Liebert
3. Sadomasochistic Excitement: Character Disorder and Perversion – Stanley J. Coen
4. Clinical Dimensions of Masochism – Otto F. Kernberg
5. Those Wrecked by Success – Roy Schafer
6. The Analytic Concepts of Masochism: A Reevaluation – Stuart S. Asch
7. The Narcissistic-Masochistic Character – Arnold M. Cooper
8. Masochism and the Repetition Compulsion – John E. Gedo
9. On Masochism: A Theoretical and Clinical Approach – Herbert A. Rosenfeld
10. A Consideration of Treatment Techniques in Relation to the Functions of Masochism – Helen Meyers
11. The Precursors of Masochism: Protomasochism – Eleanor Galenson
12. Adolescent Masochism – Charles A. Sarnolff

翻訳されなかったけど一つの概念について異なる理論的基盤から書かれている本って勉強になる。マゾヒズム(反転するものとしてのサディズム含む)についてもフロイトに遡って考えないとなあ。学会ではナルシシズムに関する発表をしたけどつなげて考えるべき問題ではると思う。夢の報告ではサドマゾ的なものは多く見られるけど日常生活でも治療場面でも扱いづらい問題。もちろん人はその部分だけで生きているということは全くないけど細やかなものを飲み込んでいくあり方ではあると思う。病理となるものは大体そうなのかもしれないけれど。

さてさて11月ももう半分過ぎてしまった。次の課題に取り組まねば。今日も無事に過ごしましょう。

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散歩 精神分析

すずなり、無意識

先日、名古屋の知らない駅で降りて横断歩道を渡り終えたら後ろからおばあさんが呟いた。「すずなり」という言葉だけが聞きとれた。なんだろう、とキョロキョロ横を向いたり上を向いたりしていたら結構高いところに柿がすずなり!小さな丸いオレンジがたくさん。鈴なり、まさに。昨晩、いつもの遊歩道に小さな柿が落ちていた。こんなところに柿あったっけ、とまたキョロキョロ。あった。この狭い道だとその高さは見ないな、見えないな、という場所に柿がすずなり。あのおばあさんのことを思い出した。私に話しかけてくれたのかなあ。少し距離があったから柿を見つけてそのすずなりぶりにびっくりしてなんとなく後ろの方にいるおばあさんに会釈をしただけだった。教えてくださってありがとうございます。自分では見つけられない景色、毎日歩いてたってそうなんだからましてや知らない街でなんて。声を大事にしたい。

エレンベルガーの『無意識の発見』を少し読み直した。無意識を発見したと言われる第一人者のフロイトだが、それを発見させたのはブロイアーと一緒に治療した「アンナ・O」と言われた患者だ。後にアンナ・Oはベルタ・パッペンハイムという社会事業の先駆者であるとわかるのだが、エレンベルガーはこの治療の成果に関する嘘を指摘している。実は、患者もフロイトもこの治療は失敗だったと言っていた。ブロイアーはこれでフロイトと離れるわけだが、フロイトがブロイアーの非難をするのは『ヒステリー研究』の20年後だ。精神分析の設定はこの頃まだ使用されていない。ブロイアーは開業医であり、診察と入院によって彼女を治療していた。つまり無意識はカウチの上で発見されたのではない。もちろん無意識という言葉自体はずっと以前からあったわけで、しかし現代はそれはほとんど重要視されないわけで、それでも精神分析はそれについて考え続けているわけで・・・。うーん、いろんな気持ちになるが自分の立場を明確にしないことには前提の修正もできない。ふわふわと周りで何かいうことは簡単だが患者がいて自分がいてという状況が現実にあるのだから歴史の見直しと思考は続く。

今日もがんばろう。

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俳句 散歩 趣味

霜田あゆ美さんの個展。

朝焼け。昨日は夕暮れもきれいだった。オフィスにいると西の空は見えないのだけど高層マンションの窓に映る。紅葉もしてきた。きれいに色づいた大きな木から鳥たちがたくさん出てきて驚いたり、野良猫が急に横切ったり、いろんなところでいろんなことやものを目にしている。はずなのに俳句が作れない。

俳句日めくりカレンダーに載っていた秋の鳥の俳句。

鶺鴒や廊下の窓を拭く係 加藤かな文

海光に浮力のありて鳥渡る 今瀬剛一

うーん。なぜこういう言葉を思いつくのか。言われてみれば知らない言葉では全然ないのに俳句として成り立つ言葉選びができるのがすごい。先日名古屋で場所を変えぬ川鵜を3羽みた。その対岸や川中で白鷺がアクティブなのと対照的だった。どちらも季語としては夏だから今使うなら「冬の川鵜」とかにする必要があるのだろう。「月」は秋以外は「春」「夏」「冬」をつける。月といえば秋ってことで。私はどの季節も「鳥ー」「月ー」と毎日呟いているけど季節は全体として感じることが大切ね。

