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精神分析

「原〜」とか。

窓を開けた。早朝のバイクの音。新聞配達の音とは限らない。一軒一軒止まるあの音とは違うし。あまり風がない気がする。昨日は降ったり止んだり変なお天気だった。夜、オフィスを出ると降っていなくて「よかった」と思ったのも束の間、すぐに傘をさすことになった。風が強かったのは昨日だったか一昨日だったかもっと前だったか。

毎朝、花や木の定点観察をしているつもりだが、昨日の状態を覚えていないから大雑把な観察しかできてない。それでも季節が着実に進むのを感じるし、何年も気づいていなかった場所に咲く花に気づいたりもする。

ゲーテは愛するシチリアのパレルモでこんなことを書いた。


かくもいろいろな、みずみずしい、新たなものとなった形姿をまのあたりにすると、「この一群のなかに《Urpflanze (原植物)》を発見できないだろうか?」といういつもの酔狂な考えが、またもや念頭に浮かんだ。そういうものがあるはずだ!もし も植物がみな一つの原型にならって形成されてゆくのでないとしたら、あれやこれやの形をとっているものが、どうして同じ植物だと分かるのだろう。

一七八七年四月十七日、火曜日、『イタリア紀行』の一節である。ゲーテがいう<原植物>は地層の断面も含むようなもので、植物だけでなく、動物にも<原動物>という原型を想定した。全ては(言い過ぎかも)そこからの変容であると。この『イタリア紀行』はフロイトのイタリア旅行を支えた書物だが、ゲーテはほとんど遁走のような形でイタリアに向かった。フロイトはこういう冒険はしない。きちんとしているし、怖がりなところもあるから。ゲーテのこの本は翻訳によって印象が異なると思うけど新しい方の訳はわりとテンションの高いゲーテを想像する。

原型の発見は魅力的だが、なぜ人は「原型」が好きなのだろう。「原〜」を想定しないとはじまらないということはあるだろうが別に想定しなくてもいいのではないか、と思うこともある。でもそれは時間的にという場合か。私が植物で季節以外のものを感じ取っていないせいかもしれない。発見する眼を私も持ちたいな。とりあえず熱中症に気をつけて無事に過ごすことから始めましょう。どうぞ良い一日を。