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精神分析 言葉

SNSの言葉

起きたら空がきれいなピンクに染まっていた。今日は暑くなるらしい。大丈夫なのだろうか、気象。

最近、SNSは、毎朝のブログの紹介をするくらいでほとんど読んでいないけど、みればすぐにそっと閉じたくなって閉じる。人が傷つき、そのことを訴え、そこにまた人が集まって言葉を重ねる。そのなかで、さらに傷つく人がいる。私は分析をうけるなかで「傷ついた」という言葉を使わなくなった。実際の傷に対しては使うけど。

もちろん、公の場所で語られていることだけでは、そこに至るまでになにがあったのかはわからない。声を上げるまでに長い時間がかかったのかもしれないし、公に語ることで初めて伝わることもあるだろう。でもSNSという「公」はどうなんだ。どんな声の人が、どんな字を書く人が、どんな感じでなにを伝えようとしているのかよくわからない空間。

苦痛を訴える言葉にさえ、ささやかな喜びにさえ、事情を知らない人たちの心ないひとことが重ねられていく。下に下に下に。本人がなにを求めているのかもわからないまま、周囲が相手への制裁を求めていくこともある。それは、傷ついた人を支えることになっているのだろうか。

最近は、もう子どもの世話はしない、といった親の投稿もみかける。それは親側のSOSでもあるし、そこに子どものSOSを読み取る人もいる。親を支えようとする言葉が子どもの苦しさを見落とすこともあれば、子どもを案じる言葉が親を追い詰めることもある。どちらのSOSも聞き落としたくないけれど、言葉をかけるだけではどうにもならないこともある。

他者には、その人自身の生活も、気持ちも、限界もある。思うように応えてもらえないこともある。それでも助けを求められること、応えきれない側も別の助けにつなげられること。そういう道が、公に訴えたその先にも必要なのだと思う。私の仕事は、面接室という閉じた空間でそれをひらいていくことなのだろうけど、SNSのような平板な世界に言葉が流れ出すことを行動化というにはちょっと、と思うし。

まあ、今日も平面より空間の言葉と。それにしてもそれにしてもだな。言葉にしたら負担が増しそうだが、どれもこれも〆切までにできあがりますように。やるのはオレだが。

暑さに負けず、というより気温差に気を付けてがんばりましょうね。

美味しいグラノーラ
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精神分析 言葉

「かわいそう」と思うとき。

夜明けが遅くなってきた。ようやく東の空の闇が溶けてきた。今朝は、上諏訪で買ってきたお菓子「建て御柱」。7年に一度行われる諏訪大社の御柱祭、次は2028年。木落しとか見せ場なのだろうけど見てるだけで怖い。そばにいたら心配でしかたないのではないだろうか。現代における祭りの意義って多分いろんな研究があると思うし、現場の人の話を継続的にうかがいやすい領域だと思う。「祭りだから」でくくらずに語ったり、聞いたりすることは、歴史や宗教をどう考えるかということにもつながるから大事だと思う。

子どもにでも大人にでも「かわいそうに」と思うことがある。なにがきっかけだったか忘れたが、最近、私はこの「かわいそう」をかなり意識的に使っている。臨床においても同じである。「かわいそう」というのはただの主観であり、リスクの高い言葉だと思う。インパクトのある言葉は人の心を様々にかき乱す。かき乱す、といえば、今の朝ドラ「ブラッサム」の昨日の回、珠さまはかわいそうだった。


「かわいそう」と感じたとき、私は「誰が」と問い直す。珠さまが?そんなのなんでわかるの?かわいそうかどうかなんて、かわいそうって言葉が必要かどうかなんてなんであんたにわかるの?と。

私は、アンナのこともかわいそうに、と思った。アンナ・フロイトのことである。それで書こうと思った。なのにたくさん寄り道をしてしまった。フロイトにムカつきすぎていたのかもしれない。すでに公になっていることなのに、私がここに書くにはあまりにも不快だったのかもしれない。


アンナはフロイトの分析を受けていた。という表現は成り立つのか?娘だぞ。しかもフロイトは、アンナとの「精神分析」を素材に『子供がぶたれる』という論文にしている。娘の話を聞きながら、自分の問題を指摘されているとは思わなかったのか。日常生活でだって娘が父親にむけているネガティブな情緒はたやすく感じるものだが、母親は。父親本人は気づかなくても。母親はどうした?不在か?というより、フロイトにとって自身の母親であるアマーリエ、そしてアンナの母であるマルタはしばしば盲点化された。フロイトが見ていなかったわけではない。母や妻、そして娘という女をある特定の位置に置くことで、それ以上見ないということにしたのではないか。これは単なる私の疑いである。


フロイトは、その理論において、母親は、子どもの最初の愛の対象、欲動満足を与える存在、世話をする存在として位置づけた。もちろん晩年には前エディプス期の母娘関係の重要性も論じている。それでも母親自身の欲望や葛藤、母親であることの負担を十分に考察したとは言い難い。これは先日、土居に対する批判にも含めた。


母親を欲望することと、母親を一人の欲望する主体として認識することはまったく異なる。精神分析家たちは、自身の身内の女性に対してどういう目を向けてきたのだろうか。フロイトは(おそらく当時の多くの男性の精神分析家は)家庭内での育児や生活の維持を妻に委ねながら、自らは精神分析という仕事に没頭できた。別にマルタがそれを不満に思っていたとか、フロイトが家のことはなんにもしない人だった、ということではまったくないだろう。


しかし、なにをどうしたら、娘を「精神分析」する父親ができるのか。そして、その娘の母親は、そんな夫をどう思っていたのか。父親中心の歴史が語られることで、女たちの経験の多くはそこから消えてしまう、あるいは消されてきた。父が創始者である「精神分析」の場で、アンナは自分の経験を「言語化」できたのだろうか。


すでに書いたように、アンナは、父フロイト以降の精神分析の重要な担い手のひとりとなった。特に子どもの精神分析において。これを「おんな・こども」の精神分析において、といってもいいかもしれない。アンナは、子どもの教育と臨床に力を注ぎながら、自らを問い直し続けたのかもしれない。フロイトには扱えなかった自分を見出すことを必要としたのもしれない。これも単なる私の想像だが。

精神分析は、よく勘違いされているが、自分の存在や行動に因果律を持ち込むものではない。精神分析プロセスにおいて「なぜ」「どうして」と問うことは答えを見出すためのものではない。そこに答えなんてない。とほうもない曖昧さや不明瞭さのなかにとどまることを知り、とどまれる可能性を感じ、とどまれることを実感するなかで人やことをそれまでとは異なるしかたで認識し、感じ取るようになる方法である。なる「ための」というほど目的的でもない。


私がいくら「かわいそう」と思ったり、怒りを感じたりしたところで、それは本人のものではない。かといって「父だから」「精神分析だから」ですませることもできない。とどまることとひきうけることは両立する。むしろとどまることで引き受けることは可能になる。

子どもの世界にどう関わるかという判断は、そうすること自体が大人の責任だし、関わるならさらにそこには大人の責任がともなう。大人はそれを引き受ける。相手を「子ども」というのであれば、自分は「大人」としてなにをどうすべきかを考え続けるしかない。

だからか。私は、アンナ・フロイトについて語るなら、フロイトがしたことを問い続けるべきだと思う。多くの「おんなこども」がそうされたのと同様に、アンナ・フロイトについて語らない、というのであっても、それはそれで沈黙の歴史であり、そこに対する責任を免れることはない。

私は「暴力」という言葉をたやすく使うことはしないが、暴力性に対して敏感でいたいとは思う。精神分析を被分析者として体験し、分析家として体験するなかでますます強く思うようになった。精神分析はまだみえていないものにかけているようなところがある。心に限らず、「関係」とか「素の自分」とかいったところで、それがなにかはみえないわけだから、精神分析に限らず、言葉の使用には熟考が必要なはずではあるが。

なにかに形を与えてしまうことに恐れを抱きながら今日も。良い一日になりますように。

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言葉 読書

メメント・モリ––大江健三郎を読んだり。

涼しい。薄い上着を羽織る。インフルエンザのワクチンも打ったが油断はできん。

ここは頭使わなくても手だけで書けるものを書く場所だったはず。なのに最近、やや頭を使うことを書いてきてしまった。いざ書いてみると、こりゃ書いとくべきだった、ということばかりではあるが、そもそも私の頭脳がもう少し賢ければこんなところにメモしなくても想起可能な形で記憶できていたのはないだろうか。なんて、自分にない能力のことをいってもしかたないでの、こういうツールに頼ればいいということでもある。


大江健三郎が、自分が年をとって感覚が変わったということをいろいろ書いている。と思って大江の本をパラパラしたら「『言い難き嘆きもて』のための前口上」に、その変化がはっきりと書かれていた。


若い頃には、いま経験し、読み、考えたことを「いまこれを書きつけておかなくても、忘れないだろう」、それどころか「こうしたいちいちをもう一度あらためてやることにすらなるのじゃないか」と思っていたという。ところが老年の入口では、「もう一度あらためてそれをやることはないだろう」と感じるようになる。そして、いま書いておかなければ、その経験や思考があったことすら忘れ、「このいまは、生きなかったと同じになるだろう」と。


そうだった。「あと何回」ではなかった。もう一度あらためてやることがある、という感覚が失われていくのだった。


反復される未来があるうちは、「今」を残さなくてもいい。また読むかもしれない。また考えるかもしれない。またここへ来るかもしれない、と感じる。ところが自分の時間は徐々にそれに追いつけなくなってくる。もう一度はないかもしれない。そうなると、いま経験したことを残すことの意味も変わる。


記憶と老い、それを残すこと。そういうテーマは老年期のものだと思っていたが、私も少しずつそちらへ踏み出しているのは確かである。


メメント・モリ。可能性よりも喪失を想像すること。私が精神分析における時間について書くことが多いのも、そういうことと無関係ではないのだろう。


もっとも、私は、もうこれで最後かもしれない、と思っても、大江健三郎のように残す言葉をもっていない。現代はこんな風に一筆書きみたいに書いたものでも、自分がボタンをクリックさえすればなんとなくの形になってしまう。やばい、と自分で思うこともある。だって、それって、可能性ばかり増やしていくことになりはしないか。可能性が失われる方向の可能性への注意を薄めてはいないだろうか。


昨日取り上げた岩川ありさ『物語とトラウマ――クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社、2022年)は、大江健三郎から強い影響を受けた本でもある。第8章は「組みかわる物語――大江健三郎『美しいアナベル・リイ』論」、続く第9章も「読みなおすこと、回路をつくること――大江健三郎と「憑在論」」である。


岩川が大江から受け取っているもののひとつは、傷ついた経験をただ物語にして回収するのではなく、すでにある物語を組みかえながら、別の語り方、別の未来への回路をつくるという発想だろう。それに関しては、大江のほうがシンプルに「物語」という言葉を使っている印象があるが、岩川を読めば、昨日、書いたように、「物語」の力は多方向に作用することがわかると思う。


岩川は以前から『美しいアナベル・リイ』を、女性たちが自らの経験を語りはじめるまでを描いた小説として読み、トラウマを引き継ぎながら「別の未来の可能性」をたぐり寄せることについて考えてきた。「自分について語ることの困難さは熾烈を極める」と書く岩川を、その困難のなかで支えたのも、大江の文章だったらしい。


そんなこともあってkindleにはいっていた大江を久しぶりに読んでいた。


前にも書いたと思うが、大学生の時、大江健三郎の講演会と息子の光さんのピアノを聴く機会があった。今思えば、私が大学でお世話になった男性の先生方はみんなとても穏やかで優しい人ばかりだった。大江健三郎も静かでユーモアのある人という印象だった。


なぜ、今、急に彼らが重なったのかわからないが、そういう静けさや穏やかさが、男性の別の部分を隠しているわけではない、ということを日々見聞きすることで感じているからであろうか。それとも、光さんが奏でるピアノと、光さんのことを書く大江の文章が何か影響しているのだろうか。わからない。


私が大人になってから読んだ大江の小説、まさに『美しいアナベル・リイ』もそうだし、大江がエッセイなどで子どもについて書く文章も、その「時」を生きる人の姿を静かに、力強く描く。「時」を生きることと、「時」を残すことは、「書く」という営みに集約されるものではないし、私はどちらかというと、「読む」ことで自分の輪郭を確かめているようなところがある気がする。こうやって急にいろんな人のことを思い出したり。


さりげなく、思いがけなく生じるささやかな出来事と今日も。どうぞ良い一日をお過ごしください。

切り株の向こうに金木犀が香っていた。
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岩川ありさ『物語とトラウマ』とか。

朝焼けがきれいだったが、今は日射しはおさまっている。ショコラの香りがする熱い紅茶をいれた。

私には大切な本がたくさんある。今朝は、そのなかでも最近の本について書く。といっても、私の「最近」はここ20年くらいだが。家、学校、友達、バイト、大学、社会と世界が広がっていく中で読書体験はどんどん変容していった。そこには連続性もあるが断絶もある。子どもの頃はやはりまだ時間があった。その頃に出会った本から受けた強烈なインパクトを今の私が感じることできるとは思えない。

それでも本を読み続けているので、今朝は私にとってはとても最近の本について書く。トラウマの記憶について、いつも参照するのは中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房、二〇〇四年)でだが、岩川ありさは『物語とトラウマ クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社、2022年)において、中井が同書で述べたトラウマの記憶を整理して使用している。自身のトラウマの記憶を「語れば癒える」という素朴な物語の回復の話にはしない岩川が、そこで呈示しようとしているのは、物語そのものではなく、物語がずれ、ほつれ、読み替えられ続ける可能性である。可能性を語る岩川の丁寧な論じ方は精神分析的な考え方との親和性も高いように思う。実際、岩川は、「フロイトは、ある出来事がトラウマとして認められるのは外傷に因果関係が発見された後であるという「事後性」についても指摘している」と「事後性」(Nachträglichkeit)もとりあげている。

岩川は「事後性」の「事後」が生じる瞬間を心と身体すべてで体験している。そして、その経験と研究や理論の言葉とを切り離さない。そこには、自分の体験を外へ開くという熾烈な試みがなされる場で必要なことが書かれているように思う。自分の心を守りながら、それでも外へと開いていくための言葉、なかでもその文法に焦点をあてる岩川の方法は、多くの読者の助けになるのではないか。

岩川が言う通り、「精神医学や心理学におけるトラウマ研究では、「非物語的なトラウマの記憶の物語への変容」という課題に対して、語りえぬものの領域や夢へのアプローチを欠かさないできた」。岩川は物語の力を以下のように述べる。

>物語は、自分をかたちづくると同時に、自分を縛りつける枠組みでもある。しかし、それと同じくらい、自分の生を規定しようとする力に抗い、支配的な物語のあり方を解きほぐすよりどころでもある。

>人生のそれぞれの段階において、物語の受けとめ方は変化し、新たな読み方の可能性が生まれる。支配的だと思っていた物語のほつれ目に、思いもよらない手がかりを発見することもある。

岩川は新しい物語とか、正しい物語があるとはいっていない。むしろ、物語と暴力について書いてきた内藤千珠子の姿勢を引き継ぐ。

>さまざまな事件を「物語の定型」に乗せて流通させ、消費し、その型を反復するときに生じる暴力の危険性に言及し、「物語が定型と化してゆく過程で生じた、いまでは忘れ去られてしまった意味の軌跡」をたどり、「細部に反響する声」を拾い集めようとする。

岩川も「細部に反響する声」を知りたいと願う。

そして、竹村和子の「ずれ」についての記述も合わせてこう述べる。

>同時に「集合的な物語」が「参照の枠組み」となりつづけ、そこから逃れられる人はいないことも竹村は示唆する。だが、竹村は、かならず「普遍的なものを個別的に実践するとき」、「ずれ」が生じるという。

>(物語がずれてゆくところにこそ)個別の物語が持っている可変力がある。それと同時に、普遍的とされる価値観や社会の規範、社会のあり方を変容させる可能性も物語のずれには生じうる。

>本書で私が見出したいのは、「ずれ」がいかにして小説のなかで起こりうるのかであり、トラウマ的な記憶について語る定型の物語を少しずつずらそうとする言葉の働きの探求である。

私たちは、普遍的、集合的な物語から完全に外に出ることはできないと感じるかもしれない。しかし、実際は、それぞれが生きる現実は多様であり(当たり前だが忘れられがち)、それを個人が生きるたびにその物語には必ず「ずれ」が生じる。その個別的なずれが逆に集合的な物語を変えていく可能性を持つ。

私がここで何度も書いてきた「概念と実践」の問題にもかなり近い発想だと思う。概念を捨てれば自由になるわけではない。概念なしには経験を考えることもできない。しかし、個々の臨床実践が概念にぴったり収まらない。その収まらなさを誤差として消去せず、概念の側を変化させる契機にする。岩川が文学について述べていることと似た構造がある。

「細部に反響する声」をこそ、私は知りたいと思う。
という言葉にも私は強く同意する。

今週発売になる『精神療法』第52巻第5号「大人の自閉スペクトラム症(ASD)の精神療法」 のReview of Books Abroadの欄(未邦訳の本を紹介するページ)でAnat Tzur Mahalel著Reading Freud’s Patients : Memoir, narrative and the analysand を紹介した。Anat Tzur Mahalelはフロイトの患者の回想録を「精神分析文学」として文芸批評の対象としたが、そこでも患者を単なる「フロイトの患者」という型にいれない慎重さを感じた。彼女の視線も岩川と重なるところがあるように思う。

共にいるからといって、共著者にはなれない。その人が自分に起きた出来事と共にあることができるように、聴き手にも読み手にも注意が必要である。

岩川は言葉のある側面について柔らかく記述する。

>ある光のようにして、たがいがたがいを支えあうような言葉の回路が「傷」を通して開くことがある。その瞬間を本書では捉えたい。自分でも把握することができないトラウマ的な出来事は、他者の物語や証言と出会うことによって、これが私に起こったことなのだという認識をもたらすことがある。トラウマについて語ることは困難さをともない、語りを聴くにも十分な準備が必要となる。語り出すまでの沈黙、叫びや息づかいに注意深くなり、時間をかけて言葉を待ちながら、トラウマについて語る人と聴く人との言頼関係をたがいに築き、傾聴することが求められる。

意識されることは少ないかもしれないが、私たちは、切実な体験をたやすくひとつの物語に回収してしまわないために、それぞれになにかしらの抵抗をしてきたのだと思う。語らなかったり、忘れたり、同じことを何度も思い出したりしながら。今日もそういうことを思い出したり、忘れたりしながら過ごすのだろう。岩川ありさ『物語とトラウマ――クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社、2022年)、ぜひ読んでほしい一冊である。