先日、句友のイラストレーター、霜田あゆ美さんの個展に行った。今年もあゆ美さんのカレンダーを入手できた。昨年はあゆ美さんが作るのが間に合わなかったとのことでたまたま出会えたあゆ美さんの師匠の安西水丸さんのカレンダーを飾っていた。毎回、とても素敵な作品ばかりで全部ほしい!と思うけどそれでは我が家やオフィスがギャラリーになってしまう。それ以前に買えない(労力を思えば安すぎる値段ではあると思う)。しかし、私のオフィスには一点だけあゆ美さんの作品があるのだ!なんとなんと。前回か前々回の個展ですっごく気に入って買わせてもらった。毎日見られる場所にお迎えできるなんてなんと幸せ。今回、これが素敵、これが好きと話していたらあみさんは変なのが好きと言われた。そうなのよ。あゆ美さんのイラストはとってもあたたかくてちょっと変なのが多いのよ。そこが大好き。今回は布を使った作品もあってそれもとってもよかった。生地であんな色が出せるのかあ、と思った。技術的には出せるのだろうけどあゆ美さんの使う色の組み合わせがすごいんだよね。とってもときめいた。表参道のそのギャラリーに行くのははじめてではなくて迷わずにいけたのだけど作品をみていい気持ちになっていたら帰りは迷ってしまった。あの辺は何もない方に出てしまったら逆へ行けば大抵どうにかなる、とわかってるけどこの方法は全然学びにはならない。なので私は毎回迷っている。行きは一生懸命地図とか見るけど帰りはいろんな素敵な作品で頭も心も満たされちゃってるからねえ。個展は今日まで。小さなギャラリーだけど見応え十分。幸せだったなあ。お時間あればぜひ。

さてさて今日もいきましょうかね。色々どうにかなりますように。

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お菓子 精神分析 音楽

紅茶、人それぞれ

朝焼けがきれい。鳥たちが賑やか。熱いハーブティーと友人の紅茶のパウンドケーキ。戦後消滅しかかった国産紅茶(丸子紅茶)を復活させた村松二六さんの淹れてくださったミルクティーから着想を得たとのこと。静岡県に丸子という地名があるのですね。「まりこ」と読むのか!ちびまる子ちゃんも静岡だしね、とか思っていたのに。東海道の宿場町のひとつですって。宿場町は楽しいですよね。行ってみたいな。丸子紅茶も買ってきたい。お茶って葉っぱとしては緑茶、紅茶、烏龍茶、みな同じ。最初に知った時は驚きました。静岡の親戚のお茶畑でお茶摘みをしたことがあるけどものすごく大変で地道な作業。お茶のおかげでほっこりできる毎日。ありがたいことです。何事も丁寧な作業は大切。私は毎回原稿も俳句も当日過ぎてよくない。日々繰り返す作業に変えていかないと。今日締め切りの俳句もまだ作ってない・・・。複数のことを同時にするのが苦手だということは十分わかっているのだけど苦手すぎて自分の理解を超えている。あっという間に注意が逸れたり忘れてしまう自分に驚く。学会の発表原稿も時間を間違えていて結局当日の朝に書くことになったし。友達には「いつものことだよね」と笑って応援してもらえたが。私もいい加減直さないといけないがこうやって受け入れてくれる存在がいるとその場その場で助けられる。ありがたいことです。duolingoのフランス語は38日間続いている。今も一回やったから39日間。こうやって思い出したときにやるようにしてるからなんとかなってる。5分もかからないからNHKの講座より注意が逸れない。人の話をじっくり聞くのはできるのに対面でない講座は聞けない。人にはそれぞれいろんな特徴があるものですね。あとは心身の状態で感じ方や行動は変わってきてしまうから無理せず行くのがやっぱり一番いいかな。精神分析とか受けると結構「無理かも」と思う瞬間は増える。最初は週4日通うのに疲れるけど身体の疲れはリズムができればなんとかなる。学校に毎日通っていたことを考えれば。私は通っていなかったけどなんとかなった。身体化はすると思う。どうしても自分ではどうにかできないものが出てきてしまうから。知的な作業では全く追いつかないスピードでこころって動くから。だから「もう無理」という瞬間が何度も訪れる。だから密で硬い構造が必要。生身では守れないけど構造で守れるとして構造に対する吟味は常に必要。単に頻度とかそういう話ではない。こういうことは延々考え続けている。今日の隙間時間は俳句のことだけ考えねば。

