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精神分析 精神分析、本

声明、バトラー、寄付など。

空がグレーだけど曇っているわけでもない。東の空がここからは見えないだけ。すでに暑くて大きな窓を開けてすぐに閉めた。

昨日はガザに関する声明を出している心理職などのウェブサイトを見ていた。今日もイスラエル軍はガザへの攻撃をやめない。国連からの非難にも聞く耳を持たないだろう。

声明はAPA、Division 48 of the American Psychological Association、The International Pediatric Association (IPA) など。各国の心理職団体も。APAの声明は参照している文献が多い。日本の本だったら何を参照するだろう。私は日本の関わりも示す早尾貴紀さんの本とかかな。

私は精神分析家なので精神分析実践を行う理論家たちの論文や著作からさらさら引用できたらいいのだが、哲学者の文章の方がそれをしやすい。素人の強みによるつまみ食いが発揮されているのだろうと思う。昨日も精神分析のことを考えていたのにいつのまにジュディス・バトラーが言っていたことばかり思い浮かべていた。もちろんバトラーはフロイト読解から彼女の概念を導いてもいるので離れてはいないのだが分析状況で話される言葉(考えにいたらないものも含め)の複雑さとのギャップはこちらが埋める必要がある。

バトラーの『非暴力の力』などに書かれている「哀悼可能性」あるいは不可能性、「理解可能intelligible」あるいは不可能、非現実化derealization、そしてそこから締め出される現実、などバトラーが開こうとする可能性はそれが不可能とみなされる、つまり人間としてみなされていない人たちの可能性を示すものである。

まさにガザの子どもたちでは、と思う。精神分析はモーニングワークができる心のスペースの生成に貢献するものなので、すべての喪失は喪に値するという倫理は共有されているはずだと思う。また実践によって、モーニングワークを主体に語る権利と沈黙する権利を保障することも。

自分のしていること、考えていることからできる運動を考えていきたい。

先日、富永京子さんがSNSで、ガザの子どもの写真を見て、いてもたってもいられなくなったから寄付をしたと書いていた。とても共感する。個人にできることはわずかだが寄付という手段は手続きが少ないのでやりやすい。

私も安東量子さんたちのNPO法人福島ダイアログとか瀬尾夏美さんたちの能登半島の地震と豪雨の記録と表現のプラットフォーム「noto records」など少額ながら継続的にいくつか寄付している団体がある。国境なき医師団とかも継続的な寄付とその都度任意で行う寄付と方法も分けられる。

今日も各地で続く目を覆いたくなる状況にせめて目を開いておくこと。少しずつできることを。

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精神分析 音楽

Ozzy、権利、嘘

オジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)が死んだ。76歳。ブラックサバス(Black Sabbath)最後のライブをやったばかりなのに。こんな時代にその収益約280億円を3つの慈善団体に寄付して死んだオジー。最後までかっこよかった。私の洋楽のはじまりのひとりにオジーもいた。長い間ありがとう、オジー。当時から熱狂的なオジーのファンだったあの人も今日はたくさん泣いたに違いない。多分、あのリフを弾きながら。今はもういい歳だからそういうことしないのかも。ひとしきり泣いたあとのオジーファンは妻のシャロンのことも同時に思い浮かべたかもしれない。オジー、本当に大変な人たちで、本当に特別な人たちだった。

「イスラエル極右、ガザ「リビエラ化」計画議論 ユダヤ人120万人が再移住」(AFP=時事)、ひどい文字列。おぞましい。映像をみると本当にゲームのように人が殺され続けている。餓死しないために殺されるのを覚悟で食糧を求め、そこでやはり殺される。そんな状況に平然としていられる人は人ではない。でも人である。本当に恐ろしい。ひとりひとりがある程度平穏に生活できるという権利すら奪いたいという欲望に説明や理解なんかいらない。ただ拒否あるのみ。まず拒否に応じないのであれば対話なんてできない。どうしてこんな小さなことが見ず知らずの人によって脅かされなければいけないのか。本当に嫌だ。

選挙前、一般社団法人日本自閉症協会SNSで「そもそも発達障害など存在しない」と公言している政党に対して、それがまったくの間違いであることを指摘した。

「WHOや米国精神医学会には診断基準があり、日本には超党派の議員立法により成立した発達障害支援法があります。 発達障害などないという根拠のない主張で私たち当事者や家族を苦しめないでください。」

とすでに誰でも知っているはずのことを書いた。なのに平然と嘘をつく政治家がいる。目に見えるものを存在しないとなぜいえる。この場合もなぜかなんて知らない。ただそういうのやめて、というのみ。発達障害の人の支援に関する法律も彼らの見たいものしか見ない目には読まれないのだろう。診断を受けていない人たちが発達障害という言葉を簡単に使いすぎている面もあったかもしれない。嘘つきは嘘を重ねることでしか「本当」を語れなくなる。そうなってしまう前に、言い淀んだり、言いたくないと抵抗したり、そういう仕草がいかに人間らしいことか。そういう心のざわめきを人のせいにせずに引き受けていくためにそれを抱える政治が必要なのに。

こういうことを書き始めるとキリがないけど身近な人たちとは言い続けている。「目の前の」というのは自分の狭い視野のことをいうのではないなんて自明だろう。ひとりひとりが他者への介入は最小限で自分のことも相手のことも気遣うことを素敵だと思えたらいい。