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Netflix お菓子

冬支度、ムーミン谷のお菓子、『天狗の台所』

薄いダウンを羽織ったまま寝た。冬用のモコモコの敷布団も毛布も出したけどカバーをかけるのが面倒で適当に羽布団の上に置いたまま寝た。すでに色々な暖かグッズがベッドに置いてあるせいでぬくぬくのまま朝になった。少し汗ばんだ気さえする。昨日今日と空が明るくなるのが早い気がする。実際、日の出は1分、2分、3分あたりの間隔で遅くなっているはずだから気のせいに違いないが。私がこうしてPCに向かうのが数分単位で遅くなっているのだろう。今朝は時間があるから冬支度を整えるために部屋を温めたり、作業に取り組むための構えを作っていた。寒いと本当に何もする気が起きないのでガンガン温めて一気に作業してから出かけたい。

ハーブティーを入れた。夜寝る前用の。また眠くなってしまうかなあ。実際、あくびが止まらない。お菓子はMOOMIN VALLEY PARKのニョロニョロスティック。結構しっかりしたニョロニョロと同じ棒状の生地に白餡が詰まっている。甘さ控えめ。りんごの味がちょっとするかな。美味しい。袋だけ見るとフィナンシェみたいなのだけど和菓子でちょっと意外なのも楽しい。ムーミン谷にお土産を持っていくとしたら和菓子かしら。

料理をしながらNetflixでなにかしらを流していることが多い。最近は『天狗の台所』。美味しいものの話をしているときに勧められた。確かに泣けてくるくらいきれいで美味しそうな食材とお料理が登場する。そして一条天皇はどんな役でも美しいのね。オンくん役の越山敬達くんがとってもかわいくて驚いたが『Season2』では大きくなっててびっくり。子供は一気に変わるよねえ。思春期になった子たちと昔の写真をみたりしていると自分で自分のこと「かわいー」とかいって懐かしい話をしはじめたりする。それもかわいい。生意気盛りがそういうときだけ子供がえりしたり。複雑な時期には媒介が必要ね。オンくんがお兄ちゃんと距離を縮めていくにはおいしいお野菜が必要だったしね。

さてさてこの週末も色々大変だ。いつもよりは時間あるから冬支度しっかりして臨みましょう。

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Netflix 俳句

10月20日

風がある。窓から顔を覗かせると少し寒い。部屋は暖かい。まだ何もつけなくても大丈夫。昨日はノースリーブに七分袖カーディガンを羽織っていた。10月後半でそんな服装なんて。今年は全然わからないなと思って重ね着するための夏服はまだ片付けていない。片付けてもすぐそこにあるけど。気温差があるからリュクに小さくたためる上着も持ち歩いてるけどこのくらいの薄い重ね着でずっと過ごせたらいいのに。一番楽なのは袖なしだけど日光で肌がボロボロしてしまう。どの時期も肌に色々あるわん。

今日はいつも以上にぼんやり。NHK俳句は「栗」。栗おいしいよねえ。でも外で食べるかお裾分けしてもらうか買うかばかりで自分で茹でないなあ、栗。今年の夏は枝豆も茹でなかったしなあ。青菜は茹でるけど今年は電子レンジ使ってる気がする。今はパスタも少量の水で茹でられるし。パスタもうちで作らなくなったなあ。まいにちのようにパスタ作っていた時期もあったのに。お水をたっぷり使ったあと捨ててしまう(きっと捨てずに有効活用している人もいる)お料理ってほかに何があるかな。冬って水いっぱい使うけど捨てないお料理ばっかり。おでんもお鍋も。やっぱり温まるには水分大事。

この前、テレビで『アリス・イン・ワンダーランド』を少し見た。赤の女王、とってもかわいくて笑ってしまう。白の女王はアン・ハサウェイ。何みても超魅力的。演技力だなあ。ティム・バートンの世界にピッタリだった。ミュージカルもやるんだよね。みたい。何かで見られるのかな。私はそういう情報を探すのが下手すぎる。精神分析の文献以外全然上手に調べられない。というか精神分析のはひたすら量にあたってるうちに出会っているだけだから何も上手じゃないか。

