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青木玉の本、受け身の言葉

朝が来た。毎日来ているが今日も来た。窓を開けているかのように鳥の声が近い。鳥たちもえらいね、毎日規則正しくて。幸田文みたい。幸田文のこと考えながら「そういえば青木玉の本ってどこに置いたんだっけ」とぼんやり思っていたらすぐ見えるところにあった。表紙を見て「ああ」となった。これまでその装幀を美しいと思いつつあまり意識していなかった。『小石川の家』も『帰りたかった家』も幸田露伴が愛用したカバー入り用箋が重ねて描かれていた。装幀は安野光雅。さすがだ。青木玉もこの装幀は「夢のような御褒美」と書いている。余白に魚が描かれた便箋には当然まだ何も書かれていない。それ自体の余白に彼女のみてきた景色が透けて映る。しかしそれは露伴の目でもあり、文の目でもある。一人の子供の、一人の孫の生活史として非常に面白い本になっているのは玉の文才だがやはりこういうのも遺伝するものなのか。玉の娘の青木奈緒も才能豊かな作家だ。才能の遺伝もあるかもしれないがこの家族ならではの言葉が生き生きと書かれるのは玉自身の言葉が子供の頃から大切にされてきたからだろう。これらの本を読むと露伴も文も困った祖父であり母であるが娘であり孫である玉がそれを自由に書きつけているところがもう面白い。基本的に陽気で優しい家族だったんだろうな、と思わせる。私はその人の言葉がどんなであってもその人の言葉として非常に興味深いと思って人の話を聞いている。そこで感じるうんざりも驚きも相互作用だと思うからとても大切。そうだなあ、彼らの言葉には常に対話がある。外とも内とも。となると対話がない状態というのは、ということを考えるのが臨床家の仕事だが私たちは大抵まだ聞こえない言葉として言葉を受け取っている気がする。そういう対話が今として。

先日、生かされている、選ばれている、生きさせられている、など、れる、られるという受け身の言葉に敏感な自分に気づいた。我らおしなべて受動態といえばそれはそうかもしれないが「自分がある」、よって「自分がする・した」という想定をしないと自分の辛さってどうにもならないと思う。選ばれたからなに、生かされてるからなに、生きさせられてるとしたらなに、そう考えてなにか変わるならいいけどそういう表現をしたくなるのってなに、と思う。一方、確実に相手に責任を求めたい場合は受け身の言葉も確実に使うべきだとも思う。と読んだことのないSF作家さんのインタビューを見て思った。SFの水準でようやくそうとしかいえない受け身というのは確かにある。こっちの能動性が発揮できない状態だから。子どもというのはその点、結構苦しい立場にいるわけだが青木玉は無事に大人になってその辺を明るく表現している。遺伝と環境、そういう分類も簡単でいいがそれらもそれってなに、というより「だからなに」という感じかもしれない。いろんなことに「だからなに」と思いながら「だからなに」的な文章を書き連ねている自分は書かされているわけでもないのになにをやっているのか。自分に書かされている、とかなると物は言いようということになる。まあ、今日もあれこれがんばれたらがんばろう。