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徳島のこととか。

今年度最後の日。お天気がよくない。風が強そう。雨はまだかな。

Netflixで『眉山』をやっている。2007年公開。原作はさだまさし、監督は犬童一心。新潟県中越沖地震の年。私たちが徳島に行ったのは映画が公開された年。映画のことは徳島で知った。ロケ地にプレートが立っていたり盛り上がっていたから。当時のことはほとんど覚えていないというか鹿児島と混ざっている気がする。きちんと覚えているのは鳴門の渦潮が混んでいたことと眉山がとてもきれいだったこととその麓の道を暗いなか歩いたことと阿波踊り会館で見せてもらった踊りがすごくかっこよかったこと(一緒に踊ったことも)と居酒屋で食べた阿波尾鶏がとてもおいしかったこと。今も仲の良い先輩が毎年サークルで踊りに行っていた。いつもすごく楽しそうで私も行ってみたいと思っていたのに1回目はぼんやりした旅をしてしまった。それはそれで楽しかったに違いないけど。昨年から今年の年末年始、約20年ぶりに徳島を訪れた。行ったら色々思い出すかなと思ったけど時間が経ちすぎた。阿波おどり会館は年末年始で休みだった。眉山の麓の道は私が思っていた建物とは繋がっていなかった。でも今回はバスと電車を乗り継いで前回行かなかった観光名所へ色々行った。どこへ行っても水がとてもきれいで2日もすれば眉山を見ると帰ってきた気持ちになった。早い!徳島駅前のホテルのそばにはアミコという駅ビルがあって親しみを感じた。お土産もそこで買った。夜、呑みに出ると地元の若者たちと隣になった。忘年会らしく、地元の変化を語り合っていた。その中のひとりがアミコに図書館が入ったり立派に残ってくれてよかったと嬉しそうに言っていた。そうだったのか。よかったよかった、というかそのとき君たちはいくつだったんだ。あー、阿波おどり会館のおじさん、かなりおとしに見えたけどすごく身軽でめちゃくちゃかっこよくてそれはずっと忘れずいろんな人に話してるな。あれから20年、どうされているだろう。今回は忘れたくないなと思いながらいろんな道を歩いた。小さな船も乗った。川から見る景色は歴史を感じやすい。まだこんなに交通機関が発達していない頃から川はずっとみんなの道だっただろうから。みんなみんな元気でいてくれたらいいなあ。

朝から思い出話を書いてしまった。準備準備。次の旅に向けてまず仕事。良い一日になりますように。

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月曜日

今日はひんやり?でも暖房をつけるほどではない。昨日はとてもいいお天気でたくさんの春の花に出会えた。大学で卒論を書くときに協力してもらった幼稚園がある駅でも遊んだ。どこからきたのかといわれ「東京です」というとGWには薔薇がきれいだからまたきてほしいけどそんなしょっちゅうはこられないでしょう、というようなことをいわれた。通っていた私としては「いえ、まったく」なので薔薇の季節にも行けたらいいな。この週末は各地でイベントが多かった様子。たくさんの家族をみかけた。歩道橋で小さな子がおばあちゃんを気遣って「荷物持つよ」「大丈夫よ」というやりとりを繰り返していて、おばあちゃんはいつものことだろうから多分本当に大丈夫で、孫に持たせるほうが心配かもなあ、でも一生懸命お手伝いを申し出るこの子の気持ちもあるしねえ、と思って「持ちましょうか」と声をかけたらその子が元気に「ありがとうございます!」といってくれた。気持ちのいい子だ。お花のきれいな公園に自転車で遊びにきていたやんちゃそうな子どもたちのやりとりもすごくよかったんだよねえ。対等であることってみんなが同じものやことを同じ量だけ請け負うことではなくて、というか量的なものの比較って人間関係では難しいわけで、お願い事をしたらありがとうというとかそういうひとことやひと仕草でどちらかだけが負担に思ったり寂しさや悲しさを感じたりしないようにやってきたのが人間の知恵だったはずでしょう。保育園でいつも周りの子のおもちゃをとってしまうことを気にされていた子が「はいどうぞ」をはじめてできて驚かれるという場面を何回も見ているけど言葉にするって勇気がいることだし周りの支えあってこそだと思う。そういえば帰りの電車で隣に座った高校生たちの会話はとてもつらかった。なんで必要のない意地悪をするのだろうね、人は。自分のなかにとどめておくのが難しいのはまだ若いから、でもなんでもないだろうけど。みんな少しずつ負担をわけあってカジュアルに感謝しあえる関係のほうが、お互いの排除のこころで団結する関係よりいろんな面でいいことが多いはずだけど。政治に対する怒りが日常のあれこれを厳しく査定することにつながってはいけないし、むしろ日常のあれこれに対してはいろんな人がいてそれぞれに事情があるとうことを前提にして強制や支配の文脈からできるだけ離れていくことが大事だよね。そうそう、今日もそれぞれがんばりましょう。

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日曜日

いいお天気。気温も高そう。今日はお散歩に行くので日焼け止めを塗りました。花粉と紫外線の季節、と書くとちょっと辛い季節だけど春の季語をたくさん思い浮かべて過ごしましょう、といっても暗記できている句は少ないので歳時記を持っていきましょう。

6月の精神分析協会の学術大会で発表する土居の「甘え」について考えているけどまだ何も書いていない。演題応募したときに書いた文章は結構悪くないような気がしているが、そこからしっかり広げていくの結構大変、と大変弱気になっている。加藤典洋が『日本の無思想』のなかでタテマエとホンネについて検討しているが、そこで中心的にとりあげられるのが土居の著書『表と裏』である。加藤は土居のタテマエとホンネの説明に欺瞞までいかなくても疑問をもちアーレントを引き出してくる。しかしアーレントのいっていることにもほんとそうかなとなり、いろんな作家、思想家などの言葉をもとに「本心=信念」、それを「言葉」にすること、あるいはしないことについて検討していく。これは大変面白い本でというか、増補改訂版は付録が面白くて、加藤のいっていることがどう誤解されているかに本人が答えてくれているのでここから読んで「え?どういうこと?」と本文にはいってもいいかも。土居の「甘え」だってたくさん誤解されているらしいじゃん、というか私はその誤解がなんだかよくわかっていなかったのだけど幅広く調べだしたら「えー、甘えってそういう意味なのか!?」と自分が誤解しているのか、相手が誤解しているのか、どれが誤解でどれが本当なのかわからないよ、土居先生!となったりもするが、たぶん私の理解はそんなに間違っていない、と思ってやっていかないとスタート地点が定まらない。というかまだそんな状態ということですね。ソウルでの発表準備もなにもしてない。自分の書いたことを確認して読めるようにしておかないと・・・。

あー。春の素敵な気持ちはどこへ。外へいったらまた思い出すでしょう。やるべきことを忘れず、しかし腐らず。いずれ花咲くような気分でがんばりましょう。どうぞよい日曜日をお過ごしください。

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日常

水分の多そうな空。昨晩、オフィスのビルを出たらタイルが濡れていた。やっぱり雨になったんだ、と思ったが降ってくる雨粒は見えない。もう降り終わったのかな、と傘を取りにいくことはせず屋根の外にでたらポツポツと雨があたった。夜は降るといっていたし、傘を準備しておかないとと思っていたのに出るときには忘れていた。でもいつも通り「このくらいの雨なら」と歩き始めた。結構な雨の日も「これくらいの雨なら」と傘を取りに戻らず後悔することもあるが、昨晩は本当に大したことがなかった。桜を散らさずにいてくれたのかもしれない。今、どこも花たちでとてもきれい。少しの遠回りで見たこともない景色と出会える。オフィスのそばの新宿中央公園の整備をなんともいえない気持ちで日々眺めてきたが、新しく植えられたたくさんの球根はそれはそれで可愛らしく、昨日は咲き始めたチューリップの写真をたくさん撮ってしまった。毎日、雨でも早足で歩いていてもつい足を止めて写真を撮ってしまう。大地震など自然災害への支援も足りない中、同じ人間のせいで「普通の」日常にも燃料不足の影響が生じている今、次々花が咲くからキリがない、と思えるのはとても幸せなことだが。これが束の間でありませんように、と願う。

朝ドラ「ばけばけ」が素晴らしいラストを迎えた。高石あかりの演技は最初から最後まで素晴しかった。「ヒロイン」という言葉より似合う言葉がありそうな気もする。「たあいもないスバラシな毎日」の幸せを私もだいぶわかるようになったが、自分ひとりではどうにもならない難儀なことばかり。「あんぱん」では「あなたならできる」と夫をひたすら信じ続け、励まし続ける意志の強いヒロインだったが、「ばけばけ」ではそれはもう一人の主人公、吉沢亮に託された感じがあり、高石あかりは反射神経の良さと情緒的にのんびりな部分の緩急が素晴らしく、ものすごく苦労している面を強調するでもなく、本当にただ日々を積み重ねている中で少しずつ変わっていく面白く悪意のないヒロインだった。特に結婚前の日々の表情の変化は楽しく、毎日明るい気持ちにさせてもらった。日々を積み重ねること、難儀なことばかり、とぼやきつつもスバラシにしたい。今日は全国的に暖かくなるみたい。と言っても北国は寒いのかしら。深刻な、深刻な社会情勢の中、みんな元気に過ごせますように。

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言葉

うっすら曇っているけど光は届いている。昨晩も帰りには雨が上がっていて嬉しかった。昨日は雨の中を長靴でバタバタ走ることになり大変だった。一応傘をさしていたけどあまり意味なかったかも。最初から閉じて走った方が安全だったか。途中、派手に転びそうになったし。でも無事に用事を済ませて雨に濡れた桜を愛でたりしながら戻ってくることができた。でもそれで疲れてしまったのかその後の隙間時間はほとんど何も進まなかった。

もう四月になってしまう。『四月になれば彼女は』って原作ありの映画あったよね。みていないけどすぐ思い浮かんだ。言葉の響きが取り入れやすいのかもしれない。言葉といえば、斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』(創元社)を読み直してとてもいいなと思っていた。ハングル入門としてもいいし、韓国文学を日本に広めた翻訳家でもある著者の言葉へのこだわりがほかでは読むことのできない表現で書かれているのがいい。韓国人が経験してきたたくさんの辛い出来事が書かれているのにそこでも失われることはなかったであろうユーモアや喜びが行間をさらに豊かにしている。

