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「かわいそう」と思うとき。

夜明けが遅くなってきた。ようやく東の空の闇が溶けてきた。今朝は、上諏訪で買ってきたお菓子「建て御柱」。7年に一度行われる諏訪大社の御柱祭、次は2028年。木落しとか見せ場なのだろうけど見てるだけで怖い。そばにいたら心配でしかたないのではないだろうか。現代における祭りの意義って多分いろんな研究があると思うし、現場の人の話を継続的にうかがいやすい領域だと思う。「祭りだから」でくくらずに語ったり、聞いたりすることは、歴史や宗教をどう考えるかということにもつながるから大事だと思う。

子どもにでも大人にでも「かわいそうに」と思うことがある。なにがきっかけだったか忘れたが、最近、私はこの「かわいそう」をかなり意識的に使っている。臨床においても同じである。「かわいそう」というのはただの主観であり、リスクの高い言葉だと思う。インパクトのある言葉は人の心を様々にかき乱す。かき乱す、といえば、今の朝ドラ「ブラッサム」の昨日の回、珠さまはかわいそうだった。


「かわいそう」と感じたとき、私は「誰が」と問い直す。珠さまが?そんなのなんでわかるの?かわいそうかどうかなんて、かわいそうって言葉が必要かどうかなんてなんであんたにわかるの?と。

私は、アンナのこともかわいそうに、と思った。アンナ・フロイトのことである。それで書こうと思った。なのにたくさん寄り道をしてしまった。フロイトにムカつきすぎていたのかもしれない。すでに公になっていることなのに、私がここに書くにはあまりにも不快だったのかもしれない。


アンナはフロイトの分析を受けていた。という表現は成り立つのか?娘だぞ。しかもフロイトは、アンナとの「精神分析」を素材に『子供がぶたれる』という論文にしている。娘の話を聞きながら、自分の問題を指摘されているとは思わなかったのか。日常生活でだって娘が父親にむけているネガティブな情緒はたやすく感じるものだが、母親は。父親本人は気づかなくても。母親はどうした?不在か?というより、フロイトにとって自身の母親であるアマーリエ、そしてアンナの母であるマルタはしばしば盲点化された。フロイトが見ていなかったわけではない。母や妻、そして娘という女をある特定の位置に置くことで、それ以上見ないということにしたのではないか。これは単なる私の疑いである。


フロイトは、その理論において、母親は、子どもの最初の愛の対象、欲動満足を与える存在、世話をする存在として位置づけた。もちろん晩年には前エディプス期の母娘関係の重要性も論じている。それでも母親自身の欲望や葛藤、母親であることの負担を十分に考察したとは言い難い。これは先日、土居に対する批判にも含めた。


母親を欲望することと、母親を一人の欲望する主体として認識することはまったく異なる。精神分析家たちは、自身の身内の女性に対してどういう目を向けてきたのだろうか。フロイトは(おそらく当時の多くの男性の精神分析家は)家庭内での育児や生活の維持を妻に委ねながら、自らは精神分析という仕事に没頭できた。別にマルタがそれを不満に思っていたとか、フロイトが家のことはなんにもしない人だった、ということではまったくないだろう。


しかし、なにをどうしたら、娘を「精神分析」する父親ができるのか。そして、その娘の母親は、そんな夫をどう思っていたのか。父親中心の歴史が語られることで、女たちの経験の多くはそこから消えてしまう、あるいは消されてきた。父が創始者である「精神分析」の場で、アンナは自分の経験を「言語化」できたのだろうか。


すでに書いたように、アンナは、父フロイト以降の精神分析の重要な担い手のひとりとなった。特に子どもの精神分析において。これを「おんな・こども」の精神分析において、といってもいいかもしれない。アンナは、子どもの教育と臨床に力を注ぎながら、自らを問い直し続けたのかもしれない。フロイトには扱えなかった自分を見出すことを必要としたのもしれない。これも単なる私の想像だが。

精神分析は、よく勘違いされているが、自分の存在や行動に因果律を持ち込むものではない。精神分析プロセスにおいて「なぜ」「どうして」と問うことは答えを見出すためのものではない。そこに答えなんてない。とほうもない曖昧さや不明瞭さのなかにとどまることを知り、とどまれる可能性を感じ、とどまれることを実感するなかで人やことをそれまでとは異なるしかたで認識し、感じ取るようになる方法である。なる「ための」というほど目的的でもない。


私がいくら「かわいそう」と思ったり、怒りを感じたりしたところで、それは本人のものではない。かといって「父だから」「精神分析だから」ですませることもできない。とどまることとひきうけることは両立する。むしろとどまることで引き受けることは可能になる。

子どもの世界にどう関わるかという判断は、そうすること自体が大人の責任だし、関わるならさらにそこには大人の責任がともなう。大人はそれを引き受ける。相手を「子ども」というのであれば、自分は「大人」としてなにをどうすべきかを考え続けるしかない。

だからか。私は、アンナ・フロイトについて語るなら、フロイトがしたことを問い続けるべきだと思う。多くの「おんなこども」がそうされたのと同様に、アンナ・フロイトについて語らない、というのであっても、それはそれで沈黙の歴史であり、そこに対する責任を免れることはない。

私は「暴力」という言葉をたやすく使うことはしないが、暴力性に対して敏感でいたいとは思う。精神分析を被分析者として体験し、分析家として体験するなかでますます強く思うようになった。精神分析はまだみえていないものにかけているようなところがある。心に限らず、「関係」とか「素の自分」とかいったところで、それがなにかはみえないわけだから、精神分析に限らず、言葉の使用には熟考が必要なはずではあるが。

なにかに形を与えてしまうことに恐れを抱きながら今日も。良い一日になりますように。

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概念の使用、主体、言語の問題へ

眠い。大阪で買ったお花柄のクッキーをコーヒーといただいた。が、まだ眠い。

先だって、概念の歴史性と、実践による要素の吟味と更新の重要性をその例とともに述べた。

精神分析の「基礎概念」について考えるとき、最初に思い出されるのは「欲動と欲動の運命」(1915)の冒頭だろう。この箇所は、講談社学術文庫版のフロイト著、十川幸司訳の『メタサイコロジー論』の訳者解説187頁あたりで丁寧に説明されているので一読されることをおすすめしたい。

十川は、フロイト「欲動と欲動の運命」の冒頭の「この抽象的な観念は、新しい経験だけから導かれたものではなく、経験の外部から持ち込まれたものである。素材をさらに加工していく際に、抽象的な観念はますます不可欠なものとなり、それがのちに科学の基本概念となる」の箇所をもっと長く引用する。

十川は、フロイトのここでの記述を精神分析概念の固有性を示すものとし、よりわかりやすい説明を加える。

「最初にあるのは臨床経験の記述であり、それを相互に関係づけながら概念を構築しているのである。だが、新しい経験を記述する際に適切な概念の持ち合わせがない場合は、生物学や哲学のような臨床経験の外部から抽象的な観念を借りてくるほかない。」


ここまではそれはそうだな、と思うと思う。しかしそのあとに続く文章はどうだろう。

「このプロセスを考える上で重要なのは、その観念自体は臨床経験の外部に位置しているのではなく、経験の内部を規定し、もはや経験と不可分なものになっている、という事実である。フロイトが「経験素材のほうが抽象観念に基づいている」と言うのは、そういう意味である。」


臨床経験と観念の相互関係の複雑さを感じないだろうか。私たちが試みているのはこの部分である。


さらにややこしいことに、概念は、今ここの臨床経験に名前を与えるだけではない。ひとたび概念をもてば、私たちは、それまでとは違った仕方で経験を言葉にすることになるだろう。

たとえば「転移」という概念を知らずに患者の言葉を聞くことと、それを知ったうえで聞くこととは、同じ経験ではない。

だからこそ、精神分析経験との関係において概念を形成することは、同時に、精神分析家が臨床で何を経験しうるのか、その条件そのものを吟味する必要性を生じさせるのである。その両方向の作業がなければ、概念は、言葉のイメージや使う側の事情によって歴史性をはぎとられ、いつのまにか意味が反転する可能性さえあるだろう。そこには概念を使用して経験を語る「私」が登場するからである。

すると新たに問題にせねばならないことがでてくる。その「私」はどこからそれを語っているのだろうか。

たとえば「転移」という概念を用いれば、患者が分析家の休暇に対して示した反応を単に不満や不安としてだけでなく、それがどこから生じたのか、患者の過去の対象関係との反復、分析家との今ここの関係、分析設定への反応などをもとに認識し、考察しようとするだろう。このように、概念を用いることで状況を多様に認識し、考察することが可能になったとしよう。

それでは、その概念を用いて患者の経験を語っている「私」はどこにいるのだろう。その「私」は、自分の言葉や実践の外側に立ち始めてはいないだろうか。単に、患者を観察する者になってはいないだろうか。私がここ数日書いてきたのは、こうして概念と実践が少しずつ乖離していくことを、自分自身に対しても危惧しているからである。

私がこうしたことを考えるときに参照するのはフーコーである。まだ実家にいた頃、親の本棚にはグレーっぽい表紙の神谷美恵子著作集が並んでいて、私はフーコーをそこで知った。現在はみすず書房から新装版が出ているが、私の本棚には、出会った頃と同じ表紙の著作集が並んでいる。

