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精神分析

夢、性、精神分析

忘れないうちにiphoneに夢をメモ。メモだと結局思い出せないのよね、と思いつつ。しかも朝は目が見えにくく打ち間違えていることにも気づいているが忘れる前にとりあえず痕跡を残す。夢の中で私の家はここでもなく、これまで暮らしてきた家でもないし、景色も知っているような知らないような景色だが、この前もこの道歩いた、とか、この人たち、この前の人たちだ、と感じるのは面白い。夢の中で「アニメみたい」とか「これ夢だし」と感じるのも面白い。フロイト『心理学草案』を読んだことで『夢解釈(夢判断)』に対する理解が深まり、夢の重要性を改めて実感している。フロイトが精読され、精神分析の「知」が消費ではない形で実践とともに探索されつづけますように。セクシュアリティを最重視する学問であることを精神分析家自身が忘れることがありませんように。Reading Freudで「心理学草案」を読み終え、解題を読みながらみんなで話しているときに私が最近なくなった歴史ある慶応心理臨床セミナーに皆勤で楽しみながら出席しつづけ、講師の先生の何人かにスーパーヴィジョンでお世話になったり、お部屋を借りたりもしたのに、精神分析を別物としてナチュラルに考えていた理由がなんとなくわかった。そこでは精神分析が性の学問であること、その生々しさ、そこに関わるためにどれだけのことが必要かが語られていなかった。私は実家にいる頃からフロイトをなんとなく読んでいたし、それを受けるために人に関わる仕事を色々しながら稼いできて、結局は自分が精神分析家になるための訓練に入り、これが性の学問であり、実践であることを実感して精神分析家になった。セクシュアリティが行為としてのセックスに限定されて思い浮かべられるような状況は全く豊かではない。自分たちを生み出し、突き動かす欲動として性を実感し、人が戦争を起こす存在であり、自分もその「人」であることを恐れながら自分という他者をどうしようもない自分として生きていくのを肯定するのがこの実践ではないか。自分の中に他者性を認めることからして苦闘である、ということを体験のレベルで実感すると本当にそれを誰かとやるのか、という悩み続けることになるが悩まないのは本当にどうかと思う。

コロナ禍でNetflixに入ってしまってから配信の世界に割く時間がすごく増えた。今朝も早朝から「ホームランド」をみてしまった。クレア・デインズなのか。今、ロミオとジュリエットもやっているのではないか。あれはびっくりしたなあ、楽しかった。あれからシェークスピアに入った人も多いのでは、と思う。

どこで何にひっかかるかは大抵予測と違ったりするけどそういうのを運命と呼んで愛し続けるのもやっぱ違ったと手放すのもなんでも自由ではある。でも判断は急いでするものではないと思う。時間をかけることが思考と言葉には必要。今日は日曜日。いい一日でありますように。

この空の下にはたくさんのこどもたち@新宿中央公園