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精神分析

新年度

眠い。今日は西の方から春の嵐になると昨晩の天気予報で言っていた。昨晩の月はあんなにきれいだったのに。夜桜を照らすような明るさだった。でも、まあ、しかし、これが春。桜が咲く時期はいつも雨が降るような気がする、とアナウンサーが言っていて、私もそう思ってるからデータが出てくるのかな、と思ったら特にそれに対する応答がなくて残念だった。あとで調べてみよう。

今年はまだ新年度らしい集団と出会っていない気がする。いや、出会った。彼らは横に大きな一列を作っていて、私はその間を割くようにすれ違うことになってしまった。このちょっとやそっとのことでは崩れない一列を作る心性は中1、高1、大1の頃に見られるものなのだろう。つまり変化のときということだが。小1は大人がマネージしているからまた別かな。不安の質は同じかもしれないが。

保育園の子たちはあまり変わらずいつもと同じ時間にお散歩。いつみてもかわいらしいが春色のなかの彼らは特別な感じ。幼稚園の子は「年長さん」くらいになるとトコトコそばにきて四月から「年長さん」と言いにくる。年少、年中くらいだとまだやや曖昧。2歳くらいだとたまに間違った数の指を立てながら年齢を教えてくれるけど年度というよりお誕生日が意識されている。お誕生日会もあるしね。どうしてみんな年齢教えてくれたり、指差して名前聞いてきたりするんだろうね。かわい面白い。

今日は土曜日。今週はやるべきことをやるのみで全然勉強しなかった。これもやるべきことではあるけど勝手に優先順位を下げた感じはあるな。がんばらねばな。でも夜になったら関東も春の嵐なんでしょ。やる気なくしそう、とか言っていると一生やらないことになるし、残りが少ないという意味で一生の重みが昔とは違うのだからどうにかがんばってくれないものかしらね、自分。あー、この空の色、あまり好きじゃないな。でもいいことあるといいね。良い土曜日にしましょう。

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精神分析

理想化とか。

いいお天気。昨日は午後になれば暖かくなるのかと思ったらそうでもなくて晴れ間がみえたのも思ったより遅かった。それでも夕方になってオフィスの窓から明治神宮の森を見るとだいぶ春色になった感じがした。その向こう、渋谷の高いビルも西日でオレンジに染まっていた。帰りは置きっぱなしにしておいた上着を一応重ね着してから出た。ちょうどよかった。空を見上げると月がとてもきれいで、いつもの夜よりすれ違う人が多くてそれも春っぽかった。最寄りの駅に着くとカップルとすれ違い「春なのになんでこんな寒いの!」という声が聞こえた。ほんとそうだな、と少し面白かった。今朝の東京はいいお天気。春のお天気は読みにくい。花粉もあるから洗濯物は外には干さないけど一番使い勝手のいい折り畳み傘が探しても探しても見つからないので急な雨とかは降らないでほしいな。ほんとどこ行っちゃったんだろ。

昨日、なんとなくKindleで『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―』斎藤環著 、與那覇潤著を再読していて小保方晴子さんに対する記述を失礼だなと思った。前に読んだときもそう思ったのかどうか忘れたがこのお二人の言葉にはちょこちょこ似たような失礼さを感じる。斎藤先生はひきこもり支援の現場を間接的にご一緒した身としては尊敬しているし、ここで私が失礼だなと思ったのは與那覇潤さんの言葉だが、対談なので介入はありえたよねと思う。しかもこの本は賞もとっていると知った。知識人の多くには受け入れられたということだろう。

さて、これもまた別の読み物を読んで思ったことだが狭い世界での理想化というのは怖いもので、現実と出会わなければそれはいつまでも続き、現実を知ると一気に幻滅へと反転する。理想化は現実と出会いたいという願いである場合もあるが、多くの場合はその逆だ。現実という広大で複雑なわかりえない世界の、ものすごく小さな断片を切り取ってそこで「甘え」の夢を見続けられるのが理想化だろう、と私は思っている。私もたやすく理想化され、たやすく幻滅されるプロセスを多く経験しているが、精神分析の場合は、幻滅のプロセスが非常に大切になってくるので、「出会う」とはということから考えることが必要になってくる。いずれにしても理想化するなら狭い世界ではなく、遠い場所の人の声とも真剣に対話するなかで、がいいな、私は。

