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精神分析 音楽

アウトプット

昨日の朝はいつもより少し早く起きた。いつも早起きだがそれ以上に早かった。ブログを書いたり資料を作ったりしてもまだ時間があった。今年は別の学会でも発表をするつもりだったが余裕がなくシドニーで抄録書けばいいか、と思っていたができなかった。どうせできない(しない)と思ってはいたが想像以上にできなくて会場で会った友人に話したら「刺激が多いからね」と言われた。確かに。私にどうにかできる刺激の量ではなかった。鳥とか空とか街並みとかキョロキョロしたり追いかけなくてはいけないものがたくさんありすぎた。集中的に精神分析のことを考えられる時間はあっても普段の仕事とは内容的にかなり異なっていたし、書き物をする気は全く起きなかった。こういうダラダラ書きならいくらでもできし時間も取られないけど学会の抄録はね・・・。が、しかし、なぜかいつもより時間が余った昨日の朝、突如やる気が出た。マイヴィンテージMac Airを持って仕事にすぐ行ける朝からやっているカフェで広げた。資料を見る時間はない。以前書き溜めておいた引用文献を使う。最近、小寺財団で狩野力八郎先生が残された本の頒布会に伺ったが、今回最初に使ったのは狩野先生のナルシシズムに関する文章だ。私はずっとナルシシズムについて考え、身近な先生とも今回発表できたらいいな、という話はしていた。全く手をつけられていない言い訳もしていたがその先生の顔もチラついた。せっかく議論に付き合ってくださっているのに、というのもどこかで思っていたのだろう。ところで狩野先生の文書を引用するのははじめてかもしれない。狩野先生は家族療法やシステム論で重要な論文を多く書いてらっしゃるが精神分析家というより医師である精神分析家として書かれたものが多いので臨床的な実感を理論にするときに私には少し違和感があるのだろう、と今思った。もちろん狩野先生の業績はそれだけではなく、ナルシシズムに関する狩野先生の整理の仕方はとてもスマートで勉強になる。狩野先生のスーパーヴァイザーでもあった小此木先生もどこからでも詳細な何かを引き出してこられるすごい人だったが、狩野先生はそれとは別の形でフロイトを読めた人なんだと思う。ナルシシズムに関してもフロイトから現代までの論考を網羅したうえで開放システムとしてそれを捉えフロイトのアンビバレントな書き方にも触れている。ああ、もっと長生きしていただきたかった。せっかく先生の推薦で精神分析協会の候補生になれたのに協会のセミナーなどで先生からご指導いただくことは叶わなかった。さて、今回もいつも言いたいことはあまり変わらない。いつも同じようなことを考えている。とはいえ時間がなさすぎる。まあこれは必須ではないのでやれるところまでやって無理なら仕方ない、という気楽さもあった。〆切は正午。仕事が始まってからは送信ができたかどうかの確認くらいしかできない。とにかく今、形にして送信、ということで4000字を一気に書いた。あと数分しか猶予がないというところで投稿したら200字以上オーバーしていた。なぜだろう、というのを今に至るまで見直していないがなぜだったんだろう。pagesで作業していたが4000字に収まっていたはずなのに、と思ったが時間がないので登録画面で大急ぎで文章を削った。果たしてそこを削っていいのか、という吟味をする時間もなかったのでただ無になって作業した。なので最終の原稿が手元にない。投稿してしまったら残らないのか・・・。〆切前なら見られたからコピペすればよかったのだがそんな余裕もなかった。200字は貴重だったのでそれを削ったものが、いや、それ以前の問題で採択されるかどうか微妙だ。ものすごい勢い、というよりかなり無になって一気に書いたので隣の人たちには異様だったかもしれない。二人いると思っていたお隣はいつのまにか別の人になっていたし。議論していた内容とは全く異なるものになってしまったが今はこういう表現しかできないのだろうから今後に繋がればいい。珍しく集中したあとも仕事もつまっていた。午後いつもより少し時間があったのではじめての店に行ってみた。まだランチをしていた。ありがたい、と思って食べていたら眠ってしまった。子供か。思考を巡らす間もなくアウトプットに集中するというのは疲れるものなんだな。大体こんな感じだが今回はあまりにギリギリだったなあ。次回こそ気をつけよう。5月末が〆切のものはこういうアウトプットができるほど考えられていないしこっちはインプットもやらねば。はあ。セミナーの文献も読まねば。ああ。まあ、昨日はがんばったので久しぶりに音楽をじっくり聴いてちょっとこだわって調べてみたりした。いい曲に会えた。

