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読書

矢野利裕『「国語」と出会いなおす』を読んでいる。

東京の日の出は4時37分。明るくなるのが随分早くなった。昨晩の満月もとてもきれいで、仕事を終えたオフィスの窓からは向かい合うように眺めることができた。

何度かにわけて立ち読みしててそのまま読み終わってしまいそうだった本がある。面白いからそこまで読み進めたわけなのでこれも縁だわと思って買った。矢野利裕『「国語」と出会いなおす』 (フィルムアート社 )という本。著者は「国語」と「文学」の関係をここで問い直すわけだけだけど、そんなこと考えたことなかった。かといって当然のように「文学」を「国語」の延長として捉えていたわけでもない。私は国語だけは成績が良かったけど授業が好きかというとそうでもなかった気がするし、文学という言葉は「なんちゃら文学全集」とかで馴染みはあれどきちんと意識して考えたことはなく、身近にあったり手に取ったものを読み漁ってきてしまった。小学校のときの読書感想文で確か推薦図書かなにかだった「ぼく日本人なの? : 中国帰りの友だちはいま…」で書き、賞をもらった。今もその感想文はどこかにある。子どもなりに色々考えたような文章だったけどなんだかな、という感じだった気がする。母がくれた『ユンボギの日記』は心に残っている。私の韓国文学の源はこれだと思う。何度も何度も読んだ。こういう本と国語の教科書というのは別物と感じていたが、何かを読むということを意識しながら読んだのは教科書だろう。新年度、国語の教科書はもらうなり全部読むのが習慣だった。一方、いろんなお話が載っている道徳の教科書は全然そんな気にならなかった。

ということはこの本とはあまり関係がないのだが、いや、私がそういう環境にいたからといって「国語」が必要でなかった、ということでは全くないので関係はあるのだが、「「文学」の側」から見た「国語」とか、とかあらためて「国語」という教科について知ると「国語」と「文学」の関係はこんなに難しいことになっていたのかと驚くし、こういうことを考えることが教育なんだな、と国語教師でもある著者の姿勢から学んだりする。と同時に、スクールカウンセラーとして先生たちとの対話も思い出す。なにかのときに廊下にいろんな会社のいろんな教科書が積んであってつまみ食いをしようとしていたら声をかけられた。先生方は決まったものに従いつつも教科書に対していろんな主張があることを知った。私がいっていた地域は中国出身の子供も多く、日本語を教える学級もあったので「国語」とはまず単純な構造の認識であるということは自然に共有されていた部分があるかもしれない。ちなみにこの本は国語の第一歩とは、ということが丁寧に検討されているので国語の先生やこれから国語の先生になりたい人が読むと教育そのものに対して希望が持てるかもしれない。今の時代に教師をするって本当に大変なことだと思うから。

この本の第2章で、著者が受け持ったスポーツ科クラスの高校2年生と夏目漱石の『こころ』を読んだときの話が出てくるのだけど、生徒の作品に対する反応も先生である著者の説明に対する反応も大層面白い。著者が実践する「二段階の組み立て」による授業はこうやって読んだだけでも「今日の授業面白かったな!」と友達に言いたくなる感じがした。

この本はこのあともいろんなトピックをいろんな作品の引用と共に検討していくのだけど今村夏子の『こちらあみ子』や千葉雅也の文章が取り上げられた第4章「書きすぎていない小説と試験問題」は読書会を主催する立場としても本当に大切と思うことが書いてあった。第5章で島崎藤村の「初恋」を取り上げての論考は私が別の本で著者に対して抱いていたイメージが躍動している感じがして面白かった。文学も音楽も歴史って絶対に大事。私が自分の読書感想文に冷めた気持ちを持ったのも「私って昔から歴史感覚が薄いくせに何か書いてたのね」という失望のせいかもしれない。

キリがなくなってきたのでとりあえずとても良い本に出会ったというご報告でした。

あ、全然関係ないけど、先日、都立蘆花恒春園へいった。京王線千歳烏山から散歩がてら。そこで「スズメバチだ!」と大きな声をあげて走ってすれ違っていった3人組がいたが、あれはたぶん熊蜂だ。黒くて丸くてずんぐりしてたでしょう。きみたちとすれ違う前に私もびっくりして立ち止まってみてたのだよ、と思ったことを思い出した。彼らの年代もいろんないい先生に出会えますように。