目覚ましをかけなくても起きられるようになってからもう何年も経つ。老化だと笑われてからももうだいぶ経つ。最近は考えごとの中身が具体的なので眠れない夜は振り回されている自分がちょっと可笑しい。
やたら具体的な夢の途中でパッと目が覚めた。若い頃、どうしてあんなに不機嫌な寝起きだったのか。起きてなんとかキッチンのイスにたどり着くなりテーブルに突っ伏し寝ていたなんてこともしばしばだ。現代の機械だってウォーミングアップが必要なのに今の私は最初から熱いお湯が出るシャワーみたいだ。といったところでなんのありがたみも自分に感じない。寝た方がいいに決まってる。夢で作業をした方がいいに決まってる。
朝4時くらいにはブラインドの外はもう白くなりはじめる。マットを敷いた床でゴロゴロしながら空を眺め起き始めた鳥たちの声を聞きバキバキになった身体を重たく感じながら空想にふける。今日も少し寒い。
昨日見た夢。あれはなんだったのだろう。正確には昨日の朝を迎える前に見た夢。精神分析において夢は転移状況であり、とてもパーソナルなものなのだ。誰にでも話すものではない。精神分析状況で密やかに大切に扱われるそれは話すことでようやくこころに棲みつくことができるのだろう。
そのおかげで夢から覚めてすぐに家事ができる私でも微睡んだ部分を維持できる。だから何かをしながら空想することができる。覚醒しているのに夢現の身体のまま、私は多分ずっと私以上のことを感じている。きっとそれが今夜の夢を構成し、過去の夢を再構成するのだろう。ひとりでみた夢もすでに誰かとの出来事だ。私はそこを生きた覚えがないが夢では普通にそこで生活していた。
昨日の夢のそこは古いアパートだった。見たことも住んだこともない部屋の中がドアの隙間から少しだけ見えるアパート。分析で話せば夢の中の誰かが私にとっての誰でそこでの出来事が私にとってなんであったのかに自然と注意が向く。共有するとはそういうことだ。最近の私の考えごとがいくら具体的でも夢はそんなこととは関係なく知らない出来事を平然とみせてくる。私、そこで何やってたんだろ、あれは誰だったんだろう、それは夢で実際に見えたもの(矛盾)とは違う、というのが考える前提となっているのも興味深い。恋人が父親のようだったり兄弟姉妹が我が子だったりする。夢には様々な置き換えがある。
と書きながらも昨日見て、昨日話した夢のことを思い浮かべている。書かないけど。パーソナルなものだから。
朝はコーヒーを飲みながらチョコばかり食べてる。甘さ控えめ、厳選素材とあってもチョコはチョコ。この美味しさも歯磨きで流してしまうのにどうして食べるのだろう、と思ったけど変な問いだなとすぐに自分で引き取る。書いては消す、見ては忘れる、出会っては別れる、生まれては死ぬ、そういうものなんだろう。ただ、食べている間は、こうして書いている間は、夢を見ている間は、あなたといる間は、今こうして生きている間は私の存在は比較的確かで、誰かを感じながら考えたり心揺らしたりできる自分がいることに少し安心できるのだ。
今日も少し現実よりに夢見がちな時間を過ごそう。ひそやかに夢をそこそこに現実を。