理論と実践はこうして主体の問題へとつながるわけである。そしてそれは同時に言語の問題でもある、と考えるのが精神分析の特徴だろう。フロイトもラカンも土居健郎も、治療における言語を重視した。そして、人が語ることと、その人自身が語っているつもりのこととのあいだに生じるずれを、それぞれの仕方で示した。

ということを書いていたら、フーコーの『言葉と物』でラプランシュが参照している部分を読みふけってしまい時間がなくなった。続きはまた今度。

台風の進路はどうなっているのか。連休が雨なんて、とも思うが、連休でよかった、とも思う。ただお祭りや学園祭が多い日曜でもあるので、準備したものが存分に生かされないとしたらそれは残念だろう。ネガティブをポジティブに変えるのは言葉だけではないだろうから、それぞれにとってよい休日であるようにと願う。

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実践における概念—Jill Salberg論文から

昨日は久々に傘がいらない一日だった。連日の雨で木も花もぐったりしているが、これからはそこから水分が失われていく。新宿中央公園の木々のざわめきもカラカラという音が混じるようになってきた。


さて、昨日の朝は、精神分析的概念が実践によって吟味されつづけ、更新されつづけるという話をした。それは概念の定義が変わるということではなく、その概念が成立するまでのプロセスに含まれていたさまざまな要素に、実践を通してあらためて気づかされることなのだと、私は考えている。


昨日、紹介した27人の精神分析家が信条を語る一冊、Psychoanalytic Credos
Personal and Professional Journeys of Psychoanalysts(2022)の編者、Jill Salbergは、昨年、国際精神分析学会(IPA)のジャーナルに終結時のエナクトメントに関する論文を載せた。

Salberg, J. (2025) Crises and Enactments while Ending Treatment. International Journal of Psychoanalysis 106:661-679

サルバーグもまた、ある被分析者との経験を通して、概念の意味をあらためて問い直すことになった体験を書いている。


終結に関しては、フロイトの『終わりのある分析と終わりのない分析』におけるフェレンツィとの態度の違いが、ひとつの焦点となるだろう。サルバーグは、フェレンツィがトラウマと、それが患者の人生や発達にもたらす影響を重視したことこそが、彼の技法上の実験を推し進めた、と述べる。フェレンツィは、早期トラウマは必然的に、何らかのかたちで転移―逆転移経験のなかに再現されると考えていた。そしてサルバーグは、フェレンツィのいう re-livingのなかに、今日エナクトメントと呼ばれているものを構成するひとつの重要な要素を見出している。


フェレンツィは、フロイトがフェレンツィの分析を継続せず、陰性転移を十分に扱わなかったことに怒りを感じていた。ただし、だからフェレンツィが終結について独自の考えをもつようになった、ということではないだろう。フェレンツィ自身は、患者が必要とするかぎり分析にとどまることを許容し、分析家の一方的な決定によって分析を終結させるべきではないと考えていた。そうした考えをもつフェレンツィにとって、自分の分析家であるフロイトが同じようには考えてくれなかったことは、不満として残ったのだろう。


Ferencziはこう書いている。
「分析が適切に終わるのは、医師も患者もそれを終わらせるのではなく、分析が消耗し尽くして自然に死ぬときである。……真に治癒した患者は、ゆっくりと、しかし確実に分析から自らを解放していく。患者が分析に来ることを望んでいるかぎり、分析を続けるべきである」。

先述したように、フェレンツィは、フロイトへの不満があったから患者を長く留める技法を採用した、という読みかたはしない方がいいだろう。あまりに多くの文献が、個人の技法や思想を特定の誰かとの個人的葛藤に還元してはいないだろうか。もちろん、そういう側面はあるにせよ、もし精神分析を体験した精神分析家自身が、自分の技法や思想についてそのように考えるのであれば、それはまだ分析の初期のプロセスにおける理解ではないか、と私は思う。


フェレンツィの場合、それこそ「信条」の違いが、終結のプロセスで十分に扱われなかったことが問題だったのではないか、と私は考えている。サルバーグもいうように、完全な治癒をもたらす分析というのは、きわめて楽観的な信念である。分析の終結とは、それまでにすべてが十分に分析されたことを意味するわけではない。むしろ、終わることによって、それまで二人のあいだで見えなかったものが初めて姿を現すことさえある。


サルバーグは、終結のプロセスで生じた、それまで見えなかった危機を、Baranger and Baranger(2009)が砦bastionと呼んだものとして理解している。

「[分析の]場の内部には、分析過程を遅らせ、あるいは麻痺させる、動きを止めた構造が存在する……それは、暴かれてはならない愛着を守るため、二人の主人公の共謀によって、無意識のうちに、沈黙のなかから生じる」(Baranger and Baranger, 2009)

この「砦」は患者側のものではなく、二人で作った構造として理解される。終結は、被分析者と分析家が暗黙のうちに維持してきたon-going-nessを失わせる。砦はそこで初めて危機にさらされ、エナクトメントとして姿を現す。これは、既知の概念が、その概念にすでに含まれていた新たな要素とともに、実践の側から立ち現れてくる例といえよう。


「すでに含まれていた新たな要素」というのは、矛盾した言い方に聞こえるかもしれない。しかし、精神分析における時間を考えるなら、むしろこの矛盾が必要だと感じる。後になって新しい意味が付け加えられるというだけではなく、現在の経験によって、過去に何が含まれていたのかが新たに見えてくる。そうした経験と理解とのあいだの時間的な隔たりに意識的であることは、実践によって概念が更新されることを説明する場合にも必要なのではないか、と思う。


もうこんな時間だ。今日はどんな一日になりそうですか。良い週末になりますように。

新宿駅西口の換気塔
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知識と実践とPsychoanalytic Credos

オフィスのそばの新宿中央公園の木々が大分乾いた音を立てるようになった。まだ時折蝉が鳴いている。夏の間、花壇はすこし疲れた感じだったが、先週はただの細い茎だった彼岸花が一斉に咲き始めた。昨日、通りかかった別の公園で、足元に違和感を感じて地面をみたらたくさんの銀杏が。すっかり秋。まだ少し蒸し暑いけれど。

さて、心に関する知識をもつことは、実践にもちろん役立つが、役立たないことのほうが多い気がする。知識は実践してみないと実践的な知識にはならないし、応用のきかない知識は事態を硬直させることさえある、と知っていることのほうが大事だったりする。


私たちは、意外でもないが、意外と見たいものしか見ないし、見たくないものはみないし、見えていても見えないといえるし、みえてないのにみえてるふりをできたりする。自分が何を見ていて何をみていないのか、そもそも見るという行為をしようとしているのか。これは、聞いたり、感じたり、考えたりすることすべてに対していえることである、と私は精神分析を通じて実感したし、日々、その実感は更新されている。


長い間、週一回とか週複数回とか、それなりの頻度で会っているのに、まだ驚くのか、ということばかりである。驚きは精神分析における主要な情動だろう。衝撃というと情動に至るより手前という感じになるか。


だから、精神分析家になるためには、精神分析が必要だ。単に訓練の要件としてではなく。自分の心が、自分の知らないところで様々な動きをしていることを「そんなつもりじゃなかった」と言いながら、衝撃をもって体験し、他者を他者とも思えない自分に驚きながらもどうにもできず、どうにかして環境が責任を引き受けてくれないかと模索する。


これらの体験はどれも強い情動を生じさせるが、「いや、特に」「別になんとも」とかいいながら、それらを体験しないようにする自分を体験するのも精神分析である。

同様のことが、理論についても言えると思う。無意識、転移、抵抗、抑圧、解釈、逆転移、といった精神分析の基礎概念は、定義を覚えて使うようなものではない。実践するたびに、転移とは何なのか、なぜ解釈するのか、あるいはしないのか、など常に経験に戻って考え直されるものである。なぜその概念が必要になったのか。それによって、それまで見えなかった心の何が見えるようになったのか。そしてそれを目の前の患者との経験に照らしたとき、それはいまも生きた概念なのか。そういうことを繰り返し考えることなのだと思う。


だから私は、こういうブログを毎日書いているのかもしれない。
著名な精神分析家たちが何を言ったのかを紹介したいわけではない。その言葉が自分の経験のなかで息づきはじめたとき、それについてもっと知りたいと思う。そうやって勉強を続けてきた。勉強だけならもう25年になる。臨床を始めてからも同じくらいだが、精神分析家になってからはまだ2年しかたっていない。週1回で長く会ってきた人の数は膨大だが、週4日会っている人の数はまだ少ない。知識として知ることと、それを経験することとは、そもそも比べようがないこともたくさんある。しかし、ひとたび経験をしたら、それを積み重ねるなかで、これまでの様々な理論との対話が必須になる。だからフロイトを読み続け、古典にかえり、概念の源泉と変遷をたどり、再び自分の体験を織り合わせていく。


なので、毎日、少しずつでもなにかしら読むことになる。

先日から何度も名前をあげているクリストファー・ボラスも寄稿しているJill Salberg編『Psychoanalytic Credos』(Routledge, 2022)という本がある。副題はPersonal and Professional Journeys of Psychoanalysts。出版社のサイトで各チャプターのアブストラクトを読むことができる。そのなかに、ボラスの“What is Theory?”という章がある。