さて今朝はクリスマス・ジャズのプレイリストを流していた。Norah JonesのChristmas Callingはとてもいい。東京はいいお天気。どうぞよい1日を。

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お菓子 精神分析

とりあえず

少し遅くなってしまった。鳥たち元気、というかとりあえず鳴いている。でもやっぱり大きな声で鳴けているというのは元気ってことでしょうか。人間だと概ねそうで、かなり早めに出してあげないと死んでしまうかもという状態で生まれた赤ちゃんが大きな泣き声をあげたときにみんな「ああ、泣いた」とまずは健康な機能の存在を思って安心したりする。

週末は名古屋にいた。大学の医学研究室ってはじめて入ったかも。そこでこじんまりと精神分析と訓練について話させていただいた。みなさんのいろんな思いも聞けてよかった。ひとつひとつ具体的に考えようとしても知らない世界のことはかなり想像しにくい。これからのライフプランを具体的に考えたところですぐに思った通りにいかない事態が生じるのと同じ。それはどっっかでそういうものとわかっていたはずのことかもしれないけれど。何かを知るには良くも悪くもモデルが必要だし、まあとりあえず、ってやってみることも大事かもね。

今朝はチーズケーキの残りとハーブティ。週末はお菓子もたくさんもらって元々ある我が家のお菓子と合わさってすごく豊富。ぬいぐるみとならお菓子屋さん開ける。年末の蓄えができた感じだから安心して11月を満喫しないとね(なんのこっちゃ)。今週もがんばれたらいいね。起きたり寝たり食べたりとりあえず必要なことを。

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お菓子

白湯、お菓子

鳥の声が聞こえない。テレビをつけた。柳家わさびが落語やってる。とても久しぶりにみる、といっても流してるだけでこうしている。時折聞こえる笑いが心地いい。そして今朝も白湯。少しまだ熱い。俳句を作らねば。締切が近い。白湯は季語ではないと思うけどいいかも。ようやく温かい飲み物がおいしい季節がきたし。何と合わせたら類想にならないかな。

白湯一椀しみじみと冬来たり 草間時彦

草間時彦は食べ物の句が有名な俳人。1920年(明治30年)に東京生まれ、鎌倉育ち。この前鎌倉に行ったけどあまり句碑に出会わなかった。句碑って意外とどこにでもあるし長谷寺とかにはあるから私が歩いた場所になかっただけか、私が見逃しただけかもね。

秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦

週末はこういう人も多かったかもしれない。酒のつまみはなんでもいいけど言葉だけじゃもちろんダメ。私が最近食べた珍しいつまみは「あん肝の奈良漬け」。ほぼ奈良漬けなんだけどきちんとあん肝。こういう取り合わせって日常ではそうと知らずやっていたりすると思うけどお店で出そうと思った人ってどんな気持ちだったのかな。でもこうやって消費者の「あん肝の奈良漬け?なんじゃ?」という興味をそそるわけだから素晴らしい。珍しくて美味しい食べ物にたくさん出会いたいな。昨日は山形の方にはじめてみるお菓子をいただいてすごく嬉しかった。「梅チョコスティック」。なんとなんと。山形の名産品「のし梅」を使っているそう。おしゃれな箱。ブランデーとかウイスキーに合うとのこと。私はブランデーもウイスキーもほとんど飲んだことがないけどやってみたい気はする。土地が変われば食べ物も変わる。旅先でお土産を探すとその土地の名産がいかに多くのものにアレンジされているかわかる。干物とかほぼそのまんまみたいなお土産も豪華でいいしこんなものまでお菓子にしてしまうのかみたいなお土産もいい。今日はどんなものと出会えるかなあ。

