カテゴリー
精神分析

湘南梨ゼリー、耳の仕事

今朝は茅ヶ崎の湘南梨ゼリー。湘南ゴールドのゼリーもあるけど梨にした。ちょっと季節を戻して。湘南梨というのもありますのね。寒川町の梨で2020年に「かながわブランド」に登録されたそう。甘い!シャクシャクした果実が入っていて美味しい。でも甘い!私はあまりゼリーの甘味が好きじゃないのだけどこの梨の味は美味しい。空はまだ暗い。下弦の月がうっすら見えていたのは昨日だったか、一昨日だったか。日々が過ぎるのが早い。

最近、あまり音楽を聴いていなかった。意識的に。イヤホンだと周りの音が聞こえなすぎて周囲への注意が低下する。それは危険だと思う出来事があったり見たりした。それだけでなくノイズキャンセリングというのはやはり不自然ではないか、という以前からの思いもあった。昨年11月にサウンド・アーティストの細井美裕さんの初個展「STAIN」に行ったことはここでも書いたと思う。過去を思い出させる場所の音の記録だけでなく、未来を考えさせられる場所で音をとるなどの活動を行い、空間や時間を変容させる可能性をもつ音に鑑賞者の注意を向けた作品たちに影響されたというのもある。おそらく必要なのは鑑賞者の平等に漂う注意だと感じた。つまり私には精神分析的に聴くとはどういうことかという問いと繋がっていた。カウチに横たわり背後に分析家がいる設定の精神分析と対面での心理療法は全く異なる。相手の表情や仕草を参照しがちな私たちはたとえそれが誤解であってもかなりの部分、それに対する自分の感覚や情緒に頼っているだろう。精神分析の場合、見えるのは自分の身体の一部と部屋の一部であり注意を漂わせている感覚は主に分析家の聴覚が担う。精神分析は言葉の隠喩性に依存した学問であり治療法であると言っていいと思うが、その言葉の質を細やかに捉える仕事をするのは分析家の耳である。その前提として、分析家は自分の声や言葉がもつ力を知っておかねばならない。訓練分析の目的はそれだけではないが可能性やキャパシティという言葉も含め「自分の力」という言葉で表すとして精神分析において最も強く実感するのは自分の力の限界である。有限性という言葉でもいいかもしれないが、精神分析においてそれは自分の力に対して最も強く意識されるべきではないだろうか。ということをずっと考えていたわけではないが大好きな音楽を聞かずただ自分の耳が捉えるものを聞いていた。フロイトがいったsimply listenである。すると俳句が作りやすくなった。思いがけない情報が耳を捉えるせいだろうか。俳句がうまくなったわけではない。作りやすくなっただけだが日々作るということを全く継続できなかった私にとっては大きな変化である。といいつつちょこちょことお風呂などで音楽を聴いているわけだが昨日気づいたのは今来日しているCatpackの新作は作品自体はとてもいいがiphoneの内蔵スピーカーでは全然音が良くないということ。一方、Cassie Kinoshiの新作gratitudeはiphone内蔵スピーカーでもまだいい感じで聴こえるということ。精神分析では患者によって、あるいはセッションによって患者の声の聞こえかたは全く異なるがこれはどうやって説明しよう。そんなの当たり前じゃん、というのでは学問ではないのである。声優が声をコントロールできるのは日々の努力と才能に違いないが、精神分析ではコントロールという概念は捨てた方がいいように思う。どこまでお互いに委ねられるかというと変な言い方だが協力体制によって自分たちの暴走を食い止めながらかつできるだけ自由に進もうとするプロセスなのでそこでも訓練された分析家の耳は必要なのである。解釈などの言葉の使用はそれに基づいてなされるものなのだろう。

今、目の前に開きっぱなしで二日間で1ページしか読んでいない俳句の雑誌に「俳句の選といふことは一つの創作であると思ふ」という虚子の言葉が紹介されているのが目に入ったが耳が痛い。目から入ったのに、とか言っている場合ではなく、何かを創造するというのは発見するということであり精神分析においてそれは耳でなされるものであり俳句においては五感全てでということになろう。ああ、無力。限界を知ること。そして限界の中で拡張できる何かを発見すること。そんな毎日を続けていけたら嬉しい。