先ほど書いたこととも関係するので、そのアブストラクトを少し適当だが訳してみる。

「本章では、心についての精神分析理論を、知覚の一つの形として論じる。それぞれの理論は、ほかの理論には見えてこないものを捉える。


まずフロイトを取り上げ、彼が通常、互いに競合する複数の心の理論を併存させていたことを示す。抑圧がどのように働くかを示す局所論モデルは、あるところまでは有効だった。しかし、そのモデルには、無意識の受容的な働き――抑圧するのではなく、受け取る働き――など、別の形の無意識的活動を捉えることができなかった。


ボラスが作った「受容的無意識」という言葉で表される働きを、フロイトはすでに、夢がどのように形成されるかについての理論、機知についての理論、そして日常生活の精神病理についての理論で用いていた。それならば、なぜフロイトは、無意識についての理論を発展させるなかで、この働きに固有の名前と位置を与えなかったのだろうか。


著者によれば、皮肉なことに、フロイトは無意識の受容的な働きを理論のなかで用いながら、自分が実際に何を用いているのかを見るために容易に構築できたはずの理論を、抑圧していた。ボラスは、この抑圧を、フロイトが子どもと母親との関係――ボラスのいう「母性的秩序」――を抑圧したことと一貫するものとして理解する。そのためフロイトは、つねに無意識的に用いていたものを、意識的には見ることができなかったのである。


さらに著者は、精神分析の各学派はそれぞれ、人間の心と行動の異なる側面を作り出し、それゆえに知覚するのだと論じる。どの理論も、それ自体として重要な価値をもつ。


最後に著者は、なぜ私たちには複数のモデルが必要なのかを論じる。複数のモデルを用いることは、文字どおり心の視野を広げる。一つの心の理論だけが正しいと主張する学派は、残念ながら、その学派で学ぶ人々から、無意識の構造、無意識的思考、無意識的行為について、より広く深く理解する機会を奪ってしまうのである。」

私はボラスに同意する。


この本は、27人の分析家が、それぞれの歩みを、自分の声で語っている一冊である。精神分析という、他者とシニフィアンの世界をともにする特殊な文化をそれぞれの精神分析家はどう生きてきたのか。そのためにはどのような訓練が必要だったのか。そこから得た「信条」とはなんなのか。この本の内容紹介も訳しておく。

『精神分析家たちの信条――個人として、専門家として歩んできた道』

精神分析における「信条」とは、患者の話をどのように聴き、分析という営みにどのように臨むかを支える、一連の考えである。そうした信条を育てることは、多くの点で精神分析訓練の骨組みをなしている。
マニー・ゲント(エマニュエル・ゲントEmmanuel Ghent, 1925–2003)の最初の「Credo」論文を踏まえ、27人の精神分析家に、自らの信条や精神分析家としての歩みを綴ってもらった。本書には、異なる研究所で、異なる時代に訓練を受けた、複数の理論的立場と世代にわたる分析家たちが集められている。訓練を受けた年代は1960年代から2000年代に及び、文化的背景もさまざまである。


寄稿者には、関係精神分析、対象関係論、現代フロイト派、クライン派・ビオン派に位置づけられる分析家のほか、いずれの分類にも容易には収まらない分析家がいる。本書は、訓練中の分析家には研修機関の読書リストの一冊として、また訓練を終えてなお精神分析家として歩み続ける人には、道をともにする一冊となるだろう。(ここまで)

なお、マニー・ゲントの最初の「Credo」論文とは、Ghent, E. (1989). Credo: The dialectics of one-person and two-person psychologies. Contemporary Psychoanalysis, 25(2), 169–211.のことである。


「信条」かあ。私も自分の中にそれを感じるけど、こうやって言葉にすることができるようになるのだろうか。日々精進ですね。これからもよろしくお願いいたします。

アメリカデイゴ
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ケースメント、ラプランシュ、スカルフォン

昨晩?今日?の0時をまわった頃の地震、びっくりした。色々と家事を終え、少し勉強せねば、と思いつつぼんやりしていたらメールがきた。PEPからで、一番上に載っている論文を見て驚いた。ケースメント?まだ書いていたのか。

Casement, P. (2026). Hidden Infantile Trauma in Adult Anxiety—Where Spock Was Wrong. Attachment: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis, 20:1-4.

ケースメントが臨床から退いたことや病を患っていることはいくつかのインタビューなどから知っていた。Legacy Interview Seriesでは自宅のベッドでインタビューに応じている。映像のケースメントは、声にも張りがあり、明瞭に話す。

それにしても、この論文、スポックとはあのスポック博士ですよね。

サマリーを読むと

「マテーブランコ(Matte Blanco)の「無限集合(infinite sets)」の概念(1975)を援用しながら、無意識において時間がどのように働くのかを例示する。」

とある。

どういう思考なんだろう。とても気になる・・・となったところで「うん?揺れてる?」「あ、地震!」となった。

「無限集合としての無意識」(マテーブランコ)における時間論か。精神分析における時間論は、私もこだわっているが、にわかにレジェンドたちの思考が集まってきた感じがある。

そういえば、ケースメントは、この論文でA personal example also illustrates how infantile “body memory” works.とも書いている。

「患者から学ぶ」「あやまちから学ぶ」「人生から学ぶ」(岩崎学術出版社)ことを続けてきた人が、今度は自分自身の身体からも学ぼうとしているわけか。本当にすごい。

さて、私の中で精神分析における時間論のレジェンド•オブ•レジェンドといえば、フランスの精神分析家、ジャン・ラプランシュである。「ラカンとは別の「フロイトへの回帰」を提唱したジャン・ラプランシュ」(十川、2018)。日本では、ラプランシュ独自の欲動論、時間論の基盤となる以下の3冊がきちんと訳されているのが大変ありがたい。一冊は辞典だが、これも同時期の著作との関連で読まれる必要があるだろう。

Laplanche, J., & Pontalis, J.-B. (1964). “Fantasme originaire, fantasmes des origines, origine du fantasme.” Les Temps modernes, 215, 1833–1868.

英訳:Laplanche J, Pontalis J-B (1968[1964]). Fantasy and the origins of sexuality. Int J Psychoanal 49: 1-18.

邦訳:ジャン・ラプランシュ/J.-B.ポンタリス『幻想の起源』福本修訳、法政大学出版局、1996年

Laplanche, J., & Pontalis, J.-B. (1967). Vocabulaire de la psychanalyse. Paris: Presses Universitaires de France.

英訳:Laplanche J, Pontalis J-B (1973[1967]). The language of psychoanalysis,Nicholson-Smith D, translator. International Psycho-Analytical Library 94: 1-497. London: Hogarth and the Institute of Psychoanalysis.

邦訳:J.ラプランシュ/J.-B.ポンタリス『精神分析用語辞典』村上仁監訳、みすず書房、1977年

Laplanche, J. (1970). Vie et mort en psychanalyse. Paris: Flammarion.

邦訳:ジャン・ラプランシュ『精神分析における生と死』十川幸司・堀川聡司・佐藤朋子訳、金剛出版、2018年

それぞれの邦訳の解題も大変参考になるが、全体を見渡すには ドミニク・スカルフォンのScarfone, D. (2013) A Brief Introduction to the Work of Jean Laplanche. International Journal of Psychoanalysis 94:545-566がいい。

スカルフォン自身が展開する理論にも私は惹かれているが、彼がラプランシュの優れた研究者でもあることは覚えておきたい。

せっかくなので(?)スカルフォンが『精神分析における生と死』に関して書いた部分を試訳しておこうと思う。欲動論に関心のある人は少ないかもしれないが、欲動論なくして精神分析はないし、フランスの精神分析家たちの本を読むなら、フロイトへの回帰はどうしても必要だろう。

以下、試訳。どうぞよい一日をお過ごしください。

精神分析における生と死

(Scarfone, D. (2013) A Brief Introduction to the Work of Jean Laplanche. International Journal of Psychoanalysis 94:545-566より)