スイセン

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治療におけるニンゲンカンケイー土居、成田の言葉から

台風25号が過ぎて、今朝は久々に明るい空。早速陽射しも強い。ゴアテックスのレインウェアをなくしたので、新しいのをハンガーにかけてベランダに出して防水スプレーをした。それなりにしっかり重さも大きさもあるのにどこでなくしたのかまったくわからない。写真で追えるのは花巻に旅したときまで。そのあとも使っているはずだが、自分の写真を撮らないから追えない。痕跡をたどるために写真は必要かもしれない。

土居健郎は、『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)のなかで「(精神療法以外の一般の医学的治療の場合に)反して精神療法の場合は、治療は治療者患者の人間関係を軸として行なわれ、この関係を離れて別に客観的な治療は存在しないという点が、問題である。いいかえれば精神療法を精神療法たらしめるものは、外面的基準ではなく、その治療の特殊性ゆえの内面的規律である。」といった。土居は、似たようなことを似たような言葉で何度も述べている。似たような言葉といったが、似たようなことを考えざるをえない状況は精神療法の現場ではよくある。様々な臨床家が「治療におけるニンゲンカンケイとは」と頭を抱えることしばしばだろう。もちろん私もだ。

今日、こんなことを書き出したのは、昔の講義の資料をみつけたからだ。成田善弘先生の講義資料で「心理療法的関係の二重性」とある。参考文献は、成田善弘(2001)「心理療法的関係の二重性」河合隼雄編『講座心理療法6 心理療法と人間関係』(岩波書店)と、同じく、成田善弘(2005)『治療関係と面接――他者と出会うということ』(金剛出版)である。成田先生くらいになると、自分の本を参照してひとつの講義を組み立てられる。静けさと誠実さと柔らかな硬質さが印象的な先生だった。

先生方や私たち臨床家がいちいちニンゲンカンケイなんて普通のことを取り上げるのはなぜか。精神療法は人間関係そのもののことでもあり、「それは人間関係が関係していますね」などと、外側にたやすく立つことはできない性質をもつからである。

私たちが臨床場面でよくいわれるのは「先生にとっては仕事でしかないから」とか「人として対等に接してほしい」とかである。そんなとき、私は「まあそうなのだけど」と思いつつ、「仕事とは・・・」「対等とは・・・」となる。今でもそのようなことをいわれれば同じように立ち止まる。

臨床状況において、治療者と患者はどのように違うのだろうか。土居が「外面的基準ではなく内面的規律」といったのは、そもそも何をもってその関係を治療関係とするのか、その基準を関係の外側に簡単に置くことはできないということだろう。関係のなかにいながら、その関係について考えるという位置を失わないという役割を治療者はもつ。舞台にあがりながらも観客である、というのは、土居の場合は、患者ではなく、治療者に求められる役割だろう。

成田の資料をみてみる。どうやら成田も土居や私と同じようなことを患者から言われていたらしい。患者にとって相手が有名か無名か関係あるのは最初だけで、心理療法が始まれば、治療者患者関係には似たようなことが生じる。

成田は、その関係を説明するために「心理療法的関係の二重性」という表を作っている。左の列が「A関係」、右の列が「 B関係」で、A関係の列は上から、意識的・現実的・理性的・現在的・職業的・契約的な関係、B関係の列は上から、無意識的・空想的・情緒的・通時的・個人的・転移‐逆転移的な関係である。つまり意識的―無意識的、現実的―空想的、理性的―情緒的、現在的―通時的、職業的―個人的、契約的―転移・逆転移という対応で分類されている。成田は「二重の関係を生きる」とも書いている。なので、この表は関係を振り分けるためのものではない。

「先生にとって私は」という場合、意識的に、現実的に、理性的に考えれば、これは職業的、契約的な関係である。だから、治療者としては、一方では「そうですね」というしかない気もする。しかし、無意識を想定している精神療法において、治療者が捉えようとするのは、そこで同時に生じている空想的、情緒的、通時的、個人的な関係であり、私たちはそれを転移・逆転移と呼んできた。だから、治療者にとって、目の前の患者はただの「患者」ではすでにない。

舞台にあがりながら観客でもある、という二重性もこの表を用いた記述的な説明が可能だろう。
成田は『精神療法家の仕事 面接と面接者』(金剛出版、2014)、「7面接のおわり」、「転移の解消」で、当たり前のようにこう書いている。

「治療が深まって患者の人間関係の問題が治療関係の中に現れるようになると、それを面接の外の問題として観察したり分析したり評価したりすることがむずかしくなる。治療者はその問題をまさにいま・ここで患者との間で生きなければならなくなる。ただし、ただ生きるだけになってしまっては、その問題を本来変化させるべき問題として扱うことができなくなり、その問題を治療者との間に実現、助長してしまうだけになる。だからといってただ観察したり分析したり評価したりしているだけでは、その問題はいま・ここで生きられることはなく、患者に情緒を伴ったきづきをもたらすことはできない。精神療法家は患者との関係を生きると同時に、それを観察、分析し、その変化を促さなくてはならない。」(117頁)

「ただ生きるだけ」といわれても、しかも「生きると同時に、それを観察、分析し、その変化を促す」といわれても、それはそれで非常に無理難題な気もする。しかし、実際そうなのだ、ニンゲンカンケイというのは。

さらに、成田が面白いのは、遊女と客の関係と心理療法家と患者の関係を類似したものとして捉える点である。心理療法、精神療法はサービス業であり、患者からも「水商売となにが違うのか」と言われることは少なくない。「なにが違うのでしょうね」と一緒に考えているうちに、今ここで心理療法を体験している患者のほうから、「あ、でもこっちの場合は」などアイデアがでてくる。成田があげる「職業的役割関係でありながらあたかもそれを越えたものがあるかのごとき幻想をふりまいている」という類似点は、まさにそうだなと思う。時間、場所、料金という枠があるにしても、そこでの交流は、それらの設定だけには収まらないものとして経験される。わかっているからこそ、その時間を越えて続くなにかがあるかのような空想もする。時間がくれば終わるサービスであるとわかっていても、というより、だからこそ、と私たちは考えるのだ。

では、治療者と患者の関係はどのようなものなのか。土居も成田も治療者を外側に立つ人ではなく、患者と同じ場所にいる人として描写する。よりメタに、というより、もう少し広く精神分析の主体という観点から考えても、たとえば、ラカンが「主体の分裂」というように、分析家と非分析家は、等しく分裂している。

ここまで来ると、土居が「内面的規律」を要請するのは当然のこととも思うし、同時にその言葉は重たく、時に怖くもなる。土居が治療者の権威という問題に繰り返し自覚的だったことも、ここにつながっているように思う。

こうして、土居は、成田は、と考えながら思うことがある。先に挙げた『精神療法家の仕事 面接と面接者』の「9精神療法家にとっての理論と経験」(最近、ずっと私がここで書いてきたことだ!)で成田は、フロイトが「中立性」という概念にいたるまでの経験した様々な「逸脱」をあげたあとにこう書く。

「つまり理論というものは人生の危機に際して、あるいはその人の弱点とか実践上の問題点とかをめぐって発展するものなのである。

基調低音が聞こえてくると、普遍的な理論を形成した創始者が実はきわめて個性的であることがわかってくる。そしてその個性的な顔が書かれたものの断片にも見えるようになる。

パリのある街角の写真と、ルノアール、モネ、ロートレックなど何人かの画家がその場所を描いた絵を並べた画集を見せてもらったことがある。どの絵も写真と見比べると確かにその場所を描いたものだとわかる。しかしそれぞれの絵はそれぞれに個性的であり、作者の刻印が押されていて、他の作者の作品と見まがうことはない。精神療法における諸理論と現実との関係もこのようなものであろうか。」

本当にそうだなと思う。土居も成田も同じような問題を論じているのに語調も使用する言葉も違う。そこに私たちは「らしさ」を見出す。それはときに同一化の契機となる。成田が続けて書くように、私たちは理論を身につけるまでに特定の著者を理想化したり、傾倒したりするし、それは必要だろう。一方で、成田がいうように「馴染まないもの」に学ぶことも必要である。臨床家であればなによりも、自分と患者との体験から生じた感慨を、時間をかけて吟味し、時間をかけて言葉にしていくことだろう。誰かから見て「あの人と同じ」ではなく「この人らしい」と思われる表現を紡いでいけたらと思うのである。

昨日は、強まったり弱まったりする雨風の音を気にしながら、いろんな本を読めた。再読ばかりだったので理解にはそれほど時間をかけず、そのぶん、あれこれ考えることができた。それにしても、精神分析も哲学も男の言葉ばかりだなと思いつつ、私の本棚にはたくさんある女性たちの本や「女の子のための」とあえて書かれている本も手にとった。たとえばメリッサ・M・シュー、キンバリー・K・ガーチャー編、三木那由他・西條玲奈監訳『女の子のための西洋哲学入門――思考する人生へ』フィルムアート社、2024年。あえて「女の子のための」と書く必要がある時代なのだ、今も。私も本当にたくさんの女の子や女性たちの声を聞いてきた。そして彼ら、彼女たちが、女であることで、いかに悲しく、苦しい思いをしてきたかを知った。それは私自身の経験と重なるところもあれば、まったくはじめての衝撃をうけるものだったりした。私は、精神分析家として、彼女たちと共に言葉を紡げるようになりたいし、だからといって男ばかりが紡いできた言葉を排除しようとは思わない。そんなことができないほどにそればかりの社会である、という理由だけではなく。

今日もお休みの人もそうでない人もそれぞれに良い一日になりますように。

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8月30日、30年ほど

8月末〆切の仕事がふたつあったがギリギリではなく提出できた。ルーティン以外の仕事は時間のやりくりが難しく、労力を考えると全くお金になる仕事ではないので厳しい面もあるが、ボランティアは大学時代からずっとやってきていることだからその精神でやっている。ボランティアで入った場所で、少しお金をいただくようになって、そこに就職する道もあったけど、いろんなことが重なって私はそっちを選ばなかった。もし、あのまま、重度の自閉症の人たちと過ごす仕事を選んでいたら、今の私はどんな感じだっただろう。彼らと言葉でやりとりができない分、ほかで言葉を尽くす必要は生じたに違いない。具体的な危機管理を常に怠らなかっただろう。コロナの期間はむしろ少し安心したかもしれない。普段から人里離れていたから。当時、私と同年代だった彼らは元気だろうか。仕事としては選ばなかったけれど、今の私にもっとも影響を与えたのは彼らであることは間違いない。だからなにかとこうして話し相手になってもらっている。人は言葉だけでコミュニケーションしているわけではない。

大学時代、週末や長期休みは自閉症の人たちか不登校の子どもたちと泊まりこみで一緒にいた。大きなお鍋で料理をするのも仕事だったが私の役にたたないことこのうえなく、ある程度作ってもらったものをまぜるとかみはるとかそんなことばかりしていた。いい匂いがしてくる。みんながなにもいわず、目も合わさず、そばにべたっと座る。「いい匂いがしてきたね」と私が言う。誰も答えない。私はにこにこ楽しい気持ちでいる。そんな時間を過ごしていた。

みんなー、私はね、精神分析家という資格をとって経験と理論が離れないように試行錯誤する日々です。私が使ってきた言葉はみんなのなかでどんな形になっていたのだろう。精神分析には事後性という言葉があって、言葉ってあとから過去に作用したり、文法的な計算を超えてくるんだっていうことを日々実感してる。一緒に日本語の歌のワンフレーズをなんどもなんども繰り返したりもした。小さな声で。大きな声になるときはとてもつらそうなときもあって、そんなときは反省ばかりだった。責められてもいないのに私が自分を責めるという形でなにかするのも違うと思ってた。

みんなと会わなくなって何年かしてから単科の精神病院に勤めたのだけど、そこは面接時間は特に決まっていなくてお医者さんが「今日はなしてく?」みたいなかんじで希望する方とは大体おはなしできた。予約制ではないからたくさんお待たせしたりもするのだけど何も話さずただ一緒に数分を過ごしたり、絵だけ描いていく方もいたけど、そういうときこそみんなとのことを思いだした。面接しているときに、人で溢れる待合室で大きな声が止まらない人の声を聞きながらいろんな要因を考えたりもした。世界は生きづらい。本当に生きづらい。そんなことも思った。

あれから30年。親御さんたちはどうされていますか。地域の皆さんは?話したいことがたくさんあるよ。不思議。この前の地震、この前の雨、怖くなかったですか。心配は尽きない。みんな元気でありますように。スタッフのみなさんも変わらずいてくださいますように。

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ばたばた

薄い色の空がいつのまにか光でいっぱい。このWordpressのサイトのセキュリティの警告みたいのを対処の仕方がわからなくて放置してしまっていたのだけどchatGPTに聞きながらできた。すごい。やってみれば簡単だったのだけど説明のサイトをみても用語がわからないからそこまで遡って「それってなに」と聞けるのはいいね。私の周りは使いこなしているらしいけど私はいまいちその存在を忘れてしまう。ああ、それにしても朝から時間とられた。明日までにやらねばならないことがある、というときにこういうことを始めてしまうのが人間というもの。はあ。コーン茶で一息。

小さいとき、実家のすぐそばはトウモロコシ畑で自分の背よりずっと高いふさふさのなかを犬と一緒にくぐりぬけて遊んだ。トウモロコシが交易ルートのひろがりとともにその遺伝子を世界中に広げたのはずっと昔。やっぱりコロンブスが絡む。そしてもちろんダーウィンもトウモロコシの適応能力(?)について天才ならではの議論を展開している。近所のトウモロコシ畑がアメリカの広い大地にたくさんあると知ったのは社会の時間。地図帳か資料集みたいのか、後ろのほうにのっている穀物などの国別生産量のグラフをみるのが好きだった。親戚の子がペンで触れるとその国名の音声が国家とともに流れる本が大好きで一緒にいろんな国をポチポチした。コロンブスやダーウィンだったら熊の行動の変化をどう描写するのだろう。トレーナーさんともお互い山好きなので熊の話をよくするが、アラスカの生活を流しているYouTubeを教えてもらった。みてみたら家を建てるところからでびっくり。その土地で暮らすということは、と考えさせられた。とにかく遡ることは大事だ。トウモロコシだってアメリカで暮らすには、とトウモロコシが考えたわけではないけど、人間がトウモロコシの能力に驚かされながら積み上げてきた知見にもとづいて栽培されてきたわけだし。

人間同士の絆みたいな言葉もいいが、なんで人間がつながる必要があったかとかを視覚とか聴覚とか感覚モダリティの発生から考えるとか、精神分析やってるとそういうこと考える。特定の時間、ほぼ聴覚に刺激を集約させてそこでなにが処理されたり積み残されたり言葉になったり記憶を作ったりしているのか、それは目にはみえないけどイメージはできなくはない。知覚や記憶に関する知見の積み重ねだっていまや膨大だろう。バタバタしながらバタバタとしたことを書いているけど。どうぞ良い一日を。

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テレビ 精神分析 言葉 音楽

表情とか言葉とか。

朝の空。昨日の気温はよかった!夜は少し寒かったけど大きく息を吐いて、吐き切ったら自然に吸う、というトレーニングでやっていることを適当に使ったら駅に着く頃には暖かくなっていた。今日のお天気はどうなるのかな。光はすっきりときれいだけど。

朝ドラばけばけ、楽しい。本当にひどい時代だな、と思うのはどの時代に対してもだが、そこで生き生きと生活している人たちをみると安心する。私は笑顔が一番、みたいなことはよく笑う人に対してしか思わないけど(笑顔で!とか要求するもんでもない)、表情がくるくる変わるのは素敵なことだと思う(淡々と表情変えないのも好きだけど)。おトキちゃんが「すいません」と言ってばかりだと悲しいけど表情の豊かさを叱られて育つ子を思い浮かべると気持ちが全て顔に出ているおトキちゃんによかったね、と思ってしまう。すごく過酷ですごく辛いことはあるに違いないけど、それを表現できる方法があるって、そういうものを育てていくって大切だと思う。

なので相手が子供でも大人でも治療者が患者の言葉がどういう風に使われているかに注意を払うことはとても大事。言葉は現実をそのまま表してはくれないけど、私たちは辞書の役割を果たしているわけではないというか、そういうことは辞書のほうが確かな仕事をしてくれるので、私たちは言語が現実をどう切り取って、その認識がその人独自の体験の中でどのようになされてきたかに注意を向ける。認識って常に事後的なもの、そして言葉はその中で独自の機能を備え、語彙も意味づけされていくいく、という認識。ややこしや?特に精神分析では言葉が切断や去勢の作用をもつことを重要視するし、言葉が距離を生むんだという認識は共有していると思う。その質をどう考えるかだね。ややこしや?