四国、沖縄が雨で大変とのこと。断水や停電も。そういうときどうしたらいいのだろう。どうか被害が広がりませんように。

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早起き

いつもより早く起きてしまった。まだ世の中は暗い。世の中といったら朝昼関係なく暗い、と一瞬思ったが暗いばかりでもないかと思い直す。お湯が沸こうとしている音がする。最近はもっぱら白湯。昨日は自販機の水もお茶も売り切れていて何年振りかに缶コーヒーを買った。意外に美味しく、温かい飲み物というものを欲していたことがわかった。コーヒー自体、あまり飲む方ではなかったが3年くらい前によく飲むようになり、多分カフェインのせいで調子がさらに悪くなりあまり飲まないようにしたら少し改善した、気がする。カフェインの悪影響を色々知ったというのもそんな「気」に影響しているのだろう。まだ起きる必要がないのにぱっちりしているのがなんだか勿体無くて足癖悪く布団を適当に巻き付けたりしながら寝ようと試みたが眠れないのでこうしているが、多分こうしているといつのまにか寝ている。頭を少し使うとすぐに眠くなる。こういう時間に読むべき論文がたくさんあるのに。注意力のなさにも日々自分で驚く。友達が教えてくれたアプリでフランス語の勉強を始めたがアプリが何か言い終わる前に次をタップしてしまう。ああ!と思っても前には戻れない、そのアプリ。結局間違いとなるがそういう間違いにもきちんと立ち止まらないので学ばない。脳科学の発達は素晴らしいけど私個人にどう生かしたらいいのだ。こういうの治るのかな。というか治す必要ないよね、と思うから困ることはあれどモンダイはないのだ。困るのは問題ではないのか、といえば問題かもしれないが困りごとのない人生なんてないだろう。おおむねいつも通り動ければよしとしている。そのアプリでいえばそういう私のために、というわけではないが間違ったところを何度も何度も形を変えて繰り返し提示されるのでいいかげん覚える、という仕組み。時間が経てば忘れるのだろうが、というか実際私は以前通っていたとは思えないほどフランス語を忘れているわけだがうろ覚えのものがあるだけでもちょっと嬉しくなるからモチベーションは高いほうだと思う。この前、私がアプリの登場人物の口調も真似していたら「それも真似しないとなの?」と素朴に聞かれた。もちろんそんなことはない。でもつい真似してしまう。シャドーイングとかもこのノリでやればいいのかもしれない(何度も挫折している)。昨日はあまりお花に会えなかった。日々キョロキョロしてお花探しをしているのだが。でも紅葉には少し会えた。かわいい実も見かけた。木にかかっていた札を見て覚えておこうと思って何回も繰り返したのに忘れている。やっぱり。あ、モッコクだ。鳥たちもたくさん鳴いていてあの実を食べにきているのかな、と思ったけど鳴き声ばかりで姿があまり見えなかった。鳥って目を凝らすとすごい数の鳥が木に留まっているのに全然見えなかったりするから面白い。鳴き声のする方から数羽が飛び立ってそちらの方へ目を向けると「え?こんなにいたの!」となる。この前、それでカメラを向けたら一斉に鳥たちが飛び立ってその部分だけ空が黒くなって私は鳴き声と羽音にびくんとなって写真もとれなかった。そんなのも一瞬の出来事ですぐに何事もなかったかのように静かになり私は残った数羽をカメラに収めた。奄美大島でリュウキュウアカショウビンに会えたときは嬉しかったなあ。とってもきれいだった。上野の国立科学博物館の特別展は「鳥」。もう始まったのかな。絶対行きたい。同じく上野でやっている田中一村も鳥を愛した画家で鳥の絵は特に良かったな。また見たい。頭使わない文章だといつまでも書けるけど今こんなことをしている場合ではないのだ。あーあ。せっかく起きたのだからやろう。今朝もジュリアン・ラージを流してるけどあのライブは素晴らしかったな。貴重な体験を何度も思い出せるような一日でありますように。

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お菓子 散歩

鎌倉

雲が多い。天気予報は晴れだけどこれからどこかへ消えていくのかな、雲。鳥たちはまだそばにこない。もう飛び去ったあとかもしれない。遠くでカラスがしきりに鳴いている。洗濯機が水を回している。

先日、鎌倉へ行った。藤沢まで通っていた時期もあり身近ではあるが相変わらずどこへ行っても記憶が曖昧だ。北鎌倉と鎌倉の違いもよくわかっていなかった。鎌倉駅へ降り立つとずいぶん変わった印象を受けた。前にこの辺で、など思い出話をしながら大混雑の鶴岡八幡宮前の信号を渡り一条恵観山荘へ向かった。道なりにまっすぐまっすぐ歩く。「岐れ路」は右へ。左手に杉本寺が見えたので立ち寄る。お寺にまっすぐ向かう階段は登れず迂回。苔がすごいせいかな、と思ったらそこは「苔の階段」という名前がつけられていた。石畳の苔が抹茶チョコレートみたいで写真をとった。受付の高齢の女性はまるで眠っているような姿勢のままゆっくり手を動かしていたがこちらがお金を渡したことを忘れてしまいみんなで少し焦った。すぐに転がっている新しい千円札を「あったあった」と見つけたが。降りてきたときには受付にはもう誰もいなかった。またまっすぐ歩く。すぐに報国寺へ。私が以前きたと思っていた場所とはずいぶん違う場所だった。美しい竹林は健在。受付は行列。枯山水をのぞむ宅間谷という谷戸に出ると気持ちのいい風が一気に通り抜けていって驚いた。どうしてあそこだけ、谷間だとこんなに変わるものなのかとびっくりした。石庭を眺めるベンチがあるせいもあるがたくさんの人がそこでくつろいでいた。日中は半袖でいられるくらい暑い日だった。一条恵観山荘にははじめていった。少し足を伸ばせば着く場所なのにどうしてこれまで行っていなかったのだろう。江戸時代の初期の建物でお花が美しい素敵な建物。後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観によって営まれたと書いてあった。皇族の茶屋とのこと。野趣あふれる庭をあえて作れる優雅さ。とても素敵だった。来た道を戻る頃には行列ができていたパン屋さんはもう落ち着いており、外のベンチでのんびりカフェしている人たちがみえた。やっぱり鎌倉はいいな。仕事にくる感じで来られる距離なのも恵まれている。

