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精神分析 舞台

劇団普通『病室』を見たり。

空は真っ暗。昨日の月もきれいだった。だからきっと今日も晴れ。

先日、劇団普通の『病室』を見た。劇団名もいい。ナイロン100℃は昔「劇団健康」という劇団だった。「劇団不健康」という劇団は多分ない。「劇団普通」はなんかイマっぽい。普通、ありふれた、平凡な、などの言葉はかなりそうではない自分を権力から守るための言葉になった。人はそういう言葉に救われる面がある。精神分析ではそういう言葉は大抵なにかをごまかすための言葉となる。「みんなそう」と言われて「みんなって誰」と問われるときの使い方が近い。でもこの劇団の旗揚げは2013年。「普通」が普通に使われていた頃だろう。『病室』だが2019年初演、2021年再演を経ての今回、これまでも好評だったからこその再演だろう。作演の石黒麻衣さんにとっても特別な思い入れのある作品だという。すごいな、と思った。私は俳優の野間口徹さんのツイートを見ていかねばと思い、いった。アフタートークも聞きたかったが今回は難しかった。野間口さんは私にとっては舞台役者なんだけど、というか私が舞台役者だと思っていた人は今やみんなドラマで重要な役をやっているわけだけど、好きな舞台役者の言葉は力がある。実際、いってよかった。自由席の劇を見るのも久しぶりだ。三鷹市芸術文化センター星のホールは好きな劇場だったがもうどのくらいぶりだろう。ホールから近い三鷹八幡大神社のお祭りに行って以来か。それだっていつのことだか。コロナ以前に演劇に行く時間はなくなっていたが、絶対に行きたい舞台というのはがんばってとっていた。最高に楽しみにしていたKERAの『桜の園』が全公演中止になったのが2020年4月。その舞台は今キャストを変えて公演中。今回は抽選で全て外れてしまった。それで演劇熱をどうにかせねばと思っていたわけでもないが行けばまた色々見たくなるものだ。中島らもが生きていた頃にもきた。死んでもう20年になる。中島らもとわかぎえふが立ち上げた「リリパットアーミー」の舞台を思い浮かべているがあれが星のホールだったような気がする。三鷹自体は大学時代に自閉症の人たちと活動するボランティアやバイトでしょっちゅうきていたし、太宰治ゆかりの場所として今も訪れるので身近だが演劇を見まくっていた日々はだいぶ遠くなった。劇場も随分減ったような気がする。青山円形劇場が閉じてからだってもう10年近く経つ。新宿コマ劇場の地下にあったシアターアプルが閉じたのは2008年。よく通った劇場だった。コマ劇場も誰かにチケットをもらってコロッケの講演を見にいったことがある。それはともかく「劇団普通」の『病室』。茨城弁で繰り広げられる病室での日常、そこでの会話が非常にリアル。会話自体がリアルというより、会話の一番微妙で気になったり積み重なって重みをましていく部分をよくここまで言語化し、この矛盾する情緒を演じられる役者が揃っていることに感動。はじまりのほうで「うん?」となって「これ、脚本になってるってことだよね」と当たり前のことを脳内で確認した。間とかテンポとか方言がもつ独特のリズムとか、こういう状況で生じがちなあれこれとかその背景で生じがちなこととか、あ、ここで笑えてしまった、ここでこんな気持ちになるとは、とかいう自分の感覚が本当に普通だった。同時に、嘘っぽいやりとりもいかに普通かということも感じた。自分なんて曖昧なものは出来事に委ねている方が楽しいが大抵は何かに囚われているわけで病室のような相手を気遣う状況では自分の変なパターンがでがちだと思う。それは自分では気づけない類のパターンでそれに対する相手の反応もまたよく分かるしそれを受けてのあちらのパターンも、とどこを見ても自分のこととして痛かったり苦しかったりする。一方で、三者以上の人がいる場でのコミュニケーションはズレを意外な方に導くものも生じるし、関係を積み重なることで知る一番身近な人の気持ちもある。予定調和を日常に感じるのであればそれは結構大変なことだ。「いつもこう」吐き捨てたくなる日常も苦しい。ただ、自分に変化を求めることこそが最も苦しいことであるのはこの仕事をしていると本当にそうと思わざるを得ない。自分より他人である相手に変わることを求めるか、事実ではなく印象で被害的になることで対話を拒むか、自分を普通として相手を普通じゃないとすることでよしとするか、自分が変わるくらいだったら現状維持の方がマシ、ということもある。「それ本当にそう思ってる?」と現状に問いを投げるのが精神分析の仕事の一つでもあるのでそういうことを必要と感じない人には本当に必要ない技法なんだと思う。こういう技法があるだけで腹が立つ人もいそう、というか知らないのにやたら色々言われることもあるけど、こんな技法知らない人の方がずっとずっと多いことを私は知っているので気にしてもらえることは貴重だろう。大体の人は「良かれと思って」やることの方が「なんで自分こんなことしてるんだろう」という問いに先立つし、良かれと思ってやっていることで状況が良くなるのであればそれはいいことだ。精神分析はあまり良かれと思って提供するものではなく、大変だけど、というのが前提。精神分析は目的のないわからない状態に居続けることに価値を置いているから欲しいものは出てこないけど、本当は欲しくないのに欲しいと言ってしまう自分とか嘘っぽいことはきちんと嘘っぽいと分かるようになるのでできるだけ正直に相手のことを考えていきたいなと思う人にはとてもいいと思う。これは決して「いい人」になるための学問でも治療法でもないし、治療者が時間と場所以外の何かを提供したくなるのであればそれは別の治療法でも十分できることだと思うしそういう安全は大事だと思う。SNS的正しさが振りかざされる時代にはそういう方面からのケアは絶対に必要だ。一方、精神分析はSNS的邪悪さを自分の中に見出しつつどう生きたいかを模索する治療なのでまた別。毎日精神分析のことしか考えていないので何に触れてもこういうことばかり考えているが、「病室」でみたリアルには感銘を受けた。無力さは双方にありその出し方の複雑さも誰にでもある。それらを簡単に言葉にせず感じ続けることができるかどうか、そしてそれは大抵はできないがその現実を踏まえてもなお別の自分を引き出せるかどうか、そうしたくなる相手を持てるかどうか。迎合的になるのも陰で悪口言うのも大抵の人にとって正しそうなあり方を主張するのも簡単だがそれに時間をさき結局ため息をついているならなんかほかにと思ったり、いやいやこういう時間にこそ意味があると思ったり色々なんだとにかく、日常は。病室は。だらだら書いているうちに朝焼けが始まった。部屋はすっかり暖かい。今日はグループ三つ。がんばろう。