いいかげん終わらせねばな仕事が二つ。10月いっぱい。移動が長いからそこでがんばるか。ああ。難しいんだよなあ。道は見えてきた気はするけど。ま、がんばりましょ。風邪ひかないように服装気をつけて過ごしましょ。良い一日を。

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Netflix 精神分析

習慣とか「無意識」論文とか。

早朝作り置き習慣確立したっぽい。自分がしていることなのにそれが習慣化するかどうかは自分次第、とは思っていない。私は無意識を信じているけど意識的に何かができるとはあまり思っていないのだろう。

世の中が長期休みに入るとフロイト読書会番外編を行っている。この夏は十川幸司訳の『メタサイコロジー論』の第3論文「無意識」。難解だがその前の二つの論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」を踏まえてさらにメタをいこうとする重要な論文。

私がアドバイザーとして参加している読書会は読んできたものを話し合う形式で、その読書会の番外編なのだが、そこでは私が仕切らせてもらって、私のオフィスで主催している精読方法でフロイトを読むことをしてみている。今回は2日連続2時間ずつ。精神分析はフロイトは週6日60分くらいずつが定番、今は週4日50分くらいずつがIPA基準なのだが、なんにしても集中して何かをやるということはいいことだと経験から思う。

『宇宙兄弟』で、注意を多方面に分散させて別の情報で頭をいっぱいにして考えることを回避するシーンがあった。「わかる!」と一瞬思ったが、あんなふうに情報を正確に拾う集中力は私にはなかった、そういえば。何かを回避するために、というか回避自体に集中するというのはよくあることだが、それは集中して何かをするのとは異なるだろう。そうしたくても大抵は「注意力散漫」という言葉で示されるような状態になるだろうし。今回のフロイト読書会番外編は形式的には集中型だが、内容の難解さに注意が散漫になっていく様子が見られた。そりゃそうだよ、ということも伝えた。医学書や哲学書を「わかる!」と思わないだろう、と。錚々たる知性がいまだに格闘しているテクストなのだから私たちはもっと地道に取り組んでいく必要があるのは当たり前といえば当たり前。私たちは臨床家だからつい同じ語彙の世界を生きている人としてフロイトを読んでしまうかもしれないが、精神分析実践を伴っていても、高度に専門的で抽象的な内容はそう簡単に「理解」できるものではない。だからこそ形式を集中型にしておく必要があるのだと思う。

今朝はパプリカを使って作り置きしたのだけどひとつでもかなり量があるしきれいだから満足。いつも大体Instagramで美味しそうなレシピを見つけて真似したりしている。今朝もチェックしてみたら三浦哲哉さんがトマティーヨなるもので何やらすごく美味しそうなサルサを作っていた。ウィキペディアによるとトマティーヨというのは「ナス科の植物、およびその小さな球状の緑または紫がかった果実。学名はPhysalis philadelphica、和名はオオブドウホオズキ。 」だそう。メキシコ料理には欠かせないんだって。美味しそう。いいないいな。今日はたくさんテクストを読む日になる。おいしいものを支えにがんばろう。どうぞ良い一日を。