今朝は「やまなし上野原 あんどうなつ」。菓子処植松さんの人気商品。すぐに売り切れてしまうそう。熱いお茶といただきましょう。空の雲が薄くなりつつある。今日も無事に過ごしましょう。

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お菓子

十勝、柳月のお菓子

とても早くに起きてしまった。夜がそのまま続いているみたい。まあ、続いているのだけど。まだ鳥たちは起きていない。朝焼けも始まらない。

北海道帯広市に本社がある「柳月」の「三方六の小割」をいただいた。嬉しい。イレギュラーなコンサルの仕事。いつも帰りに何かを持たせてくれる。三方六は柳月の看板商品。広瀬すず主演の朝ドラ「なつぞら」を見ていた人も見ていなかった人も「柳月」のことは知っているのではないか。お菓子をみれば「ああ、これ見たことあるかも」となるのではないか。「柳月」のある町は「なつぞら」に名前を変えたくらい朝ドラとコラボしていたらしい。「三方六」はバウムクーヘンなのだけど形が少し変わっていて一本だとちょっと長くて今の時代には合わないので小割にしたらしい。個包装なのでお土産にしやすい。まあるいバームクーヘンもまるでもらったら嬉しいは嬉しいけどやっぱり小分けの方がありがたいかな。十勝はコロナ前に最後に旅した場所だ。帯広には六花亭の本社もある。どちらも観光地として楽しめる工夫がされていてたくさんの人が訪れていた。二度目に柳月の前を通ったときは車がずーっと長い列を作っていてなんだなんだといってみたらお買い得商品を求めて並ぶ列だった。生産の都合でお買い得商品へとなるお菓子の種類も個数も当日までわからないという。どのくらいお買い得なのか。そんなに買って賞味期限は大丈夫なのか。三方六を一本サイズで買うのだって躊躇するのに。でもいいなあと思ったけどすでに家用のお土産も買っていたので我慢した。十勝でも本当によく遊んだ。中札内村は散歩しながらアートを楽しめるし、吉田美和の故郷、池田には「いけだワイン城」もある。駅からワイン城にいくまでにはドリカムの衣装が展示されている”DCTgarden IKEDA”がある。ここもとても素敵だった。ちょうど「勝毎花火大会」の日で宿泊先の近くのデパート藤丸の屋上から楽しんだ。その藤丸も閉店した。行けてよかったな。長いこと旅していろんなデパートの閉店のお知らせを聞いてきた。生活はどう変わるのだろう。そこの土地はどうするのだろう。なにがなくなっても人はなんとかやっていくものだろうけど寂しいは寂しいと思う。

鳥が鳴き始めた。朝焼けも始まった。お互い良い一日でありますように。

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読書 音楽

楳図かずおもクインシー・ジョーンズも。

楳図かずおが死んだ。1936年(昭和11年)生まれ。もう亡くなってもおかしくない年齢なのだろうけど死んでいてもいなくても死んでなさそうな人が本当に死んでしまった。私はボーダー柄に対してだけでなく「あ、楳図かずお」と思うことがなにかとあった。近所に建った家に対してもそう思った。どこにそういうものを感じるのか。得体の知れぬ恐怖を感じるわけでもないのに。一度見かけたこともあるような気がする。吉祥寺のご家庭にメンタルフレンドのような役割で通っていた頃に。あの頃の私は本当になにもわかっておらず今思うとゾッとするようなこともたくさんしていた気がする。楳図かずおなら楽しく怖い漫画にしそうだけどこちらは生身だから笑えない。運よく気づけたからいいけれど。楳図かずおは触れてはいけないと普通なら最初から直感的に近寄らない世界に入り込み自由に動き回れた人だったのだろう。漫画は本当に怖かった。今なら少しはエンタメとして楽しめるのだろうか。大人になって部分的に見る分にはとっても面白いのだけど。ずっと広く読まれてほしい。怖いよー。でも多分しばらくしたら「あれ?もう死んだんだっけ」とかなりそう。クインシー・ジョーンズに対しても同じこと思うかも。死んでるってどこかで絶対わかっているくせに。クインシー・ジョーンズに衝撃を受けたのは中学のLL教室の授業でWe Are The WorldのMVを見たとき。その後はもっぱらジャズの世界で追っていた。もっと知っているかと思ったら改めて業績をみてその多さにびっくり。何にも知らなかったじゃん。でもありがとう。音楽や漫画はネット上の情報よりずっと広く受け継がれていく世界だ。読み続け聴き続けていきたい。