♪毎日難儀なことばかり♪とハンバートハンバートが朝ドラ主題歌で歌っている。本当そう。でも今日も歩こう。生活しよう。♪落ち込まないで諦めないで♪

いいお天気になりますように。良い一日を。

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精神分析 言葉

話す、離す、引き伸ばす

今日も空が薄い。また雨かな。今降っていないみたいだけど。昨日はこれから晴れてくるのかなと明るくなりつつある空を見ながら用事を済ませて出てきたときには雨が降っていた。iphoneで天気予報を確認したら予報から晴れマークが消えて雨マークになっていた。銀行に振り込みに先に行けばよかった、と思ったが、東京は歩いて銀行に行けるからいいよなあ、と思ったり、でも実家にいるときはどんな近くても車だったな。

根室で震度5弱。寒い地域の夜中の地震。続いて起きることがありませんように。自然災害に対してはこう祈るしかないが、人に対しては祈るしかないような事態はできるだけ起きない方がいい。熊のことだってそう。政治なんてもっとそうなはず。でも一番論理的であることが難しいのも一番祈りが届かないのも私たち人間なのかもしれない。論破とかいったところで物言わせなくしてるだけでしょう。それは論理的であることとは違うと思う。

人が人を裁く、ということについてももっと考えていかないと危ないと思う。絶対に声を上げなくてはいけないことはたしかにある。その場合、できるだけ声を上げる人を孤立させてはいけないわけだけど、絶対に声を上げなくてはいけないことほど言葉にしにくいことだったりするから難しい。その人がその人の言葉で語れるようにまずできることは時間と場所の確保だろうとは思うけど。SNSでまるでそれがすべて正しいかのような情報がたくさん流れてくるが、それは個別に向けたものではないのでどんな著名人がいったことだとしても自分のことだと思ってはいけない。そういう情報を心の栄養にできている場合はいいが、心に圧力がかかっているときは情報を情報として自分から引き離すことが難しくなっていることが多いからインプットでどうにかしようとするとかえって混乱することもある。カウンセリングで患者さんたちはいろんな本や検索したことの話をしてくれるけど、自分がなんでその本を手に取ったか、どうしてそれを検索したか、とかの話にその人のニーズが現れているように思うので、守られた場所でそれについてはなされることの意義は計り知れない。その場合も理由が大事なわけではなくてあれこれ話すこと自体で自分の中の「そうしたい自分」みたいなのを離れたところから見てみるとちょっと違う景色が見えるかもね、くらいだけど。欲望のお話。「話す」は「離す」であると北山修はじめ、心に関わる人はよくいうが、そのためには実際の時間と場所を準備することも大事だし、まずは遅延という時間を取り戻すことが大事だと思う。誰かに責任を問うということは自分が誰かを裁く権利とどう関わるかということでもあるので、とにかく時間の効果に意識的でありたい。誤りだろうが断片だろうがものすごいスピードで発信され、拡散される時代に正義などなさそうなものだが、自分は間違っていない、という信念のもとそういうことは平然となされ、それを受ける側がどうなろうと当然の報いくらいに思われたりする恐ろしい時代。できるだけ時間を引き延ばし、ゆっくり話される言葉を私は大事にしたい。衝動性の背景にもそれは流れていると思える場合に。

先日、マイナンバーカードの更新が必要で手続きして取りに行ったけど同じ書類内で「個人番号カード」と「マイナンバーカード」の両方が自由に使われているのだけど、これわかりにくい人いないのかな。同じでしょ、同じだよね?と思ってしまった。早くも生活の当たり前みたいになったマイナンバーカードだけど私は全然慣れていない。手続きも私より明らかに高齢と思われる方が担当してくれたけど流れ作業というか、言われるがままにやってれば交付はされるのだけどこんなに考えないで進められる作業で個人情報が管理されているんんだな、と思い、途中、自分のほうのスピードを落としてみた。結果はマイナンバーの交付がされるというだけで何も変わらないのだけど、担当の方もきちんと名乗ってはじめてくれたわけだし、私は私の個人情報を大事にしたいのでお願いしますという気持ちをこめた、というのは後付けだが、このスピードは良くない気がする、というときは自分の方を緩めるというのは悪くないと思う。時間引き伸ばし作戦。相手をイライラさせたり次の人を待たせたりというのもあると思うけど、ロサンゼルスのスーパーでは後ろに列ができてもレジの人はおしゃべりをしていたし(それがいいと思っているわけではなく)、実家のほうの郵便局では顔見れば今日何しにきたかをわかってもらえたし(わかってもらうことが大事なわけではなく)、遅延させることで思考のスペースを取り戻すって感じか。

こんなことを書いていないで書くべきものを書かなくてはいけない。こちらは締切までに書けそうにないが遅延したら次の機会は一年後。出せなかったら出せなかったで仕方ないけどあと6日。粘れるかなあ。今週末は休みがないからまとまった時間も取れないがまとまった時間があると遊びに行きたくなってしまうから活かすこともできない。とりあえずそれぞれがんばりましょう。雨、少し降ってる、東京。このくらいで強くなりませんように。

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俳句 短詩 精神分析 言葉

寒露、団栗、茨木のり子

今日は十月八日。寒露。暦の上では晩秋となる。熱いお茶でちもとまんじゅうをいただく。あと柿も少し。

帰るのはそこ晩秋の大きな木 坪内稔典

寒露か、と思い、オフィスのそばの大きなシイノキを思い出した。殻斗にシュッと乗っかったどんぐりがきれいでよく写真を撮っている。昨日のブログの写真に載せたかな。

団栗の俳句は転がるのが多いけど私がみている団栗はあまりコロコロしなさそう。というかまだ木の上にいるのをよくみている。

団栗を押し傾けてうごく蜷 岸本尚毅

季語が二つ入っていても実景なんだと思う。こう動かされてしまう団栗の俳句はいいな。すこーしだけうごく。岸本尚毅の時間感覚は多彩。

疲れているとろくな話をしないわけで、昨晩の私は「ごんぎつね」と「てぶくろをかいに」を混同しており、どちらの狐も殺されてしまった。よくよく思い出すに、ごんのお話は子供があるおじいさんから聞いたという設定。「てぶくろをかいに」はお母さん狐の心情が主。と考えるとこの二つを同じ作者が書いていることは大変面白い気がする。

「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」

永遠の謎な気がする。新美南吉記念館が愛知県だと知ったので今度行ってみたい。

昨日は、茨木のり子のことを考えていた。蠍座を思い出したから。彼女は動員で東京の薬品製造工場にいくのだが、そこへの夜行列車を待つ駅でぎらぎらした蠍座を見た。「はたちが敗戦」という有名なエッセイの一場面。茨木のり子の『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)は詩を書いていた思春期の頃の愛読書だった。茨城のり子の本がうちにあるのは知っているがどこにあるかがわからない。読みたいなあ。この前終わったNHK朝ドラ「あんぱん」の主人公のぶは茨城のり子みたいだと私は思うが、お父さんとの関係がだいぶ違う。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

も有名だが、これは自分への怒りだろう、と読んだ。

ハングルに惹かれて50代から言葉を学び、『韓国現代詩選〈新版〉』(亜紀書房)の編者も務めた茨木のり子。斎藤真理子の解説でこれらの訳業が省略などの手直しを含んだものであることを知って驚いた。さすがに自らも詩人であり、取り上げられた詩人たちの交流もあると言葉への意識が研ぎ澄まされている。昨日か一昨日も書いたように言葉は内容ではない。

空がオレンジ色を増してきた。良い一日になりますように。

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写真 精神分析 精神分析、本 言葉

朝ドラ「あんぱん」、藤山直樹「精神分析家、鮨屋で考える 再び」、中井菜央「ゆれる水脈」

祝日があると曜日感覚も身体感覚もなんかおかしい。それでも明け方の空はいつもきれい。ずっとこのくらいの気温であってほしい。絶対そうならないってわかっていてもそう願ってしまう。

朝ドラ「あんぱん」、最近は毎日冒頭から泣いている。見る時間はバラバラだったがとても好きな朝ドラになった。SNSでのコメントも楽しかった。朝ドラも大河も大体決まった人たちの秀逸なコメントやとっても素敵なイラストを見て楽しんでいたのだけどたまに「え!フィクションにそんなこと求めるの?」「全部は書いたり見せたりできないのが作品ってものでは」「私たちがすでに知っているような人たちがいかに名を残さない人たちに支えられたかという話なのでは・・・」となるコメントを見かけたりもした。こういうことはみんなで話す会を開いたりして、そこにある程度知られた人がいる場合にもよくある。そんなとき私は「ハテ?」となる。すでに名もあって、語る場も持っている人の話はほかで聞けるけど、こういう場ではそうではない人の声こそ面白いのではないの?と思ったりする。そうやっていつも同じような人同士で対話?するグループみたいなのができて、そういう人が権威的に「権威」を語ったりするようになるのかもな、と思う。

話飛ぶけど、子供たちが口々にしゃべっていることをよくわからないけどなんだかすごいぞ、と一生懸命聞き取る方が、いつも同じ人が同じようなこと話しているのを聞くよりずっと楽しいんだけど、と私は思っている。子どもという生物の説得力は大人の言葉よりずっと力がある。

あるいは、ひっそりと、「うまく言えないんだけど・・・大きな声では言えないんだけど・・・ほんとは自分はこう思ってるんだ・・・」という語りを聞くことの貴重さ。それができる場はとても大事だし、誰にも知られていない自分の、誰にも触れられたくない自分を守ることの価値って今はほんの一部の人としか共有できなくなっているのかもしれない。守りたいのは本当に小さなことかもしれないのにあなたのことを知りもしないよく知られた人に抱えてもらいたい。そんな大きな願いで自分を保ちたくなる時代なのかもしれない。

この前、ハイキングで山から降りてくる途中、大きな鉄塔が立っていた。「すごい」と見上げているとそばにいた多分少し年上の人が「すごいよねえ、こんなの人間が立てるんだから」と笑った。本当にそう。いろんな山に道ができているだけでも「一体どうやって」と驚くのに、この鉄塔、これと同じものがあっちの山にもこっちの山にもずっと続いてるってことでしょう、一体どうやって、どのくらい時間をかけて、と思う。空高く伸びる鉄塔を一緒に見上げならちょっとお話ししてその人は先に降りていった。でもすぐに追いついてしまった。結構岩が多いしどうしようかな、と思って距離をとっていると向こうが止まってくれた。お互い「すいません」「ありがとうございます」と言い交わし、先に行かせてもらった。この日、その人と私は同じルートを歩いていたようだったけど時間をかける場所がちょこちょこ異なっていたようで抜きつ抜かれつした。そのたびに知っているような知らないような雰囲気で交わす一言がなんだか面白かった。

なんて話、どうでもいいようでいて、ハイキング仲間に話すと楽しく盛り上がったりする。みんな似ているけどちょっとずつ違う体験を話したり聞いたりしながら山でのコミュニケーションのあれこれに思いを馳せる。こういう「持ち寄り」が新しいコミュニケーションにつながったり、安全につながったりする。最近、熊が怖くて気軽に山道を歩けなくなっているが、これからもどうにか自然と過ごしていく必要がある私たちには大切な会話だ。

WEBみすずで精神分析家で日本精神分析協会の訓練分析家でもある藤山直樹先生の鮨の連載が再び始まっていた。みすずの連載は紙で届かなくなってからほとんど読まなくなったがこれはWEBで読んだ。藤山先生の連載は「精神分析家、鮨屋で考える 再び」。第一回は「鮨が生き続けること」。「生き続ける」ということに限界を感じつつ生き生きとそれにチャレンジしつづけるのは鮨も精神分析も同じだし、鮨屋の危機感を老齢となった精神分析家はもちろん強く共有している。

今は精神分析基礎講座と名前を変えたが、当時まだ対象関係論勉強会と呼ばれていたセミナーで、藤山先生の夏のグループの案内をもらった。申し込みからすごく緊張して、オフィスに伺ったのが先生の一冊目の単著『精神分析という営み』が出版されたときだから2003年。そのグループで一緒だった人たちの数人とはその後も関係が続き、当たり前だがそれぞれ20歳ずつ歳をとった。私もそうだが、精神分析家になった人もいる。

あの頃の日本の精神分析は活気があったと思う。小此木啓吾も土居健郎もいた。当然だが、彼らが遺したものは良いものばかりではない。まだ内側にいなかった私もそのあとすぐに様々な噂を聞くことになったが、自分のことで精一杯だった私は、精神分析でもなんでもただただ学べることが楽しかった。重度の自閉症の人たちと週末を過ごしながら教育相談員やスクールカウンセラーをやり、クリニックでの臨床も、塾の講師もしてた。とりあえず臨床家でありたかったし、精神分析を受けるためにも稼ぎたかった。若かった。

ここ数年、子育てがひと段落して久しぶりに学会にきたという友人やその頃からの付き合いの友人ともそんな昔話をすることが増えた。「あの頃はよかったよね」と言いたくなる感じを「なんか変わったよね」みたいな曖昧な感じで表現することも多くなった。時代が変わるとはそういうことなのだ。それでも修行の期間が長い私たちは簡単に去るわけにはいかない。私なんてまだ始まったばかりなのに、いつまで続けられるのだろう、と身体の不調や加齢を実感するにつけ不安になる。藤山直樹の年齢になればますます切実ななにかを感じることになるだろう。小さな日本の小さな訓練組織である協会の基盤づくりをしながら下の世代を育てることは、すでに整った組織で数多くの訓練分析家が機能している国のインスティチュートとは事情が異なる。今回の連載にはニューヨークに渡った馴染みの寿司職人、中澤親方という人を訪ねたときのことが書かれている。似たような危機を見据えながら下の世代を育て、自分が愛し、信じた文化が生き延びることを願い、自らも日々のそれを仕事として営む。しかも生き続けるためには生き生きと、というのはウィニコットとオグデンと藤山直樹の受け売りでもあり私の実感でもある。そんなあり方が人間にとってもっとも自然な姿だったらいいのに、と私は思うが、現実はそうではないような気がする。どうなるのかどうするのかどうしてくれるのか、とか言っていないで、私や私たちができること、したいことを模索していくことが必要だろう。何を言ったところで時間は有限だ。たくさんの支えを得ながら楽しめたらいい。

WEBみすずには8月号まで写真家の中井菜央さんの「ゆれる水脈 写真 表象の先に」が連載されていた。写真家ならではの細やかな観察と広がりのある言葉選びが魅力的で、知っている場所でまるで知らなかった景色を見せてもらっているような気持ちになる不思議で豊かな連載だった。新章を加えた書籍化が予定されているとのこと。楽しみに待ちたい。

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俳句 精神分析 精神分析、本 言葉

梨、子規、サンガマ

夜はクーラーがいらなくなった。喉の心配が少し減って嬉しい。ちょっと調子悪いとマスクをする癖がついているけど気をつけるべきことなんて少ないほうがいいに決まっている。今朝はまだ少し雨が降っているみたい。見えないくらいの雨が。

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 正岡子規

梨を食べている。豊水。おいしい。子規って1867-1902(慶応3年-明治35年)で35年しか生きていないのに(「のに」ってこともないけど)お菓子とか果物とかの俳句が多いイメージ。楽しい。

牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉 正岡子規

うちも昔、おはぎのやりとりしていた気がする。毎年、あんこ・きなこ・黒ゴマの三色で作って持ってきてくれた人もいた。父の仕事の関係の人だったような気がするけど私の中では「おはぎの人」となっていた。

職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規

という句も好き。枇杷が好きだからというのもあるがこれも私だったら「あの枇杷の家」「あの枇杷の家の人」とか言っていたと思う。面白い句だと思う。

毎日のように分析家のところへ通っていた頃、通り道に枇杷の木が一本だけあった。私は毎日、毎季節、身がなるまでも身がなってからも眺め続け写真もたくさん撮った。最初の数年はその大きな道に枇杷の木があることに気づいていなかった。

精神分析を受けるとこれまで気づかなかった景色に気づくことが増える。現実の景色のお話。心の景色も連動はしているに違いないが。私の患者さんたちもそうだ。そしてこんなに毎日のように通っていたのに、と自分で驚く。こういう驚きがとても多いのが精神分析だと思う。自分でもびっくり、という体験はいろんな情緒を引き起こすけど、それまでの年月はそれにお互いが持ち堪えられる準備期間でもあるのでなんとか二人でとどまる、味わう。

子規は病床にありながら一日一日を豊かに生きた。俳句は単に生活の切り取りではない。わずかな文字数が見せてくれる景色に潜む意外性に心躍る。

昨日、なんとなく出口顯『声と文字の人類学(NHKブックスNo.1284)』をパラパラしていた。

この本に、南米ペルーの先住民ピーロが植民地制度アシエンダのSIL教育のもと読み書きを身につけたという話がある。そこで引用されるのがSILの指導なし識字能力を身につけたサンガマの説明である。

「私は紙を読む方法を知っている。それが私に話しかけてくるのだ。彼女が私に話しかけてくる。紙には身体がある。私はいつも彼女を見る。私はいつもこの(文字が書いてある)紙を見る。彼女には赤い唇があり、それで語りかけてくるのだ。彼女は赤く彩色された口がある身体をしている。彼女には赤い口がある。」

サンガマは「書かれた文字(writing)を音声言語の表象とは考えていない」のである。

「西洋の人間にとって文字は発話を符号化(encode)したものであり、符号の解読コードを知る者は誰でもメッセージを読むことができる。声を物質化したものが文字であるという西洋の考え方にサンガマも同意したであろう。しかしサンガマが聞いていた声は、文字とは「別の声」であり、声を発する紙は「文字」の外見とは異なる身体を持つ。紙はメッセージを担う生身の女として現れサンガマに話しかける。彼が聞いているのは女の声である。サンガマにとって読み方を知っている者とは、コード解読の術をマスターした者というより、印刷されたページが女に見える「眼」を持ち、女が言うことを聞き分けられる「耳」を持つ者なのである。読むこととは女の話すことを聴くことなのである。」

俳句もオグデンがウィニコットを原著で読めというのも同じだな、と思った。俳句もその人の文字で書かれていると見えてくるものが変わる。ウィニコットも。その潜在性=創造性であり、読み手にもそれは求められるものなのかもしれない。

いい俳句作りたいな。言葉を豊かにしないと。とりあえず今日もがんばりましょう。

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精神分析 精神分析、本 言葉

言葉

空がきれいなピンクと水色。南側の大きな窓を開けたら涼しい風が流れこんできた。気持ちいい。鳥たちはまだそんなに鳴いていない。昨日も少し欠けて猫の目みたいになってきた満月が輝いていてきれいだった。それにしても見るたびに位置が全然違うように見えるのは絶対私の勘違いなのだろうけど変化が早く感じる。そういえばボラスの本にconstellationが出てきてここは「星座」って訳したいな、と思ったところがあった。

Being a Character:Psychoanalysis and self Experienceのintroduction

we do this many times each day, sort of thinking ourself out, by evoking constellations of inner experience.のとことか。

言葉は大切にしたい。

時折、SNSを開くとびっくりするような言葉遣いに出会うことがある。日常生活で知らない相手から言われたら暴力でしかないような言葉はSNSでも同じように暴力だと思うし、身内から言われたって暴力だと思うのだけど、つまり暴力的な言葉はどこで言ったとしても暴力的だと思うのだけど、向こうが「そんなつもりはなかった」といえばそう感じたほうに問題があるみたいになるのかもしれない。明らかにサイズも力も優っている相手が近距離で大きな声を出しているだけでも十分圧を感じるけど、そういう場合、優位なほうが調整をするものだろう。子供に対する大人がそうであるべきように。大人の場合、どうしようもない場合はこちらからきちんと離れることが調整となる場合も多いけど、それさえ叶わない場合もある。相手が個人であろうとなんでであろうと直感的に気に入らない、信頼できない、と感じたものに対して距離を取るのではなく、ある程度一般的な意見をもとに「ふーん、自分はそうは思わないけどね」で済ますでもなく、自分が納得できるような説明を求める、それがないと攻撃する、みたいな態度がとても多い場なのはなぜか。とても怖い。電車で知らない人に近距離で覗き込まれて何か言われたときと同じくらい怖い。合わなかったから、信頼できなかったら関わらない、という選択を行使してほしい。させてほしい。攻撃はそこに終始する限り何も生まない。とにかくよく知らない相手のあり方を印象で否定するものではない、というのは基本ではないのか。