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Netflix 短詩

「宇宙兄弟」、きのふのいまごろなら

アニメ『宇宙兄弟』(原作:小山宙哉)をみて寝不足。早朝に料理を作る習慣ができてしまい寝不足解消せず。習慣によって目覚ましいらず。料理は匂いや見た目や手触りなど色々な感覚を刺激してくるにも関わらず無心になれる。脳の働きが本を読んでいるときとは全く違うし、人と会っているときとはもっと違う。小さなスペースで積み重ねるプチ未知、プチ地道な作業が落ち着くのかもしれない。『宇宙兄弟』は茨城県つくば市にあるJAXA筑波宇宙センターでパネルを見たとき、いやもっとそれ以前、映画化されたときに読みたいなと思ったけどあっという間に10年とか過ぎるわけで・・・。映画化は2012年だって。アニメ版、面白かった。三次試験の終わりまでしか見てないけど。宇宙飛行士になるためにはものすごく強靭な身体とそれをバランスよく使える感性と知性、そしてそれらは良好な人間関係と繋がっているわけで、それらがどの程度普通とかけ離れたものかはよくわからないけど私には絶対になれないということははっきりとわかる。意識的には一度も憧れたことがない職業なのにJAXA関連施設があればなんでも行く。種子島宇宙センターにも一度は行ってみたい。沖縄宇宙通信所へも行った。なんなんだろう。最初からなれないものとわかっているから憧れたことがなかったことにしているのかもしれない。

室生犀星の有名な詩を思い出す。

きのふ いらつしつてください
きのふの今ごろいらつしつてください
そして昨日の顔にお逢ひください
わたくしは何時も昨日の中にゐますから
きのふのいまごろなら
あなたは何でもお出来になつた筈です

昭和34年8月15日発行の最後の詩集「昨日いらつしつて下さい」の一部を引用。犀星は「人間は死ぬまで美にあこがれている生き物」だと言った。だから書き続け、書く人であったことに感謝した。特別に好きな詩人ではないがスッと心に入ってくる。「ふるさとは遠くにありて思ふもの」は教科書で読んだ人も多いだろう。多分私も読んだ。「昨日」や「ふるさと」に何を見出すのも自由だがやはりそれはすでに過去で「そうであったはず」の世界なんだな。兎にも角にも今は今。今は朝。今はまだ朝。

室生犀星のこの詩集が出たのと同じ頃の映画について話したのを年代を見て思い出したのだけどなんだったか。当時はあり得かったSFの世界が今は現実になっていてビビる、という話だった。ありゃなんだったか、と思っていたらその友人からLINEがきた、今。面白いな、つながりは。お互い歳をとって自分に対して諦めると同時になんでも学びとして面白がれるようになってきた。力を抜いて今日も過ごそう。どうぞ良い1日を。

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Netflix お菓子 精神分析、本

三体、ほっこり餅、夢判断

 コーヒー&和菓子。机に向かうのが遅くなった。最近、帰宅するとNetflixの『三体』をちょこちょこみている、と早朝からすでに朝を2時間ほど過ごしたにもかかわらず書き始めたら昨晩より前に頭が戻った。朝らしさいっぱいの部屋なのに。昨晩もちょっとみた。『三体』は読もう読もうと思って読んでいないので何も知らないがこれはこれで面白い。すごいコンパクトにしちゃってるんでしょ。でも私はこれでいいや、みたいになってる。しかし、すごいね、原作も役者もゲームのことも知らない私みたいな人でもこのなんとなく知っている全く知らない世界を作り上げてしまうのだから。あ、しまった。こんなこと書きながら京都土産の「ほっこり餅」を食べてたらあっという間になくなってしまった。もっと味わって食べようと思ってたのに。この若菜屋さんのお菓子はほんと小さくてかわいい。ペタッ、モチッとした生地でニッキの香りほんのり。パクパクしちゃったけどニッキの味が残ってて美味しい。やっぱり知らない世界を知らないようにえがくって本当に難しいんだな、とまたドラマのことを思い浮かべてる。けど、味覚は「うん?何この味?」ってかなり新規性を感じるものがあるね。歯磨き粉とかも。この前、いつもと同じメーカーだからとあまり何も考えずに買った歯磨き粉が使い始めて何回かはいちいち「なんじゃこの味」となった。でも今は慣れてしまった。この最初の未知との遭遇の時間の短いこと。貴重。今年はもっとベルクソン勉強したいな。昨年、平井さんに問いを発したもののそれをしたことで自分が考えていたことにも疑問符がついた。この前のクドカンドラマはタイムマシンだったけどあれも既知である未知との遭遇だよね。そうそう、タイムマシンの物語って19世紀末までなかったそうですよ。アインシュタインの相対性理論が契機らしい、って何かで読んだ。でも記憶が意識されている以上、脳の中はいつもタイムマシン状態なわけだから「これタイムマシンものじゃない?」って今からなら思える物語はたくさんありそうですよね。神話とか。でも空間というか場所の移動、というのはかなり特殊な事態なのか、よく考えれば。一番そういう世界をたやすくこなしてるのは夢ですかね。昨晩、NHK Eテレで『夢判断』のことやってたけど立木康介さんの説明も面白かった。伊集院さんが指摘してたけどこんなこと自分でやってしまうフロイトやっぱり変だろう、と思いながら楽しくみた。しかし、なぜこの番組は岩波版の『夢解釈』ではなく古い訳を使ったかな。いろんな事情があるのかな。昨日はエイプリルフールだったけど「なにか嘘ついた?」という会話しかそれらしいことはしなかった。楽しい嘘ならつきたいもんだ。今日はどんな感じになるかな。良い一日になりますように。