私が別のところで示唆したように(Scarfone, 1997)、ラプランシュの研究は、まずフロイトの理論を解き広げ、次にそれを凝縮して焦点を絞る、という一連の過程を通じて進むと言える。解き広げる過程は、分析家が平等に漂う注意をもって聴くことにも似ている。それに続く凝縮の過程で、ラプランシュは論点をいくらか明確にし、自分自身の結論を引き出す。たとえその結論をもう一度解き広げ、新たな研究の循環を始めることになるとしても、である。
『プロブレマティーク』シリーズ(Laplanche, 1980–92)には、パリ第七大学における長年の研究と教育の成果が収められ、それは重要な著作『精神分析の新しい基礎』(Laplanche, 1989[1987])へとつながった。それ以前にも、『精神分析用語辞典』の執筆を支えた、フロイトの著作全体をいわば開いていく長い研究過程があった。その成果は数年後、ラプランシュが単独で書いた重要な著作『精神分析における生と死』(Laplanche, 1976[1970])に、同じように凝縮された。これらの著作のいずれにおいても、ラプランシュが1968年の論文「フロイトを(用いて)解釈する」で提案した方法を用いていることが見て取れる。
『精神分析における生と死』では、フロイトの『性理論三篇』、『科学的心理学草稿』、『快原理の彼岸』などの主要なテクストが綿密に検討される。しかしラプランシュは、ただ読むだけではない。フロイトの考えを問いとして立て、その問題点を批判的に検討する。この本の各章は、生を維持する秩序と性の発生との関係から始まり、フロイトの著作全体の構造において死の欲動が果たす機能への問いへと至る、一つの軌跡を描いている。ラプランシュが問うのは次のことである。フロイトの精神分析が生物学と接する位置にあるのは明らかだとしても、それを生物学に還元できるのだろうか。できないとすれば、精神分析に固有の領域は、その境界に位置する生や死といった基本概念との関係で、どのように成り立つのだろうか。
ラプランシュによれば、フロイトの『性理論三篇』の第一篇「性的な逸脱」は、精神分析の思考が適応の心理学からいかに抜け出したかを示している。性欲動は、生殖本能とはほとんど、あるいはまったく関係がない。ラプランシュは、この篇には「失われた本能」という副題を付けてもよいだろうと述べた。しかしフロイトが性的な逸脱を論じたのは、本能が偶然失われた事態を記述するためではない。むしろ、ラプランシュが明らかにするように、フロイトが捉えようとしたのは、人間の性の全体が逸脱を含むということである。人間における性的なものの領域それ自体が、規則正しく働く生命維持の秩序から見れば「逸脱した」領域なのである。ここに人間に固有の例外性があり、その領域を適応の領域から区別することに精神分析の固有性がある。
『精神分析用語辞典』の準備中に見いだされた「依託」(ストレイチー訳では anaclisis)という概念は、一方の適応にかかわる生命維持の秩序と、他方の欲動にかかわる性的な秩序を画するために用いられる。依託について、しばしば誤解される点がある。この概念が区別するのは、心的なものと生物学的なものではない。心的な要素も生物学的な要素も、この概念が引く境界の両側で働いている。したがって、アタッチメント理論が今日ほど広まっていなかった時代にも、ラプランシュは、適応にかかわる側面に心理的な次元が含まれることを疑っていなかった。
肝心なのは、心理的な領域一般と、精神分析が扱う心的な領域を混同しないことである。心理学的現実は、突き詰めれば人間あるいは動物の脳の働きのうちに位置づけられるかもしれない。他方、精神分析でいう心的現実は、人間に固有の現実と結びついている。そこでは、これから論じるように、他者とその他者のメッセージが第一義的な位置を占める。そのメッセージは、明確な意味を伝える一方で、送り手自身も知らぬまま、決定的な重要性をもつ謎めいたシニフィアンを運んでいる。ラプランシュはこの心的現実を、最終的に「メッセージの現実」と呼ぶ。それは精神分析が関心を寄せる第三の現実の範疇であり、言葉を話す以前の乳児(infans)の心身に作用する現実である。
このように、依託は、心的なものを身体的なものから切り離すことを意味しない。そもそも心と身体の関係を扱う概念ではない。ラプランシュによれば、動物か人間かを問わず、動物行動学が扱うのは本能(Instinkt)である。それに対して依託は、欲動(Trieb)の出現を理論化するための第一歩となる。のちにラプランシュは依託の概念を批判し、誘惑こそがその真理だと主張する。それでも依託の検討は、ラプランシュの研究方法をよく示している。まずフロイトの著作のなかで際立たせ、その後に批判する必要があった結節点の一つなのである。ラプランシュ(1993)の言い方を借りれば、この概念をめぐっては容易に道を踏み外してしまう。
とはいえ依託は、フロイトの思想の重要な点、すなわち、精神分析的な意味での性的なものの領域を、生命維持にかかわる心理生物学的領域から区別することを理解する助けになる。しかし、領域を区別することと、その起源を説明することは同じではない。まさに起源の問題を出発点として、ラプランシュは依託の「生物学化する」側面を批判し、代わって一般誘惑理論を提唱することになる(後述)。
この依託批判は、『精神分析における生と死』で、フロイトの『性理論三篇』の最終部分を論じたときに、すでに始まっていた。その部分には「取り戻された本能」という副題を付けられるかもしれない。というのも、依託を自然的な機制として捉えると、かつて本能から区別されたはずの性的なものとその起源が、再び本能の領域に取り込まれかねないからである。ラプランシュは、依託では、生命維持の秩序から欲動にかかわる性的な領域がいかに生じるかを説明できない、と強調する。依託をそのまま受け取ると、まるで蕾から花が咲くように、自己保存から性が生じるかのような印象を与える。
ところが、人間の自己保存には著しい不十分さがあり、まさにそのために性的なものが前面に出てくる。依託が働くとしても、それは生命維持から性的なものへ、そして性的なものから生命維持へという、双方向の働きでしかない。性的なものはさまざまな形をとって、自己保存の不十分さを補うことになるからである。実際、自己保存が脆弱であるためには、他者、すなわち援助する他者の介入が必要となる。これはフロイトが『草稿』で言及した Nebenmensch、つまり「隣人」である。その介入によって、性的なものは必然的に重要な役割を担うことになる。
この他者は、根源的な寄る辺ない状態(Hilflösigkeit)にある乳児の必要に、可能なかぎり応じようとする。しかし同時に、その人は必然的に、抑圧された無意識をもつ存在でもある。その無意識が、大人と子どものあいだの相互適応の関係に、ある程度入り込む。こうして、抑圧された性的なものという「混入物」が、愛着関係を運ぶ波に密航者のように乗って伝わる。したがってラプランシュが示唆するように、依託が働くとしても、それは援助する他者の介入に伴って副次的に生じる機制としてでしかない。
適応の領域と欲動にかかわる領域、すなわち性的なものとの単純な境界線から、のちにラプランシュが「根本的な人間学的状況」と呼ぶものが現れてくる。それは、あらゆる人間が、謎めいたシニフィアンに満ちた世界に生まれるというだけで置かれる状況である。その世界には、大人という他者の抑圧された性的なものによって「巻き込まれた」メッセージが満ちている。人間においては、このように性的な秩序がつねにすでに生命維持の秩序に重なっている。この点には、あとで立ち戻ろう。(以上)

小雨降る新宿中央公園。誰もいなかった。
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フロイト「否定」論文を少し。

大好きなお店の大好きなカルダモンロールを解凍して、おいしく焼くという大切なミッションがあるから、たった5ページしかないフロイトが1925に書いた『否定(Die Verneinung)』論文(岩波書店、フロイト全集第19巻)を精読することを今日はしない。フランスの精神分析に関心がある方はぜひご精読あれ、5ページだから。

といってもこの5ページにものすごい読解を披露したのがヘーゲル学者のジャン・イポリット。今はBruce finkのÉcrits: The First Complete Edition in Englishとか、同じくフィンクのLacan to the Letter: Reading Écritsなどで読むことができる。邦訳はジャック・ラカン 『フロイトの技法論 (上)』 (ジャック=アラン・ミレール編、 笠原嘉、小出浩之 、鈴木國文、小川豊昭 、 小川周二 訳、岩波書店)とかブルース・フィンク『「エクリ」を読む――文字に添って』( 上尾真道、小倉拓也、渋谷亮訳、人文書院)など。私は『エクリ』の昔の翻訳で読んだ気がする。

フロイトの『否定』論文、ラカンの「排除(Verwerfung / Forclusion)」とグリーンの「情動(affect)」がぶつかるわかりやすい地点もここ。あと、抑圧(Verdrängung)、否認(Verleugnung)、否定(Verneinung)を区別することも大事。

フロイトは「否定は、抑圧されたものを知る一つの方法」であると述べる。「私の母ではありませんよ」というとき、母という表象は意識に到達している。これは「抑圧の一種の解除」であるが、言語との関係でみれば、知的機能と情動的過程がここで分離する。「抑圧の一種の解除」というのは解除される一方で保持もされるということらしく、知的な承認は成功しても、抑圧過程そのものは解除されていない。

キノドス(Jean-Michel Quinodoz)が『フロイトを読む』(Lire Freud)のなかで、この年代にみられるフロイトの概念をまとめていて、それとの関係を考えるのも面白い。

たとえば「自我の分裂(Ichspaltung)。これは1938年の『防衛過程における自我の分裂』(フロイト全集第22巻)につながる。フロイトはそこで、自我は現実を拒否する一方で、現実に由来する危険を認識し、症状の形で不安を引き受ける、という葛藤に対するふたつの矛盾した態度の併存を「自我の分裂」と記述する。「知りません、でも知っています」というような二重性は、「母ではありません」と言うことによって「母」という表象を意識に到達させる「否定」論文の構造を思い出させる。

とまあ、いろんな方向から何度でも読まれるべきなのが「否定」論文じゃないかな、ということで、また今度。

今日は金曜日。東京は雨が降ったりくもったりらしい。がんばろう。

シナモンロールだった。
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アンドレ・グリーンの「ネガティブ」、フロイトの「否定」

さてさて、今日は日本の精神分析があまり取り入れてこなかったフランスの精神分析にとんでみよう。

アンドレ・グリーンAndré Green (1927–2012)のことはよくここにも、もうひとつのブログにも書いてきた。しかし、この一年で修正すべき点もみえてきた。自分の言葉とはいえ書き散らかしているので修正箇所を特定することはできないし、いまだ理解が十分でないところが多いので、ここに書いていることは正しい知識というよりは、すべて理解へのプロセスだと思って読んでいただきたい。勉強する時間がもっとほしいし、もっと賢ければいいのだけどないものねだりはまた今度、と自分に言い聞かせる。