私は色々詳しくないが言葉に引っかかりを感じることから探索が始まることが多いので、というか精神分析ってそういう仕事なんだと思うけど、単なる「対話」ではなくて、言葉を生かしていくことを大事にしていけたらいいなと思うんだよね、と思う。

あー、もうこんな時間。今日は今日のやることを。いい一日になりますように。

都庁裏。
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先生方

眠い。雨だ。「雨だ」と打ったつもりが「甘えだ」とでた。最近、土居健郎のことをちょこちょこ考えているせいだろうか。熱いお茶が美味しい。

昨晩、日本精神分析協会訓練分析家の藤山直樹がよく口真似していた土居健郎の言葉「精神療法はハラハラドキドキなんだよ」「精神療法はね、出たとこ勝負だよ」 をポストした。私は土居健郎の声を一度だけきちんと聞いたことがあるが藤山先生の口真似は多分似ていない。でも土居のこれらの言葉を藤山先生の声で聞いてインパクトを受けた人は多いと思う。言葉だけみれば大した意味を感じないかもしれない。しかし精神療法に真剣に取り組んでいる身には結構響くのだ。私は慶應心理臨床セミナーを終え、グループSVに出たり、友達と精神分析的な臨床をする先生方にお願いして小さなグループをやったりしながらある程度、精神分析的に心理療法をするということのイメージを掴んだ頃に藤山先生の指導を受けた。その患者はとても「難しい」患者であると「わかった」のも後からで、そのときはどうしたらいいか全くわからず、先生に何を言われても落ち込むばかりだった。今なら「難しい」も「わかる」もかっこ付きで書く必要があることがわかるし、何をそんなに困難だと感じていたのだろうと思うが、というか、全く通じ合う感覚が生じないことに困難を感じていたのだが、通じ合えるという前提がそもそも間違っていた。人は、というか私たちはそんなに簡単ではない。なんなら自分のことが一番厄介で難しかった。なんて自分が精神分析を体験しなければ実感できなかったと思うが、当時はもう今から考えると滑稽なくらいひとりで悩んでいて(二人のことなのにね)そんな私に藤山先生は時々とてもインパクトのある言葉を楽しそうに言った。そして「って土居健郎が言っていた」と付け加えた。最初に書いた言葉たちもそれらの中の一つ二つである。私は「ハラハラドキドキ」できない自分に嫌気がさしながらも「きっとそうなんだろうな」と思えたし、そうなれたらいいなと思い、患者のことを思い浮かべた。私は心理職なので心理士で精神分析的心理療法をやっている先生方のSVも受けてきたが、どの先生からもそれぞれインパクトのある言葉を受け取っている。

先日、中井久夫の言葉を引用した。

「土居先生は怖い先生だと聞いていました。面白かったのは、誰でも精神分析の用語を使うとものすごく叱られるのです。まして二流の精神分析の論文など引用すると、烈火のごとく怒られまして、「そういうものを読むから頭が悪くなるんだ」と言われました。これは、私には都合のよいことでした。私は精神分析の本をあまり読んでいなくて、精神分析用語を使わずに話をしたので、逆に過大評価されたのかもしれません。」

ー『中井久夫集4 1991ー1994 統合失調症の陥穽』

私は深津千賀子先生に「転移」という言葉を使用したときに似たような怒りを感じたことがある。直接そんな言葉を使うな、と言われたわけでもないし、烈火のごとく怒られるなんてことは全くなかったが、そんな言葉を使う前に、と言われている気がした。その後、私は臨床を積み重ね、スーパーヴァイジーたちを持つようになったが今は深津先生のあの感じがよくわかるし、同じことを言っている自分がいる。転移といいたがるオレら、という時期があるのだろう、誰にでも。

私はSVと治療は全く違うものと最初からわかっていた、というか精神分析を受けるという目的は当時は私の仕事とは関係のない、ただただ患者になる、ということだったので、SVで患者置き去りの反省とかしないでいられたのはよかったと思う。ひたすら患者とやっていることを考え、実感を持って理論と触れることの積み重ねをさせてもらったと思う。その後、精神分析家になると決めて長い期間訓練を受けてようやく学術的であることがどういうことかもわかるようになって論文も書けた。お世話になった先生方はもうだいぶ高齢だ。いつまでも仰ぎみるような存在だが、私も日本の精神分析の世界にほんの少しだけ貢献できるようになりました、と伝えられるようになりたい。

精神分析は口承文化なのだろう、ということを書きたかったのだが思い出話を書いてしまった。私もだいぶ歳をとってきたから先生方との思い出を書いておくのも悪くないだろう。ということで今日もがんばろう。

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水曜朝

空が暗い。雨になるのかな。夢がちょうどよくないところで終わってしまった、というか起きてしまった。夢にちょうどいいもなにもあるわけではないが「そこで起きるんだ、私」という感じ。

PEPとかIJPから新しいジャーナルが出ると紹介メールが来るのだけどいつも目通したらゴミ箱にいれてしまう。でも先日Baranger(2025)の文字が目に止まり「あれ?」となった。バランジェ夫妻(Madeleine 1920–2017 &Willy Baranger1922-1994)はどちらも亡くなっている。紹介されていた雑誌はJ. Revista de Psicoanal. v103 (2025)。マドリード精神分析協会(APM:Madrid Psychoanalytic Association )発行の雑誌。テーマは¿Cómo se concibe el psicoanálisis en la actualidad?(現代において精神分析はいかに構想されているか。)。この雑誌のCLÁSICOS(古典)のセクションでバランジェとカンバーグが取り上げられていた。Barangerは経済論モデルの再定義、Kernbergは技法の現代的分岐ということらしい。ちなみにタイトルは

Polémicas actuales acerca del enfoque económico

Willy Baranger

Convergencias y divergencias en técnica psicoanalítica contemporánea

Otto Kernberg

バランジェの論文では「フロイトのメタ心理学における経済論的アプローチの位置づけが批判的に検討されている。著者はまず、心的エネルギーという概念から出発する。これは、無意識的過程を「量」「流れ」「備給」といった観点から把握することを可能にした理論的カテゴリーである。しかし同時に、この概念を物理学的あるいは機械論的な意味で理解することの限界についても指摘している。バランジェは、経済論モデルを物理学からプシュケへと単純に移し替えたものとしてではなく、むしろ心的装置における意味の変容や配分を捉えるための発見的メタファー(ヒューリスティックな比喩)として再考することを提案している」とのこと。

これはフロイトの「心理学草案」の理解を深めた私の興味と重なるような気もするが読んでみないとわからない。

この論文は1967年の Revista Uruguaya de Psicoanálisis(Vol. 9, Núm. 2)掲載論文の再掲らしい。

IJPジャーナルでもこれまで英訳されていない論文が訳されて載るセクションKey Paperがある。最新号はFrancis Pascheの論文。

Pasche, F. (2025) From the Ambivalent Superego to the Impersonal Superego. International Journal of Psychoanalysis 106:1200-1210

「超自我は複数の要因を含む過程の帰結である」という始まりは面白そう。あとでチェックするけどその前にやることやりましょう。

今日は何曜日?水曜日。空の色が不穏だけど桜は今日もきれいでしょう。雪国にも早く暖かい春が来ますように。

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くさくさ。

いいお天気!鳥たちが近い。今朝は椿山荘のメープルバームクーヘン。いい香り。

それにしても高市政権になってから気が休まることがない。市民が特に何も考えず、政権を監視せずとも自分の仕事や趣味に没頭できるための暮らしを作るのが政治ではないのか。と考えるとみんな何を求めて政治家を選んでいるのだろう。監視社会にしたいのか?たしかに学問やってても学問への情熱よりたいして関係が深いわけでもない人間関係にばかり気を取られている人は多い。土居健郎や中井久夫の本を読んでいると患者のために何ができるかを真剣に、根本から考える場を共有できているのが本当に羨ましい。患者だってそういう場に集まるわけだし。私にとっては日本精神分析協会がそういう場になりうるだろうし、いくつかそういう場は持てているけれど、この政権で、プライベートプラクティスを中心とする精神分析家としての生活が維持できるのかは多分死ぬまで不安だろう。私は今みたいな政権は全く支持しない。

ああ、こんないい天気なのにくさくさしてしまった。昨日は読むべき資料が溜まっているにもかかわらず、資料を見つけるのに時間をかけてしまった。こういうのはさくさくやりたいもんだわ。整理したつもりだったのにつもりはつもりってやつか。まあ、見つかったからいいけど。これまでMacのアプリばかり使ってきてしまったからその移行がうまくいっていない。機械難しい。

今日は風が強いね。くしゃんくしゃんしそう。いい一日になるといいですね。

東京オペラシティ
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本のある場所

お天気よくない。でもそれほど暗くもないし寒くもない。まだ風が吹くと寒いけど動けばすぐに気にならなくなる。桜もあっという間に満開になりそうだし、チューリップも次々咲くし、春は楽しい。でもくしゃみもいっぱい。ふー。

先日、若者と小さな図書室で過ごした。地理や歴史の本を集めている様子に感心すると同時になんでもいろんな本を読むといいよと思った。本棚には私が小さな頃からなんとなく手にとっては読んできたいろんなジャンルの本があった。それでもジャンルでいったら相当偏りがあるのだろう。いろんな本を読むといいよと思いつつ言葉にしなかったのは、本を読んでいれば自然と別のジャンルの本にも出会っていけるから。そんなことを思っていると須賀敦子の『本に読まれて』が目に止まった。懐かしいな、と手に取りながらますます余計なことだなと思った。この本は須賀敦子の書評集でたくさんの質の良い本と出会える一冊だが、ほかの須賀のエッセイと同じく、歴史と言語に対する深い思考がどの本も上質にしてしまうし、対象の本を読まなくても須賀の文章を読み進めること自体が豊かな読書体験となる。だからこうやって自分の手が伸びること自体が大切なのだ。そして伸ばす場所があるのが大切なのだ。図書室のある二階は少し暗くて、その子はとても怖がりだった。子供の頃、二階が子供部屋だった。夜、階段をのぼりきるとベランダに通じるドアのガラス窓にぼんやり浮かび上がるものがとても怖かった。廊下とも呼べないような短い部屋までの距離を急ぎ、部屋に入ったらすぐに忘れるような怖さだった。それでもいつも怖かった。その日、その子は図書室でのんびり一緒に過ごした数時間後、ひとりでそこに行った。「ひとりでいくんだ」と母親がつぶやいていた。「ひとりでいけなかったんだ」と私はそこで知った。本を読むことは単に言葉を目で追うことではないことを実感する時間だった。