今日はとても慌ただしい一日になる予定だけどお天気も気持ちいいし、私も気持ちだけゆったり過ごせるようにしよ。良い一日になりますように。

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テレビ 短詩 精神分析 言葉

ドラマ、言葉

いいお天気。昨晩は虫の声がきれいでやっぱり秋になったんだな、と思った。今朝は桃にしようかな。梨にしようかな。果物を送ってもらって嬉しい。

NHKドラマ10「舟を編む 〜私、辞書つくります〜」の最終回を見た。三浦しをんの原作をまだ読んでおらず、原作とは異なると聞いているがとってもよかった。みたあとは言葉に対する意識が変わる。すぐに忘れてしまいそうな言葉への素敵なこだわり。一方、感化されやすく不真面目な私はドラマで見聞きしたものを会話にすぐ取り込みたがる。「それも載せましょう、私の辞書に」など。

私の辞書のキャパは想起の量から見積もるにかなり小さい。想起の量から見積もられるときつい。知識があっても行動しなければ無意味、と言われるのと同じ感覚。いけない。もう頭がふざける方に向かっている。脳内でもっと上手にふざけられれば作家になっていたなんてこともあったかもしれない。村田沙耶香みたいに(『となりの脳世界』を思い浮かべている)。村田沙耶香は大真面目に面白いことを書いているのでふざけているわけではないだろう。それにしても、私の脳世界はなんとつまらないのだろう、と思うことしばしば。

そしていろんな人のお決まりの言葉を思い出す。「こんな私がこの仕事をやっていていいのか」と。なにそれ、どんな私ならやっていいわけ、と即座に言える私でもたまにはそうやって卑屈になる。しかし、選択したのは自分で、誰に強要されたわけでもないのでこの仕事をできるであろうと思った私がいたのだ、絶対。なんの根拠もなく。

これは「好き」とほぼ同義なので単なる万能感ではない。でもこの好きが厄介な場合もあって「好きなだけでやっていいのか」とか言い出してしまう場合もある。「だけ」と言いたくなる場合でも大抵それだけではないのにね。

言葉って厄介で大変だけどそれだから面白い、とかやっぱり厄介。でも厄介払いしない。面白いし好きだから、と戻ってこられる世界だから行動も大事だけど大事なのは言葉にするという行動かも。暮田真名さんの川柳なんかは言葉の意味をいい感じに剥ぎ取ってものとして提示してくれるからそれまでとは違う感じで言葉と関われて楽しい。来月9月には初エッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』が信頼の柏書房さんからでるとのこと。タイトルがまさにまさに。私がウィニコットやオグデンの使うaliveを探求するのはそれが死とくっついているからなんだけど、こういうタイトルって軽やかにそういうことを言っているような気がする。こじゃんと楽しみやき(朝ドラの影響。高知の言葉楽しい。健ちゃんの「〜しんしゃい」も大好き)。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析 言葉

言葉。

早朝は少し涼しい。日中の暑さもそろそろ和らいでほしい。

「週刊新潮」の連載コラム「変見自在」は今のところ差別をはっきり認めたり謝罪したりしないまま終了するらしい。多くの作家が声を上げてくれたから知ることができた事件。時代が変わってもこうした振る舞いは止まらない。朝ドラ「あんぱん」では読者にウケる辛口記事を書く蘭子に八木さんが至極論理的なことを言い蘭子はきちんと心揺さぶられ、思考する方向へ動いたが、何を言われてもしてはいけないことをしたと思えない、というか、本来してはいけないがこういう場合はしてもいい、というルールを持っている人も一定数いる。小さい子が罪悪感いっぱいになりながら自分の正当性を主張するのともだいぶ違う。思ったとしてもいう必要のないことをあえて言葉にするのは悪意だ、ということもできるがそれも立ち位置を変えればむしろそう捉える方が悪意だ、みたいになる。それでも、なんとでも言えることに対して何かを言っていくことは大事だろう。

一方、言葉をそのまま受け取らず、何がどうなってその言葉が発せられているかにも注意を払いたい。精神分析は頻回の設定によるカウチでの自由連想という方法で「あれ、なんで今このこと思い出したんだろう」「なんで今この言葉を使ったのだろう」ということが生じてくる。そしてそれに対する抵抗がまた別の言葉をうみ、過去の出来事はそれまでとは違う形で想起されたりするようになる。もちろんそれは現在と未来にも響いてくる。今見えているものとは全く別の何かとの思いがけない出会いは最初は相当きついのが常だ。抑圧という機制は人間の心を守るために絶対に必要だった。言葉はそれを巧みにやってのけるがそこにもその人らしさが出るのでそこもアセスメントしている。みているのは言葉の内容ではなく言葉の使用の仕方と言ってもいい。精神分析は少なくとも2、3年は受けた方がいいと感覚的には思う。私は分析家になるために行けるとこまで行きたいという感じがあり相当長く受けたが、人生の生業を別の場所に置く場合はあまり長いのは現実的ではないだろう。

鳥がすぐそばで鳴いて去っていった。静かな朝。こんな暑くてもすっかり秋を感じる毎日。不思議なものだ。

良い一日になりますように。

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俳句 散歩 言葉

819、街、トレーニング

今日8月19日は俳句の日。ハイキングの日でもある?この前のNHK俳句のゲストが近藤良平さんで、もちろんお題は「踊」だった。8月はバスや電車から盆踊り大会の準備や最中の様子を目にした。あの提灯の灯りと賑わいが持つ熱もそこで交錯する思いも蘇る思い出もひんやりを味わいながらふと客観的になる瞬間も人混みを離れたときのちょっとした安堵も全部いい。いろんな人がいろんなことをしながらいろんな気持ちでそこにいる、いられる場として地域に残っていけばいいなと思う。

など思いつつ身近な人に盆踊りのことを聞いてみたらなんと子どもの頃、自分の地域にそういうのはなかったという。都会だからというより、町内会によるのか、ああいうのは。

その人がアルバイトをしていたコンビニはまだ同じ駅前で営業を続けている。内装は変わったというし、常連だった近所のケーキ屋さんもまだある。私も年に数回、その人の思い出話を懐かしみに利用する。

コンビニといえば村田沙耶香だが「となりの脳世界」に収録された「歌舞伎町の店員」というエッセイも秀逸だ。この店員は村田沙耶香さんご自身のこと。先日、歌舞伎町で働いていた身内の話をしたばかりだったからなおさらこのエッセイを思い出したのかもしれない。どの街にもいろんな仕事がある。

この前、朝10時くらいの公園でサンドイッチを食べた。ほとんど日陰のないその公園にはアスリートみたいな男性がひとりなにか食べていた。私はいつから咲いているのか、干上がってしまいそうな薔薇の横のベンチに腰掛けた。普段、サンドイッチはあまり食べないがこのパン屋さんのはおいしいと知っていた。トマトの酸味とモッツァレラのほんのりした甘さがぴったり。幸せと思う傍らで蚊を警戒。数日、気温が下がったせいか、今年はあまり出会わずにいた蚊が一気に身近になった。早速腕が痒い。UVパーカーで覆われた腕が。なぜ。そこへ背後に人の気配、と思って振り向いたら鳩。羽音はしなかったのに。若者はいつのまにかいなくなっていた。誰もいない日向ばかりの公園では鳩の着地音がこんなに響くのか、と驚いていたらバサ、バサッと今度は羽音。着地する鳩が増えていく。嫌な予感はしていたが私の足元に向かってくる鳩たち。こんな小さなサンドイッチ狙い?それともこの時間はみんなここに集まる時間なの?実際、オフィスのそばの道ではそういう時間がある。決まった時間に餌をくれちゃう人が来るのを彼らは知っている。怖くなって最後の一口を立ちながら食べてその場を離れた。薔薇は乾いても美しく、秋の薔薇なのか夏の薔薇の名残なのかわからぬまま愛でて去った。

仕事の合間の筋トレも再開。今も腰が痛いけど昼間は忘れていた。いつものメニューをそれなりに正確にこなせた。体幹はだいぶ強くなったので首を調整中。これが結構きついが筋トレ始めてから肩こりはないので姿勢の軸になるところはしっかり鍛えていきたい。それにしてもこの年でこんなきついトレーニングするようになるとはね、と思う。それは精神分析を受けていた時もずっと思っていたけど。この年でこんな小さい子みたいに心揺らしちゃってそれに付き合ってもらえるとはね、と。いろんな土地のいろんな人と話すにも昔からの友人と話すにも毎日の目の前の人と話すにも自分の心がいろんなふうに作動することを許容できる自分でいることは精神分析家としては必須だし、いろんなことが豊か。楽しいこと、面白いことは探求すればキツさは伴うけどそういうのもひっくるめての楽しさ、というのはそういうのが好きな人たちはみんな言ってる。最近、私が触れたところだと牧野富太郎とか。練馬区立牧野記念庭園に行ったからさ。

魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも  正木ゆう子

今日もがんばろう。

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Netflix テレビ 言葉

休暇果つ。

早起き。まだ窓を開けない。洗濯機ももう少ししてから。Duolingoでフランス語をやった。今セクション2・ユニット24「周りの環境を説明する」。季節とか釣りとかの単語が出てくる。こんな簡単なことも忘れているのだから忘却力ってすごい。忘れたいことには発揮されないくせに。

夏は知らない人や一年に1、2回しか会わない親戚と話す季節。一時帰国した人たちの話を聞くのも楽しい。日本人であることを常に意識させられる環境を普通として育っているんだな。それが本人にとってどんな体験かはわからないけどいくつになっても、たまにしか会えなくてもいろんな話ができるのは嬉しい。

週末、NHKスペシャル「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」を見た。実話ベースのフィクション。朝ドラや大河でおなじみの俳優たちはほぼ同時に別の人生を演じたりもしているのだろう。大変なことだが彼らの影響力は大きいから必敗とわかっている戦争を始めるようなことが二度とないように魅力的に演じ続けてほしい。それにしても戦争ものの画面はとにかく男ばかり。銃後の声を描いたNHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争」を見ていたからなおさら女、子どもはお国のために消えてよし、という世界が戦争なんだよな、と思う。実際、ドラマでも救われていないことが言葉だけでわかるし。現実は死にそうになりながら生きていた女子供はたくさんいた。このドラマでは二階堂ふみの声が効果的に女の存在を示していたと思うけど。なんたることかのう。

休暇果つ。今週もがんばりましょう。

秋風のしづかにつよし蜂も来る 岸本尚毅

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俳句 旅 言葉 読書

ニュース、眠る。

すごい風。熊本の雨はどうなのだろう。能登にも洪水警報が出ているという。どちらも地震や水害ですでに弱っている土地だ。被害に対してできるだけ早く援助が入れますように。

1985年8⽉12⽇、⽇航機123便が群⾺県上野村の御巣鷹⼭に墜落し520⼈の方が亡くなった。あれから40年になるのか。3人の娘を亡くした両親の記事を読んだ。あの日、私は群馬を離れて水道橋にいた。思考停止を体験した大きなニュースはこれまでにいくつかあるが、御巣鷹山での事故もそのひとつだった。

昨晩、8月15日必着の投句を清書していた。10句出すのだが作るのもギリギリ、清書までにまたぼんやりし、推敲不足なために清書の段階で自分の言葉に違和感を感じて止まったり、最後の一句でついに書き写し損ねた。6句目くらいから集中できなくなっていることに気づいてはいたが最後にやってしまった。そして今度は修正テープを探すのに手間取った。テープのりならなぜかいくらでもあるのに修正テープがいつもない。使用頻度の高いものこそ置き場を定めなくてはいけない、といつも同じような場所に戻しているつもりなのだけどなぜかいつも探すのに時間がかかる。そして修正テープ初期のものでは、というレトロな未開封ものを見つけた。封筒の宛名もきれいに書けなかったし、郵便料金が変わったせいで切手もたくさん貼らなければで見栄えが悪い。でもとりあえず間に合いそう。毎日俳句を作る習慣が崩れていたのがよくなかった。清書から封を閉じるまで一気にスムーズにできる人も多いだろうけど、私の場合、それは小さなステップの積み重ね。丁寧に、きれいに仕上げたいなら時間的にも精神的にも余裕が必要。

先日、バスで、大きな大会の選手たちと一緒になった。「◯◯も出れば」と言われた女子が「男子の大会だから」というと「男尊女卑」と男子はつぶやいた。バス停で待っているときからありがちな力関係を感じさせない喋りをする子たちだなと思っていた。私はバス停の柱に作られた細長い巣に素早く出たり入ったりする燕を写真におさめようと伸びたり縮んだり落ち着きなく動いていたのだが、彼らの会話は落ち着いていて、物理的にも心理的にも相手のスペースを脅かさない普通の譲りあいや気遣いがあった。男子選手は女子選手の実力に敬意をはらっているらしく、女子選手も静かな闘志を見せていてカッコよく、心の中でたくさん応援しながら先にバスを降りた。外は大雨で、祭りの予定だったその街は静かで、図書館も美術館も開館時間が予想より遅く、美術館併設のおしゃれだけど古びたカフェで時間をつぶした。若い世代は意外とこういう会話をしている、と私は知っている。子どもたちのため、とか言っている大人はあまり信用できないことも私は知っている、というか、子どもたちがそう言う大人にうんざりしていることを知っている。実際、私もそう言いたくなるときは自分に欺瞞を感じる。私に彼らのような振る舞いができているとは思えない。

この辺は福尾匠『非美学 ジル・ドゥルーズの言葉と物』の「第4章 言語 概念のプラグマティック」やジュディス・バトラーが参照する論者たちのパフォーマティヴィティに関する議論で深めることができそう。ジェンダーとセックスに対する考え方を更新する可能性は子どもたちにあるのだろう。

再び眠くなってきた。昨晩は夜も遅かったからこのままだとかなり寝不足になる。もう少し眠ろう。水木しげるも「睡眠は幸福のモト」と書いている。たしかに「眠れる」という事態は特別なことだ。眠ろう。そしてまた起きよう。

燕の尾しか撮れず。

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言葉 読書

谷川俊太郎詩集とか

カーテンをめくって窓を開けたら風に飛ばされたサンダルが見えた。飛ばされなかった方は乾いてて、飛ばされた方は雨に濡れている。また避難させておくのを忘れていた。

窓を閉めてちょうどよく身体にフィットする形になったクッション背にソファにドンと座った。昨日すごく痛かった青竹踏に足を載せる。以前、どこだったか足ツボの道があって痛くて歩けなかったことをこれをするたびに思い出す。

谷川俊太郎の『恋愛詩ベスト96 私の胸は小さすぎる』をパラパラした。『自選 谷川俊太郎詩集』は学術大会のときに友人にあげた。やっぱりシャープだな。「恋愛詩」といえど甘美さはなく、そんなときに書かれる詩はなおさら孤独なものだろう、という前提がある気がする。実際そうだという実感は、ある。

しまった、うとうとしてしまった。ソファに座ったがのまずかったな。

昨日、別の有名な詩人の詩を読んでいたことを思い出したけど誰のだったか。森鴎外とか有名な人たちが訳してる・・。どうして忘れてしまうのか。昨日も危うくイレギュラーな予定をすっ飛ばしそうになった。リマインドが来たからよかったけど。淡々と同じリズムで日常を過ごす余裕はいつ生まれるのか。

とりあえず今日も無事に過ごしましょう。

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俳句 言葉 読書

一 一 一

題秋江独釣図 王士禎

一蓑一笠一扁舟

一丈糸綸一寸鉤

一曲高歌一樽酒

一人独釣一江秋


王土禎「秋の川でひとり釣りをする図に題す」という一字詩。小津夜景さんの『カモメの日の読書』(東京四季出版)で知った。真夏に向かうこの時期に秋の川もなかろうにと思うが、今日は季節よりこのミニマムさを味わいたい。世界がもっとミニマムでシンプルだったらといつも願う。そうしたら人はもっと生きやすいのではないだろうか。素朴な遊びを楽しめるのではないだろうか。このブログも1000日連続して書いているらしい。いつでもなんでもあっさり手放してきたわけではないということ。小学校低学年の頃は日記を書いていた。私はとっくに手放したと思っていたが母の本棚にそれを見つけてちょっと読んだよ、と中学生になった身内に言われた。内容に言及する仕方の配慮に私たちがそれぞれに触れられたくない部分、守られるべき場所を持つことを思い出す。私は内容を全く覚えていないが、毎日の出来事を書いては先生に見せて先生がコメントをくれていたらしい。1年生の時にそんなことをしていたのは覚えているが、2年生になってもしていたんだな。その痕跡というか実物がまだあるんだな。ずっとそんなコミュニケーションの相手がいて私はきっと助けられてきたのだろう。ミニマムにシンプルに表層だけで流されるように生きていた時期もあったのだろう。線だけで遊べるウィニコットの誰からも理解されないような部分は深層より表層にあって、線というものは文字のように字義通りにはならない。夏の花の花びらや実をじっと眺めるのはその深淵が覗くことではないだろう。ただそこに置かれているものと一緒にそこに立ち尽くすこと。そんな毎日の今日も一日。一、一、一とひいていくように。

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旅 言葉

伝統

オレンジの光をあびてた。もう白い光に変わった。いいお天気で嬉しい。

昨日は祭りの伝統、嫁入りの伝統など地方の文化について色々考え難しいなあと思った。

少し前に地域社会の祭りなどを研究してきた武田俊輔さんがパートナーの富永京子さんと対談していて祭りにおける女性の役割と気持ちについて話されていた。「個」と「家」の問題は本当に難しい。

その中の有料部分ではあるのだけど「職業人としてやっているつもりだった。それは、その裏でがんばっている人を無視しているという話にもなり得るんですよね。」という富永さんの言葉があった。それもそうだなと思う。

伝統が守っているものというか「守る」は保護でも縛りでも依存でも可能性でもあるので本当に難しい。

とにかく語りを聞き続けることは大事。お休みの日はいつもと違う語りを色々聞く。言葉をなくすこともあるが続けよう。

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コミュニケーション 言葉

Eテレ、カフェでの会話

窓を開けた。風が気持ちい。オレンジの光はこれからかな。隣のうちの朝も早い。雨戸を開ける音が聞こえた。

この前、朝まで藤に絡みつかれていた桜が夜には幹だけになっていた話を書いた。それももう根元からなくなり、その木の所有者であったであろう人の家も外壁を残してほとんど中が丸見えになった。長らく誰も住んでいなかった。すでに柱だけとはいえはじめてみる内部。急に光がさし、風が通り抜けて小さな虫とかはきっとびっくりしたのではないか。奥に立つ家の外壁には何かのツルが張り付いて伸びていた。植物は気楽に境界を超えていたか。あの藤の名残だったりして、と思うと少し嬉しい。その家の人には迷惑かもしれないけれど。

