曇り?うちから見える屋根が濡れてるけど降ってはいない様子?すこーし降ってたりするのかしら。窓を開けるととても涼しい風が入ってきた。やっとこさ秋二日目。気持ちいい。のんびり冬に向かっていってほしい。
昨日、九月十九日は正岡子規の忌日だったので青空文庫でも読める『墨汁一滴』『病牀六尺』をパラパラしていた。子規忌は糸瓜忌、獺祭忌ともいう。
糸瓜は秋の季語。子規が亡くなる直前、最後に作った三句
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき
糸瓜の水には去痰作用があるとされていた。子規はまさにこれから仏とならんとする自分のことを俳句にした。これらの句碑は東京都台東区根岸の子規庵にある。昨日は子規庵の糸瓜(へちま)が3年ぶりにぶらさがったそう。
まだすっごく暑かった8月31日、朝日新聞朝刊歌壇俳壇面で月1回掲載される「俳句時評」をデジタルで読んだ。担当しているのは俳人の岸本尚毅。軽やかで面白くて大好き。NHK俳句の選者でもある。
岸本尚毅が取り上げたのは今年四月に再刊(四十二年ぶりだそう)された正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫)のこの部分。
“この本のなかで、子規は「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず」と説いた。”
ここでまず引かれるのは子規の四天王の二人、高浜虚子と河東碧梧桐。
赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐
流れ行く大根の葉の早さかな 虚子
ちなみに四天王のあと二人は石井露月、佐藤紅緑だ。記事を読むと子規がいった「一種非空非実の大文学」の「非空非実」とはなにか、という問いがいまださまざまな答えを導くものらしいとわかる。写実とは、というだけでも虚子と碧梧桐では異なるのだろう。
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
は私が好きな一句なのだけどこれはいかにも非空非実では?ない?わからないが「ぬべし」がいい。
この教えは『俳諧大要』「第七 修学第三期」の最初の方に書いてある。
「第三期は文学専門の人に非ざれば入ること能わず。」とある。「第二期は知らずの間に入りをることあり。第三期は自ら入らんと決心する者に非れば入るべからず。」と続く。なるほど。日本でIPAの精神分析家になるためには日本精神分析協会に入らなければならないというのと同じか。確かに入るかどうか決めるために別の分析家と分析をするくらい決心が必要だった。分析を受けることと生業としての精神分析家になることは全く違うから。この前後でも子規はいいことしか書いていない。本当そうだなあ、と思いながら読める。夏目漱石が子規と過ごした日々のことを書いている文章も相当面白いのだが、どこに入っているのか。とにかく子規は、岸本尚毅もいうとおり、若くして亡くなってもずっといろんな人の心に生き続けている。
岸本尚毅が俳句にした子規はこれらとか。
健啖のせつなき子規の忌なりけり
子規の世は短かりけり柏餅
子規の忌やわが子を刈つて丸坊主
子規の柿茅舎の柿と潰えけり
私は岸本尚毅の墓の句が好きなのでそれを引いて子規のみならずいろんな俳人を私の中で生き続けさせたい。
墓親し陰に日向に落花して
柿潰れシヤツだらしなく墓に人