さて今日は月曜日。やすみやすみ過ごしましょう。

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土居健郎の言葉とか。

きれいな空。ほんと春の夜明けってこんな感じなんだなあ。昨晩は夜桜の向こうに細い月がきれいだった。

昨晩『中井久夫集』を読みながら土居健郎のことをポストしたら知らない方たちからも反応があった。土居健郎のベストセラー『「甘え」の構造』を読んだことがある人がどれだけいるかわからないけど中井が面白がった土居の「怖さ」以外の面白さや迫力を知ってほしい。臨床家のみなさんは戦後の精神医学に「みたて」を持ち込んだ土居健郎の『新訂 方法としての面接 臨床家のために』も読んでね。そして土居健郎は訓練分析でワークスルーすることはできなかったけど日本の精神分析の基盤を作った一人なので6月の日本精神分析協会第44回学術大会にもいらしてくださいね。参加申込みが始まっています。私は6月14日(日)の一般演題 「『甘え』を再考する」で土居健郎の「甘え」概念と対話を試みます。この大会は守秘義務を負う臨床家のみなさまにオープンにしております。 医師、歯科医師、公認心理師、臨床心理士、看護師、保健師、助産師、薬剤師、作業療法士、理学療法士、言語聴覚士、精神保健福祉士、社会福祉士など臨床に携わるみなさま、ぜひチェックしてみください。

昨日は土居健郎『甘え・病い・信仰』も読んでいて、土居はここでも「甘え」をすっきり説明している。

「まだ言葉を話さない赤ん坊が物心がつくようになって、母親を求めるようになると、母親に甘えるというのです。生後しばらくの間は、話すことができませんし、もちろん甘えるという言葉を知るわけはありません。物心ついておぼろげながら母親の存在を自覚するようになる、少し難しく言えば、自他の区別ができてくるのだと思いますけれども、そうなって自分の方から母親を求めるようになると、そういう動作をさしてこの子はもう甘えると周りで言うわけです。」

ここまではわかる。このあと「子どもが親に甘えるとき、子どもは親とのある種の一体感を感じていると想像されるということです。(中略)日本語だけにこのような言葉があります。今、一体感という言葉を使いましたが、そのことと関連のある専門用語を紹介しますと、identification という言葉があるんです。」と書いている。私はここであれって思う。土居は続ける。

「もう一つの意味は、何者かと一体になる、何者かと自分を同じようにする、そのものと自分が結びついて一緒になる、そういう場合でして、日本語ではその場合には「同一化」というふうに訳します。一体化と言ってもかまわない。これは精神分析の方でよく使われるようになった用語です。identify というのはもともとはふつうの言葉なんですけれども。後者の意味でこの語を使うとしますと、子供が甘えるときは、子供は親と同一化しているのであって、親との一体感を感じている、こういうふうに解釈することが可能となります。」

私は一体感と同一化は違うと思っていたので「うん?」となった。これについては発表に使うかわからない。今日は勉強する時間ないし明日から平日だしもうどうしましょう。まあ、こうやって少しずつか。良い日曜日をお過ごしください。

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散歩、言葉、表情

夜明けの空。すっかり春。特に今日はうっすらとしたピンクが朧。

昨日は日米首脳会談で高市首相が何を言ってしまうのか気になって仕方ない祝日だった。東武東上線の成増でモスバーガー1号店「なりもす」へ行き赤塚エリアを散歩。赤塚城跡はもう何も残っていないけど地形が城っぽかった。あの辺は起伏の多い地形なのね。桜もぽつぽつ咲いていて今日とか一気に咲きそう。城跡内には東京23区初の区立美術館の板橋区立美術館も。今は「焼絵 茶色の珍事」。面白かった。描くのではなく焦がすのね。十八世紀、十九世紀の作品もいいけど、最近の猫野ぺすかさんの猫の作品、特に猫タロット占いは惹かれた。買ってくればよかったなあ。昔、職場でタロットが流行って教えてもらったことがある。どこいってもひとりはできる人がいる世界な気がする、タロット。カードだけでも魅力的だしね。

さてさて首脳会談。これまでの文脈を無視すればどっちの意味でもとれることを言ったのは戦略か、たまたまか。パールハーバーを気楽に持ち出されたことに対する緊張感のなさ。「あなたも同じことしましたよね」という言葉は自分の行動を正当化する理由になどならない。過去に対して即座にどういう態度を示すかは政治じゃなくても常に重要だ。「そういえばそうでした」と黙るのも違うし「何度も謝りましたよね」も全然違う。過ちを犯しても、「おまえがいうなよ」と言われ続けても、消えることのない過去の過ちを認め続け、「だからそれを繰り返してはいけない」という信念を表明し、それを体現しつづけようとする。孤立した状況だったらそれはとても難しいことかもしれないけど、様々な感情になりながらでも「それしかできない」という現実にじっと静かにいつづける。なぜそれはそんなに難しいのかを実際に見続け、実感しつづけ、考え続けるのは私たち臨床家の仕事でもあるけど、知識として、小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』のような本は読んでおきたい。「そういう人ばかりじゃない」というのは当たり前であって大きな問題をなかったことにする理由にはならないし、「意見が違うだけなんだから尊重してよ」というのはそれはそうだが「だから触れるな」と禁止することはできない。どう触れるかはもちろんものすごく重要なことだが。こういう話は立場表明のためであれば極論に急ぎ、思考停止になりかねないが日常生活においてはいちいち表明も宣言もする必要はそんなにないはずなので揺さぶられては考え、事実と文脈に戻り検証し、例外を全体の説明にしたくなるならそれはなぜか考え、などなどを続けていく必要があるのだろう。

ところで、私は笑えない話に笑う人に違和感を覚えるが、なんなのでしょうね、表情って。私は精神分析の世界に入ってからあまり笑わなくなったと思う、というと客観的にはそんなことはないらしいが。気持ちと表情が一致してきたのかもしれない。違うな。私の仕事は私から笑うようなものでもない。ものすごく受身的な仕事だということ。ものすごく自分と違う人と出会うときに自分の感覚なんてあてになるはずもなく、まず普通に聞く、フロイトだって技法としてはそれを推奨した。まず観察、まず聞く、表情につながる回路は相互作用でできていくのだと思う。もちろん逆転移というのはその距離をなくすものでもあるので自分の笑いに自分で驚くこともあるし、それに激しく嫌悪感を抱くたり、抱かれたりすることもある。臨床場面の私はその場にいない人には想像できないくらいいろんな笑いを共有している。相手によって、状況によって、プロセスに応じて、全く異なる笑いを。私にとって違和感を感じない笑いは笑えない話を一緒になって笑うことではなくて、そこから連想がはじまり、そのプロセスで生じる反射ではない笑いだ。冷笑は笑いではないし、なんでも笑い飛ばすことを笑いと思わない。ただ普通に笑う。ただ普通に聞く、と同じように。

政治家は楽観的すぎるというか見る範囲を狭めればそれが可能なポジションなのだろうし、昔の精神分析家は悲観的すぎると思う。今の精神分析家はよくわからない。私は日本語で学術的なことを書いているときは中立的だと思うが、英語だと急に自分の言葉が他人のものみたいに思える。20歳のとき、はじめて海外に行ってそれなりにコミュニケーションできるようになって帰ってきたが、あれは英語ができるようになったというより言葉の使い方がまだ幼児に近く、コミュニケーションに特化していたせいだと思う。今は自分の中にあまりにいろんなモードの言葉があって、精神分析のおかげで一番自然にしゃべれている状態に馴染んだから戻る場所はわかるんだけどすぐに迷子になる。しかも私は今どこにいる?というより私自身を見失う迷子。これ書いてるの私?みたいな。特に母国語以外で抽象度の高い作業をするときにそうなる。精神分析臨床は具体的というか具象的というか、そういうのの積み重ね。それを高度に抽象化するのはまた別の仕事で、でも精神分析家としてはそれを同時にやっていかなくてはならないわけで、仕事するって楽しくも大変。「ウラメシ、ケド、スバラシ。」の朝ドラ「ばけばけ」も終わってしまうね。本当にいいドラマだった。今日もお散歩しようかな。みんなにいいことありますように。

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意識化とか。

空が明るくならない。雨降るのかな。昨日もほんと数えられるくらいの雨粒にはあたったけど。今日もそのくらいならいいな。それでも「降る」っていうのかな。

この前、山の話をしていて富士山登山のあれこれが出た。私にとって富士山はいろんなとこから眺められる素敵なもので登りたいと思ったことがない。くだりはとても退屈だと聞いた。山で退屈さを感じると興奮と同じくらい危険な気がする。私は低山でも退屈な道だなあと感じると何もないのに転んだりする。どうしてすぐにぼんやりしてしまうのだろう。

昨日、柳樂光隆さんが書いたシャバカとのインタビュー記事を読んでいたらシャバカが自分がやっていることを細やかに言語化していてやっぱりすごいなあ、と思った。新しく何かを始めてもあっという間に深いところにいけるのは結局基礎がしっかりしているからで、それは自分がやっていることを意識化できるから。これ、自分もそうだけど、いろんな人の話を日々聞いていて、それがいかに難しいことかを実感しているのですごいなと思う。没頭できるということでもあるけど。私は没頭が足りないな。たまにできるけど一日中そればかりやっているということがない。そればかりといっても単に一つのことというより一つのことに含まれる多数の手続きを細やかに繰り返していくわけで、これは本当に大変なことだよ。