昨晩、深夜、Eテレで『フェイクとリアル 川口 クルド人 真相』の再放送をみた。差別は絶対になしだ、というトーンでもなく、クルド人に関するSNSへの投稿の分析が量的になされ、いくつかの投稿に関してはその投稿をした側、された側の意図や気持ちが取材されていた。見始めてすぐに消したくなる不快さ、怖さを感じたが最後まで見た。その人がそうだと思えばそれが事実だ、ということはないし、数を集めた人が正しい、ということもない。少し時間をかければわかることでも圧力をかけられればすぐに混乱は生じる。事実はもっと複雑なものである、というのは本当にそうで、違和感はまず自分と実際の身近な相手との間でこなされるべきだろう。

私の仕事は時間をかけることの価値を信じられる人とじゃないと難しい。誰だってできるだけ早く結果がほしい。早く登校できるように、早く復職できるように、早く相手が変わるように、などなど。でも今もなんらかの結果だとするとそこにいたるまでの時間は長く、経緯は複雑だろう。誰も自分ひとりとか、自分と誰かという二者関係で生きているわけではなく、もっと複雑な対人状況を生きているわけだから。だからまずそれを認識し、それを整理すること自体に時間がかかる場合が多い。もちろんそんなに時間がかからない場合もある。でもたとえ時間をかけずに望む結果が得られたとしても今起きていることが複雑であることに変わりはない。

この前、カフェで席に通されると隣の人の大きな声が気になった。向かいには小さいけれどしっかりした声で話す人。その人が何か話そうとすると大きな声がそれに被せるように長い文章で話し出す。身体が動かず出社できなくなってしまったらしい人のヒヤリングをしているらしい。そんなプライベートなことをこんな公の場所で、と思ったが、SNSの利用状況を思えばこれもデフォルトなのだろう、か。医者に行ったら薬漬けになる、と受診を勧めない人が一定数いるのは以前から。私も責められているようなその大きな声が「あなたも甘えているところをどうにかしないと」というようなことを言った。これもよく知られた決まり文句。辛くなりながら資料を読んでいたら「甘えてるってどの部分が・・・」と小さいながらはっきりと異議を示す声が聞こえた。すぐに書き方とか振る舞い方とかを指摘しはじめる大きな声が響いた。みんなそう思ってる、という言いぶりもセットのパターンだと思いながら私はアメリカンをちびちび口にしながら作業を進めた。そこからの相手にはびっくりした。穏やかに、はっきりと、勤務時間外、早朝深夜休日問わず自分のスマホに送られきた文面を見せ、状況を説明した。その送り手がその人の不調にもっとも影響を与えているという認識だろう。見せられたその人はその送り手と親しい同僚らしく「ちゃん」づけでかばいつつも読み進め、話を聞くうちに言葉を少なくしていった。結果的にこれはパワハラだと思う、という理解になった。その会社ではハラスメント防止のための無料の研修も行われていて自分たちは受けているんだけど、と聞いて小さな声の人は少し驚いた様子だった。管理職向けなのだろう。パワハラをしている人はまさか自分のそれがそうだとは思わない、という話は本当にそうだ。「〇〇ちゃんも気づいていないと思う」と。そこからの会話は大きな声でも安心できるものに変わった。自分の誤解だった、全然知らなかった、と言える人が相手でよかったね、と大きなお世話ながら思った。具体的な対策も示された。そのときちょうど会社から電話がかかってきて小さな声で狼狽えるのが聞こえた。「私といるって言えばいいよ。ごめんね、私がいっておけばよかった」と上司らしきその人はいった。身体がかなり大変そうな話もしていたが受診を含め適切な対応と会えたらいいな、と思いながら私は席を立った。

「甘えてるって」と問い直す力を持ち合わせていない人も多い。すでにどこかで埋もれて見えなくなってしまったその言葉の存在を本人も忘れ、ただただ眠れなくなったり身体が重たくなったりして家から出られなくなることもある。今見えているものに反射的に反応することは避けたい、というのはどの人にも言えることだろう。

優しい光。今日から5月。4月はあと一日あると思っていたので昨日気づいてびっくりした。あーあ。慌ただしくとも穏やかな時間を過ごせますように。

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俳句 言葉

俳句、「病院ラジオ」

今日もオレンジの光が溢れる時間。窓を開けたら同じリズムを刻んでいた箒の音が大きくなった。早朝からありがとうございます。多分、通り全体を掃いてくれている。両手を頭の後ろに組んで首を後ろに曲げた。椅子に座っておなかに力を入れて腰を立てた。昨日は結局何も進まなかった。この数日間で「これでいこう」というのは何回か浮かんだが自分自身が全然ピンとこず書くことができない。いつもこの時間がすごく長い。決まれば一気に書けるけど推敲の時間がなくなるから結局中途半端になる。俳句でもそう。学ばない。

先日のNHK俳句は句会形式でとても楽しかった。視聴者が投句した俳句を選評する高野ムツオさんの言葉に泣いてしまった。その俳句をさらに良いものにしていた。選評を聞くと「とればよかった(点数を入れればよかった)」と思うこともしばしば。読む側との相互作用で俳句は光り方を変える。マッチョな世界でもあるが、言葉の繊細さをしなやかに美しく形にしていく芸であることに間違いない。私が筋トレでダンベルの重さより美しい形で動くことを目指しているのもそれに近い。子供の頃から肩が強くてソフトボール大会ではピッチャーだったし、バスケ部でも長く速いパスをするのが得意だった。今、自分の筋力のアンバランスを知るとあの頃に気づきたかったなと思う。スポーツは好きだけどもっと楽しめたと思うし怪我も少なくて済んだと思う。

といっても身体は予防だけではどうにもならないことだらけでもある。原因不明の不調、突然の大病、あっという間に亡くなる人、いろんな場面を見えきた。身近に患者になる人が出れば周囲の人も揺さぶられる。それまで当たり前のように送ってきた毎日のリズムを変えなくてはいけないこともある。みんなが気持ちを揺さぶられる。正確に予後を判断し私たちを安心させてくれる方法はほとんどの場合ないが、確率的にはこうだ、ということを丁寧に説明してもらえることは多い。そこに時間を割いてくれる人の姿を見ると関係なくても安心したりする。昨日の朝にやっていた「病院ラジオ」がそうだった。朝ドラを見終わったらそのままそれが始まってなんとなく見ていたら何度も泣いてしまった。今回、サンドウィッチマンが向かったのは東京都立小児総合医療センター。私にとっても身近な現場だ。病院の様々なところに置かれたラジオから流れるのは遺伝子の病気や癌、摂食障害などの体験している人たちとサンドウィッチマンの対話。テレビではそれを聞いている別の患者さんや家族の様子も映される。それぞれのエピソードに笑ったり泣いたりをみんながしていた。病院で彼らと時間をともにしてきた病院スタッフの表情や関わり方も心に残った。それぞれの立場でできることをひとつでも多く確実にこなしていく。たとえ生きている時間がそんなに長くないという予測があるとしても単にそれを引き伸ばすだけではなく、その時間自体を豊かにしていく。そういう関わりができるんだな、と思いながら目の前のことに振り回されるときの自分を反省した。こういう番組はいい。文章で共有される語りにも引き込まれるが、音声にはまた別の力があるような気がした。この番組は不定期なのかな。何度か見たことがあるけど今回も見られてよかった。

今日は水曜日。いちいち確認しないとわからなくなりそう。今日もいいお天気。がんばりましょ。

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お菓子 言葉

万寿庵のまんじゅう、長引かせたり引き伸ばしたり。

部屋がオレンジに染まって眩しいほどだった。洗面所から戻ってきたらもう白い光になっていた。どこに吸収されてしまったのだろう。南側の窓を開けるとまだ空の高いところに月が残っていた。あそこに?

SNSはとても暴力的な場になったなあ。最初からそうだけど、だいぶ変わったのではないかな。これまでランチタイムとかに「ニュース見た?」「見た見た」「ひどいよねえ」「ねー」くらいであとはそれぞれの心でこなされていたものが。被災地のことや木々の伐採のことや農業、漁業の現実について呟き続けている人の言葉以外はもうあまり見ていない。最近は学術大会の広報目的があったから拡散力ないなりに一応使ったけどXに課金とか私にはありえない。信頼できない相手にお金払ってそこで正しさを主張するってなんか変な依存のしかた、と思う。

今朝は長瀞のお土産「万寿庵のまんじゅう」を食べた。ピンクの桜まんじゅうと緑の熊笹まんじゅうと茶色の味噌まんじゅうの3種類が入っている。東京の桜は散ってしまったけどこれをいただいて春を長引かせましょう。二つずつ入った6個入り。秩父って粉を中心とした食文化が発達してまんじゅうは欠かせないものになったんだって。秩父は日帰りで行ける楽しい場所。駅のお隣が大きな温泉だし、秩父神社に向かう商店街も楽しい。実際の景色に触れて、実際の人を時間をかけて知って、反射的に言葉を使わず、時間を素敵に引き伸ばしながら過ごしたいな、私は。

今日はいいお天気になるみたい。もう熱中症の話も出てるのね。いい一日になりますように。

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俳句 旅 言葉

甘夏、テレビノークスペシャル「能登とつなぐ」

すっかり朝の光。日の出が急に早くなったのかと思ってしまうけどそんなはずはなく日々が着々と過ぎているだけ。こんないいお天気な感じなのにこれから荒れるのですって。雷怖い。気をつけましょう。

先日、大きな甘夏をもらった。ゴロンゴロンと冷蔵庫に入れた。甘酸っぱくて美味しい。「俳誌のサロン」にこんな俳句が載っていた。

エプロンに甘夏柑の重さかな 須賀敏子

3月23日に愛媛県今治市で発生した林野火災がようやく「鎮火」とのこと。発生から23日。被害は数字以上のものがあるのだろう。というか数字からできるだけ正確に現地の被害状況を掴めるようにならないといけないのだろう。十分な支援というのも量だけではないわけでどこにどのように何をどのくらいということを考えるには現場の状況がわからないといけないだろうし、支援は本当に難しい。東日本大震災のとき、私たちが避難所へ出向いたときはトラックで提供した暖かい食べ物が最も喜ばれた。自分たちもそれがいいだろうと思ってやっていることでも実際の受け取られ方を知ると言葉をなくす。冷たいおにぎりに飽きる、という体験を実際に言葉で聞くこと。そのインパクトのもとに再び被災地へ出向くこと。支援は継続的に、対話しながら、学びならやっていくことが最低限必要という、一見当たり前のことがいかに難しいか。震災が起きるたびに「あのときの体験はなぜ生かされないのか」「あの体験から何を学んだのか」という言葉が聞かれる。瀬尾夏美さんたちNOOKが行う災禍を経験した人たち、現地に入った人たちの声、作品、など様々な記録を残すプロジェクト「カロクリサイクル」は本当に大切だ。各自治体にこのような民間組織とスムーズかつ強力に連携できる形態の組織ができたらいいなと思う。3月29日にNOOKはテレビノークスペシャル『能登とつなぐ』と題した配信を行い、能登で起きている出来事を共有してくれた。アーカイブがあるのでぜひ。長い番組だが七尾市の方が「(輪島、珠洲だけでなく)七尾も被災地なのになあ」とおっしゃっていた。輪島市に次いで2番目に被害が多い地域だという。私もよくわかっていなかったが今度七尾市に行くので色々調べた。 映画にもなった漫画「君は放課後インソムニア」(著・オジロマコト/小学館)の舞台。七尾市のウェブサイトがファンマップを公開している。何をきっかけにしてもいい。多くの人が様々な被災地に実際に足を踏み入れてみる機会を持てますように。

空が暗く、風が冷たくなってきた。嫌なお天気。気をつけて出かけましょう。虹が出てるよ。

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コミュニケーション 旅 言葉

関心を向け続ける、「なごみ」の活動

昨晩、帰宅したらゆうパックが届いていた。前にも書いたが相馬広域こころのケアセンターなごみのセンター長の米倉さんご出演の教材DVD「被災地の依存症者への関わりから読み解く~生きることを支えるヒント~」だ。東日本大震災、原発事故から13年を経た2024年に映画になったドキュメンタリー「生きて 、 生きて、生きろ。」の 出演者の方のご協力のもと、なごみのスタッフが依存症の方の回復までどう関ったかをいくつかの過程に分け、それを解説とともに教材として編集したものだ。試写版を見てとても勉強になったので購入した。Amazonと日本電波ニュース社より発売されている。継続的なアウトリーチの実践が多くの方に共有されますように。支援者の皆さんは特にチェックしてみてほしい。

また、明日4月12日(土)23時からETV特集「心の扉をたたき続けて~福島 アウトリーチ支援の現場から~」が放映される。NHKのウェブサイトにはこう紹介されている。

「原発事故から14年、今なお癒えぬ心の傷を抱え生きる人がいる。福島県南相馬市の「こころのケアセンターなごみ」では、看護師や精神保健福祉士、社会福祉士など多職種の専門家が連携し、被災者宅を定期的に訪れるアウトリーチ(個別訪問型支援)を継続、人に寄り添い続ける心のケアの現場に密着した。相馬市の「メンタルクリニックなごみ」では、原因となる出来事から半年以上経って発症する遅発性のPTSDに苦しむ人を取材した」

こちらもぜひ。震災後、私もボランティアに行かせていただき「なごみ」のスタッフの方々と一緒に仮設住宅を周り、集会室のような場所でみなさんとお話したり運動したりした。津波以前の景色を全く知らない私は全てが流されたあとに広がった青々とした草地をきれいと言った。そこの以前の姿を聞いて言葉をなくした。どの被災地にも多くの方が訪れ、話すことを続けられますように。

【ETVホームページ⇒https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/schedule/

今日は早朝から窓を開けている。しまい忘れたサンダルが風に飛ばされ雨に濡れていた。今日も不安定な天気らしい。相馬はどうだろう。春が来ているだろうか。能登は?暖かい日は増えてきただろうか。能登からの報告は瀬尾夏美さんの活動から知った「のと部」で私はチェックしている。関心を向け続けることの大切さを私は実感している。また話をしにいきたい。

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旅 言葉

雨の朝

雨。細かい雨。村田沙耶香を読んだばかりだと雨が人を傷つけるようにしか思えない。でも最近雨乞いの声も聞こえていたし大切な雨。農家の生活を第一に考えることが私たちの生活に直接響くことだということを最近切に感じる。

卒業や異動の声をたくさん聞く季節。それぞれが色々な思いになっている。区切りによって助けられる人、絶望する人、色々だ。少しずつそれぞれの新しさに慣れていけますように。

今朝は熱い緑茶がおいしい。一年中温かい飲み物はおいしいな。茶摘みは春の季語。以前、静岡の遠い親戚の茶畑でしたことがある。ほとんどそのうちの子供と遊んでいるかその子たちが上手に摘むお茶を受け取っていただけだけど。茶畑はとてもきれいでこうやって生活と仕事がつながっている家庭もあるんだよな、と思った。彼らももう大人だろう。元気だといい。

明日明後日はとても寒いらしい。またダウンを着るのか。荷物を最小限になるように工夫して過ごそう。やることを早くやれば荷物は減らせるはずなのだ。がんばろ。他の地域のお天気はどうなんだろう。みんな元気で。

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散歩 言葉

言葉

今日は曇りなのかな。薄着の暖房いらずで朝を過ごせるのが楽ちん。

武蔵野の公園で見られる花や野鳥のパンフレットが素晴らしい。さくらにもほんと色々ある。オオカンザクラとか河津桜は随分メジャーになってきた気がするが桜といえばソメイヨシノ。みんなの桜、という感じがする。お別れや出会いの時期にちょうど咲くのもいいのかもしれない。

昨晩、帰りの電車でポニーテールの子を見かけて春だなあと思った。洋服に合わせた黒いシュシュだったのだけどいろんな色のシュシュを想像して一句作った。先日はダチョウ倶楽部の「押すなよ」の話をしながら一句作った。そのまま書いて季語をつけただけでこのままだと句会には出せないような575だが私の日記がわりにはなる。ああ、この日にみんなでダチョウ倶楽部の話をしたんだな、と。芸人の話をしながらダチョウ倶楽部のネタが看護の技として使われているという話をしたのだった。作家で言語学者の川添愛さんも『言語学バーリ・トゥード』で「押すなよ!」を取り上げている。思い通りにならないとすぐにコミュニケーションをやめるか、依存という形で思い通りを実現したことにしがちな現代、意味と意図のずれを楽しむ余裕が忘れられませんように。エンタメがソーシャルな視点からしか見られなかったりするのもつらい。誰かの言葉も作品もいろいろあっての積み重ねだろうし受取り手が一気に同じような観点から何か言い出すと黙るしかないみたいになってかえって何も変わらないのではないか。反射的に言わねばならないことはあるけど、それがやりとりを拒むことになるのであれば別のやり方の方がいいのでは、と私は思う。やりとりが成立する関係ならありだろうけど。とにかく相手あることということ。

カラスがすぐそこで鳴いている。そっちからのこの声は珍しい。今日もがんばろう。

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Netflix 言葉

折々のことば、アカデミー賞

昨日は少し雪が降った。ものすごい厚着をしていたので寒さは少ししか感じなくてすんだ。今日も夜は雪の予報。たくさん着こんでいこう。

鷲田清一の朝日新聞「折々のことば」を読んだ。『宮田珠己の楽しい建築鑑賞』からの引用。「スルーしていた風景」と出会うことは難しいが、これまでスルーしていたことに気づいたときは見えたときで、それはそれまでとは別の見方ができるようになったということだから少し嬉しい。

第97回アカデミー賞の授賞式があった。「ザ・レディ・イン・オーケストラ NYフィルを変えた風」が短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。この映画は、ニューヨーク・フィル初の女性コントラバス奏者オリン・オブライエンの軌跡を追ったものだ。Netflixでみて気に入っていた作品だ。オリンが入団したのは1966年、レナード・バーンスタインが常任指揮者だったとき、というのもなんだかしみじみする。オリン・オブライエンは2021年に引退。指導や演奏活動は続けているらしい。彼女がたったひとりの身内である姪に、友人に、教え子に話す言葉はどれも力強く印象的。この映画で、映画になる要素をたくさん持っている人であることを知ったが、それをこんなコンパクトな映画に仕上げたのがすごい。

長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされていた伊藤詩織さんの映画はそれに関するニュースしか見ていないし、論点が多すぎて、というか論点を増やすようなことが次々に起きて何かをいうことは難しくなっていると思う。個人の権利や尊厳はどんな職業であっても守られてほしいし、女性同士は特に守りあっていくために慎重にならねばならないことがたくさんある。衝動か、必要なスピードか、というのは当事者でも区別がつきにくいように思う。

気持ちが暗くなるようなニュースばかりだが、今朝は山梨の友人の花豆のケーキと静岡の丸子紅茶をいただいた。今日もそれぞれの土地で暮らす人たちの小さな日常が守られますように。

