海外の分析家の文献を読むとき、Obituaryを参考にする。この人誰だろう、と思って調べると結構上位に出てくるのだ。Obituaryとは死亡記事のこと。生涯を通じた略歴が載っているので全体像をつかみやすい。この人ってあの分析家の分析受けてたんだ、この人ともこんなの書いてるんだ、この人の娘さんはお父さんより先に亡くなったんだ、などなど色々思いながら読んで、これから読まんとする論文なりの位置づけをなんとなくしてから読むとちょっと新鮮。読んでいる途中は生きているその人との対話になるし。
でも死ぬって止まっちゃうことなんだなと改めて思う。どんなに名を残しても、フロイトみたいにどんなに私生活が暴かれても、その人が個別に築いていた関係がどのようなものであるかは誰にもわからない。本人にだってわからないだろう。
生きていれば「今の時点」を積み重ねて、その先はわからないことにしておけるけど、死んでしまうとその先を作ることができない、当たり前だけど。
今日は幼い頃に父親を失い、その死を否認することでしか生きられなかった母親とともに生き、こころのなかにカップルを描けず、執筆活動ができなくなった女性の事例が載った英語論文を読んだ。創造性はこころのなかに安全に両性性をすまわせるプロセスと関係している。そしてそれは喪の作業とも関係する。この論文の患者は、分析家とともにその作業をやり通した。その結果、彼女の母親も在りし日の夫を再び胸にすまわせることができた。
長くて苦しい作業。患者とその作業をしていくためには、分析家自身が訓練をやり通す、精神分析ではワークスルーと言うけど、それがとても大切なんだろう。そしてそれ以前にまずは生きながらえること、死亡記事に載せるものなんか何もなくてもそれが基本的に重要だと思う。