今年になって英語論文の査読が帰ってきて修正すれば採択してもらえるとのことだったのだけど、私が形式をわかっていなかったので全体の組み直しが必要になったのと、内容についてもかなり本質的な指摘が簡潔に書かれていて、これはものすごく大変だぞとなった。内容を変える必要はないのだけどきちんと答えるべきだなと思って、こんなに削っていいのかな、というくらいシンプルにして、形式もオグデンとか自分がよく読む論文を参考に整えた。それをやるのはとても大変で、なんとかやったけど時間をかけすぎた。というか頭にはあるが手を動かし始めるのが遅かった。慣れていないことほど言われたことをすぐにやったり、何度も何度も見直したりするべきなんだろうけど難しいよーとサボってしまった。手を動かし始めても英語にするプロセスで自分の思考が散ってしまうというか、直せば直すほど何を言いたかったんだっけとなって困った。提出してまた査読結果が返ってきて好意的に評価していただいたけどまた少し形式上のアドバイスをいただいた。本当そうだな、と思って今回はすぐにやってすぐに出した。でも今回も私は自分がやった作業プロセスを意識化できない。無心でやれる作業ではないのに無心みたいな気分にしかならなかった。いかん。シャバカを見習わねば。というか柳樂さんの記事で読むジャズミュージシャンたちはみんなとても丁寧に自分の作業を言語化してくれる。本当に憧れるし、だからこんないい音楽ができるんだなあ、と楽しくなる。まあ、がんばりましょ。

今日は春分の日だよ。昨日はいつも通る道で桜が咲き始めていた。いつもみない鳥もたくさんみた。春だ春だ。いい春にしましょう。

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日本精神分析協会第44回学術大会

おはようございます。改めていうこともないですが精神分析家の岡本です。

今年も6月に日本精神分析協会の学術大会が開催されます。参加申込みが始まっています。4月15日締切ですが忘れてしまう前にぜひお早めにお申込みください。詳細は日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。

どのセクションでも精神分析の事例が登場すると思います。精神分析実践が可能にすること、行き詰まり、限界、そこからの発見など様々な側面を共有できるはずです。なかなかない機会ですので守秘義務を持つ臨床家の方はぜひご参加ください。

1日目:2026年6月13日(土)

13:00〜15:15 / 15:30〜17:45

内容:クリニカルグループ(事例検討)

訓練分析家(会員)、精神分析家(会員)、候補生、精神療法家、研修生の様々な組み合わせ(司会、事例提示、討論)で計10ケースについて検討がおこなれます。各時間帯1セッションずつ選択することができます。私も1セッションで司会を担当します。組織での訓練を基盤とした精神分析、精神分析的心理療法の事例を聞く機会はあまりないと思いますので多くの方にいらしていただきたいです。実践ありきの学問ですので。

二日目:2026年6月14日(日)

9:00〜10:25
●講演と討論①「回帰する亡霊−外傷、乖離、およびエディプスコンプレックス−」
 講演:池田暁史 討論:岡村斉恵 司会:加茂聡子

10:35〜12:00●講演と討論②「「見るなの禁止」と日本語の二重性」
講演:北山修 討論:宮田善文 司会:鈴木智美

12:50〜17:00
●パネル ●候補生の会の企画 ●精神療法家センターの企画 ●一般演題

私は12:50〜13:30の一般演題で「甘え」をめぐっていくつかの観点を提示します。多くのみなさんと議論できたらと思っています。

あと15:00〜17:00のパネル4に登壇します。今年も昨年と同じメンバーで私が企画しました。テーマは「『私』と出会う」 。精神分析は相互の自己に変容をもたらすものであることが事例を通じて共有できればと思っています。

多くの臨床のルーツである精神分析の現在をぜひ見に、聞きにいらしてください。精神分析実践は他の臨床実践にも多くの示唆を与えてくれるはずです。臨床家同志の対話の場としてちょうどよい、学会よりずっと小規模の集まりです。こんな世の中だからこそ人のこころが持つ可能性に希望を持ち続ける実践を大切にしていきたいと願っています。ぜひいらしてください!

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論文を読んだり。

早朝の暖房がいらなくなりつつある。なんとなくつけてしまうと消せなくなるけど。空の色がぱっとしない。なんか茶色がかってるようにもみえてしまう。

今朝はいただきものの「湘南クリエイティブガトー葦」の「湘南チーズパイ」と熱い紅茶。これ大好き。お店にも一度行ったことあるけど昔ながらの街の喫茶店という感じでとてもよかった。ひっきりなしに訪れるお客さんといろんな種類のケーキをみながらお茶をした。飽きない。なにを食べたのか忘れてしまったが軽食だったと思う。地元という感じがとても好きになった。と思ったらいろんなおしゃれビルで販売だけの店舗をみかけるようになってすごく湘南ローカルなわけではないのか、と思った。私が知らなかっただけね。こうやって人からいただくわけだし。知ってからみえてくるものって多いね。

昨日は隙間時間の使い方がそこそこうまくできた。今年もいくつか発表を控えているのでそれ関連の論文をPepでざっとみした。途中からあまり関係ない本も読んでしまったけど。Pepでは書籍は抜粋しか読めないので、本の概要を知るにはまず出版社のサイトを読む。章ごとのアブストラクトがあるのは本当にいい。もっと詳しく読みたいものは書籍になる前に専門誌に載っている場合が多いのでそれをチェック。

今回はBonaminio, V. (2017) Clinical Winnicott: Traveling a Revolutionary Road. Psychoanalytic Quarterly 86:609-626をチェック。これは発表とはあまり関係ないけどウィニコット関係はとりあえず読む。著者Vincenzo Bonaminioはイタリア精神分析協会の訓練分析家。ローマで個人開業。イタリアのD.W. Winnicott Instituteとthe Winnicott Centreのディレクターもお勤めとのこと。先述した論文が入っているのは前からチェックしていた“Playing at Work: Clinical Essays in a Contemporary Winnicottian Perspective on Technique”(Routledge, 2022)。この本はNew Library of Psychoanalysisシリーズの一冊。New Books Networkで著者のインタビューをきける。全部は聞き取れないけど英語とイタリア語が交じり合うとても楽しいインタビューだった。患者のことを書くということについても最近言われていることとは異なる視点で語っているし、臨床のリアリティにあふれていてこの著者のことはイタリアの精神分析家のなかで一番好きかも。フェッロとかチビタレーゼもいいし、読むべきと思うけど、私が実践で得る感覚を言葉にしてくれているのはこっちかな。クリストファー・ボラスも楽しそうに序文を書いているし、これはイタリアの精神分析であるという感じが本文にもあふれていて、昔憧れたイタリアへの熱がまた少しぶり返した。20代の頃、ツアーに申し込んだら戦争がらみだったかツアーが催行されなかった。昨年、日本精神分析的心理療法フォーラムでアートと精神分析の交わりに関する分科会で討論を務めさせてもらったこともイタリア熱再燃のきっかけになったと思う。とはいえ、しばらくは国際学会以外は国内の被災地中心の旅になると思うけど。いずれいけるように筋トレ続けよう。美術館いっぱいまわりたいしいろんな小道を歩きたいから。

昨日は仕事終わってメールみたらなんとか論文掲載してもらえそうでほっとした。ちょっと直さないとだけど。本当に丁寧にみていただいてとても勉強になった。隙間時間をもっと上手に使えるようになって一年に一本は英語の論文を書いていけたらいいな。臨床と研究が離れていかないように地道にやろう。人は本当に簡単に言葉にできるものではないのだから。それぞれ色々あるけどみんないい日になりますように。

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月とか。

空がうっすら暗い。今朝は和同最中本舗八幡屋本店「武甲のお月さま」を食べた。東京のお月さまは今朝はみえない。「武甲のお月さま」は「萩の月」系おかし。カスタードクリームがプリンプリンしてて上にお月さまみたいにホワイトチョコがかかっていてかわいかった。半分こにしようとしたらそのチョコがパリパリと割れてあーおつきさまがーとなった。本当のお月さまではしょっちゅう爆発が起きているらしいがそれは流星が衝突するから。月では星は流れないか。流星っていわない?隕石は落ちてるからクレーターができるんだよね。月自体が爆発する可能性はない?絶対ないとは月に対してもいえない?またJAXAに勉強しに行かねば。わざわざ行かなくても本で調べられるけど現場の人のお話をきくのは楽しい。高校生のときに図書館でNewtonをよみはじめてそのうち定期購読するようになった。写真がきれいで、細かいことはわからなくてもずっと見ていられる雑誌だった。興味って薄れないものだね。慶応の心理臨床セミナーで小此木先生や小此木先生が見出したいろんな先生方のお話を聞く前から私は精神分析を受けることを決めていたけど、あれから30年近くたつわけで、ずいぶん長くやってきたなあと思う。Newtonの定期購読をやめたのはいつか忘れたけど。

今日は何をする日だったか。仕事以外になにがあったか。家事はもろもろすませてある。東京都写真美術館でユージン・スミスの展覧会が始まるね。あ、もう始まってるか。わりと最近も同じ場所でみたきがするけど2017年11月か。生誕100年の展覧会だったか。そのときのチラシはすぐそばに貼ってある。藤山直樹先生の名著『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』の表紙も私がみているこのチラシと同じ写真。The walk to paradise garden。精神分析は全然パラダイスに向かっていない気がするけど雰囲気はああいう感じ。

ということで今日は火曜日。がんばりましょう。

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月曜日

雨がぱらついているらしい。向かいの家のベランダが濡れている。

昨晩締切の投句を忘れたというより眠ってしまった。いかん。今日からしっかりしよう、というとどうせやらないだろう感が共有されるのは今でも同じだろうけど実際やらねばまずいとなればやらざるをえない。

そういえばこの前、温泉(普通のお風呂だったかも)の休憩所でお風呂上がりの若者たちが次々集まって喋っているそばにいたのだけど、すごく高価な持ち物の話を普通にしててなんかすごい集団だなと思っていたらその中の一人が「高いもの買って自分追い込もうかな」といってた。その人にとって高いものってどんだけのもんだろうと思う一方、たしかに形から入るとかお金をかけるってモチベーションになりやすいよねと思っていた。形から入るとトータルのバランス考えざるをえなくなるし。だから私もなにか、とは思わないけどそれはモノにこだわりがないからだろうなあ。使いこなせれば色々いいこともある高機能なものも私にはほんと宝の持ち腐れだし。でもこの前、ラジオとか充電とかライトとかオールインワンの防災グッズをもらって、自分がオフィス用に持ってる高機能ものよりずっとかわいくて使いやすくて嬉しかった。普段聞かないラジオ番組聞いたりしちゃった。まあ色々みたり聞いたりもったりしてみるもんだってことか。