グリーンは、フロイト以降の様々な精神分析理論の発展において、とくに英国対象関係論やアメリカにおける対象や関係を前景化するモデルのなかで後景化してきたフロイトのメタサイコロジー、とりわけ欲動・表象モデルを、対象関係論の成果を取り込みつつ、第二局所論の見直すことでアップデートしてきた。

グリーンはフロイトへの回帰を強調するでも、フロイトを批判するでもなく、対象関係論から発見したものを取り込みながらフロイトのメタサイコロジーそのものを再構築しているようにみえる。

グリーンは、抑圧(Verdrängung)モデルでは捉えきれない心では、なにかが表象されていながら意識から排除されている、というより、表象すること自体が困難であったり、いったん成立した表象や対象への備給が撤回されたりしている状態を考えた。

私はアンドレ・グリーンの対象化/脱対象化機能objectalisante/désobjectalisante (fonction)に関する論文にインパクトを受けてから約2年か3年、グリーンの著作を読み続けている。このブログでの登場回数もその頃から急に増えたと思う。

グリーンといえば、 The Dead Mother、The Work of the Negative、Life Narcissism, Death Narcissismに書かれているように、不在、喪失、脱備給など「ネガティヴ」の働きに関する理論が、その仕事の重要な軸をなしている。

「ネガティブ」は単に「ない」ということではない。重要なのは、「ない」ことによって生じる空間、表象、思考であり、「ない」ことによって消されたり失われたりする備給、結びつき、表象可能性であり、この概念が示すのはそうした心の運動である。

そうだ、グリーンを読むときには、まずフロイトの「否定(Die Verneinung)」論文(全集19 1925-1928)を読んでおきたい。土居を読むときのように、少しだけ読んでおこう。

「私たちの患者が精神分析の作業中に思い付いたことを明かす際の語り口は、若干の興味深い考察をするきっかけを与えてくれる」

フロイトはまず「語り口」に注目する。何を語ったのかではなく、どのように語ったのか。

「本当にそんなつもりはないのです」「私の母ではありませんよ」

患者は、思い付きを言葉にしながら、この言葉との関係を切ろうとする。

フロイトは「解釈する際、否定は度外視して、思い付きの中身だけを取り出す」。

私もそうするときがある。しかし、これは結構大技なので注意も必要だが、フロイトはそうするもんだ、くらいな感じで書いている。

もういかねば。今日はここまで。木曜日だ。がんばろう。

オペラシティのこの道はあまり人は通らないけどいつもきれいに整えられてる。
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土居健郎、七尾線

土居健郎が『精神療法と精神分析』を書いたのは昭和36年、1961年、1920年生まれの土居は41歳だった、ということになる。41歳までの臨床経験をこんな風に言葉にできるのはやっぱりものすごいことだと思う。理論的なことなら若くてもすごいことはたくさん書けるかもしれないがこの本は極めて臨床的な本である。

土居が書いていることは今だったらストロロウらの間主観的な考え方や、ミッチェル、ホフマンなどの共構築的、社会構築主義的な考え方で説明できることがかなりあるように思う。しかし、当時、彼らはまだ登場していない。土居は今だったらわかったようになれてしまう概念をたくさん持ちものにできる時代の人ではないし、概念を道具として使う人でもない。徹底して臨床と実感発の人だ。

フロイトは精神分析は哲学ではないとはっきりいったが、土居も「精神療法は哲学のように存在の意味を問うものではなく、宗教のように価値を教えるものではなく、またイデオロギー(思想体系)のようにすべてを説明しつくそうとするものでもない。」といっている。もちろん土居なのでそのすぐあとに「しかしこのことは、精神療法の中に存在の意味や価値や思想が全然入らないということではない」と続く。常に留保がある。

患者には治療者が必要で、治療者は患者がいなければなにもできない。至極当たり前のことだが、だからといって治療者と患者が対等というわけではない。

赤ちゃんとお母さんという組み合わせで治療者と患者を見立てるならば、というかそれが最近の常だが(ここでの土居は違うが)、お母さんにも先のことはよくわからないけど赤ちゃんの鏡になることで赤ちゃんになり、とまではいわないが、赤ちゃんに同一化しようとしながらその人は母親になっていく。そこにはウィニコットのいう存在し続けること(going on being)が双方にみえる気がする(もちろんウィニコットはそんなこといっていない)。同時に、非対称な方向性へ分離していく人の姿がみえなくもない。土居が例にあげた即興劇における患者が舞台にあげられ、治療者はいつのまにか舞台にいて、でもどちらもまだ観客であるように。

こう書いていて思うけど、土居が医者でありながら医者の権威を意識的にとりあげるのは土居がまだ41歳だったからかもしれない。戦時中の言語に対する抑圧、使っていい言葉と使ってはいけない言葉の存在、精神療法の場で患者が医者としての自分に使う言葉、時代も立場もすべて、土居が権威というものに対してものすごく重く感じるところがあったかもしれない。さらにその後の聖路加病院での勤務とアメリカへの留学、精神分析の訓練、1960年代後半の世界的な学園紛争、その後の東大教授時代、土居の言葉や思想に影響を与えたものの大きさを思うと頭痛がするが土居は日常語にとどまり、ひとりの精神科医にとどまった。臨床と実感、その泥臭さのなかにとどまること。土居には別に聖書があった。私はどうやってとどまるすべを見出していくのだろう。土居の著作がその役割のひとつをこうして担ってくれてはいるが。文学かな。詩かな。俳句かな。どれもこれも言葉の世界。豊かにしていけたらと思う。

今日は土曜日。もらったばかりのおいしい幸水を食べた。いとみずみずし。今日も七尾線は大変そう。特急花嫁のれん号も運休だって。金沢から羽咋、七尾、和倉温泉にいくのに何度か乗った。金沢で新幹線を降りて、特急花嫁のれん号が泊まるホームまでの特別っぽい壁紙をみながら階段下の小さなセブンイレブンでおつまみとビールを買ってのりこむことを何度かした。また行くから、こうやって使う人いるから七尾線さんがんばってください。どうかみなさんご無事で、ご安全にお過ごしください。

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時間、権威

土居健郎は精神療法のなかでも精神分析の立場にたち、フロイトが著作で述べてきたことは常に背景にみられる。一方、常に対極にある精神療法として登場するのが森田療法である。『精神療法と精神分析』の「第2章治療場面の設定」の「(2)時間の条件」は「(1)場所の条件)」の構成とほぼ同じになっており、どちらにも森田療法との比較が述べられる。森田療法は患者の反応一切を「不問にすること」が構造的特徴であると述べられていることに少し驚くが、土居はその背景に常に医者の権威をみているように思う。

時間的条件を考えるには時間の治療的意味について考えなければならないが、土居はここでランクに教えをうけていたJ.タフトを引用する。土居を読んでいると今はあまりとりあげられない治療者の名前が色々でてきて歴史を感じることができるから楽しい。土居はタフトが強調する時間の制限性よりも「時間がわれわれにとって唯一の存在の仕方である」ことを強調する。時間=存在の仕方、というのはいささか奇妙な記述だが、時間に対する態度=人生に対する態度、といいかえることもできるかもしれない。土居は時間をうけいれるということは単にその制限性を認めることではなく、「時間の中にとどまることである」と述べる。土居は私たちが苦痛の中にある時、時間から逃げ出したいとう衝動を感じることを知っている。いわゆる「抵抗」のひとつだろう。この箇所だけで私は何人もの患者とのやりとりを思い出せる。精神療法は、治療者が自らの時間を患者に与えることによって、彼らに時間の中で問題を解決することを促すことである、と土居はいう。このようにして設定された「時間の中にとどまること」ができるかどうか、同時に、総ての精神療法の時間にいつか終わりがやってくる」という現実を認め、不可避的な欠陥と限界をもつそのような時間を貴重な体験として活用できるかどうかは、治療者と患者という特殊な人間関係における双方の問題だろう。治療者においては、時間を与え、それに終止符をうつ際に現れる自身の「人間的な権威」を否定しない、ということも課題のひとつである。決定権は双方にあると口ではいえるが、それを最初にいえたり、承諾する側に立つほうに権威があるといっていいだろう。

私は若い頃、ある医者に「心理の分際で」といわれたことがある。「心理」というのはこの業界の人にとって心理職のことである。「メンタル」と同じくらい雑な言葉の使用だと思うが、それはともかく、当然「のび太の分際で」を思い出し、心底あきれ、辞めるときもなんの未練もなかった。そこで出会った人たちとの関係は今も続いているが。それにしても当時、私はまだ大学院生だったので正確には心理職ではなかったし、そこで心理士としての仕事というよりなんでも屋みたいな仕事をしていたので今思うと「心理の」という区分け自体にも疑問を感じるが、まあ、権威というのはそういうこともできてしまう、ということらしい。雇われている側が「雇われの身のくせに」とか言われたら、それは「囚われの身のくせに」というのと似たようなものだと思うが、自分の身を立てるために他人を雇ったのだから、それはものすごく対等な関係である(実はそうではないことは土居の話でもわかると思うが)ということがわからないのならひとりでやってみればいいのに、とも思う。誰かを支配することでひとりでやってるとかやってやってるとかみたいになるのはおかしいと思う。このことはこの場所は、この時間は誰のものかという話として、土居の話を重ねることもできるが、今日はここまで。