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俳句 言葉

冬帽子、女が書く場

今日は朝焼けが見られる。すごく寒くなるというのは明日から?今日から?今年は筋トレで代謝が上がった、とか言っているけど私の厚着は尋常ではないので単に厚着のせいかもしれない、と昨日少し不安になった。昨日電車でそばに立っていた男性二人(無関係)が電車の揺れによろめいた。二人とも似たようなあまり見かけないよろめきかただったので思わずパチクリみてしまった。一瞬笑いそうになってしまったが失礼なので一句したためた。「ドリフかよコケる男の冬帽子」(季語=冬帽子)。ドリフももう通じないのかもなあ。

ボーヴォワールとか読んでて、というか女が読むこと、書くことについて興味と必要性を感じている私はふと心理学や精神分析の雑誌に有名ではない女の投稿欄がつくられたことはあったのだろうかと思った。新聞の投書欄とかは今もあるよね。昔の雑誌はそういう欄多かったと思う。以前、金剛出版から出ている『臨床心理学』に「女性の発達臨床心理学」という連載があってこれは書籍化もしたと思う。そういうテーマに特化した連載もいいけどもっと気軽に投稿できる場、というか、やっぱり現場を一時的に離れている人が気軽に、「日常という視点から」学問を語る場はあった方がいいのでは。フロイトだって日常生活から学んだわけだし。SNSはもう良くは機能しないと思うし、私は信頼できない媒体を育てるような課金とかもしたくないし、その場を使うこともできるだけ避けたいと思ってる。でも私はこうやってダラダラ書くのがほぼ趣味だし、特に誰に見てもらいたいというのがない人はこういう個人の場でいいと思うけど、多くの人はもっと知ってほしい気持ちを抱えているわけで、特に女性にはそういう場が少ない。育児しながら、障害や病気を抱えながら専門家として感じていること、学んでいることはたくさんあるはずで、それを短いエッセイやコラムやSNSとは異なる「つぶやき」コーナーに投稿してもらえたら心理学と日常生活はもっと多様に繋がれると思う。今は決まった人ばかりが書いているけど人はものすごく異なる体験をそれぞれがしているわけだからそこからの実感を専門的な視点で言葉にしてみるという場を作れたらいいなと思った。ストレスマネジメントとか、ブランクからの復帰の様子とか、女であることの大変さ、とを女だから体験したこととか共有してもらったら研究にも臨床にも別の視点を持つことができるかもしれないしさ、とな。これも虚子が「台所俳句」の雑詠欄をつくって女性たちを俳句の世界に引き入れたことは大きな業績だよなあ、と思ったから。和歌の世界には錚々たる女性メンバーが育ったのに俳句は男ばかりだったからねえ。今や女の方が多いわけだけど。とにかく今はまだまだ場を作ることの方が大切な時代であって女の場所はとにかく制限されているという自覚を援助職である専門家こそ強く持つべきではないかと私は思っているのだな。ウェブ記事よりまずは専門家向けの雑誌のコーナーとしてやった方がいいと思うんだなあ。慣れていないことをやるときはある程度小さい集団を対象としたほうがフィードバックも感じやすいし書いた側の安全感も守りやすいと思うから。私がオフィスでやっている勉強会は男性もいるけど女性の方が多いので彼女たちが主体的に言葉にできる場を作っていかないとなあと思うことも多い。自分で開拓するにはハードすぎると思うよ、現状。声の大きい言葉の達者な人たちでなくてもこの仕事は言葉で伝達されているものなのでその表現を拾う場が増えたらいいなと思う。モデルって大事だから。

今朝は雑炊を食べてぽっかぽか。暖かくして過ごしましょうね。

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言葉

雪予報、専門用語

カーテンを開けたら雪ではなかった。昨晩、友達との帰り道、この気温だと雪にはならなそう、と話しながら友達がiphoneをみたら雪予報だった。これから急激に気温下がるのかもね、と言いながらさらにいろんなおしゃべりをして帰った。今日のお出かけのため私もiphoneをみたら予報は雨マークだった。どっちかな、と思いながら夜更かしをした。あまり気温が下がっている気配は感じなかった。そしてさっき。ベランダの手すりにうっすら雪が積もっていたりして、と思いながらカーテンを開けた。雨。この数時間でたしかに気温は下がっているようには感じた。この冬は筋トレの成果か、寒さで体調を崩すことが少なくとても嬉しかったが、今朝はちょっと本当に寒いかも。暖房をつけて電気ひざかけもかけた。お湯も沸かした。今日は朝焼けは始まらなそう。とても静かなので少し窓を開けたら雨の音が意外と大きくてすぐに閉めた。暖まった部屋がまた少し冷えた。

レッテル貼りを防ぐために専門用語を使わずに話すのが得意な人と苦手な人がいると思う。私は自分の特徴に近い症状については可能。精神分析でかなり細かく自分の特徴がわかったというのもあるし、似たような部分を持つ友達や長い付き合いの友達との間でこれまでの自分の変さを言語化してきているから。人はわからないことほど大雑把な言葉でくくる傾向があると思う。なので専門家ではない人が専門用語を使う気持ちはわからなくもない。専門家ならなおさら日常語で話す必要があるとも思う。具体的なエピソードとともに生じている感覚や動きを共有できる相手がいることは本当に心強い。ひとりひとり全く異なるものを誰かと比べてどう、ということはできないけど、この感じってこういうことでは、と具体的なエピソードから実感を捨てずに抽象度をあげていくと馴染みの理論に辿り着いたりもするがそうやって辿り着く理論と知識として取り入れる理論はまったく異なるだろう。

うう、寒くなってきた。せっかくの冬空だからとカーテンを開けたけどまだ閉めておこう。少し遮るものがあるだけでだいぶ変わると感じることができるのもきちんと寒い日があるからだ。強い刺激はつらいことも多いけど、そこからいずれ生じる気づきもあるからそういうのを待ちたい。とても眠くもなってきた。NHK俳句が始まるまでウトウトしよう。鬼はーそと、福はーうち。

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Netflix 俳句 短詩 言葉

『アンメット』、俳句文学館

大寒。とはいえ6時の時点で6度ある。東京の日の出は6時49分。少しずつ空が白っぽくなってきた。沖縄の日の出は7時18分。冬に西に旅に行くと早朝散歩はいつも真っ暗。その分暗くなるのは遅い。光のあり方は生活にかなり影響を与えているだろうからその土地の風土を知ることはとても大切。大学のとき、何かの授業で風土について色々と学んだ。和辻哲郎を読むばかりでなく、何の授業だったか。「風土」という言葉の印象ばかり強く肝心の中身を覚えていない。

『阿修羅のごとく』で満足したのに『アンメット-ある脳外科医の日記-』を見始めて1週間で見終わった。アンメットは満たされていない、という意味なのね。満たされるってなにかしら、とは思うけど若い頃よりは確実に満たされやすくなっている。そしておそらくこれは記憶容量と関連している、と思う。ドラマの影響で言っているのではなくて。いや、もしかしたらそうかもしれないけど。精神病院で働いていた頃、神経心理検査を色々実施した。ドラマで失語症や半側空間無視に対する新たな理解が加わった。症状の個別性の部分ではあるけど。ドラマでは高次脳機能障害のように器質的な病変が存在する症状がそれだけでは説明がつかない記憶のあり方とともに密な人間関係で描かれていて何度も泣いた。主人公二人の相槌の仕方が印象に残った。杉咲花の食べっぷりも素敵であんな小さい顔の小さな口でどうしてそんなに大きい一口が可能なのかとびっくり。

『阿修羅のごとく』で昭和を満喫したが、週末は俳句で明治、大正、昭和を感じた。新宿区百人町の俳句文学館で昨年11月から開催されている「俳人協会所蔵名品展 近現代俳句の歩み1」を鑑賞した。とても小さな展示室は17音の世界にぴったりだった。作品数としては多くないがおなかいっぱいになった。たった17音が刺激する世界はとても広いのでこれ以上あると疲れて丁寧に鑑賞できなかったと思う。文字のインパクトもすごかった。五大家俳句寄書の軸装や本人直筆の色紙や短冊で俳句をみた。五大家とは高浜虚子と4S(青畝、誓子、素十、秋櫻子のこと。

蚊いぶしの紬をさらふ追風哉 阿波野青畝

畑打や池田の鯉を手捕つたり 山口誓子

餅花の火燵布団に照りはえぬ 高浜虚子

芦刈のそこらさまよふ一人かな 高野素十

啄木鳥や落ち葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子

秋桜子の句は知っていた。4Sの句でもネット上では探せないものもあり、彼らの作品の膨大さを思った。

小鳥来て午後の紅茶のほしきころ 富安風生

麗しき春の七曜またはじまる 山口誓子

雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)石田波郷

などの句も文字と共に心に残った。

昨年5月、老衰で亡くなった鷹羽狩行を偲ぶコーナーもあった。

数といふ美しきもの手毬唄 鷹羽狩行

しずけさに加はる跳ねてゐし炭も 鷹羽狩行

にウキウキした。

紅梅や枝々は空奪ひあひ 鷹羽狩行

有名な一句。やはり迫力がすごい。近所の公園では梅が咲き始めた。この景色は私も実景として体験できる。俳句は実景が基本なのがいい。

さて、今日は大寒。冬苦手なのに冬を満喫したくてスーパーのお菓子の棚で「冬限定」と書いてあるお菓子を買い占めてきた。といっても3種類しか見つけられなかった。

大寒の天気つゞきの檜垣かな 富安風生

大寒と敵のごとく対ひたり 富安風生

富安風生の句も心に残るものが多いことに気づいた。好きなのかもしれない。どうぞ良い一日を。暖かくしてお過ごしください。

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俳句 短詩 言葉 読書

恩田侑布子『星を見る人 日本語、どん底からの反転』を読んだ。

朝焼けがはじまる。東の空が赤くなってきた。西の空はまだ夜気分。久しぶりに長い時間、読書をした。大体30分ごとに乗り換つつ移動時間を全て同じ本に費やした。読んでいたのは恩田侑布子 『星を見る人 日本語、どん底からの反転』(春秋社)である。恩田侑布子は樸(あらき)俳句会の代表を務める俳人だ。評論でも第23回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞するなど多分俳句の世界を超えて有名な人なのだと思う。私は精神分析以外の世界の誰がどうというのをよく知らないが恩田侑布子の名前は恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)で知っていた。2021年刊行なのでコロナ禍、句友たちとオンラインで話しているときに話題になったのかもしれない。大高郁子さんがイラストを描いた久保田万太郎の小冊子も我が家にあるはず。句友たちと浅草へ吟行に出かけた頃に入手したものだったと思う。あれはお正月だった、たしか。記憶がコロナ前かコロナ禍かコロナ以降くらいの雑な分類になっていていろんなことが断片的。とても楽しかったのに。

さて『久保田万太郎俳句集』の解説でも居場所定まらぬまま明治、大正、昭和に幅広いジャンルの言葉を送り出した万太郎の俳句に特別な日本語で賛辞を捧げた恩田侑布子だが、最新の評論『星を見る人 日本語、どん底からの反転』でも筆捌きが見事。休日にのんびり好きな本を読めるなんて至福、と思いながら手に取ったのに最初から結構な緊張感があり、これは至福というよりなんというか、読めること自体は幸福だが、たしかに憂うべき現代の言葉の状況、そしてそれに加担しているに違いない自分の鈍感さ、適当さを思うと呑気な気分でもいられなかった。しかし、読み進めると著者の内に積み重ねられた言葉の自由自在さにだんだん気持ちが明るくなっていった。石牟礼道子を「みっちん」と呼び、その突き抜けた言語感覚に賛辞を送り、草間彌生の芸術を皮膜とその深さの二面性から捉え、荒川洋治の詩集に溢れる言葉の隠喩性を正確な引用で示す。そしてその後はやはり久保田万太郎、そして飯田蛇笏、三橋敏雄、大牧広、黒田杏子などなどと続く。緩急自在、剛柔自在の文章はこうやって時間をかけて味わうに限る。まだ途中なので楽しみに次の余暇を待とう。

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精神分析 言葉

NHK短歌、ムーミン、精神分析

NHK短歌を見た。大森静佳さんのムーミンの歌、すごく良かった。ゲストは大好きな祖父江慎さん。ムーミンはいろんなことを教えてくれるしこうして今にも受け継がれている。すごいことだ。今、我が家にはムーミン谷のお土産が色々ある。埼玉のだけど。

空が水色。テレビ見てるとあっという間ね。

精神分析のことなんだけど、週4日も同じ人のところへ通っていると相当量アウトプットしつづけることになるわけで、あれは特異な体験だったな、と思う。沈黙も対話によって生じる沈黙と自分のなかで記号化できないなにかを感じ取っている間の沈黙では異なるし、こうやって一人でアウトプットしているのとカウチで分析家の隣でアウトプットし続けるのって全然違う。

今も昔もだろうけど精神分析を受けているといえば即、知りもしない人の家の台所事情やライフプラン、夫婦関係や家庭状況にまで言及してくる人もいますがそれはそれ。推測も憶測も自由。でも財産も生活も共有しているわけでもない人がプライベートな部分に踏み込むことがあるとしたらそれには守りが必要でしょう。自分の判断だ、自分の選択だ、と言ったところでそれは実に揺らぎやすいものなので誰かに何か言われるとすぐに揺らいでしまうのが私たちですがそういう揺らぎも大切にすべきだしされるべきでそういう作業を始めた人を邪魔しないでほしいなと思う。学術的な議論としてするならともかく。精神分析は侵入する、されるがたやすく生じやすい設定だけど、それは関係が近いからだけでなく、人の心は脅かされやすいから。そして脅かされると攻撃に転じやすいから。だから精神分析家の方は訓練を必要とする。特定の他人に自分を晒しつづけるという訓練を。それは同時に誰が相手であっても晒すものではない自分(境界)を作るプロセスでもある。他人とどう関わるかは自分の自由である、ということを各々の倫理において確立するプロセスと言えばいいのでしょうか。被分析者の方も精神分析家になるための訓練が目的ではないとはいえ体験としては同じ。狩野力八郎先生が患者さんの方が家族よりも自分のことをわかっていると思うとおっしゃっていましたがこれも単純に受け取るべき言葉ではないでしょう。私も「ある面では本当にそう思う」と思っていますが。ラカンが精神分析を受けた人は精神分析家であるといったのにも非常に納得していますがこれも単純な話ではないでしょう。精神分析家は偉い人でも優れた人でも性格のいい人でも全くなく(そういう人もいるでしょうけど精神分析がそうしたわけではないと思う)非常にマイナーな職業にも関わらず資格として考えるとなんとなく持っている人、待っていない人みたいな分類のもとに思考が展開してしまう場合もありますね。子供がいる人いない人みたいなものでしょうか。だったら子供がいない人にももっと寛容であってほしいな、同時に子供がいる人にももっと手厚いサポートをしてほしいな、とかも思いますがそうはならない思考が展開されるというか停止するというか、とにかく決めつけが入りやすい類の問題なのでしょう、何者かであるというだけで。外側から何かをいうことのたやすいこと!学問に対して自分倫理を持ち込むことに危機感はないのかと思うことはしばしばですが、自分は自分で誰かとは全く異なる生活と運命であるはずなので自分の考えや欲望に注意を向けることがとても大切でしょう。精神分析家としてはそのための時間と空間を提供しているつもりですが人と人との関係は操作できるものではないので一緒に作業できるようになるまでは安全や安心とは遠いのかもしれず、そういう現実と出会いながら対話を続けていくことが必要なのでしょうね。継続的な関わりの中で自分自身が実感を掴んでいくこと。その実感も一瞬にして幻に変わる場合もあるけれど、それにも素直に出会っていくこと、歳をとればとるほどそれまでの経験で様々なことを語りがちですし、若ければ若いで少ない経験で語りがちですが、事実として語り継ぐ責任はそれぞれにあると同時に、自分の体験の不確かさを他人の言葉でたやすく補完せずに持ちこたえていきたいものです。ムーミン谷の優しさを思い出しながら今日もがんばろう。

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言葉 読書

青木玉の本、受け身の言葉

朝が来た。毎日来ているが今日も来た。窓を開けているかのように鳥の声が近い。鳥たちもえらいね、毎日規則正しくて。幸田文みたい。幸田文のこと考えながら「そういえば青木玉の本ってどこに置いたんだっけ」とぼんやり思っていたらすぐ見えるところにあった。表紙を見て「ああ」となった。これまでその装幀を美しいと思いつつあまり意識していなかった。『小石川の家』も『帰りたかった家』も幸田露伴が愛用したカバー入り用箋が重ねて描かれていた。装幀は安野光雅。さすがだ。青木玉もこの装幀は「夢のような御褒美」と書いている。余白に魚が描かれた便箋には当然まだ何も書かれていない。それ自体の余白に彼女のみてきた景色が透けて映る。しかしそれは露伴の目でもあり、文の目でもある。一人の子供の、一人の孫の生活史として非常に面白い本になっているのは玉の文才だがやはりこういうのも遺伝するものなのか。玉の娘の青木奈緒も才能豊かな作家だ。才能の遺伝もあるかもしれないがこの家族ならではの言葉が生き生きと書かれるのは玉自身の言葉が子供の頃から大切にされてきたからだろう。これらの本を読むと露伴も文も困った祖父であり母であるが娘であり孫である玉がそれを自由に書きつけているところがもう面白い。基本的に陽気で優しい家族だったんだろうな、と思わせる。私はその人の言葉がどんなであってもその人の言葉として非常に興味深いと思って人の話を聞いている。そこで感じるうんざりも驚きも相互作用だと思うからとても大切。そうだなあ、彼らの言葉には常に対話がある。外とも内とも。となると対話がない状態というのは、ということを考えるのが臨床家の仕事だが私たちは大抵まだ聞こえない言葉として言葉を受け取っている気がする。そういう対話が今として。

先日、生かされている、選ばれている、生きさせられている、など、れる、られるという受け身の言葉に敏感な自分に気づいた。我らおしなべて受動態といえばそれはそうかもしれないが「自分がある」、よって「自分がする・した」という想定をしないと自分の辛さってどうにもならないと思う。選ばれたからなに、生かされてるからなに、生きさせられてるとしたらなに、そう考えてなにか変わるならいいけどそういう表現をしたくなるのってなに、と思う。一方、確実に相手に責任を求めたい場合は受け身の言葉も確実に使うべきだとも思う。と読んだことのないSF作家さんのインタビューを見て思った。SFの水準でようやくそうとしかいえない受け身というのは確かにある。こっちの能動性が発揮できない状態だから。子どもというのはその点、結構苦しい立場にいるわけだが青木玉は無事に大人になってその辺を明るく表現している。遺伝と環境、そういう分類も簡単でいいがそれらもそれってなに、というより「だからなに」という感じかもしれない。いろんなことに「だからなに」と思いながら「だからなに」的な文章を書き連ねている自分は書かされているわけでもないのになにをやっているのか。自分に書かされている、とかなると物は言いようということになる。まあ、今日もあれこれがんばれたらがんばろう。