Words Left Unspoken

From“Horizons” by Jasmine Myra

友達に共有したら「めっちゃええやん」となぜかローマ字できた。最初何語かわからずまた変なこと言ってると思ったらローマ字かよ、と気づき笑った。今日は曇り?雨は降りますか?降らないですか?なんか寒いんですけど。重ね着重ね着。寒いのが一番元気なくなるから気をつける。みなさんもどうぞ風邪などひかれませんように。

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精神分析

無関心

まただ、と思う。こころを閉ざしていると言葉は届きにくくなる。興味深い内容を普通の声でたくさん話しているように思えても受け手を長い期間やってきたせいかそれは明らかに感じるようになった。

話している本人は私を特定の相手としてみていないこと、少なくとも私がそう感じていることに気づいていない。そんなとき、私はとても寂しくていろんなことを言いたくなるけどその状況でそれをいうことができない。閉ざしている相手に、私の気持ちより自分のことに気を取られている相手に何かいったところで被害的に受け取られるだけだろう。たくさん我慢してきたのに、と思うがそれも私が勝手にしている我慢だ、と片付けたくなる。私のことを考えてくれればすぐにわかるような我慢しかしていないつもりだけど、と恨めしく思っても、時折ため息をつきながら心閉ざしている様子は観察していると心配だし疲れさせたくもない。向こうだってそんなつもりはないのだ、多分。

一緒にいるのにもう離れているような、すでに忘れられているような、適当な社交辞令のような挨拶に何かをいうことも拒否されたような感触を持ち顔も見られぬまま別れ電車で涙ぐむ。でももう泣きはしない。繰り返されてきたことだから。関心を向けられないことの寂しさを相手に仕事を続けてきたのだから自分に対しても役割で対処できる。疲れたな、と思考停止しそうな自分を感じながらせめて眠れたらいいのに、と思う。なんでも夢まかせだけどこんな日は夢なんてみられない。瀕死だな、自分を笑う。気持ちも思考も動かない。こう書いていれば動き出し襲ってくる痛みには意識的にブレーキをかける。かかるはずもないけれど。訓練の成果はそこではない。むしろどんな痛みも感じない限り停滞だ。

しかたない、が口癖になってしまった。治療関係ではない間柄で親密な関係を築く。それはいつの間にかそうなっていく。自然に相手を思い、実際の関係を重ねながら自分を内省し、相手とコミュニケーションをとる積み重ね。自分を相手に委ねることで相手に対する関心が配慮の壁を突き破ってしまい喧嘩になることはあってもお互いに心揺さぶられながら相手を思いつつ自分を取り戻すことができればなんとかなる。でも無関心にはなすすべなしだ。しかたない、が口をつく。言わないけど自分の中で何度も繰り返す。

受け手を失い生きる気力を失った人たちの声を聞く仕事を続けている。彼らが受けてきた的外れな関心も無関心も同じものだと思う。どちらにしてもその関心はその人の個別性に向けられたものではなかった。寂しくて悲しくて腹立たしくて頭がおかしくなりそうなときも「大人の」言葉でなだめられそれと向き合ってもらえたことはなかった。理不尽はそのうち当たり前になって、無関心によって生じた絶望をナルシシズムによってどうにか持ち堪え生き延びてきた。ナルシシズムは自分にしか通じない言葉を話している自分に気づくことをさせてくれなかった。いつのまにか自然にコミュニケーションがとれなくなっていたことにも気づいていなかった。当然、治療は難航する。まず言葉を共有できるようになるまでにものすごく時間がかかる。共有したところでナルシシズムの傷つきと激しい怒りを体験することは避けられない。ここで治療者がもううんざりだと無関心に陥ればそれが反復になる。だから自分が無関心になりつつあることにも気づけるこころを育てていくことが必要だ。仕方ない、と頭痛を感じながら沈み続ける自分を投げ出さなければどんなに最悪の状態でも仕事では機能する。反対に、耐えがたい痛みを自分に対する無関心で乗り切ろうとすれば仕事に影響する。そういう仕事だ。辛いけど仕方ない。生きていくって大変だ。これは多分一番共有しやすい。生きていくって大変。ほんとだね。動けるだろうか。動けそうだ。今日が終わることには少しは楽になってればいいけど先のことはわからない。ほんとだね。これも共有できる。少しずつ回復しよう。自分にも相手にも関心を失うことのないように。絶え間なく流れる情報で自分の狭い興味関心に閉じこもることのないように。目の前の相手を見失うことのないように。