昨晩の月もとてもきれいだった。今日はどんな一日になるかな。良いことありますように。

アサガオ
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精神分析

土居やフロイトやグリーンを読んだり。

休み明けなせいか、早速寝不足なせいか失敗が多い毎日。落ち込む。大丈夫だろうか、自分。

昨日、「精神的距離」が失われることによって生じる危機に陥らぬために、と土居が取り上げたのはフロム・ライヒマンFrieda Fromm-Reichmann(1889年10月23日 – 1957年4月28日)である。土居の『精神療法と精神分析』は1961年。土居が引用したライヒマンのPrinciples of Intensive Psychotherapyは1950年。邦訳がでるのは1964年である。精神病の精神分析に貢献したライヒマンについても書きたいことはあるがまたいずれ。ライヒマンは、きわめて重い障害を抱えた人々にも「資質(assets)」が備わっているとした。そして彼らが精神的な負債(liabilities)を資質(assets)へと転換することを示した。

土居は述べる。

「患者に接する際、現在は病んでおりしたがって自己は確立されていないが、しかし将来それを確立する能力を持っている者として、そのように潜在的には治療者として同等な者として呼びかける時、そこに精神的距離が保たれる、と考えられるのである。」

そして土居は「第12章 社会的条件と価値」において再びこの問題を詳述する、と脚注に書く。

ただ、これが12章のどの部分なのかよくわからない。「精神病患者を精神療法によって治療することの技術的困難も、その少なからぬ部分が、気ちがいに対する社会的不寛容と関係がある」という社会的条件が治療の限界となることとの関連なのか、土居がフロイトの1919年の論文「精神分析療法の道」(全16)とともに示す分析家による価値判断のことだろうか。どちらにしても治療者としての精神分析家の限界に関わる議論であることは間違いないだろう。

土居はフロイトの「患者は自らの固有の本質を解放し完成するべく教育されなければならない。」という文章を引用しているが、この部分をもう少し前から引用してくれたほうがよかったかもしれない。岩波版の訳で書いておく。

「患者は私たちと類似したものに向かってではなく、患者自身の本質の解放と完成に向かって導かれるべきです。」(p101)

また土居が書いているようにこの少し前の文章でフロイトは以下のように論じている。

「私たちがきっぱりと拒んだのは、救いを求めて私たちのもとに来た患者を、私たちの所有物にし、患者の運命を患者のために定め、私たちの理想を患者に押しつけ、高慢な創造主のごとく、私たちの似姿に患者を仕立て上げて大いに満足する、という行いです。」(p100)

土居も同じことを述べていることはすでに書いた。

フロイトや土居が繰り返し述べる治療者と患者の関係における治療者の姿勢は規則と通じ、精神療法を構造化するものなので一治療者としても何度も確認したい部分である。

それと同時に精神分析過程をよりメタで考えるために毎日色々読んでいるわけだが、私が相変わらず目をとめるのはアンドレ・グリーンであり昨日目を通していたのは時間論。“From the Ignorance of Time to the Murder of Time: From the Murder of Time to the Misrecognition of Temporality in Psychoanalysis”。Leticia Glocer Fiorini & Jorge Canestri 編 The Experience of Time: Psychoanalytic Perspectives に収録されている論文である。

これについてもメモしておきたいがもう時間がない。今日も暑くなりすぎませんように。台風がちょうどよく勢力をなくしてちょうどいい雨を九州にもたらしてくれますように。千葉に被害をもたらしたような豪雨がもうきませんように。自然災害のみならずトランプ政権によるICCの制裁やそれに対する日本の対応など心揺さぶられるニュースばかりだが今日もなんとかがんばりましょう。

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土居健郎『精神療法と精神分析』冒頭

土居健郎は『精神療法と精神分析』の前書きで、執筆に際してフロイドの技法論、エクスタインの講義や著作、そして教育分析の影響を受けたと書いている。土居は教育分析によって傷ついたがその傷の意味を理解するプロセスで精神分析を理解するに至ったという。土居がこの本の執筆を依頼されたのが昭和32年、初版が昭和36年(1961年)、昭和47年には第12版、 2014年には第26版、2026年現在はどうかわからないが出版社のウェブサイトによると品切れ・重版未定である。読むべき心の治療の本がすぐに入手できない現状は困ったことである。繊細で敏感な心を守るために言葉をつくすのが精神分析的な精神療法だと思うが、権威に従う心を善とするかのような現代社会にこのような豊かな本は響かないのだろう。個人的には臨床家で土居に関心がある人には必読だとお伝えしたい。先日、いつも事例検討の場で大変お世話になっている友人たちにも聞かれたからそう伝えた。日本精神分析協会みたいな小さい場でも土居の「甘え」に関する発表をしたことは有意義だったんだな、と思えた。多くの人に読んで語り合ってほしい。

この本は「精神療法はこれを構造と過程の二つの面から考察することが最もわかりやすい。」という一文からはじまる。ここにすでに、サイコセラピーのストラクチュアルな側面について書いたエクスタインの影響がある。これももとはといえばもちろんフロイトの技法論の影響であり、フロイトのOn Beginning the Treatment(1913)「治療の開始について」(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)の冒頭が引用される。土居はフロイトを精読し、取入れ、自分の臨床感覚によって書きなおせた唯一の人だと思う。もちろん精神分析家なら多かれ少なかれ同じことはやっているが、土居ほどたしかな日常語で緻密にそれを行った人はいないだろう。

フロイトの「治療の開始について」(1913)は技法論集に収められている。邦訳は、藤山直樹監訳の岩崎学術出版社版の翻訳『フロイト技法論集』が現時点ではもっとも正確で新しいと思う。冒頭を引用する。

「格式あるチェスの腕前を書物から習得しようとしても、網羅的で体系的な説明が可能なのはその序盤と終盤だけであり、序盤に続いて展開する無限に変化しうる指し手をそのように説明することはできないとほどなく気がつくであろう。書物による学習の限界を補うためには、名人たちによって繰り広げられた対局を入念に研究するしかない。精神分析治療の実践のために定めうる規則にも同じような制約があてはまる。」

フロイトのこの論文も精神分析を学ぶ場合は必読だが、土居がこの章で論じたいのは「治療者患者の関係」なのでフロイトの論文の引用はこの冒頭部分だけである。ちなみに土居による「治療の開始」はこの本の第4章であり、ここも大変読みごたえがある。

同じ部分を土居の訳でみてみよう。土居の時代は「チェス」を「将棋」と訳しているのも味わい深い。

「高度な将棋の技術を書物からの習得しようとする者は、やがて知るであろう。書物にはただ序盤と終盤についてだけ、あますところなく組織的な説明が加えられているが、序盤につづいて展開される戦闘のーもし説明されたとしてもとても読みきれないほどのー複雑多様な駒の進め方については、少しも言及されていないことを。大家が互いに戦いを支えた対局を熱心に研究することだけが、このような指導上の欠陥を補うのである。おそらく、これに類した制約が、精神分析療法を実施する上に与えらえる規則にもあてはまるといえよう。」

いい訳だ。「大家が互いに戦いを支えた対局」という表現にみあう臨床を大家にならずともつみあげていきたいものである。

土居は、「規則と遊戯との関係は精神療法にもあてはまる」として、規則を精神療法の構造と呼び、その実際の進行を過程と呼ぶ。精神療法は治療者と患者という人間関係を軸とする。そしてそれは職業的関係として、普通の人間関係から区別して考えなければならない、という「至極当たり前の」前置きから土居ははじめる。このあとが土居がしょっちゅう言葉を変えて確認する事柄である。

「勿論治療者も人間であるから、彼自身助けを要することがないとはいえない。しかし彼が精神療法に従事するかぎり、その中で自分の満足を追求するこはせず、もっぱら患者の要求に応えるように努めねばならぬのである。」p4

土居もフロイトも緻密で誠実だ。「至極当たり前のこと」こそ忘れられているのだから意識をむけておくことは常に大事だ。土居がそれでもこんなことを強調しなければいけないのは

「(精神療法以外の一般の医学的治療の場合に)反して精神療法の場合は、治療は治療者患者の人間関係を軸として行なわれ、この関係を離れて別に客観的な治療は存在しないという点が、問題である。いいかえれば精神療法を精神療法たらしめるものは、外面的基準ではなく、その治療の特殊性ゆえの内面的規律である。」

だからである。「しかも」と続くこのあとの文章も精神療法を実際に提供する際のジレンマや悩みをよく拾ってくれている。なぜ治療者が治療方針をもつことが必要なのか、治療者が治療関係に個人的要求を持ち込まないようにすることがいかに困難か、は土居の実感だろう。これを実感を持って共有できるかどうかは、精神療法家としてものを考えられるかどうかのひとつの分かれ道なような気がする。

こうやって土居健郎を詳細に読んでいく会もフロイトのと同じようにやりたいが時間を合わせる余裕がないのでとりあえずひとりでやっていく。発表したりすれば対話が生まれることはわかったので協会を発表の場にしていけたらいいなと思う。発表にしても論文にしても査読を通らねばならないので、こぼれおちるものたちはこうやって個人的に書き連ねておけばいいかなと思う。

昨日の朝、今年の夏は涼しいなと思って遠回りしてオフィスへいったらやや熱中症みたいになってしまった。油断してはいけないですね。やや涼しすぎるかもくらいな環境で仕事するのが一番身体にも楽みたい。冷房大切。熊本も千葉も電気の状況はどうなのだろう。身体がつらいと気持ちもつらいし気持ちがつらいと身体もつらい。多方面からの支えが届きますように。私もできることやろう。今日もよろしくお願いします。