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俳句 言葉

雨、朝顔

雨が降り始めた。空から真っ直ぐに落ちてくる。水分量多くたまに膨らむように落ちてくる直線たち。風はまだ吹いていない。

朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷

今日の日めくりは波郷。季語は「朝顔」。朝顔ほど普通に親しまれている花も多くないだろう。初秋の季語となる。朝顔は紺色だけではないがあえて「紺」と言われると夜明けの空もイメージされる。朝の空は闇を水で溶かしのばすように薄くなるけどこの朝顔には凝縮された日々がある。「彼方」は「忘却の彼方」などいうように時間的な遠さを示すのはいうまでもないが、朝はたしかにそこにいたのに昼過ぎには萎んでいる朝顔からは感じられない時間感覚がある。色褪せる前のはっきりした紺色はこの雨の朝も彩っているだろうか。

あさがほやはやくも夢で逢ひし縁 久保田万太郎

万太郎の散文で心に残る文章がある。恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)から引用する。

「ー〝影〟あってこその〝形〟である。

ということを書いた。

ー〝影〟あってこその〝形〟・・・・・・

便宜、これを、俳句の上に移して、〝影〟とは畢竟〝余情〟であるとわたくしはいいたいのである。そして〝余情〟なくして俳句は存在しない。すなわち、俳句の生命がその表面にだけあらわれた十七文字の働きだけで決定せられるる運命しかもたないものであるなら、こんな簡単なつまらない話はないのである。表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあえずの手がかりだけのことで、その句の秘密は、たとえばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きにまつべきなのである。」

水にまだあをぞらのこるしぐれかな 久保田万太郎

時雨は冬の季語。一文字だけ漢字で書かれた「水」はたしかに「余情」を湛えている。同じくこの俳句集の「散文」に収録されている「文字に対する敏感」についても書いている。耳が痛い。

朝顔を「彼方」よりも明確な時間感覚におくと以下のような句がある。

朝顔のあすのつぼみやいなびかり 久保田万太郎

土砂降りに明けて朝顔の瑠璃ひとつ 水原秋櫻子

嵐のあけ朝顔一つ咲き居たり 尾崎放哉

嵐には早めに去ってほしい。朝顔はしっかりとそのツルをどこかに巻きつけて耐えているだろうけれど。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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言葉 読書

地震、読書

揺れた。昨日から地震が多い気がする。そして早朝に地震が多いと感じるのは阪神・淡路大震災のイメージが大きすぎるのか。今朝も同じくらいの時間だった。あのときその場にいたわけでもなく、当時テレビもなく、時間差で知った地震だったが友人たちが住む地域だったので連絡を取り合ったりなにより気持ちが落ち着かなかった。被災した方々の思いはいかばかりか。

昨日の朝、水村美苗の『日本語で書くということ』(ちくま文庫)を少し読んだ。夜、ウィニコット協会にだす原稿を書いていると「こんなところにも文庫積んでたんだ」と本棚の隅のスペースに目が行った。せっかく書き始めたのにすぐにこんなだ。手に取ったのは前田愛『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)。また似たような本を手に取ってしまった。夏目漱石はどちらにも登場するのだけど断片だけでも面白いような気がする。すでに読んでしまっているからそう思うだけかもしれない。覚えているわけでもないのに不思議なものだ。この本にも「言葉と身体」という章があり、そこを開いた。久しぶりに開いた。「この本にも」と書いたのは言葉と身体は精神分析では切り離せず常に議論の対象だから、なのだろうか。それだけではないかもしれない。「コードとコンテクスト」とかよりはずっと身近だしこうしてなんとなく開くのにちょうどいいのだ、と思って読み始めたらまた結構読んでしまった。この章では蓮實重彥の「横たわる漱石」という論文が引用されている。私はこの論文は『夏目漱石論』(講談社文芸文庫)という本で読んだことがある。「横たわる漱石」は『夏目漱石論』では第一章なのでよく覚えている。日本史の教科書で旧石器時代と縄文文化にばかり詳しくなるのと同じで(私だけではないと思う)最初の出会いには何度も立ち返ってしまうものだ。だからあえて「過去は振り返らず」みたいなことをいうわけでしょう。こういう適当なことを書き始めると止まらないし使い方よくわかってないけど「知らんけど」で適当に終わらせることになるから気をつけねば。この章だけでもやっぱり面白い。『伊勢物語』の和歌の読み方もとても素敵な章であることも思い出した。手に取ってみるもんだ。いや、いつでも読めるのだから今やるべきことを。それもそうだ。ちなみにこの本と一緒に積んでいたのは野谷茂樹、石垣りん、郡司ペギオ幸夫、山口昌男、丸山圭三郎。だからウィニコットの書き方について考えていた時に読んでいた本ってこと。色々無意識で繋がってるんだ、きっと。でもなんでもかんでも繋げるのはもっと時間があるときにやらないと。毎日自分で自分を叱っているけどやっぱり自分で自分をはあまり効果ない。でも誰かに叱られるのも嫌だしなあ。締切とか時間的な区切りで約束しておくことは大切だ。ああ、これもそろそろ時間切れ。あくびばっかりでるけどがんばりましょう。

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旅 映画 言葉

高崎、高橋、ギター、千葉

今朝の飲み物はだるま珈琲。先日、突然高崎へ行った帰り、新幹線改札前にある充実のお土産屋エリアで我が家用に買ってきた。この前ノンフィクション作家の高橋ユキさんが高崎駅を利用して前橋に傍聴に行っていて、そのルート知ってる、と嬉しかった。前橋地裁で働いていた知り合いもいたし、高橋さんが以前その近くの美味しい珈琲やさんのことも呟いていたのも嬉しかった。もちろん布袋のことも呟いていた。新幹線ホームの発車メロディが布袋虎泰になったから、多分今年。高橋さんは氷室ファンなんだっけな。高橋ユキさんの傍聴記録はvividですごいし、有料だけど最近始まった日記もすごく面白いからチェックしてみて。人のこころと行動のわからなさに対する理解が深まるから。

さてさて珈琲のお味はどうかな。パッケージは白地に赤い達磨の絵が書いてある素敵なデザイン。いただいたちんすこうと一緒に。美味しい。この珈琲、結構コンク(うち語)。色々あって美味しい。みんな違ってみんないい。金子みすゞは上田出身なんだっけ、など話す。ちなみに画家の星野富弘は群馬出身で美術館もある。小学校の授業で色々みたり聞いたりしたときはどうしてそんなことができてしまうのかと驚いた。かわいいお花の画集も持ってる。群馬にはね、といえばそこそこ観光案内できる程度に色々行っているな、群馬出身者のわりに。高崎は隣町で小さい頃はクリスマスケーキは高崎のお店のと決まっていたし、夏のキャンプでは新幹線からも見える白衣観音の麓にあったカッパピアというプールに連れていってもらっていたくらいしか記憶がない。ここ数年で少しずつ知った。高崎市は達磨の生産量が全国第一で、この珈琲は市内の珈琲やさんがそれにちなんで作ったみたい。高崎だるま市は東京都調布市の深大寺、静岡県富士市の毘沙門天大祭だるま市と並ぶ「日本三大だるま市」の一つ。高崎はアニメ映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』の舞台になっていて映画にも達磨が登場。主な舞台は大きなイオンモール。あの辺何もないから遠くからでも目立つ大きな建物なんだけど行ったことないな。イオンモールって割とそういうところにあるイメージ。滋賀県草津のイオンモールもこんな感じだった気がする。滋賀は色々と興味深い土地だし友達にも会いたいからまた行きたい。そのまま京都へ行くこともしてみたい。

昨晩久しぶりにギターを触った。コードは4つくらいしか覚えていない。Cを押さえて弾いてみたらCの音がしなかった。ガーン。以前は教わるままにやればそれなりにそれっぽい音が出たのに。ガガーン。とかショック受けてないでジャラーン♪ってカッコよく弾けるようになりたい。せめてバンド組んで失敗する夢くらいみたい。なんか夢ってあまり成功しなくない?そんなことない?意外と現実の方が無難だったりする気がするよ。とにかくなんでも触れ続けていないと夢にだってでてきてくれないよね、続けよう。続けるのが一番大変なんだけどね、というのは3回くらいしかみていない朝ドラの蒼井優のセリフ。まさに。

昨日は朝から千葉雅也さんの言葉にしんみりしっぱなしだったなあ。この前の平井靖史さんの時間論とも重なったし読者でいてよかったなと思った。人の言葉は断片で聞くものではないからね。

さあ、準備して出かけましょう。準備なんてあっという間。持ち帰り仕事もそのまま持って出ましょう・・。

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仕事 言葉 音楽

言葉とかTシャツとか初回面接とか。

寝てるときに右足首を左足首にかける癖があるようで自分の足の重さのせいで痺れたり痛んだりしている。力の抜けた人間の身体は重いとはいえ両方とも自分なのに。どの雪崩れからここへきたのか舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫)を手に取った。パラパラしつつ最近私は歌のない曲か歌詞が聞き取れない曲ばかり聴いているなと思った。もしかしたらとんでもない歌詞の曲を口ずさんだりしていたりして、と思うことはハードロックに没頭していた高校時代にもあったがそんな感じ。色とサイズがかわいくて気に入っていたTシャツの文字がスラングだと英会話の先生に笑われたときは赤面した。好きだった人が半ば押しつけるように買ってくれたTシャツには差別用語として受け取られてもおかしくない言葉が書いてあった。自分で選びたかったな(ツライ)。音楽はどうなのだろう。差別的で暴力的な言葉を使う人でも誰の胸にも響くような音楽なら奏でられたりするのだろうか。するのだろう。差別用語をモノに包んで贈り物にだってできるのだし。言葉は相手がいればその影響を受けざるを得ない。自分が何かを言って相手から返ってくる言葉は自分が発した言葉の影響を受けていることは忘れられがちだが、という話を初回面接のグループでした。力動的な心理療法家としてアセスメントする場合、防衛のあり方などはそのコミュニケーションにおいても反復されるので自分のあり方抜きでアセスメントはできないだろう。治療者は目の前の人が何に困っているのかを把握するためにいつもその人が取りがちなコミュニケーションに対して開かれている必要がある。たとえ相当苛立ったりしたとしてもどうして今この人とそうなっているのかということを自分が発しているものを含めて考える。だから自分の特徴を知っておく必要がある。そのために訓練はある、という話をした。

別の本のことを書こうと思っていたのだが眠くなってしまった。二度寝はできぬ。準備せねば。新しい1週間もがんばりましょう。

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言葉 読書 音楽

かわいいといえば、とか。

眠い、すぐに眠ってしまう。急に涼しくなったから身体がついていかないという人が多い。私もそうなのかもしれない。あくびばかりでる。仕事のことで音声入力を使ったら変換間違いがおかしかったのでふざけて関係ないことも入れてみた。「あくびが出てしまう」と適当な口調で言ってみたら「歯茎がでてしまう」と出た。変換後の文章を文字としてみても変換前になにを言ったのかわからない。「粘着の間違い」ってあるんだけど私はなにを言ったのだろう・・・。英語だったらもっとひどいんだろうなあ。「人間は弱いかな」とかもある。絶対こんなこと言っていない。弱いだろ。言ってもいないのに返事しちゃった。こういうことって実は日常的に起きているのかもしれない、と思うと少し心配ね。でもそこから生まれる遊びもあるかな。ここでもたまに変な間違いしてるんだろうね。

私が思わず「かわいい」というと「かっこいい」と言い直す園児がいた。「かっこいい」と言い直すと満足そうだった。彼女は結構大きくなっても「かわいい」という言葉がしっくりこないようでみんなが「かわいい」というものにもそんなに興味がもてないようだった。「きれい」「すてき」という言葉はとても自然に使っていた。ちっちゃい子が「すてき」とかいうとかわいい。その子の前で赤ちゃんのことを「かわいい」と言ったら「私は?」と言われた。あらあら。「すごくかわいい」と言うとそこそこ満足そうだった。

かわいいといえば暮田真名さんの川柳に「かわいい」という言葉を使ったものがあったがなんだったか。(「かっこいい」だった!in『ふりょの星』左右社)暮田さんが「暮田真名以外」というアカウントに載せているstand.fmのラジオが秀逸。やっぱり頭がいい。声もいい。喋り方もいい。淡々とした一人漫才も面白い。一人喋りがこれだけうまいのだから漫才もできちゃうだろう。というか漫才の才能がある人は一人喋りがうまいのだろう。なんてことない出来事の一部を広げていくしかたが新鮮ですごくいい。記憶力もいいのだろう、というか暮田さんはとても頭のいい人だと知っている。川柳に記憶力は必要ないと暮田さんはおっしゃると思うのだけど辞書に載っていない言葉を含め、語彙力は絶対に必要だと感じる。あと軸のブレなさ。教え方とかもびっくりするくらい上手なのですよ、暮田さん。誰にでも通じるものにする工夫をずっとしている気がする。川柳をというよりあの教え方を体験しにいくのもいいんじゃない?と思ったりする。それにしても暮田さんの文化は新しい。最近「くるり」の新譜が出たが「くるり」くらいだと共有できるのかな。ブルース・スプリングスティーンは共有できないかも・・・。知識としてはできるけどこの熱狂とかあの想いとか。最近、柳樂光隆のプレイリスト「for Joshua Redman”Where Are We”」に大好きなブルース・スプリングスティーンを発見して再び聞いている。柳樂光隆さんの記事を読むようになってよかった。自分の音楽の歴史が想起されたことに驚いた。記憶力ないのに。Netflixでは今も『SPRINGSTEEN ON BROADWAY』が見られる。『ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝』(早川書房)と繋がってるんだと思う。この本はファン必携。かわいい赤ちゃんのときの写真から始まりますよ。赤ちゃんはかっこいいとはいわないよね、あんまり。行動にはいうと思うけど。そうか、彼女は「かわいい」は見かけのことというか全体を表す言葉としてはしっくりこなかったのかもな。

今日はいいお天気。乾燥もはじまった。身体大切に過ごしましょう。

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短詩 言葉 読書

言葉の使用とか。

大学って非専門家をお友達感覚で専門分野の先生として使う時代なんだっけ、今って、しかも人の心身を傷つけたり搾取したりする人に、と思うけどこういう事例って国立大学でもあるようなので引き受けた者勝ちということになるか。勝ち負けではないが被害者側が相当の負担をおって事件化しない以上、一方で搾取しながら他方で稼いでいるわけだから経済的に敗北感があるとしたら被害者の方だろう。搾取側に勝利感はないだろうけど。そういう意味では常に勝利している、というか弱い立場に立てないためにそうなっているのだろうから。ナルシシズムという言葉も薄っぺらいし邪悪という感じの悪でもないし思考停止というのも違うし、と考えるときに田野大輔、小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)はとても参考になる。歴史研究者と哲学研究者という異なる専門家の対話によってハンナ・アーレントの<悪の凡庸さ>という言葉というか、これは概念になっているわけだけど、それをプラグマティックな発想のもとに割り切って「使う」のか、その言葉の使われ方、受け取られ方の変遷を含め、それが現代の私たちの文脈にもたらす意味を探るのかという対比も非常に重要な論点だと思う。

私たちは大抵何かの対立軸で物事を見ているわけだけどそれがそれぞれ異なることを前提にしないと話が通じないこともある。それとそれはそもそも意味的に対立するものではない、とか、歴史上の文脈が全く異なる言葉を無理やり対立するものとして使っていたりする場合もあるからそれはそれで違いを明らかにすることが必要だし。こちらを言いたいがために持ち出した何かがその人がいうとそれっぽいのに私が言ったら全くそれっぽくないという場合はそれがそれっぽいのは行動の勢いによるものであって言葉の意味ではないわけね、ということもあるし、いつどこの誰の何をどんなふうに見ているのか、どうしてそういうふうに見ているのか、という5W1H的な問いは常に大事と。さてさて果たして今は有効ではない言葉なんてあるのだろうか。果たしてその一言でその人を説明できる言葉なんてあるのだろうか。

ちなみにnoteにも引用したがアーレントの『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』の以下の部分は事件化しないと決めた問いについて法と政治がらみで考える場合に有効だと思う。

「ここでわれわれの関心をひくのはもっぱら君のしたことであって、君の内面生活や君の動機は犯罪的な性格を持っていなかったかもしれぬということや、君の周囲の人々の潜在的な犯罪ではない。」
「政治とは子供の遊びの場ではない」

–『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)より

暮田真名さんのラジオについて書くつもりが全く別のことを書いてしまった。いい感じなので聞いてみてね。ではでは。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析 言葉

9月27日朝。

キッチンで色々しているうちに空の青が薄くなってきた。きれい。54袋入りの麦茶が消費できていないけれどこれは2巡目なのかな。8月初旬に青森に行く前から作っていたと思うのだけど、と書いていたら「あ、これ2袋目かも」と思えてきた。前に空になった袋に別のゴミを入れたイメージが浮かんできた。青森、楽しかったな。猛烈に熱くて猛烈な陽射しでまだ日焼けの跡がくっきり残っている。最終日に行政の方にたくさん説明をしていただいた八戸ブックセンターでは24日(日)「本のまち八戸ブックフェス2023」が開催されたとのこと。私も知っている関東の出版社も参加されていた様子。会場はこの八戸ブックセンターと「八戸まちなか広場マチニワ」「八戸ポータルミュージアムはっち」。街づくりの時にこれらを拠点として街をぐるっと回れるように設計したというのも聞いた。私たちは何も知らないままそれらをぐるっと回ってブックセンターに到着したので街づくりは成功している。

あ、雨だ。さっき天気予報をみて朝だけ少し雨マークがついていて「ふーん」と思っていたら本当に降った。降り込んではこなそうだから窓は閉めない。鈴虫が遠くの下の方で鳴いている。水平線を想った。空はもうだいぶ明るい。

