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精神分析

フロイト『続・精神分析入門講義』とか。

薄い色の空。洗面所の暖房をつけたらわりとすぐに温まった。寒いけどまだそういう気温。ありがたい。もう少し寒くなると温まる前に色々終えられてしまう。短時間でも寒いのはつらい。オフィスの部屋は暖房いらずの日々が続いている。大規模改修工事中なのが色々とつらいが、工事の見守り担当(と私が思っている人)の方ともお話したりしてだいぶ作業工程がわかるようになった。あと音の種類になれた。部屋にいながらいろんな音を経験した。これ以上新しい音がすることはなさそう。交渉して大きな音を減らせるわけではないのだけど知っているのと知らないのとでは気分が違う。オフィスを守るためにはそれがビル自体の安全が第一だからこういう期間にもみなで協力して耐えていく必要があるのだろう。工事の人たちも毎日毎日本当に大変。

先日みた万葉植物と万葉集についても書きたいがすごく曖昧にしか覚えていないことが多いからパンフレットとかみないと書けない。万葉歌碑がある散歩道でいえば群馬県高崎市の高崎自然歩道「石碑之路」がとても好きなのだけど今もいろんな人に歩かれているだろうか。先日は大きな公園の中の万葉植物園にいった。花々と歌碑の組み合わせ。これまでもいくつかの公園で万葉植物を集めた空間に入り込んだことがあるけどどの季節もわりとわびしくて、それが好き。万葉集の歌とあっているし。

お勉強メモも少ししておこう。French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目、Contemporary Psychoanalytic Practice by Andre Greenのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだあと、そこで引用されているフロイト論文も読んでいた。アンドレ・グリーンのこの論文はそのまま訳せば「罪悪感の謎と恥の神秘」ってとこかしら、ということでまず罪悪感に関する、つまり超自我と同一化に関する『続・精神分析入門講義 第三一講 心的パーソナリティの分割』( Chapter XXXI of the New Introductory Lectures, “The dissection of the psychical personality”)を読んだ。ここは『自我とエス』に書かれている部分だからなじみやすい。

私はどの論文も講義もフロイトの書き始め方が好き。この第三一講はこう。

「皆さん、人間であれ物であれ、皆さんご自身のかかわっておられる研究分野にとって、出発点というもののもつ重要な意義については、皆さんもよくご存じのことと思います。精神分析に関しましても、例にもれずやはりそうでした。精神分析が症状研究、すなわち、心のなかに存在している、自我からもっとも遠いものの研究から始まったということは、のちにたどられた発展ないしのちに見出された受容にとって、どうでもいいことではありませんでした。症状は、抑圧されたものに由来しており、いわば抑圧されたものの代弁者として自我に対峙していると言えるわけですが、この抑圧されたものは、自我にとっての外国、内なる外国にほかなりません。それはちょうど、自我にとって現実が—耳慣れない言い方で恐縮ですー外なる外国であるのと同じです。道は、症状を出発点として、無意識的なもの、欲動生活、そして性へと進んでいったのですが、ここまで来たところで、精神分析は、世間からごもっともな抗議を受けるはめになってしまいました。人間はたんなる性的な存在なのではなく、もっと高貴にして高尚な心の動きももっているはずだ、というわけです。この抗議には、こう付け加えてやるのがよかったかもしれません。人間は、この高尚な心の動きを意識しすぎると、舞い上がってしまい、根も葉もない馬鹿げたことを考えついたり、目の前の厳然たる事実を無視してよいと思ってしまうことが、しばしばあるのです、と。」

フロイトの胆力を感じますね。この論文は1914年の「ナルシシズムの導入にむけて」から展開されている自我理想に関する議論でもある。Reading Freudで「心理学草案」を読み終えたから残りの数回は私が論文を選んで単なる講義型式ではなくこれまで通り対話形式でフロイトを読む意義を感じられたらいいかな、と思っている。その前にあれもこれもと色々あるけど色々あることを忘れないようにせねば。

これ以上寒くなりませんように。なるって知ってるけどなりませんように。良い一日になりますように。