今日からまた1週間なんとかがんばりましょう。

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鏡関係とか。

日曜の朝か。月がきれい。

昨日は末広町、ではなくて新宿末広亭がある末広通りのほうへいった。散歩がてらオフィスから新宿三丁目のほうまで歩き、末広亭に行きたいなあ、と前を通りながらぐるんとまわって帰ってくるコース。オフィスから何分くらい、ときかれてそういえばあまり考えていなかったと思ったが30分はしないかなあ、と思う。さくっと散歩できるくらいだから。

なんだかバタバタしてて次にやるべきことを見失っている気がするがこの前も書いた精神分析における鏡関係、ラカン、ウィニコット、コフートあたりの文献があるとなんとなく読む習慣はできている。

昨日は国際精神分析学会(IPA)のTalks on Psychoanalysis podcastでMilagros Cid SanzのBroken Mirrors. The transitional function of the narcissistic double.という論文に関する話をきいた。英語だからよくわからないけど論文がついているのでそちらをみながら。

この論文は「主体の構成においてナルシシスティックなダブル(double)が果たす移行的役割についての考察」で「リビドー備給の様式に関わる問題であり、統一されたナルシシズムにおけるautoerotismの統合から、他者性を備えた完全に分化した対象関係へと至る移行」を検討したもの。ミュザンの引用がちょっと面白かったな。症例がないとちょっとわからないけど。

はあ。いい日曜日になるといいですね。

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カフェとか喫茶店とか。

夜明けが早くなった。でもまだ暗い空に月がきれい。

来週金曜は春分の日。まだ寒いけど春の花々は次々咲き鳥たちはそこに集う。写真を撮りたいけど手袋を外したくなかったり、一度撮り始めるとその場から離れられなくなったり色々なのがこの季節。こっちにもなにか咲いてるかなあ、とちょっと寄り道したりするとクリニックやカフェがあったりする。毎日歩いている街でも知らないことのほうがずっと多いよね。初台駅は甲州街道沿いで、さすが街道は高低差もなく歩きやすい。参宮橋方面は坂がたくさん。岸田劉生の「切り通しの坂」も唱歌「春の小川」のモデルになった場所もそっち方面。「河骨川」という。そして昨年閉店してしまった駒テラス西参道に別のカフェがオープンしていた。Brewman Tokyo 駒テラス西参道店。なにやら高級なコーヒーもいっぱい。前ののんびりした感じとはちょっと違うおしゃれな感じ。行ってみたい。

高校時代、制服を着ても学校にいかず喫茶店のバイトに明け暮れていた。そこの一番高いコーヒーがブルーマウンテンだった気がする。もう30年以上前のことだからすべてうろ覚えだけど名前も長いし貫禄あるし「ブルマン」を頼むのはどんな人だろうと大人になってからも思っていた。今はコーヒー豆にこだわるカフェがとても多いからそれほど特別なものではないのかもしれないけど1990年代はじめの田舎の高校生はまだそんなの何も知らなった。私の喫茶店のお客さんが「いつもの」というのはたいていブレンドコーヒーのことだし、「ホット」というのもブレンドコーヒーのことというのは学んだ。当時はいろんなものが安かったね。バイト代も安かった。田舎ではDCブランドがまだ元気で、私がいた煙くて薄暗い喫茶店がはいっていた本館隣のDCブランド中心の新館は華やかだった。今思えば昼間から「まち」にいる高校生が珍しかったのかもしれないがお店の若い女性たちとは通りかかるうちに仲良くなって洋服の話もたくさん教えてもらった。バイト先のおしゃれな先輩もメルローズに就職するので辞めた。メルローズがビギ系だとかそういうつながりを知ったのもその頃だと思う。優しくて素敵な人だった。私はまだまだ子供だった。警備員さんとも会えば言葉を交わしていた。ある日、駅で制服を着ていない彼をみかけた。貫禄十分と思っていたのにとても普通の若者でびっくりした。お客さんはほとんどが常連さんだった。彼らを外でみかけるとたいていそれまでとのイメージとの違いに驚いた。大人の世界ってこういうものなんだな、と漠然と思った。

朝から一日中薄暗かった喫茶店の空気を思い出してしまった。しまったということもないけど私も大人どころか彼らよりずっと年上になった。憧れのオレンジティー(おしゃれでおいしかった!)を自分でいれるようになるなんてこともなく、いつもおいしかったまかないパスタのようなものを作れるようになったわけでもないが、相変わらずたくさんの人とお話ししながらいろんな学びや経験を積み重ねている。みんな元気かなあ。もう亡くなっていると知っている人たちもいるけれど。

この前、久しぶりに江藤淳の『成熟と喪失』をパラパラしたんだけど、日本人にとって「アメリカ」とは、という問いっていろんな言い換えを可能にしているよなあ、と思った。そういう意味ではこの本の数年あとにでた土居健郎の『「甘え」の構造』に書かれた土居のアメリカでの体験もそうなのかもしれないけど、土居の場合、体験したのがアメリカだから、という感じで、フロイトに対するさっぱりした態度同様、他者に対するそういう重みづけは感じない。それにしても私が読んできたものは古典がほとんどだな。私にとって新しい作家っていつくらいからの人をいうのだろう。村田沙耶香とか自分より年下の作家の本も読んではいるけど量は少ないかもなあ。専門書に割く時間が多すぎるのがよくないけど咀嚼に時間かかるからしかたない。難しくとも楽しいからいいけどさ。

今日は土曜日。いいことあるといいですね。

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不登校とか。

今朝は「フルーツパーラー伊豆旬実堂」さんの伊豆オレンジバターケーキ。かわいくておいしい。まだ少し寒いわね、と一枚羽織ったけど暖かい紅茶をいただいたらぽかぽか。でも脱がない。

昨日は不登校について考えていた。今はもう「不登校」を特別なものとして語る時代ではないと思うが、大テーマとして語られなくなってもいるとも思う。海外の文献でもschool refusalは出てくる。truancyではないのももう常識だろうけど、truancyはそれはそれで考えるべきものだろう。「不登校」を日本の親子関係や文化と関係づけた論客には色々いるが心理学と近いところでいえば河合隼雄と小此木啓吾の本は広く読まれていると思う。今は日本の文化とどれだけ関連づけて「不登校」を語れるかわからないが「受験」というのは大きく関わっていると思う。APCソウルの子供の臨床に関するパネルで何か出さないかと言われたとき、書くなら受験をめぐってのことだなあと思ったが、時間がなかった。海外でのカンファレンスでは自ずと自国の文化の説明が求められるというか、普段はそんなに意識していない文化的背景が海外の人から見たらどう見えるのかということに注意を払う。アジアンパシフィックの場合は「受験」というテーマは共有しやすいかもしれないが。

朝ドラ「ばけばけ」、いよいよ怪談を書く八雲が始まるがドラマは終わる。いいドラマだった。高石あかり、とても良かった。あとちょっとかあ。どうなるのかなあ。

今日は金曜日か!早い。早すぎる。来週の金曜は祝日。春分の日。確認しておかないと。いい一日になりますように。

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エリクソンを読んだり。

空が白い。今日も曇りスタートか。

昨日は震災をめぐる様々な語りに何度も涙が出た。自分が生まれていなければ母は亡くならなかったのではないか、という言葉が当時思春期だった青年から語られるとき、無事を喜ばれ生まれてきたであろうその子がこれからも何度も誕生を祝われることを願わずにはいられない。当時まだ子どもだったその人たちのことを思ってのことだろう。死者を弔う言葉と同時に3月11日に生まれた人たちを祝う言葉がSNSで多くみられた。弔いを優先しがちな私たちだが、ふとしたことで何度も思い出される痛みや寂しさ、忘れてしまうことも忘れられないことも重たくのしかかってくるなか、なんとか生きてきた、生きている人たちへの眼差しあってこそだろう。

昨日の朝、エリクソンの『ガンディーの真理』を読んでいた。今調べたら新装版が出ている。あ、でも2002年にでて今は品切れだって。私のはだいぶ古いな。エリクソンは発達心理学のものとして『幼児期と社会』を読んだのが最初か。30年前の私は発達心理学専攻で、フロイトも読んではいたが学問としての精神分析を何も知らなかった。エリクソンの著作を精神分析家のものとして読むようになったのは随分経ってからだ。『ガンディーの真理』の序文は土居健郎。土居は当然、精神分析家のものとしてこれを読んでおり、いつも「エディプス複合」にいきつくフロイトとの違いを示し、この本を高く評価している。土居健郎のいいところはフロイトに対して熱くないところだ。そしてエリクソンのいいところはスケールが大きいところだ。青年期のあれこれについてもどうにかなるからとりあえず放っておけよ、という感じで相手の力を信じて待つ。エリクソンの臨床を知るなら『クリニカル・エリクソン』がいいがいろんな事例検討会でのエリクソンのコメントにもそういう姿勢を端々に感じる。もちろん私もそういう態度に同意する。

朝から甘いものを食べてすでに胃腸が疲れている感じがある。とても眩しい光がさしてきた。今日もがんばろう。

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2026年3月11日(水)