玉川上水旧水路は再整備の工事中。
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「想起」、相手あってこそ

夜明け前の空の青。静か。

精神分析における言葉と時間の関係を考えるにはベルクソンが必須だと思って平井靖史さんの本を中心に色々勉強しているわけだが、精神分析だけでも相当の勉強が必要なので時間が全く足りない。引用できるほど理解できるとは思っていないのであくまで精神分析が展開してきた時間概念を精緻化、あるいは展開するために読む。平井さんの本は難解ではあるが、本当に丁寧に書かれているので何度も読んでいるとだいぶわかった気がしてくる。

たとえば、フロイトの「想起」について考えるときに、平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社)を読んでいると、ベルクソンの『物質と記憶』を引用して書かれている部分に興味を惹かれたりする。なかでも考えさせられた部分を脚注だけど引用すると

「通常は、「夢見る」こと自体が、生を司る欲求や意志の緩みに起因するわけだが、想起の場合は、逆説的なことに「夢見ることを欲求する(vouloir rêver)」(MM87[115])ことが必要だとされる」

とか。なんとなくわかった気分になるでしょう。こんなふうにわかった気は直感を得るためであればわりと大事だけど間違った理解は学問のためによくないのでフロイトやウィニコットの引用はできるけど、ベルクソンの引用には怖気付く。なんにしてもその直感を使うなら精神分析理論の方をかなり正確に理解しておく必要があるな、と思いながら取り組んできた。私はもともと実践志向だが、理論なき実践はないと。はいえ、私の頭では実践なしで理論の理解はできなかった。フロイトの著書に早くから出会ってはいたが、どちらかというそれまで慣れ親しんできた文学的な興味で読んでいたし、いざ、こういう実践の中に身を置くとすごく特殊なことをものすごいスピードで思考しながら書いていたんだなと思う。その思いつきの様子が大体書簡にも書かれているのも面白い。相手あってこそ。

相手あってこそ、という気付き、誰にも頼らずひとりでやってきたつもりが全然そうではなかった、という気づきは大事だが、誰にも頼れない環境がある子供がいるのもまた事実で、というか、本当に事実なんだよ、ということを知ってほしいと思うことがよくある。頼りたくても、というより、頼らなくては生きていけない中をぎりぎりで生き残ってきた子供たちがいる。それでも生きられたのだからいいじゃん、と軽々しい言葉を投げかけられながら生きてきた子もいる。もちろん養育者を守る福祉制度(親への支援、保育士の待遇、研修)の不足など社会施策の問題もあるし、子供単体でも母子ユニットでも父母子の三角形でもそれだけで生きられるはずもない。なのに、という現実を考え込んでしまうことは多い。多分、普通に困っている人が優先される政治はこれからもずっと遠い。「普通」が変わっていくから。すでに変わっているから。とにかく無事で、と願うより、安心して送り出し当たり前のようにまた会える毎日がいい。どうぞ良い一日を。

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スパイスとか。

うっすら朝焼けがきれい。朝焼けは雨、夕焼けは晴れというけど、このくらいの薄色だと朝焼けとは呼ばないのかしら。今日の東京は一日晴れの予報みたいだし。

昨日、突然、クミンシードを使ったおかずを思い浮かべ、今すぐ帰って作りたい!となった。スパイスは使い始めると楽しい。植物と同じくスパイスも全然覚えられないけど、私が使うのはクミンパウダー、コリアンダー、ターメリック、チリペッパーが主で、クミンシードとシナモンが時々登場という感じなので簡単。中華料理の香辛料も大好きだけどあまり作らないからまだ賞味期限内に使い切ることができないなあ。北京、広東、四川、上海だと四川が一番美味しい、と若い頃に勤めていたクリニックの先生が言っていてよく連れていってくれた。休み時間まで気使うのはみんな嫌だったのでなんとなく顔を見合わせるときもあったけど自分でお金を出せるような店でもなかったから時々ついていった。美味しかったと思うのだけど、四川が一番美味しい、という言葉の方が残っている。昔、近所に北京料理の店があって安くて美味しかった。中国語が飛び交う古くからの店で、小さいのに中華街みたいな店構えだった。出前もやっていてとても使い勝手がよくありがたかった。どうしてなくなっちゃったのか。同じ名前の店は見るけどチェーン店ではなかった。と書いていたら中華料理が作りたくなった。東京で一人暮らしを始めるときに親が暮しの手帖版「おそうざいふう中国料理」という本をくれた。これ実家にもあって装丁も素敵で眺める本として馴染んでいたから嬉しかった。でも「サッと湯通し」とかも面倒だったし、揚げ物レシピが多いイメージがあってどうも火を使うのに適さない私には眺める以上の価値を見出せなかった。今見ると全然そんなことなくて、出来上がりの美しい写真とそこに向かう工程が数字つきではなく、ただの●の箇条書きでですます調の文章で説明されている様子は上品で素敵。「冷めたら、二枚にへいでから」とかいう表現も好き。普段「へぐ」って使わないから。料理の仕方だって今は揚げ焼きで油の量も少なくて大丈夫って学んだし、面倒さを解消する工夫はそれこそたくさん料理してきた人たちがたくさん開発してくれているから合わせて使っていけばいいのよね、と気楽にどんどん取りかかるようになったのは随分歳を取ってから。色々億劫がる余裕があったのだろうね、若い頃は。それはそれで大事だった。最近、また大学時代の友だちと集まることも増えているからダメダメな頃を笑う機会も増えることでしょう。

そうだ、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)について今日もメモるけど、そういえばボラスの『終わりのない質問』第4章「耳を傾けること」の冒頭でも引用されていたな、と思ってパラパラした。この論文は精神分析における耳の使い方を考えるときの必読論文だと思っている。「平等に漂う注意」というやつ。

「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)からボラスはこちらを引用。

「医師は、自分の注意力に由来する意識的な影響はすべて差し控えて、自分自身の「無意識の記憶」に完全に自らを委ねるべきである」「医師は単純に耳を傾ければよいのであり、自分の心の中に何かを留めることに煩わされてはならないのである」

これってどういうことか、というお話。もう時間がなくなってしまった。今日も美味しいもの食べてがんばろう。

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フロイト「治療の開始について」を読んだり。

鳥の声が大きくて窓を開けっぱなしで寝てしまったのかと思った。やっぱり温かいお布団にしてから眠りが深い。昨日はすごくたくさん歩いて疲れたというのもあるが夏の間はよく眠れていなかった気がする。しかも今年の夏はあまりに長かった。

週末、大きめの公園を通り抜けると特に案内もない音楽イベントをしていた。内輪のものかもしれないけど穏やかな空気が流れていてやっと季節が変わったなあと思った。

さて、今日は火曜日。またリズムが崩れそうだから気をつけねば。

今度、学会で精神分析の導入について話し合うので、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)を読み直していた。

ストレイチー訳はこれ。Freud, S. (1913) On Beginning the Treatment (Further Recommendations on the Technique of Psycho-Analysis I). –The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 12:121-144

副題に「(精神分析技法に関するさらなる勧め I )」とある。Iがあれば次があるわけで「精神分析技法に関する更なる勧めⅡ」は「想起すること、反復すること、ワークスルーこと」(1914)、Ⅲは「転移性恋愛についての観察」(1915)である。ちなみに「治療の開始について」は「転移の力動」(1912)、「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)に続くものである、と初版 Int. Z Psychoanal., 1(1), 1-10 and (2), 139-46.の脚注には書いてあり、これらは全て岩崎学術出版社から出ている藤山直樹監訳の『フロイト技法論集』に収められている。時間とかお金とか治療契約の基本的なところをフロイトがどう考えていたかは大体技法論集に書いてある。晩年に書かれた1937年の「終わりのある分析と終わりのない分析」「分析における構成」は前にも書いたようにフェレンツィへの応答というか陰性のものをフロイトがどう考えていたかという観点から読める。フロイトは神経症を倒錯のネガといい、ナルシシズムも倒錯との関係で描写した。それらはこれらの論文に見られ陰性治療反応の記述へと伸びていく発想である。

とちょっとお勉強的なことを書いてみた。今週も頑張りましょ。

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短詩 精神分析

暮田真名川柳、フロイト「小箱選びのモティーフ」

十月十日、東京の日の出は5時43分。まだ空は暗い。PCの向こうの壁に貼ってある川柳からいくつか。

シャトルバス以外は荒野なのだから

暗室に十二種類の父がいる

本棚におさまるような歌手じゃない

短歌(off vocal)

暮田真名第二句集『ぺら』からの引用。2019年5月から2021年4月までに発表した400句余りのうち200句を収録したでかい紙ペラ。B1らしい。B1なんてあるんだねえ。ぺらというよりべらという感じだけど視力検査みたいな並びがかわいい。さっき書いたのは遠くからでもよく見える上段の川柳。一番ちっこいのも老眼鏡で。

子供から遠近感を取り上げる

きゃー、と面白いのが目に入った。取り上げないでー。

臨床心理士の地域交流イベントにお呼びしたのが2022年夏。先月9月12日には柏書房からエッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』を発売。重みと勢いをぎゅっと一気読みできる軽さに閉じ込めたかわいい本。暮田さんのおかげで川柳はポップな遊びになった。

