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精神分析

スタンプ、筋肉、フロイト

今日もいいお天気っぽい空。スッキリきれい。朝起きたら、昨晩、紙切れや手帳にスタンプやシールを貼ったり、絵描いたりして遊んでいた名残がテーブルに広がっていた。ウトウトしながら何かやろうとしていたのは覚えているけどどんな感じで眠ったのか覚えていない。その作業中にあれどこやったっけ、と以前もらったコジコジの日付スタンプを探しはじめ、今朝も色々ひっくり返しながらずっと探していたが見当たらず。あー、これ、ここにあったんだ、と別のものは色々見つかった。コジコジどこだろう。日常的に使っておくべきだった。

Netflixでイクサガミ第一章を見終わった。今村翔吾原作、岡田准一が主演・プロデューサー・アクションプランナーを担う実写版、アクションシーンばかりなのが筋トレを信頼している私には大変楽しく、武術も習いたくなっている。早乙女太一の殺陣は劇団☆新感線で最初に見たのだと思うけど、本当にしなやかできれい。何見ても物語より身体の動きを見るようになってしまった。昔からその傾向があるから演劇が一番好きなんだと思うのだけど身体表現って本当にすごい。朝ドラばけばけの脚本も本当によくできていて、島根の小泉八雲記念館も大好きだし、お話自体もいいのだけど、高石あかりはじめ、表情とか姿勢とか筋肉の動きから伝わってくる何かを受け取っている感じ。お話に関してはモノでも人でも家族でも「それは誰の」問題があって、それは自分で決めるものだし、変化していくもので、その変化をその人がどう体験しているかを観察し思いを寄せていくというのが思いやりでそれがとっても素敵に描かれているよね、と毎回なんでもなさそうなシーンに涙ぐみながらみている。明日はべらぼうか。NHKはドラマは本当にいい仕事してくれてる。ニュースもがんばってほしい。

さてさて、Reading Freudは『フロイト全集3』(岩波書店)の「心理学草案」をそろそろ読み終える。こんなにきちんと読んでいる人たちはそんなに多くないと思うので、みんな今後のフロイトを読むときに生かしてほしい。そしてアンドレ・グリーンとかを読みながら、彼らが立ち戻るこの草案を「あー、あのことかも」と共有しながら楽しんでほしい。わかるわからない、正しい間違ってるを越えて思考の種を育てていこう。

で、岩波版のp103は「付録A 一八九六年一月一日付のヴィルヘルム・フリース宛のフロイト書簡からの抜粋」なのだけどこんなふうに始まる。

[…]君の偏頭痛論によって僕は、自分のφψω理論の全てを全面的に改変することになるかもしれない考えに行きつきました。理論の全面的改変を今は企てることができませんが。でも示唆することはしてみたいと思います。

フロイトは草案のことをファイプサイオメガ理論と読んでいた。ギリシャ文字の読み方はみんな同じだと思う。

こうやってせっかく私たちがわからないなりに苦労して追ってきた思考を「やっぱり違った」とばかりに手放そうと新たな想定を提示しはじめる。が、すぐに「(君がこのわけのわからない話を理解できるかわかりません)」と括弧つきで書いている。「君」はもちろんフリース。自己分析の相手役。だったらわけわかるように話してくれよ、と思うかもしれないが、これはフロイトの自己分析の一部であり、自由連想と思えば、まあ、こんなものだろう、自由連想というのは、と思わなくもない。自由連想って本当に「自分でも何いってるかわからない」「なんで今こんなこと思ったのか」とかいうことがたくさん生じる運動だから。筋トレだって動くことではじめて知る自分の筋肉の動きばかりなわけだからなんだってそれはそうなんだろうと思う。

ただ、このあとにフロイトが書くニューロンが相互に作用する三種類の方法、1、相互に量を転移する、2、相互に質を転移する、3、一定の規則に従って相互に興奮させるよう作用する。は記述はシンプルだけど、ここまで読んできたなかで考えると重要だと思う。量と質問題。

そういえばこの前フロイトのナルシシズム論文を読んでいて、self-regardが「自己感情」と訳されていることになんで?となった。self-regardは文脈によってポジティブにもネガティブにも使われるらしいが立木康介さんは「自己感情」と訳した。なんでだろ。人文版ではどうなっているのか。自己感情という日本語を使うことがないせいかぴんと来ないが、どう訳すのが適切だろう。

毎日フロイトに割く時間が多いけどこれも仕事。そういうお仕事。日本の精神分析は本当にこれからどうなっていってしまうのか、と考える仕方が以前とは変わってきてるなと感じるけど、その答えが出ているわけでも考えが進んでいるわけでもない。勉強と実践の繰り返し。今日もがんばろう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生