2011年3月11日14時46分に発生した大地震は多くの地域に甚大な被害をもたらし東日本大震災と名付けられた。私はあのときお茶の水にある駿台の専門学校の職員室にいた。事務の方や先生方と和やかな時間を過ごしているときのことだった。机の下に潜りこみ激しい揺れがおさまると同時に家族から着信があり短いやりとりをした。その後何時間も電話は通じなかった。その日は卒業式で会場から音を建てて揺れる高層ビルの間を縫って帰ってきた人たちは涙ぐんでいた。私はたまたま一階でみんなと一緒にいられたがいつもいるカウンセラーの部屋は6階とか7階とか上の方だった。少し落ち着いて部屋に行ってみたら掛け時計が落ちて粉々に砕けていた。そのときにすぐ片付けたのか、手伝っていただいたのか記憶がない。一体何が起きているのか、いや、起きていることはアナウンサーが説明をしているのだが、あまりに理解を超えたテレビの映像をみんなで眺め続けた。なにがどうなっているのか全くわからなかった。歩かない距離だが歩けない距離ではないと、夕暮れ前に家に向かった。神保町の古本屋の本が崩れているのをどう感じていいかもわからないままただただ歩いた。毎日スニーカーなのになぜかその日はぺったんこのおしゃれ靴を履いていた。歩いているうちに暖かくなると思ったがあまりに人が多く、ゆっくりトボトボ歩くしかなく寒かった。道路沿いの居酒屋はどこも満席だった。新宿まで着くとルミネのシャッターが降りており、「ああこんなふうになるんだ」と思った。真っ暗だったような気がする。とても感情が平板になっていた。それからまもなくNPOで石巻や三陸に行き、福島の郡山にあった避難所には定期的に食べ物と遊びの出前をした。その頃もまだ気持ちが全く追いついていなかった。その後もいろんな形で被災地へ行き、埼玉の避難所にも定期的に向かった。被災地のことを考えるとボロボロボロボロ泣くようになったのはいつからだろう。被災地のみなさんにも色々なお話を伺った。仮設住宅へ伺ったときもとても暖かくもてなしていただいた。あれはなんだったんだろう。そうじゃない、私なんかがこうしてもらう場ではない、でも自分の非力を思い悩むのも違う、そんな場合でもない。いろんなお話があまりに想像を超えていて優しさに触れるたび、時間差で突然涙が溢れることが増えた。なんてことが、どうしてここで、なんで彼らに、誰に問いかけても答えなんてない。あれから15年、そんな状況をずっと過ごしてきたみなさんがどうかあたたかい場所や心に触れられていますように。

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勉強したり。

明け方、雨の音で起きた。そうだったのか、今日は雨だったのか、と思ったらこのあと晴れるらしい。春のお天気は難しいけど雨は降ってくれないと困る。週末、勉強ばかりでほとんど歩いてもいなかったのでうちに帰る前に近所をちょこっと散歩した。ミモザがぶわーっと咲いている姿を想像しながら歩いていたのだけど立派な椿くらいにしか出会わなかった。毎年近所で見かけていた気がしたのだけどどこか別のところで見たイメージを連れ歩いていたのか。

今度の週末はラカンの鏡像段階、ウィニコットの鏡役割、コフートの鏡転移をめぐって議論する予定。その前にうちわで予習の会をした。福岡のおふたりと。日本精神分析協会には東京支部と福岡支部があって、精神分析家、候補生、精神療法家、研修生はみんなどちらかの支部に所属することになっている。私は東京在住の東京支部だけど、名古屋や関西の人もいる。福岡支部にも福岡以外の人たちがいるのは同様。セミナーは東京で開かれることが多いが福岡支部のみなさん、早朝の飛行機でやってきて夕方の飛行機で帰って普通に忙しく仕事しているのだからすごい。私はコロナ以前の候補生なのでいろんな地域からやってくるみなさんと直接交流ができて、精神分析家になった今もそういうつながりにとても助けられている。小さいグループで同じもの目指して勉強しあえるってとても幸せなこと。哲学をする、というのとは違って実際に人と会う実践を積み重ねながら学問としての精神分析を探求できるのは楽しいこと。精神分析には絶対に他者が必要。ということを存在の根源レベルで考えるのが鏡像段階からはじまる精神分析における他者や主体の議論。予習会でフロイト『快原理の彼岸』にも「ベイビー、オーオーオーってあるよね」という話になって「おー、そうだっけ、どこだっけ」と確認したら岩波の全集65ページの脚注にあった。それぞれすぐに開ける本が様々で私よりずいぶん若い方が一番古いフロイトの訳本をもっていたりして面白かった。人は他者と出会うことで自分のイメージと出会い(自分そのものと出会うのは不可能といえる)、他者の不在とも出会う。ないものをあるとする、あるものをないとする、私が実践においてもっともインパクトをうける人間のこころがもつこの作用、なんであってもそれは必要とされる作用であり作業であると捉えるのでそこにまきこまれつつ、自分にも同型のものをみいだしつつなにかが腑に落ちるのをまっているような仕事だがそこにわかったふりをもちこむと台無しになるのでそれは気を付ける。非表象領域というものがあり、そこに侵入すべきではないということをウィニコットは晩年明確に述べているが、だれもがもつその曖昧な領域は必ず侵襲された体験の痕跡を持っていると考えるのも精神分析であり、それは分析状況で反復されるだろうと考えるので、やっぱり技法なくしてはできない仕事だなと思う。精進せねば。枠組みを守るのだってほんと一筋縄ではないのでそれもがんばらねば。ああ。大変だのう。みんなでがんばろう。

まだ雨降ってる。いつやむのだ。ずっと部屋にこもってる仕事でも窓の外は明るいほうが嬉しいな。雨は大事だけど(と戻る)。まあ、どんなでもなんとかやっていきましょう。いいことあるといいですね。

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心身症論文を読んだり。

少し明るくなってきた。最近また皮ふの調子が悪くて起きてしまった。結局薬に頼る。周りに勧められたことはわりとなんでも試してみるほうだが、それでどうしてもだめなら薬、というほど慎重でもないので薬はなにかと併用する。皮膚科の先生もこれじゃ辛いから薬が効くならのんだほうがいいですよ、とごく真っ当なことをいってくれる。私も医師と連携して仕事をすることが多いので薬の話はしょっちゅうきくが、それは薬そのものの話ではなく、薬の使用(不使用)をめぐって語られるその人の身体や他者に対する考え方だったり、そこから立ち上がる様々な関係性の話だったりする。身体症状の話もそう。

昨日はAndré Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine(2019)のChapter 4. Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky: Green’s Theory of Representation Revisitedを読んだ。フランス精神分析における心身症に関する論文。アンドレ・グリーンの用語自体には慣れてきているが毎度咀嚼には時間が必要で、ほぼ寝ているような時間もあったが、グリーンのスーパーヴァイジーの事例だったので「ああ、こういうことかもしれないな」とつながりは発見できた。精神分析の事例というのは患者と治療者とそれをめぐる人たちのものなので(物語ではない。物語という人もいるが)症状の理解は当然必要だが、それぞれがなにをみているかをとらえようとするこちらも事象をミクロに分解しつつ、ガラッと視点を変えてそれらにまとまりを見出すことが必要になる。意識的にできるのは前者だけなので後者は自分が精神分析によってそういう体験をすることが必要だが。私は訓練を通じて精神分析の文献の読み方は大分変わったと感じる。わからなさに耐える力もものすごくついたというかそれがデフォルトになっているので「わかる」方向に進もうとする場ではひとりだけ時間が止まっているようなときもある。ガラッと視点が変わる作用を生じさせるのは精神分析でいえば「解釈」。またはそういうものを「解釈」というというのか。自分がガラッと崩れるような解釈を体験することはそう簡単ではない。精神分析の場合、誰かのひとことで人生が変わる、みたいな体験とはまた別で、長く積み重ねるプロセスの先にふたりの間(間というのはあまりしっくりきていないけど)で形をえるものなうえに、それを言葉にするかはまた別の問題、しかもガラッと崩れたり、視点が生じたりするのは患者だけではない。先にそれが生じているのはすでにその経験をしている治療者のほうだといっていい。そのずれがないと自分と自分でないものを区別するプロセスも生じないかもしれない。そういえば昨日の論文にprojective reduplicationという用語がでてきてよくわからなかったが、投影によって自己の表象が二重化すること、つまり自他の区別を曖昧にするメカニズムが心身症にはあるのではないかというマルティらの仮説として理解した。これ自体は主要な概念ではないからこだわることもないのだけど、自分と自分でないものの区別がいかに困難かは日々臨床で感じているのでそこに関わる状態は気になってしまう。心身症の場合は、同一化になんらかの困難があって過剰適応したり、その分、内的な体験を語ることが難しく、身体にまつわる語りに終始したりということはある。パリ心身症学派のPierre Marty、Michel de M’Uzan、Michel Fainらに対してグリーンがいいたかったことはあまりよくわからなかったし、事例もこれは心身症といえるのかなというものではあったが、非表象領域の表象化プロセスの論文であることを考えれば心に区分ができていくプロセスがずっとそこにあったであろう「もの」や「こと」に定位置を与える描写は、この人の身体もようやく地理的な混乱(メルツァー)を抜け出しつつあるのだろうなと思わされた。

今朝は山梨県都留市の「ならや」さんのおみやげ「お菓子とうふ」をいただいた。今週もがんばろー。

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土居健郎『精神療法と精神分析』とか。

いいお天気。今日は事例検討会と勉強。確定申告をおえても全然楽になっていない。勉強は難しいし眠くなる。

土居健郎『精神療法と精神分析』についてはいろんなところでなんども話しているが、再読するたびにやっぱりすごくいいなと思う。薬も器具もなく身ひとつでやる精神分析が押さえておかねばならない治療者としての態度が丁寧に書かれている。この本では「構造」と「過程」にわけて様々な態度や技法が記述されている。私はこの本を訓練に入る前のスーパーヴァイザーに紹介されたし、土居健郎の言葉は間接的にたくさんきいてきた。「、と土居健郎がいってた」というふうに。それは本当にそうだなということばかりで、実際の困難も体験して、ここに書かれていることがある程度当たり前に実践と繋がってくると今度はこうやって伝達するようになるんだな、自然と。これからもとりあえず「まずは第一章を精読して」と伝えていくのが一番いいのだろう。土居健郎の日本語は平易なのに読みごたえがあるし、引用されている作品も共有したいものばかりだから。

特に構造について書かれている第1編の第1章は私がスーパーヴァイザーとしてスーパーヴァイジーに伝えていることばかり。スーパーヴィジョンは「反省」をする場所ではないというか、もしそれを自分の問題と考えるならそれはここではなく自分の治療の場で扱うことなのでとりあえず反省ばかりするのはやめようといっている。とにかく患者に対してなにをしうるかを考えるために私たちは協力して考える必要があるんだよ、ということをよく伝えている。土居健郎はそれをきちんと書き言葉にしている。なのでこの本は必読にしたい。

