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精神分析、本 趣味

「光る君へ」、人それぞれ、メモ

暗い。もうすぐ冬至。この年末感のなさはなんだろう。年末らしきものには色々触れているというのに。先週末あたりから「良いお年を」ということが増えた。今年は知っている範囲でも亡くなった人が多かった気がする。突然と感じつつもはやそんなに遠くに感じない死である。できるだけ息災に暮らしたい。NHK大河ドラマ『光る君へ』でまひろが周明に「息災だったのね」という場面は良かった。長い年月を生き延びたことこそ貴重だ。そんなにきちんと見ていたわけではなかったが刀伊の入寇も最終回も素晴らしかった。倫子が孤独なままでとてもかわいそうだったが彼女の人生はこれからも長く続くと史実が示している。外に出ていい女子がいることさえ知らなかった倫子は戦を知らない公卿たち同様、外をどう評価していいかわからなかっただろう。夫や母親の期待通りに娘たちを入内させたとはいえ娘たちを早くに亡くした。彰子と堅子が二人でいる場面もよかった。ドラマ内で二人は異母姉妹で彰子が道長に「藤式部の娘ゆえ」というような場面があったが、そこにいるあなたの父の娘でもあるがな、と思いながら見た。倫子と道長の娘である彰子だってものすごくしっかり成長したわけでそこには片思いをやめられない道長くんの影響もないとはいえない。一応最高権力者だったわけだし。断片的にしか見ていなくても清少納言「枕草子」大好きな私にはたまらなくいいと思った場面がたくさんあった。キャスティングも最高だった。私の思い描く定子様だった。それにしても戦のない世といっても戦の芽を育んだ世ともいうこともできるわけで何事も自分は無関係というわけにはいかないのだな。辛い。

自分も無関係でいられない事柄は多いので毎日「うーん」と頭を抱える事柄も多いが切り替えはせざるをえないのでする。人はそれぞれ考えて考えて考えたうえで、という場合の時間や質が全く異なるので、その人としては考えに考えを重ねた上での決断なんだろうなあ、と思う一方で、どうして放っておけるものまで放っておかないのかなあ、と思うこともある。私も個人で開業しているため、いろいろなことは自分で管理する側である。なので、他人の状態や情緒に共感したような感じで無意識的欲望を叶えようとする行為は理解できる。しかし、他人の領域は管理できないという当たり前のことを忘れずに動くならば方法として一番無難なのは時間をかけることだと思っている。だから精神分析なんて超地道なことに時間とお金をかける意味を見出しているともいえる。一方、最初に書いたようにそれぞれ時間感覚は異なるので当人が十分に時間をかけた、といえばそれもまたそうなのである。だからといってそういった人に従う必要もないが正当な理由を持って異議申し立てをするかどうかもまた吟味が必要。自分はそこにそんなにエネルギーを割きたかったのか、と。人はそれぞれ囚われるところが違うので同じ目的ではじめたものに対する態度も時折点検する必要がある。簡単なのは全く関係ない友人に「なんでそんなことやってるの?」と問われることかもしれない。中にいるといること自体でなんかやっているような気分になってしまってその目的を忘れてしまうこともある。精神分析のように目的があるかのように振る舞うことに徹底的に抵抗する(私の立場ではそう)あり方を模索する私でも「なんで」と改めて問われて「あれ?なんでだっけ」と立ち止まることだって少なくない。相手が変わることを期待するとか相手を変えることなどできないのにできるかのように振る舞うとか、そういうことが生じる場所に自分は本当にいたいのか?いつのまにか自分もそういうことやる人になっているのではないのか?それにしてもこうして思い浮かべる友よ。きっとあなたたちならあっさり問いかけてくれるだろう、という相手がいることは幸せである。

もうすごく遠いことのような気がするが先月の学会で「ネガティヴ」は「かつてそこにあったはずのもの」と捉えるのはどうだろうと思った、とメモした(ツイートした)。精神分析は空間より時間を問題にしてもいいと思う。頻度とかではなくて、とも。そしてベルクソンを読んでいたが、というかベルクソンを読んでしまったがためにその感触は強くなっている。要するに引っ張られている。勉強が足りないうちはただただ取り入れているので仕方ないがこの勉強は興味深くも結構大変なのでこうやって死んでいくのか、と思いながらやっている。

これはいつ何を見たり読んだり聞いたりして思ったのか忘れたがアンドレ・グリーンの「ネガティブ」とウィニコットの「偽りの自己」が示す非―存在は関連して考えることができるのではないかということもメモした。ウィニコットは「自己」という言葉をあえて曖昧に、中間的に、つまり「逆転移」のように「私たちに従属させて使うことのできる用語」ではないものとして使う。(cf.Winnicott,1960) ウィニコットのこうした努力は見習いたいが彼は何かを説明する仕方が周りくどいというよりただくどい部分があり、曖昧さより明確な主張を感じることも多い。強烈な存在感を示す人が語る非ー存在は儚さにかける気がする、とか大きなお世話だが『子供の治療相談面接』の序文を再読してそう思った次第である。だから彼にはスクイグルが合っていたともいえるやもしれぬ。

さてさて今日も一日寒そうだ。身体大事に過ごしましょう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生