別のところにも書いたが、人の心を殺して身体を傷つけるような人でも外では優しく穏やかに軽薄なおしゃべりをしながら快楽優先で過ごすことは当然ありなのだが、知識があったり書くのが上手ということだけで臨床の知にまで踏み込んできたりするのは厄介だなと思う。もちろん賢い人の行動よりお言葉のほうが関係のない人には貴重で、知的な部分だけで「学際的」であることも大切かもしれない。でも、現場での搾取や現場でトラウマが作られる可能性に言及するのであれば、同時に、法的にも規約的にも規制されない部外者をお友達感覚で現場に関わらせて消費者からお金をとることについても鈍感であってはいけないのではないか。少なくとも人をモノのように扱う人に自動的に書く場が与えられているのをみると世の中の仕組みだなあとうんざりする。見えない暴力は蔓延るばかり。現場を守る環境を壊す仕組みを見ながら現場で仕事をするというのは不毛だが不毛さから何かを見出す仕事だから無思考にはなりたくない。そんな社会でも自らの思考や心ある身体を守ろうと思う人は患者としてやってくるだろう。すでに傷ついた心身と共に。言葉と力で言いたいことだけ押し通そうとしているだけの人を見破ることはできなくても戸惑いや疑惑を感じたら相談する場と出会ってほしい。背中を見せれば触ってもいいと思っているような人たちは現実にいる。一度受け入れれば何してもいいと思っている人も現実にいる。自分の暴力性もナルシシズムも否認して相手が悪いとする人に効く治療はあるかもしれないがないかもしれない。そういう人が治療を自ら求めるとしたら自分が相手にしたことを自分が体験したときかもしれない。やはりこの仕事は傷ついた人たちに向けられているので弱い立場の人の声をかき消すような構造や仕組みに対してできる抵抗を考えないといけない。専門性はそのためにあるのだろうから。

今日こそ地道に。コロナもインフルエンザも流行っているようなので皆さん、どうぞお気をつけて。体温調節も難しいと思うけど脱いだり着たりできるようにしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

ペンは剣よりも、焦点を少しずつ、学ぶ

まさにペンは剣よりも強し。別の意味で。暴力よりも暴力的とでもいうのかな。昨日は比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技術であることも学びました。身体を傷つけられずに学べるなら不快さと痛みを引き起こす暴力性はある程度必要ってことかもしれないですね。相手の心も体も弄んで傷つけるような人の表現はそう捉えることは難しいですけど。そうされた人はそういう人の表現に触れるたびに何時間も何日間も苦痛をただ耐える時間を過ごさねばならなかったりするから。いっそのこと、と考える人だっているのはそういう人が黙ることはほとんどないからかもしれません。千葉雅也さんが先日フィルタリングのために「物理的に瞬時に目を閉じる」とツイートしていました。私もやっています。(ミュートしているのに)またか、と思いつつ反射的に目を閉じる、薄く開けて焦点をぼやかしながら画面を閉じるバツ印を探す、また目を閉じる、落ち着くまでその状態に身を委ねる。ペンは剣よりも強し。なのでしょうか。

あっという間に1時間、2時間が過ぎた。まるで何事もなかったかのように家事をし、おしゃべりをしているのは生体防御反応だ。こんな状態になってから長くなってきた。突然の刺激に晒され衝撃を受け続けるなか「まただ」とその衝撃を予測しながら目を開け続けることをするようになった。一方でできるだけ距離をとるようにミュートをした。それでもこのネット社会、軽薄な言葉ほど軽々しく網の目をすり抜けるように現れることがある。瞬間的に目を閉じる。じっと嵐に耐える。そのまま眠ってしまうこともある。生体はうまくできている。生き残るために、適応するために何をするかといえばそこから学ぼうとする。暴露療法のような方法をとりはじめた。恐々目を開ける。焦点を本当に少しずつ合わせながら見てみる。最初は全部は見られない。それでも少し目を開ける時間が増えたことをモチベーションに変える・・みたいな。なんなんでしょう、この努力は。この時間は。と思うでしょう。でも学びは残る。比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技技術なんだなぁ。これが「賢人」の技術かぁ。スプリットされたこころで思考停止のままでいられる技術。自らの被害感と不快感を癒してくれる人は大切よね。遠くへ追いやったそれは今まで通りポイ捨てしてきた対象に処理してもらえばいいのだから。そういうのもテクノロジー。ペンは剣よりも強しをチャットなんちゃらにいれたらこんなお話もできるのかしら。そういうデータならいくらでもあるだろうから。

早い時間にメロンを食べてしまったから寂しい。勝手に一日締め切りを延ばしてしまったものを朝のうちにやらねば。世界には辛いことがたくさん。「癒す」という言葉に対する不快感ってなんなのかしら。今日も学びましょう、と軽々しく言いづらいのはさっき書いたみたいに強い痛みを想定できるから。精神分析もそういう痛みを想定している。本とかでは学べない「知」に向けて友達や家族に支えられてやっていけたらいいけれど。今日も理不尽さにのみこまれつつ生き残る方向でいけたらいいけれど。とりあえずとりあえず、ですね。気のきいたこと何も言えないけどどうぞご無事でお過ごしください。

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コミュニケーション 散歩 言葉

菓詩、歌詞、葛藤なき世界

朝は少し冷えますね。すっかり寝不足ですが今朝も山梨県塩山のお土産をいただきます。今回は「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」の抹茶のほう。栗を抹茶餡でくるんであります。今日の断面は素朴できれい。そしてこれもほんのりした甘さで美味しい。ただほろほろ崩れやすいのでご注意あれ。包装紙にはキラキラした文字で和歌みたいのが書いてあるのだけどキラキラしてて読めない。少し暗いところ、でも暗すぎないところで見てみましょう。あ、見えた。

志ほの山  さしでの磯にすむ千鳥  君が御代をば  八千代とぞなく

古今集 詠人しらず

だそうです。ふーん。少し君が代的かな。山梨には磯はないから志ほの山ってどこかしら。一青窈のハナミズキ的でもあるわね。「菓詩処 石井」だものね。どのお菓子にもなんらかの詩とか和歌とかが書いてあるのかしら。あとで白あんの方もみてみましょう。大学生の頃、山梨県身延の方の廃校になった小学校で学校に行かない子たちと一緒に生活するポランティアをしていたので塩山は何回も通っている。桃の花といったら塩山のあの景色を思い浮かべるなあ。農園に降りるなり高齢の方が小さなナイフで手早く桃をむいてくれてその場で美味しい美味しい言いながら食べた。手がぬらぬらになるのも外だと気にならないしね。手をきれいにするというところまで混みでむいてくださっていますし。自然の中でいちじくをとったり鳥兜を「触るな」と言われたり音楽室でバンドで歌ったり騒いだり眠ったりシベリアンハスキー2頭の散歩行ったりウサギを校庭に離して草食べさせたり、烏骨鶏の卵をいただいたり。チーコだっけな。とってもかわいいひよこがどんどん大きくなっていくのにはびっくりしたしなんかどんどん立派になって別の世界へ行ってしまったと感じて悲しんだこともあったな。修羅場ありつつ楽しかったけどあんなことよくやってたな。すごい体力。地元の子たちもよく遊びに来てくれた。ちっちゃい頃からよく遊んでいた子に弟や妹ができてたくさん面倒もみた。彼らは別の世界へとは思わなかったな。当たり前か。チーコの世界はどうなっていたのかなあ。かっこよかった。こっちはカラスが鳴いてるよ。こんなとき「君が御代をば 八千代とぞ」とか「君と好きな人が百年続きますように」とかいう気分になるのね。みんなに幸あれと。

そうそう、この前高崎に行ったばかりだからなおさら思い出したのかもしれないけど高崎市山名町に石碑之路(高崎自然歩道)というハイキングコースがあってそこに万葉集の歌碑がたくさんあるの。寂しくて悲しい歌詞が多くてね、山の中で読むとなおさらジーンときてしまうのですよ。

自分のお気に召さないと葛藤するのがいやだからすぐ別の人で代替、補完してしまうような、人を想う余裕などないというか人を人とも思わない人もいるしそういう人でも本の言葉、他人の言葉とかを上手に借りて葛藤について語ることはできてしまう。でもできたら想うこと、想うがために生じる葛藤から言葉を紡げたらいいのではないか。こっちはポイ捨てしたしこっちには上手く隠せてるしこっちは絶対に味方してくれるしみたいな感じで葛藤なき世界を作り上げることはできてしまうけど。葛藤することが実はいかに難しいかはこの仕事をしてればわかる。してなくても体験から知ってるかも。多くの犯罪と彼らの言葉を知ればその極端な例もわかる。そうでなくてもあんぐりしてしまう言い分もたくさん聞くし巧妙な言い回しもたくさん聞く。嫌ね。辛いね。苦しいね。私はネガティブな方に強く気持ちを揺さぶられたらとりあえずじっとする。時間経過でそれがどう変わっていくか観察する。それから表現する、なんらかの形で。直接的にすることもあればただ黙々と不特定多数の相手にそうするだけのこともある。ある事象に関しては即座にパターンとして表出することもある。俳句や和歌にできる人が羨ましいけど自分が壊れてしまわないためにやることは自分なりの形式でやればいいのだろう。

さあ、今日は水曜日。まだまだですね。なんとかやれたらいいなあ。みんなはどうですか。どうぞご無事でお過ごしくださいね。

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俳句 言葉

滑らかに。

領収書全部やっつけたぞ、と思ったけどamazonで買った本が未入力だった。あーあ。どこかでわかっていたはずだぞ。あーあ。私の支出はとてもわかりやすく家賃、書籍、訓練費、その他という感じ。ほかにほしいものも必要なものもないから問題ないけど。あ、甘いものにお金使いすぎなのは問題かも。オフィスのある西新宿は新宿の雑踏は越えるけど歩けばコンビニ、セブン、ファミマ、ローソン全部にあたる。ミニストップも遠くない。こんな環境で我慢とか無理、とか環境のせいにしたくもなるけど変わらない自分なりに少し工夫をしましょうね、と思うのですけどね。春は、夏は、秋は、冬は、と全部の季節を言い訳にできちゃうからなあ。加齢が最も現実的なストッパーかも。

今日は3月14日火曜日。日めくりは「花種を蒔きて呪文を掛けておく 太田土男」つちおさんって読むのかしら。お名前とピッタリの一句。花種は春に蒔く種のことで夏か秋に咲く花の種ですって。どんな呪文を掛けましょうか。すごく先のことより少し先の季節に向けて欲張らずに。うーん。呪文というとなんか怖い花が咲きそうだけど種を蒔く人が掛ける呪文なんだから花に何かを託すわけだよね。何を託しましょうか。適当に呪文めいた何かを唱えながら種蒔きすること自体楽しそうでいいことありそうだからそれだけでもいいか。でも「無事に咲いて」と願うのだって小さくない願いかもしれない。だからどうかそれまで無事にいられますように、呪文が守ってくれますように、って考えるとどんなのがよいかしら。とかいっている間にきっと季節はどんどん先へ。どうにもならないこともたくさんあるけどとりあえずとりあえずでどうにかこうにか生きていけるように願う言葉をそのまま呪文に。大江健三郎さんが光さんと一緒にうちの大学にいらしたのはいつだったか。仙川あたりによくいるけれど見かけても声をかけないでください、と上品におっしゃっていたっけ。なんだかいろんな人が引き伸ばしてくれた時代が終わりに向かっているようでとても寂しいけれど亡くなったことではじめてその言葉を知る世代もあるでしょう。少しずつ少しずつ。断絶よりは滑らかに。

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あれはなんだったんだろう 言葉

実験、「あと」、「被害」

資料を作らねば、と毎日言っていて、それなりに作っているのだけど次から次へと。ここに書くようなことと違って吟味が必要なので時間がかかってしまう。がそういう作業が背景にないとこんなところでこんな実験みたいなことをしていても意味がない。私にとって、だけど。ここは実験場所だったり自分の状態を確かめる場所にもなっているから。言葉が出てくるスピードとかトーンとかは自分にしか感じられていないのだけれど内容よりもそっちの方に意識を向けて今日のそれがどうであってもしいつもと違うならどうしてかということをなんとなく考えながらこうしている。バスケ部時代に連日とてもきついフットワークをやっていた。身体の動きとしてはもう染み付いているから、というか新しい動きが加わるときにそれまでの動きがいかに染み付いているかがわかるのだけど、そういう自動的に動く身体を基盤とした行為に無意識が宿っている気がするのかもね。身体の調子が悪い時って意識的には何も考えてないみたいな状態になりにくいもの。バスケで怪我したときみたいに庇いながら動く

とどうしても全体のバランスが悪くなるし。というか当時結構な怪我してても部活休まなかったのはどうしてだろう。普通休むだろ、と今なら思う。いろんなおかしなことをしてしまってるよね、毎日。きっと今日も何かしらするでしょう、あとから思えばどうしちゃったんだよみたいなことを。その「あと」がいつになるかわからないけれど。

ここ数ヶ月、被害と加害ではなく「被害」についてずっと考えている。臨床では加害者臨床ということがあるのだけど被害者臨床とは言わない。普段の臨床で被害か加害かで考えることも少ない。そんな単純ではないから。それでもある出来事から「被害」と呼びうるものが確実にあることを知ってそれについてずっと考えている。その人がそういえばそう、みたいな言葉の使い方ではなくてむしろそういう風な言葉の使用を含めてその言葉が使われる意味を考えている。

あ、資料作らねばだった。あと少し。東京は今日は晴れ。昨日も晴れだったっけ?とにもかくにもどうぞお元気で。怪我とか風邪とかにも気をつけてお過ごしください。

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俳句 言葉

個人、関心、句友

今日は雨の予報なんですね。たまには降らないと地球水不足になってしまうけど今日は降らないでほしかったな、なんて個人的な事情はね、ああ、個人的な事情って本当に世界には関係のないこと、というか、相手が傷つこうか死んでしまおうがやりたいことをやる人はやり続けるものですね。世の中で関心を向けられるべき人は現在それを得ている人たちではないのはたしかでしょう。あからさまな差別をしている人たちはいうまでもなく、口先だけの心優しき強者も弱者には見えないコミュニティでもこれまで通りの賞賛と共感を得られるでしょうから色々なかったことにして弱者も共存するコミュニティにいい顔して入り込むのは避けてほしい。それはこういう文章を書くという行為であっても同じことだと思っています。とかいったところで傷つけられた個人がそう思っているだけの場合は集団における印象というのは変わることはないし、支持と共感のおかげで弱者を差別する自分を上手に後悔して過去の「失敗」にできてしまう人のほうが肯定的な関心と評価を得るのが「ふつう」です。構造的な問題、と日々激しい口調で言っている人でさえたやすく巻き込まれてしまいますから。声をあげるなんて怖くてしかたなくなりそうです。一方、日々死にたいと思いながらもなんとか生きている弱い立場の人たちに例外なく優先的に関心を向け一緒に考えていくことができるのもまずは個人でしょうから、まずは自分ということになるでしょうか。

昨日は久しぶりに句友の連載や句評をたくさん読んで残酷な社会との関わり方のひとつとしての俳句に励まされました。彼らはとても優れた書き手ですが書き手として生活しているわけではないし俳句で食べていく人もごくわずかでしょう。基本的にわざとらしさを嫌う俳句同様、自由で気楽な雰囲気を感じる文章はいつも新鮮です。一方的ではない関係で地道に言葉のやりとりに支えられながら今日も一日。

ああ、雨ですかねえ、東京は。鳥は今日も元気そうです。みなさんもどうぞご無事にお過ごしください。

スヌーピーに鳥の友ある日永かな 斉藤志歩

ー斉藤志歩『水と茶』(左右社)より

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精神分析 言葉 読書

ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら。

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

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写真 言葉 趣味

映画、写真、まなざし

今朝は南側の大きな窓の間近、いつもより近くで鳥たちが鳴いて飛び去った気がした。今はだいぶバラけた個別の声が聞こえるだけ。

『ケイコ 目を澄ませて』の友達同士のおしゃべりのシーン、本当に素晴らしかったなぁ。言葉を話すとはこういうことかとその手話の美しさに圧倒された。

いつまでも子供でいたいあの人の言葉にもっとも欠けていると感じた自然な「流れ」。

上原沙也加のニコンサロン(新宿)での個展「眠る木」にも連日行ってしまった。そこに写されていないものを写せる写真家なんだなあと涙が出た。「写真集、届いたら楽しんでくださいね」「楽しみます。とても楽しみ」と話した。

自分に意地悪な人は理論武装してもいくら愛想よく気遣いに溢れた振る舞いができても意地悪がこぼれでてしまう。それに気づいたり傷ついたりしてしまう人は亡き者に。攻撃的で衝動的な自分が嫌で仕方ないから他人を使う。自分を保つ。写真には写らない。けど写ってる。誰もが歴史と場所に痕跡を残してる。いずれ誰かに、と。

残酷な現実があるから成立するまなざし。それを単純化しないことが大切な気がしている。普段はごく普通の思いやりで、何かを指弾するならできる限り冷静に正確に。他者とは利用や馴れ合いではない協力を。孤独で冷徹な自分を十分に感じつつ。

あー。寒くて動きたくないけど仕事行かねば。みなさんもお身体お大事にお過ごしくださいね。

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精神分析 言葉

共謀とか同一化とか

なんでもいえちゃう言葉で誤魔化されるとその人らしいなと感心するけど笑えない不安が高まっている状況で使われると嫌な気持ちになりますよね。フレンドとかパートナーとか関係を表す言葉は特にいろんな含みがあるので中身をきくと「うわぁ、あの人とのことそんなふうに言っちゃうんだ」とか「あーこの二人はこうやって共謀しているんだなぁ」と思うことも多くないですか。治療関係でも物は言いようみたいになってるときは対象不在だったりするから気をつけないといけないなと思います。誤魔化したり嘘ついたりして自分のことばかり守りたくなっているのがそういう状況だと思うので。なかにはそういう言葉を指摘されると急に怒り出してしまう場合もありますね。それはそれでまた誤魔化しの上書きがはじまっているように感じたりもしますが、こちらも怒られてしまうと怖いし嫌だから「(自分が間違ってるって言われてるみたいで嫌なんだよね。間違いとかではなくて相手のこと考えてないよねってことなんだけど)」といろいろのみこんであちらの機嫌を優先しがちではないですか。特に女性が男性に言われる場合は。相手を優先した結果「それでよし」みたいな感じを醸し出されると本当にうんざりするけど「ごめんね」とか言われるのもうんざりです。受け手の体験としてはどっちにしても黙らされてるわけですから。こういう構造にどう立ち向かっていきましょうね。せめて自分がひどい傷つきをなかったことにしないことが必要でしょうけどひとりでは難しいですよね。そういうときは助け合いましょう、誤魔化さずになんとか踏ん張れるように。攻撃者との同一化という考えが精神分析にはあって「女の敵は女」とかがいい例ですがそうなりやすいのもたしかみたいです。ただ、そう言ったところで特にいいことを生まないのでうまいこと言う能力はなくても自分の痛みや悲しみから行動を立ち上げていけるように助け合えたらいいなと思っています。お互いに。必要なときに。週末もなんとか過ごしましょう。よくお休みになれますように。