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イマニュエル・ウィルキンス、vessel、托卵

空がすっきりした青になってきた。今朝は栗のお菓子と熱いお茶。あったかい。昨晩からアルト・サックス奏者、Immanuel Wilkins(イマニュエル・ウィルキンス)の前作『The 7th Hand』を聴いている。「Lighthouse」という曲に毎回ひっかかる。気に入っている。

今回も柳樂光隆さんのインタビューを読んでから聴いているのだけど今回の記事はイマニュエル・ウィルキンスの

「僕は「vessel」(器)、もしくは何かをアーカイブし、伝えるチャンネルとしての「body」(体、塊、物体)という概念に対する強いこだわりがある」

の言葉から奴隷貿易によってアメリカに渡った黒人がどのようにその文化を継承してきたかなど広い視野へ導いてくれるものとなっている。

精神分析ではビオンの「コンテイナー」を使うことが多いけれど「vessel」という言葉もより身体と近くていいなと思ったりもした。ビオンが見ていた臨床素材が違いすぎるので「コンテイナー」は意識して使わないようにしている。あまりに簡単に使われるようになってしまったものはできるだけ使わないで敬意を保ちたい。

先日、上野の「鳥」展で知ったことをあれこれ披露しようとするたびにすでに忘れていることの多さと記憶の曖昧さに気づく。知ってはいたが何度も気づく。例えば「鳥って方言があるんだって」「へえ」「・・・・」と私が面白いと感じた鳥に関する知見を紹介できない。托卵とメスによる性別コントロールについてはそこそこできたが、托卵のことは知っている人が多いのね「鳥」展にはちょうど鳥が別の鳥の卵を捨てる瞬間の写真もあった。これヒナの段階でする場合もあるみたい。鳥には鳥の進化があって、うわあ、人間と同じ、と思うこともあるけど、人間がこれではまずいだろう、と思い直すことも多い。なんのために言葉を持ってなんのために思考できるようになったかといえば鳥たちみたいに生きられないからなわけでしょう?違う?持っているものの有限性が異なるのに都合のいいとこだけモデルにするのも違うでしょ、と思う。まあ、色々自分にだけ都合良すぎだろ、と思うことが多いからそんなことを思うのだな。それぞれがつたなくてもなんでも自分の言葉で自分の中の矛盾を抱えていけますように。