最近、鳥たちの移動が多い気がする。渡り鳥もいるのかも知れないがこの時間にこんな場所にこんなたくさんたまっていることあったっけ、という感じで私の見える範囲の移動を感じる。それも今まで気づいていなかっただけかもしれないが。

最近、ものすごく忙しいわけでもないのにあっという間に時間が過ぎてしまう。どうしてだろう。イレギュラーな予定もあっという間に近づいてきて頭が混乱。なんとかするしかないのでなんとかするというかそれ以前に予定を忘れないことが大事。今日もちょっとイレギュラー。紅葉もそろそろかな。いつもと違う場所でいつもと違う景色と出会えたらいいな。良い一日になりますように。

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言葉 読書

青木玉の本、受け身の言葉

朝が来た。毎日来ているが今日も来た。窓を開けているかのように鳥の声が近い。鳥たちもえらいね、毎日規則正しくて。幸田文みたい。幸田文のこと考えながら「そういえば青木玉の本ってどこに置いたんだっけ」とぼんやり思っていたらすぐ見えるところにあった。表紙を見て「ああ」となった。これまでその装幀を美しいと思いつつあまり意識していなかった。『小石川の家』も『帰りたかった家』も幸田露伴が愛用したカバー入り用箋が重ねて描かれていた。装幀は安野光雅。さすがだ。青木玉もこの装幀は「夢のような御褒美」と書いている。余白に魚が描かれた便箋には当然まだ何も書かれていない。それ自体の余白に彼女のみてきた景色が透けて映る。しかしそれは露伴の目でもあり、文の目でもある。一人の子供の、一人の孫の生活史として非常に面白い本になっているのは玉の文才だがやはりこういうのも遺伝するものなのか。玉の娘の青木奈緒も才能豊かな作家だ。才能の遺伝もあるかもしれないがこの家族ならではの言葉が生き生きと書かれるのは玉自身の言葉が子供の頃から大切にされてきたからだろう。これらの本を読むと露伴も文も困った祖父であり母であるが娘であり孫である玉がそれを自由に書きつけているところがもう面白い。基本的に陽気で優しい家族だったんだろうな、と思わせる。私はその人の言葉がどんなであってもその人の言葉として非常に興味深いと思って人の話を聞いている。そこで感じるうんざりも驚きも相互作用だと思うからとても大切。そうだなあ、彼らの言葉には常に対話がある。外とも内とも。となると対話がない状態というのは、ということを考えるのが臨床家の仕事だが私たちは大抵まだ聞こえない言葉として言葉を受け取っている気がする。そういう対話が今として。

先日、生かされている、選ばれている、生きさせられている、など、れる、られるという受け身の言葉に敏感な自分に気づいた。我らおしなべて受動態といえばそれはそうかもしれないが「自分がある」、よって「自分がする・した」という想定をしないと自分の辛さってどうにもならないと思う。選ばれたからなに、生かされてるからなに、生きさせられてるとしたらなに、そう考えてなにか変わるならいいけどそういう表現をしたくなるのってなに、と思う。一方、確実に相手に責任を求めたい場合は受け身の言葉も確実に使うべきだとも思う。と読んだことのないSF作家さんのインタビューを見て思った。SFの水準でようやくそうとしかいえない受け身というのは確かにある。こっちの能動性が発揮できない状態だから。子どもというのはその点、結構苦しい立場にいるわけだが青木玉は無事に大人になってその辺を明るく表現している。遺伝と環境、そういう分類も簡単でいいがそれらもそれってなに、というより「だからなに」という感じかもしれない。いろんなことに「だからなに」と思いながら「だからなに」的な文章を書き連ねている自分は書かされているわけでもないのになにをやっているのか。自分に書かされている、とかなると物は言いようということになる。まあ、今日もあれこれがんばれたらがんばろう。

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散歩 読書

幸田文展など。

鳥が鋭い声で鳴いている。朝焼けがまだ残っている。今日は晴れるのかもしれない。朝焼けが曇り色になることなく空全体に光が行き渡りつつある。そういえばこの前、空の色々な色をどう表現したらいいかと書いたが、実はいろんな色の表現があった。確かに聞かされれば文学作品の中にそれらは出てきていた。普段づかいの言葉にしていないとすぐに遠いものになる。