ハクモクレンが一気に咲き始めてとてもきれい。今日もいい一日になりますように。

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土曜朝

暗い時間から挟間美帆。夜明けは何時だ。日付が変わってからe-Taxで確定申告を完了。何が何やらだったがどうにかなった。目が冴えてしまったので明日の勉強会用にコフート『自己の分析THE ANALYSIS OF THE SELF』でも読むかと思ったけど途端にぼんやりしてしまった。そんなもんだ。コフート久しぶりだな。最初の職場にいた頃に今はもうない慶應心理臨床セミナーにではじめ、丸田俊彦先生の講義を何度か聞いた。丸田先生は小柄なお年寄りだったが身のこなしがとても軽快でスマートだった。情緒豊かでラッパーのような語りはカッコよくアメリカに長くいた人なんだなあという感じがした。お、今、私のiphoneからはYayennings. こういうリズムとはちょっと違ったかな、丸田先生は。小此木先生が企画していた慶應心理臨床セミナーはこの先生はこの流派なんだー、というイメージを持ちやすい構成になっていた。本当のところはどうなんだろう。英国で訓練を受けてきた先生方はクライン派の講義をされていることが多いし、クライン派の分析家の分析を受けてこられた先生もおられるけど、英国対象関係論というもっと広い括りの中で、その香りや空気を纏ってきた先生方という感じがする。コフートに始まる自己心理学は私の中では丸田先生がはじめで、オリジナリティの強い岡野先生もふんわりそこにいて、その後富樫先生の双子転移、そこから「関係論」という括りのセミナーで吾妻先生もその中心の一人というイメージかな。「自己愛」という訳語は本当にどうにかしたいところだが、コフーシャンたちはなおさらそこにチャレンジしたくなったりしないのかな。私は日本で訓練してきたからどの学派でもないのだけどナルシシズムは理論としても実践としても常に基本的な課題。

明るくなってきた。ここからは早いよね、夜明け。それにしても眠い。少しうとうとしてから準備することにしよう。みんないい1日になりますように。

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EPFとか子育て本とか。

いいお天気。ひどい卵焼きを作ってしまった。弱火にもせずぼんやりしていた。いかん。

昨日はEPF(European Psychoanalytic Federation)によるETEP(End of Training Evaluation Project)に関する論文のことを書いた。EPFは「欧州精神分析連盟」でいいのかな。IPA(国際精神分析学会)の加盟団体である43の欧州の精神分析学会で構成。1966年発足、1969年IPA承認、現在、33カ国に居住し活動する8,000人以上の精神分析家および研修中の精神分析家が在籍、27の言語が話されている、とのこと。2015年末以降、ブリュッセルのRue Gérardに独自のHouseを構え、EPF加盟団体の全会員および候補生に開放。ブリュッセルかあ。いいなあ、というより、そういう専用の場所があっていいなあ。日本の協会は今まで小寺がそういう場所を担っていたけど、日本精神分析協会独自の場所はないもんなあ。日本の精神分析家の多くは自分のプライベートオフィスをもっているけれど、みんなで集まれるようなスペースはない。

とEPFのウェブサイトを見ていたら面白そうな本に出会った。Dear Candidateに寄稿している分析家たちもちらほら。

“Parenting Psychoanalysed: Letters to a Parent”, was published in May 2025 by Routledge and edited by Andy Cohen

『精神分析からみた子育て――ある親への手紙)』 って感じか。Andy Cohen編集。世界各国39名の精神分析家が寄稿。紹介文はこんな感じ。

「本書は、精神分析家39名が親であることについて率直に語った手紙を集めた、これまでに例のないコレクションです。各手紙は簡潔で個人的な語り口で書かれており、専門的洞察と感情的な率直さが融合しています。そこでは、子育てがもたらす予想外の喜びや困難、子どもが呼び起こす内的葛藤、そして多くの子育て本が見落としている隠れた真実が探究されています。この国際的な書物は、母親、父親、そしてケアを担う人々との意味ある対話を開くものです。そして読者に対し、自分の内的世界、心配や願いがいかに重要な意味を持つかについて省察するよう促します。それらは、開かれた、そして誠実なかたちで子育てを行うための重要な手がかりを含んでいるのです。」

寄稿者はStefano Bolognini、Harriet Wolfe、Fred Busch、Michael Diamond、Theodore Jacobs、Eike Hinzeなど。

精神分析は子育てに直接関わる形ではウィニコットくらいしか貢献していないイメージを持たれていると思うのでこういう本はいいかもねえ。読んでみたい。

先日、SNSでthe podcast Talks on Psychoanalysis. “Transience and the prohibition of “Don’t Look” by Osamu Kitayama を紹介した。北山修の「見るなの禁止」もそうだが、そろそろ学術大会に向けて「甘え」理論を復習せねば。あああ。いろいろ辛いが(花粉もね)がんばろう。

モコモコ風に吹かれてた。
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Dear Candidateとか。

きれいな空。昨日のこの時間は雨が上がり始めた頃。職場に着く頃には明るくなって、帰り道に傘を持っている人は少なかった。私も荷物を減らしたくてとりあえずオフィスにおきっぱなしにして外へ出たら月がとてもきれいだった。

昨日はHinze, E. (2015) What Do We Learn in Psychoanalytic Training?. International Journal of Psychoanalysis 96:755-771を読んでいた。2021年にでたDear Candidate: Analysts from around the World Offer Personal Reflections on Psychoanalytic Training, Education, and the Professionにも一章書いているドイツの精神分析家によるETEP(End of Training Evaluation Project) の議論のまとめ。分析家になる途上の候補生(candidate)が訓練の過程で学び、あるいは内在化しておくべき基本的要素の一群が提示されている。

ちなみにDear Candidateはいろんな国のシニアの精神分析家が候補生にむけてメッセージを送る一冊。2021年に出版されてすぐに読んだが(全部ではないが)当時候補生だった私にはあたたかい本だった。どの国でも似たような大変なことが起きているんだな、と思える本だった。日本でアジアンパシフィックカンファレンスが行われたのはいつだったか。この本にはそこでほかの国の候補生たちからきいた「噂」みたいなものも書かれていた。そして様々な問題や困難を経験してきた著者たちのほとんどがいうのはオープンであれということ。おおざっぱにいえば。別の理論、別の言葉、訓練中に出会うすべてのものに対して。IPA “Talks on Psychoanalysis Podcast”では編者のFred Buschがこの本について話しているので興味ある方はチェックしてみて。この本に様々なかたちでかかれている精神分析家になるための訓練で必要なこと、大切なことはIPAの地域の一部門などでこうやって研究され、その成果のひとつがHinzeの論文。これはEPF(European Psychoanalytic Federation)によるもの。

アブストラクトの一部をざっと訳すとこんな感じ。

「これらの要素は、次のような能力として具体的に示される。すなわち、各セッションにおいて患者がもたらす情緒的要求と、それに続いてしばしば生じる情緒の嵐を理解する能力、自由連想の価値を評価し深く理解する能力、中立的立場を保持する能力、転移と逆転移の観点から思考する能力、そしてセッションの中で何が起こっているのか、また自分が何をしているのかを概念的に考える能力である。」

これらがいかに困難かももうすでに知っているが、だからこそ訓練が大変重要になる。IPAの訓練には3つのモデルがあり、国によって重要視されることが少しずつ異なるが、なんであっても精神分析を受けることが最重要とされることに変わりはない。特定の相手との密で長い関係は嵐が起きないほうが珍しい。しばしば思考停止し、言葉をなくしたり混乱したりするその状況をお互いがどう生き延びるか、そのプロセスを通じて思考するということを新しく体験していく、それによって自分とは異なるものに開かれることの意義を知る。そしてそれらをいずれ伝達できるものに変形していく。その作業の成果がDear Candidateのような本になる。循環。悪循環もあるだろうけど、それに気づくことができればなんとかなるかもしれない。いつも不確かだけど体験済みの希望を支えにやっていくような学問ではあるし、これからも日本で精神分析がメジャーになることはないと思う。それでもその意義を伝えられるように実践を地道に積みあげていけたらいいね、と同じ組織にいる人たちに対して思う。

今日も花粉が辛そう。良い一日になるといいですね。


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時代とか年齢とか。

今日も寒そう、かな。空が薄い。三寒四温とはもう言わないか。三寒四温は冬の季語。この時期は寒いといっても冬逆戻りじゃんというより、寒くても春だわね、という気分。梅は散りつつあるし早咲きの桜もピークを超えた。どの段階もきれいだけどね。

昨日の帰りの電車ではフロイトをドイツ語で読んでいた。ドイツ語全くわからないのだけど、フロイトが元々使った言葉から辿りたい用語があったのでDeepLの助けを借りた。DeepLって短い文章じゃないとうまく訳せない印象があるから今回も一文ずつ改行しながら。しっかし、インターネットが全く当たり前ではない時代に子供時代を過ごした身からすると今って嘘みたい。翻訳ツールのおかげでいろんな国の文学に少しでも触れられたりするのも嬉しいし、フロイトがいつどの著作でそれを言ったかをどの言語でも検索しやすくなったり本当にすごいことだなあと思う。なのに、生身の人を殺すことをやめられないのはなぜだろう。世界が身近になればなるほど排他性も際立つのか。人は異質なものに本当に脅かされやすい。

確定申告の作業を今年はあまり嫌々言わずやっているがひとつの場所に保管しておいたレシートたちがいつのまにか複数の場に散らばっているのは何故。君がおいたからだよ、ってそうなんだけど。でも毎年少しずつ一つの場所におく、かつそれがどこかを覚えておく(見える場所においておく)という課題の達成率が高まっているように思う。何歳になってもこういう小さいことの改善を目指すものだよ、こどもたち。昔は大人になるといろんなことができるようになるような気がしていたけど全然だった。「大人だから」は特になんの説明でもなかった。そもそも子供が大人になるだけで同一人物内の変化でしかないしね。そんな変わらない心とやたら不調が増えてくる身体とつきあっていく年齢になった、ということ。でもここに書いているような日々のわりとどうでもよさそうな気づきのおかげでなんとかやっているということ。そういうことを知れたのは成長かも。