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Netflix 写真 読書 音楽

ビヨンセ、中平卓馬。

パフェを食べた。美味しかったけど多すぎた。うーん。昨日は調子が狂った、というかすでに色々狂っているところにまた狂ったからもとに戻ってるかもしれない。もとはどこだ。昨日はビヨンセが渋谷タワーレコードにきたというのを聞いて最初に狂った。誰かが同じ空気を吸えるだけ幸せ、といっていたが私もそう思う。ライブじゃなくて『COWBOY CARTER』のプロモーション?Jay-Zも来てたって。Jay-Zのライブ?わからないけどビヨンセがあそこにきたのかあ。ゴージャス。そしてうっかりNetflixで「ドリームガールズ」を見てしまった。寝不足。「HOMECOMING」もまだみられるかな。みたい、とか言っている場合ではない。

 でもね、今、東京は見るべきものが多すぎて危険。元写真部の私には欠かせない写真展たちも。竹橋の東京国立近代美術館で開催中の『中平卓馬 火ー氾濫』展は彼がもと編集者で理論家であることもあって文字情報も多い。新聞も日記も小さい文字がびっしり。急性アルコール中毒で記憶の一部を失って以降の作品を後期とすると、写真それ自体の変化というよりこの展示の仕方を許容できるようになったんだ、というかむしろこの展示の仕方で保たれる何かがあるのか、など複雑な気持ちになった。ものをものとして撮るという点に関しては後期の方がもうどうしようもなくそうなっている印象を受けた。最近は女性の写真家たちも増えて私が高校の写真部の薄暗い部室で眺めていたそれこそ中平たちの時代の雑誌にはない世界が広がっているように感じる。生活に対する構えも違うのだろうか、と考えるが、その辺だとそれは男女差というよりもっと個別的な歴史の話かもしれない。

朴沙羅『記憶を語る、歴史を書く』も関連して思い浮かべた。多くの写真がマイノリティを映すということとも関わる。私は人の話を聞くという行為でそれをしていると思っている。朴沙羅さんのようにオーラル・ヒストリーをきく仕事の人もそうだろう。そのときにこの仕事を難しくしている自分の問題に直面することがある。そこで「健康」を保ち続けるには「スキル」がいる。私は精神分析を受けなければこれだけの語りと出会うことは難しかっただろう。聞き出すわけではない仕事だから。対象とどう出会えばいいのか、という苦闘を体験しやすい仕事だからいろんな歪みも出る。だからいろんな人と関わっておく必要がある。中平のいろんなエピソードがぽつぽつと思い浮かぶ中こう書いているが後期の不自然なくらいピカッとツルッとした展示に前期とのつながりがあろうがなかろうが同じ人間の作品であることに違いはない。そういう重みと私もどう向き合っていくのだろう。いろんなことを考えた。

さあ、もう行かねば。どうぞ良い1日を。