週末はあまり寒くなかったので仕事を追えサクサクっと出かけた。まずは本八幡。オフィスから一本。都営新宿線の終点。JRも通っている。本八幡は江戸川区の精神科病院に勤めていたときや市川のNPOで色々やっていた頃に何度か行った。久しぶりに降りた。本八幡駅から市川コルトンプラザと往復するシャトルバスへ。コルトンプラザもNPOの何かの行事で車で連れていってもらったことしかなかったので新鮮だった。自分で行くとどこかどこだか全くわからず苦手なGoogleマップを怖々使いながら目的地へ。西新井の看護学校にはじめて行ったときに早めに行って入ったショッピングモールで迷ってしまい早く行った意味が全くなかったことを思い出す。目的地はコルトンプラザお隣の市川市文学ミュージアム。幸田文展を見に行った。母も幸田文や青木玉を敬愛しており私にも買ってくれた。私は倉橋由美子、米原万里、幸田文、水村美苗、森茉莉とかが好き。なんだかんだ女ばかりだな。夏目漱石とかも研究対象にしたいくらい好きだったけど病跡学は私には向いていないと今は思う。フロイトみたいにヒステリーや強迫神経症や恐怖症を明らかにしたい、という強い意志と目的があればいいけど。それに今の時代はあまりいい受け取り手が育たなそう。多様な受け手はいるのだろうけど精神病理学。話し合える相手が多いって大事。精神分析は少ないながらいるからよかった。さてさて幸田文。はっきりしている女たちの文章ははっきりしているそういう態度が作られるまでの紆余曲折を見せてくれる。骨太になるにはいろんな経験を通りぬけ、いろんな人と関わってこそ。幸田露伴は早くに妻を亡くし後妻、児玉八代をとったけど不仲だった。文はまだ5歳、弟もまだ小さかった。露伴は家事の一切を知っていたらしく幸田文は露伴から家事から何から何まで教わったと書いた。この部分、露伴の美意識が面白いのだけど忘れてしまった。私は今読み直すなら文が60代、70代になってからの作品か。私は日本全国を旅するようになってから旅と自然災害がセットになっていて、それほどまでに日本には災害が多いということなのだが『木』『崩れ』は今の私にはとても響くものがある。そこが被災地と呼ばれていなくても山に登れば痛々しい痕跡を目にすることもしばしばだ。公害に苦しみ続ける街もある。この冬は屋久杉に会いに行こうと思ったがまた今度にした。夏はまた能登へ行く。今度は被害の多かった地域へ。もう何かの被害が重なることがありませんように、と願う。ただでさえ日々を重ねる心は感じやすくなっていたりもするだろう。幸田文が自然の摂理に仕方なしと思いつつ人間に期待し力むしかない自分になんともいえない、とまで書いて思ったが文はなんともいえないなんて言わずに木や崩れ、そしてそこで生活する人々に会いに行き書き続けた。感じ続けるために知り続けるために。これぞ関わりという気がする。私は今回幸田文の展示を見ながら被災地にこうやって関わる必要があると感じた。というよりこうやって関わればいいのか、という学びを得た。旅先にしていた土地に水害や地震があったとき、私たちはそこに観光客として出向いていいものか躊躇する。ある程度の時間が経てば観光地でもある被災地は観光客に来てほしいと願う。でも観光地は観光だけで成り立っているわけではない。ただでさえ見知らぬ土地のようになってしまった場所でよそ者の顔なんて見たくもないだろうなどと想像する。家の中の人と目があって昼間なのにカーテンがひかれた場面を思い出す。それでも私たちは自然の状態を知る必要があるのだろう。能登にもまもなく冬が来る。もう一年が経つ。関わり方を考えていこうと思う。

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俳句

NHK俳句とか。

窓を開けた。朝焼けがきれいだった。鳥が鋭く鳴いた。寒くない。朝の準備をしてほうれん草の胡麻和えを作り置き。ほうれん草って美味しいけど水を絞るのが難しくないですか?胡麻がいい匂い。最近は野菜もとても高いので少し遠い八百屋さんで買い置きする。直売所もそのくらいの距離にあるといいのだけどちょっと回り道すぎる。うーん。

NHK俳句は堀田季何さんの回。名句を改悪したものから考えるの面白い。やっぱり名句ってすごいな、と思う。私の最初から悪い句も名句にしていただきたいな。今月は結社誌の締切か。今日は一仕事したら吟行しようかな。恐れていた通り急に寒くなってしまったから涼しくなったら行こうと思っていた場所に全然行けてない。というか私はどちらかというとこもって本読んだり音楽聴いたりしていたい。外に出ても公園でぼーっとしながらそういうことしたい。めんどくさがりなのね。