今日はどんな一日になることやら。いいことちょこちょこありますように。ちょっとした楽しいこと、面白い言葉とかって通り過ぎるとすぐに忘れてしまうけど意外と出会っているものだと思うしね。どうぞ良い一日を。

月曜日の初台
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散歩とか仕事とか。

雨だねえ。桜が咲くと必ず。桜が咲いたのに雨が降らなくなったらいよいよ水不足も深刻になり国内の自給率はますます下がるのではないか。

先日、菜の花で有名な公園に散歩に行った。ネット情報では菜の花はもう終わりとのことだったがまだまだとてもきれいで桜と重なり合う景色も素晴らしかった。今年は蝋梅と白と赤の梅の三色が咲き揃うのも見られた。そのときは地元の人に驚かれた。なかなかみられないよって。嬉しいねえ。仕事のない時間は自然の中にいたい。畑仕事を手伝えるわけでもないけど。できること言ってくれたらやるけど役に立たなかった経験しかない。普通より力持ちとはいえああいう作業って力以上に日常で鍛えられた技が必要でしょう。うーん。その地域に観光客として経済的に貢献するくらいか。といっても小さい小さい貢献だが。どこに行っても国内一次産業の状況が気になる。山に行けば林業の必要性はひしひしと感じるものの熊が頻繁に里に降りてくる今、林業に従事する人を守る対策の優先度はどうなってるんだろうとか。うーん。

この仕事をしているといろんな仕事を知る。「日本の組織」みたいに大きく語れる部分ではなくてその人の日常や歴史と切り離せないものとして知る。研究者がするような大きな括りも大事。それを学びつつそれでは表せないとても複雑なものとしてその人にとっての仕事を知る。言葉になるものはほんの一部だから継続して関わることが必要になってくる。お互いの日常として関わり合う。机上の仕事も個人の複雑さに対する意識を大切にやらないと「その場所からならなんだっていえますよね」ということばかりになりそう。継続的に関わることは相当難しく苦しい状況も生むけどお互い複雑だから少しずつ少しずつそれらが言葉になっていくのを待つ。私の仕事はこんな感じ。お互いがんばりましょう。まずは傘をどこかに置いてこないように気をつけましょう。東京はこのあと晴れるみたいだから。良い一日になりますように。

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四月一日水曜日

曇っている。これから雨になるみたい。気温も下がるみたい。今日から四月。桜を眺めすぎて風邪ひかないようにしましょうね。

それにしても日本政府が日本を悪くするスピードが早すぎてどうかしてるとしか思えない。「そもそもさ」ということに常に立ち戻らないといつのまにか全く違う物語が語り継がれそう。人は本当に目の前の小さな現実さえそのまま受け取れない。自分もそういう生き物であることを前提に「正しく」あるとはどういうことか。

自分とは違う言葉を持つ相手として他者と出会い、自分の言葉や仕草がどんな感じなのかを自分で知っていくこと、それを受け入れることの難しさを超えていくこと、私はそんな自分をどうにかしながら他者のそういう作業に貢献していくために精神分析という方法を選び訓練を受けて精神分析家になったのだと思うから勉強を続けていかないといけない。この場合の勉強は机上のものでは全くない。

とはいえ今は土居健郎を読まねばならない。全く読めていない。が、すでに一連の書物は読んでいるので時折土居のことばを思い出したり、考えが浮かんだり、無意識で対話は続いているらしい。さっきはそういえば土居は精神療法を「隠れん坊」と言ったが、それは土居がキリスト教の信者であり続けたことと関係あるのだろう、と思った。だから何というわけではないが宗教のどの側面が土居の治療の描写に表れているかはどの部分が隠されているかという問いにつながるので大事なような気がする。

などなど今日も無意識に期待しよう。とりあえずやるべきことをがんばろう。まずは傘忘れないようにしよう。今日も良いことありますように。