今日は雨でもいいけど風が強くなりませんように。みなさんの地域はどうでしょう。どうぞよい一日をお過ごしください。

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火曜日

カーテンを開けたら外が濡れていた。まだ夜のような、でも少しだけ紺色が明るい気もする。まもなく夜明け。雨の日でも花粉はいろんなところに潜んでいると聞くが少しはましであってほしい。花粉症の症状はそれほどひどいわけではないがどこもちょっとずつぼんやり不調。筋トレは地道に続けていて、バスケ部時代の無理やりな筋肉とは違ういい筋肉(?)がついてきた。この動きをするためにこことここのこういう動きが必要だからこの筋肉を鍛えるトレーニングをしましょう、って当時やってくれていればケガだって少なくすんだかもしれないのに。まあ、あのよくわからない思春期の私がなにか教えられてもうまくうけとれたかどうかは疑問だが。そういえば今朝はいい卵といいイチゴを食べたぞ。いただいたの。いい筋肉のためにいいもの食べないとね。睡眠が足りてないのが一番効果を薄めている気がするけど。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」も朝ドラ「ばけばけ」も楽しんでいる。トキが「学がない」といったり、フミがトキの体調に「この症状はもしかしたら」と思えていない感じだったり(思ってるかもしれない)、ヘブンの教え方が英語教師じゃなかったり、学校に行っていない、子供を生んでいない、教師になる教育をうけていない、など経験がない(かもしれない)ということ、それがその人にどう受け取られ、どういうときに影響を与えてくるかはひとそれぞれすぎるが、「ばけばけ」はそういうありうる過去の影響を最小限のやりとりで描いている。経験のなさとそれが原因で生じていそうな出来事を単純に切り取ってなにかいうことはできず(それは生活全般を覆っていないし覆わせてもいけない)、「経験がなかったらできないよね」とあっさりいうことはできないわけで「ばけばけ」はそういうトーンを含まないのもとてもいい。いや、人はそうあっさりいう以前に「こんなのもわからないんだ」的なことを思いやすく、その理由として「〇〇してないから」と結びつけやすい。これは経験のなさに限らず、あることを知って「あー、だからこうなんだ」としたい心性は誰にでもある。そしてされたほうは嫌な気持ちになる、というのも大方共通。だからなんだよ、といったん距離をとれればいいが、それも一理あると思うと「やっぱり自分が」と自分の経験のなさに本人まで全ベットとはいわないか(HANAの影響だな)、「自分の〇〇のせい」という思考になっていく場合がある。それは健康によくない。私だったら「だから、ってどういうこと?」というかな。一理は全部を説明しないよね、似たような環境でもそういう風にならない人もいますよね、もちろん多くの人が「普通に」経験できることを経験できないと大変なことってたくさんあるかもしれない、でもだったらそれは社会の問題で、みんなの問題で、個人の問題じゃないというか少なくとも「私のせい」じゃないと思うんだけど。逆にどうしてそういうところパッと切り取ってあえて言葉にしたくなっちゃうのかな、とややイラっとした気持ちをこめてしまうかもしれない。特に今は政治に怒っていますから。もーほんと、毎日のニュースにうんざりするし、これからが不安。友人が高齢化社会なのに「自分たちはもう死ぬだけだから」とかいって適当なこといっている人たちにイライラするといっていた。自分のことばかり、というのはたしかにちょっと違うんだよね。私たちは社会的な存在といわれているから。それでいうと私はこの前よく行くカフェで「年寄りになるとなんでもできる」と大きな声で笑いながら開け放しておくのが通常(閉店時しか閉まっているのみたことない)の大きい扉をガラガラとしめたのをみてびっくりしたな。普通にお店の人にお願いしてみるとかすればいいのでは。希望がかなうかどうかなんてやってみなければわからないのだから。そこがだめでも、ほかの案が提示されたり、「ほんとすいません」とかいわれるだけで悪くない気持ちになったりする場合だってあるんだから。お店の人、なにもいわずまた閉めにきていたけど。それはそれで大事かもしれない。お店側の条件って、私たちの面接の設定と同じだもんね。

今日は3月3日火曜日。儀式としてのひな祭りにはあまり興味がないけど女の子でも男の子でもおいしいもの食べて幸せに育ってほしいと思う。このおかしな時代に人の心を、想像力を失うことのないように。今日もがんばりましょう。

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月曜日

昨日はいいお天気だった!原稿を修正する一日のはずだったが朝2時間くらいやったらうとうとして原稿がdddddddddddddddで埋まっていたり、一部消したりしはじめてしまった。自分がなにをやっているかわからなくなったので休憩。誘われるままに新宿へ。ほこてんだった!新宿の隣で働いていても休日の新宿にはほとんどでなくなってしまった。普段から東口には地下道からしかいかないけど。原稿できてないのは困ったけどいいお天気の日のお昼に外をのんびり歩けるのはいいね。気分転換になった。帰ってまたパソコンかたかたしはじめたけどほとんど無心。考えていることを意識するって難しいねえ。この状態を書くこともうまくできないんだけどね。

今日の空はうっすら暗い。ちょっとひんやり。今週はなにをする必要があるんだっけ。ルーティンは臨床。オンディマンドでやっているケースはまちがわないようにと気をつかうけどあとはリズムだからな。うーん。5月も6月も発表がある。6月の準備は全然手付かず。すでに眠いがとりあえずがんばっていきまっしょい。今日は3月2日月曜日。まずは確認から。大事大事。花粉もつらいけどぼちぼちやりましょう。

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3月。Reading Freud最終回。

きれいな朝。昨晩も月と星がきれいだった。帰宅して12時がくる45分前にカレンダーを3月にした。前を通りかかったからだけど今日どうしてもしあげねばらない原稿があるのでそれを忘れないために。さすがに危機感あるから忘れようもないけど忘れて休日を楽しんでしまいたい気持ちも猛烈にあるので自分を戒めるために。こういう自分騙しも大事。超自我を活用。昨日、時間がなさすぎたなあ、発表のときの映写のために文書をパワーポイントにはりつけるだけの作業にすごく時間がかかってしまった。もともとの原稿がどれだけみつけるのにも時間がかかった。本当にこういうの少なくしていかないとだ。なくすることは無理だとしても。

2025年度のReading Freudが終わったので色々書きたいがとりあずSNSにメモだけした。1911年「心的生起の二原理に関する定式」(全11)を精読して、帰ってきてすぐに「精神分析概説」の気になる個所をパラパラできるくらいにはつながってきた。二原理というのは快原理と現実原理。「精神分析概説」の冒頭(180ページ)では快不快の記述はこんな感じ。

「自我はその活動において、自我のうちにもとからある刺激緊張、または自我のうちにもたらされる刺微緊張に注意を払うことで誘導されていく。刺激緊張の増大は一般に不快として、減少は快として感じ取られる。しかし、快、不侠として感じられるのは、おそらく刺激緊張の絶対的強さではなく、その変化のリズムのうちにある何かであろう。自我は快を追求し、不快を避けようとする。」

「変化のリズム」というのがいいですね。

さて、今年度のReading Freudは1895年「心理学草案」を精読するという難しいことをやったわけだがわからなさにとどまり楽しめるメンバーのみなさんのおかげで毎回有意義だった。「快原理」が用語として使用されたのは「夢解釈」が最初ということだが内容自体はすでに「心理学草案」でも検討されている。ついでに「精神分析概説」の「心理学草案」に関連する個所を引用しておこう。岩波「フロイト全集22」194ページ。

「あらゆる科学は観察と経験に基づいているが、それらは、われわれの心的装置が仲介するものである。しかし、われわれの科学は、この装置自体を対象としているので、他の科学とのアナロジーはここで終わる。われわれは、心的装置を対象としたわれわれの観察を、同じ心的知覚装置を用いて、まさに心的なものの裂け目の助けを借りて、省かれているものをもっともな推論によって補い、それを意識的な素材に移すことによって、行う。われわれは、いわば、無意識的な心的なものに対して、ひとつの意識的な相補系列を作るのである。われわれの心的科学の相対的な確実性は、このような推論の拘束力に依っている。この仕事に深く携わった者は、われわれの技法があらゆる批判に耐えることを見出すであろう。

この仕事に際して、われわれは、われわれが心的なものの質と呼ぶものの区別を行うように強いられる。われわれが意識的と呼んでいるものについては、われわれは特徴を述べる必要がない。それは、哲学や一般的見解の意識と同じである。そのほかのあらゆる心的なものはわれわれにとって、無意識である。すぐにわれわれは、この無意識の中に、ひとつの重要な区別を仮定するように導かれる。多くの過程は容易に意識的になり、次にはもはや意識されていないかもしれないが、それでも、苦労なく意識的になりうる。つまり、再現されたり想起されたりしうる。

そのときにわれわれは、意識はきわめて束の間の状態にすぎないことを思い知らされる。意識的であるものは、ある間そうであるにすぎない。われわれの知覚がこのことを確証しないと」

と続いていく。このあとの「前意識」の話も重要だ。

私はたぶん岩波の『フロイト全集』を全巻もっている。福本先生が担当していた小寺の講読会にでていたときに私が全集を破って(論文ごとに切り離して)持ち歩いていることにびっくりされたけど当時は「読まないよりこうしてでも読んだほうがいい」といったのを覚えている。だってこんなに網羅的に読むようになるなんて思っていなかったから。破ったのは主要論文のいくつかだけだけど今になると破らなきゃよかった。どこかにいってしまって探す手間のほうがかかっているし、当たり前のように読む生活になると全集の中にきちんとおさまってくれていたほうがずっと使い勝手がいいことを知った。大抵の人はそんなこと当たり前だと思っているであろうこともわかる。でもまあこんな生活になるとは、と思うような生活を経験できているのはこの年になれば面白く感じる。色々あきらめられているから。でも今日はあきらめてはいけない。なんとかしあげないと。あー、せっかくいいお天気なのに。早々に洗濯はしたが。良い一日になりますように。みなさんも。

今回はこの黄色い本の使い方も紹介した。