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精神分析

道案内、フロイト

この空の色は何ていうのだろう。少し水分が多いのかも。青というには少し違う。きれい。葡萄が美味しい。レッドスチューベンとシャインマスカットを少しずつ。豪華。

この前、オフィスに向かって都庁の前を紅葉を楽しみながら歩いていたら背中のリュックを揺らしながらダッシュで追い越していった人がいた。渡るってことですね、と携帯で話しながら走り去ったその人を、大変そうだな、と見送った。かと思ったら、正面からダッシュで戻ってきた。なにやらすごく大変そうだと思ってちょっと手で制して「どこか探されていますか」と声をかけた。すると東京国際ビルと。うん?どこだそれ、と手のひらのGoogleマップを見せてもらうと見えない。そうだ、老眼鏡、と慌ててメガネを出して見せてもらった。うん?見えるがわからない。そういえば私はGoogleマップを使いこなせないのだった。いや、でも緑が多い。そこを指さして、左側に広がる実際の緑も指さして「この緑が新宿中央公園だから」というと「逆に来てしまったってことですね」と私より全然飲み込みが早い。「ヒルトンがあそこなんですけど、あの波波した」などいっていると「上に白いのが立っているところですね」と波波の形状よりその人は上を見ていた。そうそう、多分その辺、というとその人はすでに走り出す体勢になってお礼を言っており私は慌てて「お気をつけて」と送り出した。グッドラックー、と思いつつ、自分の案内があまりに心もとなく落ち込みながらオフィスに帰り、新宿国際ビルを調べるとヒルトン併設と書いてあった。えー、ヒルトンって併設された建物なんだ、と知った。10代から遊んできた西新宿のビルには親しみがあるぜと思っていた私が傲慢だった。何十年前の話だよ。学生時代、無料で遊べる場所として通っていた西新宿。当時は都庁も誰でも入ってくつろげる雰囲気があった。新宿中央公園のホームレスの人たちにも色々教えてもらった。そのあとの嫌がらせのような街づくりには呆れた。それにしてもあの人、夜ドラ「ひらやすみ」のなっちゃんみたいだったな。何かの面接だったのかな。結果オーライだったならいいな。オフィス周りで道を聞かれることは多いけどそういえば毎回怪しいな、私の説明。あとから「あれ?今伝えたのであってたっけ」と確認して胸を撫でおろすこともしばしば。お世話になってきた西新宿。精進せねば。

来年のReading Freud(第4土曜夜)と初回面接の事例検討グループ(日曜午前)のメンバーを数人募集する予定です。精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)を修了している方でご興味のある方は私のオフィスのウェブサイトからお申込みください。初回面接の事例検討グループは臨床現場で初回面接の事例をお持ちの方でご自身の言葉で考えられるようになりたい方に。Reading Freudは基礎セミナーを終えてなおフロイトに関心のある方で難解さとわからなさにとどまれる方におすすめです。

ということで私はほぼ毎日なんらかの事情でフロイトを読むわけだが、最近はアンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practiceのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだことでいつのまにか超自我の起源について考え始め、フロイトが晩年、いろんなところで書いている超自我についての記述を読んでいた。超自我は罪悪感と恥の起源でもある。ここ数日、ここにメモした分もそうだけど昨日はフロイト全集22所収の『モーセという男と一神教』における記述を読んでいた。フロイト最晩年のもうこの時期になると教科書に書いてあることの確認という感じでサクッとまとめられている。この論文は最晩年のものと言われているけど1934年には大体書き上がっていたらしい(その後、大幅に修正)と編注に書いてあった。どちらにしても癌とナチスに脅かされる日々に書かれたものだ。晩年のフロイトの日々は『フロイト最後の日記 1929〜1939』から窺い知ることができる。膨大な量の論文の濃密さに比べると日記はメモ程度のあっさりしたものだが、残虐な歴史に巻き込まれた一個人の記録としても非常に重要だろう。

さて『モーセという男と一神教』に書かれている「超自我」概念は三つ目の論文「モーセ、彼の民、一神教(第2部)」の欲動断念の項目のところにあっさり書かれている。この段階ではフロイトは患者のことというより社会のことを書いているが、書き方は変わらない。


>>自我のなかに、観察し禁止するかたちで自我の残余の部分に対抗するひとつの審級が現れてくる。われわれは、この新しい審級を超自我と名づけよう。この審級が成立してしまうと、自我は、エスによって要求された欲動満足の行動に移る前に、外的世界の危険ばかりでなく超自我の異議申し立てをも顧慮しなければならなくなり、欲動満足をあきらめる契機はますます多くなってしまう。しかしながら、外的世界の理由に基づく欲動断念がただひたすら不快であるのに対して、内在的理由に基づく、超自我への服従に基づく欲動断念は、別の経済論的効果を示す。この欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我にひとつの快の獲得を、言うなれば代替満足をも招来する。自我は自分が高められたと感じ、まるで価値高い仕事を達成したかのように、欲動断念を誇るようになる。このような快の獲得の機制は理解されるだろう。超自我は、人生の初期に個人の行動を監視していた両親(および教育者)の後継者であり、代理人であって、両親(および教育者)の機能をほとんど変わることなく受け継いでいる。超自我は、自我を持続的に支配下に置き、自我に圧力を加え続ける。自我は、ちょうど幼年時代と同じように、この主権者の愛情を得るか失うかに気を遣い、主権者に認められれば、それを解放と感じ、満足感を味わう。主権者に非難されれば、良心の呵責を感じる。自我が超自我に欲動断念という犠牲を供えるときは、自我はその報酬として超自我にもっと深く愛されるのを期待しているわけだ。超自我の愛を受けるに値するとの意識を、自我は誇らしく感じる。権威がまだ超自我として内在化されていなかつた時期までは、欲動要求出現と愛情喪失の切迫は直結していた。両親への愛ゆえに欲動断念がなされたとき、安心と満足の感情が起こったといってもよい。権威そのものが自我の一部と化したのち、このかなり快適な感情は、初めて独特にナルシシズム的な誇りという性質を帯びるようになった。

引用ここまで。やはりナルシシズムにつながる。他者を自我に取り込まざるを得ない私たちの宿命。誰かに育ててもらわないと、でもその誰かから離れないと生きていけない私たち。そりゃ、色々大変だ。だから緻密に考えていく必要がある。語られていない言葉たちに丁寧に関わっていく必要がある。

今日は気温が高くなるみたい。良い一日になりますように。