東の空がきれい。まだうちの南側の大きな窓に光は届いていないけれど。今日は1日晴れるのかな。晴れたらいいね、とあえて言いたくなるのはドリカムが流れていたからかも。
高校のときの文化祭のテーマソング(?)がドリカムと米米クラブだった。壮大さが新しかった気がする、どちらも。今はスピード感のある曲が多い。普通に踊れる子供も多くなったし、というか、恥ずかしさを感じる領域が変わったというのもあるのかも。SNSは監視社会の手段みたいになっているけど推しを生き生きと語る場所でもある。さらけだしたり晒されたり地獄にも天国にも近い。
朝ドラ「ばけばけ」、言葉をなくすシーンが多すぎてとても辛いがとても面白い。「生きてるー」っていう感じがどんな感じかそれぞれの登場人物がいろんな形で見せてくれる。高石あかりは本当になんでもできる。ひとつひとつの表情が見逃せない。それぞれの心の動きが細やかに伝わるように描かれているから見ている方も揺さぶられるわけで、他人のケースを聞くときもこういう細やかさが必要よね、と思う。これまで大きな場所でも小さな場所でもたくさんのケースを聞いてもらってきたけど、私は比較的、場に恵まれてきたと思う。なんでここでその質問に、その話題に時間を費やさねばならないだろう、と思うことはあってもある程度は自分の返答で場を戻すこともできるし、失敗しながら場慣れする機会をたくさん与えてきてもらったし、自分から求めてもきた。臨床は自分のやっていること以上に他人の臨床から学ぶことが多い、というより、精神分析なら精神分析ってなんなんだ、という懐疑をもちつつ、それがやっていることを確かめているようなところがあるので、自分の言葉で内側に入っていく練習がたくさん必要。外からなら、後からなら、色々言える、けど私は自分の体験と結びついていないことはあまり言いたくないし言える気もしない。
来年も6月の協会の学術大会で発表したいことはあるけど、かなり難しいテーマだな、と思って症例をどう使うかを考え始めるとまとまらない。消費するようなことはしたくないから。事例検討会以外では症例は素材として使用させていただくわけだから全てにおいて加工はするとはいえやっぱり昨今の他人にばかり厳しいあれこれを含めた受け取られ方を考えるにこちらもあれこれ考えざるを得ない。人はそんなに正しくない、というか少なくとも自分の正しさなんてめちゃめちゃ偏っているものではないか、だから目の前の人と一緒にそこを逃れる作業をしているのではないか、なんからの自由のために、と私は思うので注力すべき場所を間違いたくないなと思う。細やかに関われる範囲を少しずつ増やすべく今日もがんばりましょう。
光がいっぱいになってきた。晴れたらいいね。晴れみたいだよ。