今日のNHK俳句はオノマトペ「独創的である」「説得力がある」の2点が大事とのこと。そうだなあ。こうやってPCを打つのはカタカタだとありきたりでしょう。のんびり打つと?と・と・とって感じ。乾いた変化のない音は難しいのかしら。ほうれん草を茹でる音はぽこぽこだと普通。どんなだったかなあ。ひたひた、しとしともありきたりだしねえ。うーん。難しい。あー、友人の句が取り上げられている!こういうの嬉しいだよね。ちっちゃい痛み、ちっちゃい欠落感かあ。季何さんの鑑賞もいいけど友人の俳句素晴らしい。いつも着眼点が全然違う。私はそういう才能はないからとりあえずもっと良く観察しよう。何年も言い続けて毎回参加することに意義がある、という言い訳で終えているけどまあ続けましょう。やめたい!と強く思う立場でも状況でもないし何かを見て何かの言葉にするというのは日常だからそのまんまやりましょ。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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お菓子

今朝はそれほど寒くない。チョコが溶けない季節。この長すぎた夏の間はチロルチョコを集めただけでそんなに食べなかった。サンマルクのチョコクロはようやくハロウィンを終えてホワイトチョコだって。温かい飲み物がおいしい季節になってきた。私は今朝も白湯をちびちび。

大変なことでもそうじゃないことでも面白いもんだなと思うことが多い。皮肉だなという意味で使うこともある。それにしても毎日慌ただしくてまとまってものを考えられない。書評もエッセイもどきもよく提出したなと思うけど過ぎてしまうと何も残っていない気がする。そんなことは全然ない、ということはそのときがくればわかるって、しかも結構すぐくるって知ってるのだけど日々流されるように過ごしている感覚にもなるから面白いもんだ。

ゼリー飲料をこれ以上薄っぺらくできないくらいまで長い時間吸っている人がいた。終わりを設定するの難しいよね、ああいう形状の飲み物?食べ物?って。いつまでも吸うことはできちゃうから。赤ちゃんのときから一番慣れてる動作かといえばそうでもないんだよね。吸う力がどうしても弱いとか吸うのがどうしてもうまくできないとか色々ある。それで困る場合とそうでもない場合があるのも面白い。あ、保育園の子供達のこと考えていたら巡回先の幼稚園に返信していないことに気づいた。今しよう。東京は雨っぽいけど無事に過ごしましょう。

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精神分析、本

中村哲さんの本とかメールとか。

南側の窓を滑らせて開けた。キッチンの窓も開けた。部屋の空気が一気に澄んだ感じになる。グチュッとしちゃうかもともらったキウイはグチュッとした部分はあったけど甘くて美味しかった。白湯。と少し前にもらった河口湖土産の富士山型のクッキー。チョコが練り込んである。今日は抹茶とホワイトチョコ。小さい富士山。美味しくてかわいい。毎晩家では作業をする余裕がないので隙間時間に色々するのだけどそれはそれで余裕がなくミスばかりの原稿を送ってしまった。英語だったから自動翻訳で確認しながらコピペ繰り返している間に文章が抜けたりしていることに後から気づいた。まあ仕方ない。締め切りまでに書いただけよしとしよう。訂正する機会はあるだろう、というかいただこう。隙間時間にちょっと読書してしまうのもこういうミスを増やしているのかも。読書は楽しいからなあ。時々パラパラとできるようにそばに置いている中村哲『思索と行動 「ペシャワール会報」現地活動報告集成 [下]20022019』を昨日もパラパラしていたらすごく泣いてしまった。実情が淡々と書かれる中に染み込んでいる中村さんの考えが真剣で温かくて泣いてしまう。こんなふうに絶望以前に淡々と日々の労働をこなすことが優先な人たちの「ふつうの」思いやりに学ぶ。中村さんのスケッチが好きだ。ここは干上がったような茶色い土地ではないの?という場所が緑いっぱいの場所になっている。中村さんたちと地元の人たちが地道に地道に達成した偉業だ。アフガニスタンは戦争では滅びないだろう、でも渇水で滅びるだろう、という言葉がずしんときた。ちょうどお世話になっている先生からメールが来た。意外で嬉しい共有だった。それを読みながら中村さんのこの言葉を思い出したので引用した。精神分析の世界を引っ張ってきてくれた先生方は色々ありながらもこうやって場所を維持してくれた。それだけでも本当に恵まれている私はその恵みを誰かの環境のために生かしていかなければならない。時折忘れてしまう感謝を胸に今日もがんばろう。