さっきまで合格圏にいた虎だ

これも「ぺら」から。なんかよくわからない迫力と悲しみを感じるがよくわからないので本当には悲しくもないし面白い。確かな言葉を新しいコードに乗っけてくような作業を私は自分の領域でしていきたい。精神分析はそれにすごくふさわしいと思う。精神分析状況でないと発揮されないしそれを面白いと思うまでのもやもやや苛立ちもすごいけど。いずれいずれいずれと思いながら浮かんだ言葉を言ったり言わなかったりする日々を過ごすのが精神分析。そんなのに時間とお金をかけることは賭けかもしれないけど私はそれに賭けたおかげで今があるからそういう欲望に肯定的。

フロイトの書く文章は読み慣れてくるとたとえそれが悲観的な結びであっても結構ポップ。

1913年のエッセイ「小箱選びのモティーフ」なんて楽しそう。結びはこうだけど。

「ここに描かれているのは、男にとって不可避の、女に対する三つのかかわり方なのだ、とも言いうるのである。女とは産むものであり、伴侶であり、滅ぼす者である。あるいは、母の肖像が一生のうちに変化していく三形態、すなわち、母それ自身、ついで、男が母の似像に従って選択する愛人、最後に、男を再び受け入れる母なる大地である。年老いた男は、人生の初めに母から受け取った愛を、女から得ようと手を差し伸ばすが、むなしい。運命の女性のうちただ三番目の者だけが、口を閉ざす死の女神だけが、彼をその腕のなかに抱き取るだろう。」

フロイト全集12(岩波書店)かな、メモによると。男にとっての女三形態進化は面白くはあるし、重要でもあるのだけど、それはともかくこの結論に至るまでのシェークスピアとかギリシア神話とかグリム童話の引用が楽しい上質エッセイ。まだフロイトが症例に強いインパクトを受けていた頃。フロイトほど色々暴かれている人でもそれでもそんなのはほんと一部でフロイト理論の変遷はいまだにいろんな読み方ができる。誰がなんと言おうと誰かが話している誰かのことなんて本当に小さな一部でしかないから、というのが通じない世の中というか、自分のみたいようにみたいってことなのかもしれないけどそういうのは面白くないし、遊びとしてもつまらないと思うのでできるだけ逃れていきたい。がんばれるかなあ。鳥たちが鳴き始めた。柿をむこう。柿もだいぶ色づいてきた。このあとあの街のあの大きな大きな柿の木は濃いオレンジの小さな柿でいっぱいになって鳥たちがいっぱい訪れる。今年も出会えるといい。良い1日になるといい。

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精神分析 精神分析、本

自律神経、『W・R・ビオンの三論文』

朝焼けがきれいだった。でもまだ早くて「自律神経を整えるには」と考えながらぼんやりしていた。南の窓からの風が冷たくて気持ちよくて離れたくなくてベッドに本を持ち込んでみたけど寝っ転がってぼんやり本を読むのが昔よりずっと億劫になってきた。好きなものを両立できないって悲しい、とか思いながらしかたなく起きて家事をした。今日も印度カリー子レシピにするか。きのこも色々買ってこよう。一年中食べてるけどやっぱり秋の食材といえばきのこでしょう。とはいえこの前どこかのファミレスで松茸のメニューがあって松茸はここで食べなくてもいいかなあなど話した。特別感あるものは食べられたら嬉しいけど食べなくてもいいし食べるなら特別な感じで食べたいとか思う。

日曜日は唯一早めに夕飯を食べられる日なのでダラダラ食べてしまった。夜に作業をする時間があるぞ、と思ったのに気づいたら寝ていた。ぼんやりやリラックスが得意なのはいいけど、私が個人的に怖いのはそれで消化が悪くなること。胃腸の働きを正常にしたい。色々気をつけているんだけどな。

こうしていてもなんかいつもと違うリラックスがほしくてラジオをつけてみた。昔は朝はずっと聴いていた番組。ラジオの台本を書くバイトに応募しようとしたこともあった。なんでしなかったのか。当時は今よりずっといろんなもの書いていたし、エネルギーあったから出しちゃえばよかったのに。採用されなくてもいい経験になったかもしれない。私のことだから郵送(当時はなんでも郵送)が面倒だったのかもしれない。すごくありうる。変わってない。

昨日、寝落ちする前に開いていたのは、昨日書いたフロイト「心理学草案」がらみで『W・R・ビオンの三論文』(2023,岩崎学術出版社)。この翻訳も日本の精神分析家の福本修先生。編者のクリス・モーソンは2020年に急逝。ビオンの二人目の妻、フランチェスカとともにビオン全集の編集に関わったクリス・モーソンの仕事を引き継げる人なんているのだろうか。この本は各論文(講演記録)にクリス・モーソンの編集後記がついていて、本の半分くらいの分量があるのではないか。そこがおすすめ。いろんな事情や背景やいろんな資料があるんだなあと驚くし、その内容も勉強になるし面白い。序言はロナルド・ブリトン。

昨日は午前も午後も別のグループで事例検討会をしていた。午前は初回面接のグループ。午後は仲間内で定期的にやっているグループ。ビオンは第一論文「記憶と欲望」(1965)で「臨床報告」と呼ばれるものは現実の経験だったものの変形物だという。でも、とビオンはそこを入り口にもっと広い問題を語っているので部分的に引用することはしないけど(したいけど)、ビオンがこの講演の中でフロイトに倣って言う「人は本当にほとんど盲目になる必要がある」の部分に関してフロイトを引用しておこう。いや、フロイトを引用しているモーソンの編集後記を引用しよう。

「フロイトは一九一六年五月二五日(原注だと五月一三日)のルー・アンドレアス=ザロメへ宛てた手紙の中で、それに言及した。フロイトが手紙で述べているのは文章を書くという行為についてだが、彼が「私は、すべての光を一つの暗所に集中させるために、意味のまとまり、調和、修辞そしてあなたが象徴的と呼ぶあらゆるものを放棄して、自分自身を人為的に盲目にしなければならない」と書くとき、彼は明らかに、精神分析的な注意自体に言及していたーーそれは、分析者が「自分自身の無意識を受信機のように、患者が送って来る無意識に向ける」(フロイト、一九一二、一ー五頁)ことを可能にする、平等に漂う注意にとって必要な条件である。」

フロイトを読んでいるとビオンの言っていることの含蓄も実感する。ビオンの方がフロイトより心揺さぶる書き方してくれるし。ウィニコットほど変なマイルドな感じがしないし。どの書き方も好きだけどビオンの誠実さは特に好きだな。原著で全集を買ったのはウィニコットの方だけど。

もうこんな時間だ。今日も暑くなるんだって。ただでさえ夏の疲れが残っているでしょうから無理せず過ごしましょう。お元気で!

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散歩 精神分析

寺家ふるさと村、Reading Freud

空が明るくなってきた。今日は曇りなのかな。ピンクがかってくるのではなくグレーが薄くなるしかたで朝になっていく。天気予報は東京は午前中は晴れ、午後は雨が降ったり雷が鳴ったりするみたい。今朝もエアコンはつけておらず扇風機で外からの弱い風を循環させている。明日は一気に気温が下がるらしい、といっても28度とかだけど。日本はどうなってしまうのだろう。

先日、横浜市の寺家ふるさと村へ行った。田園都市線青葉台駅、小田急線柿生駅からバスで行ける。横浜はみどり税だっけ、独自の税金をとって横浜みどりアップ計画を実施している。寺家ふるさと村四季の家もその「ウェルカムセンター」のひとつとして機能しているらしい。東京在住在勤の私も緑に関する税金をとられていると思うのだけど何税だっけ。こんなのとるならきちんと緑守ってよ、と怒った覚えがあるのに税金の名前を忘れてしまった。いかん。寺家ふるさと村の寺家は「じけ」と読む。バス停を降りるとすっかり実った稲が広がっている田んぼと藁で束ねられた刈り取られた稲が並べられた谷戸田が広がっていた。とてもきれい。その日もまだ暑かったけど素敵な里山の秋景色。春に田植えして夏には青青と育った稲たちもきれいだっただろう。それにしても子どもの頃はすぐそばにあった田園風景にいちいち感動するようになってしまった。GWに金沢から和倉温泉まで七尾線に乗ったときも空と雲がそのまま映り込む水田が続いていて何枚も写真を撮った。

横浜市のみどり税にも文句はでているだろうけど、この寺家ふるさと村は結構賑わっていて四季の家のレストランも混んでいた。お蕎麦と鰻のお店みたい。外のベンチでお弁当を食べている人もいた。四季の家では蕎麦打ちとかイベントも色々開かれているらしい。私たちはそこでお手洗いに寄ってから里山散策スタート。田んぼの脇の道をいくと熊野神社の階段が見えた。田んぼの向こうの人影に目をやると親戚の集まりらしき人たち。お墓参りかしら。家族っぽい集まりには友達や他人とは違う距離感が作り出す形、みたいなものがある気がする。熊野神社への階段は少し急でいかにも里山の神社という佇まいだった。脇道を降りて再び田園風景を歩く。いろんなカカシが田んぼを守っていた。少しいくと釣り堀の池に。誰も言葉を交わさず、ほぼ等間隔で動きのない池にただ静かに釣り糸を垂らしていた。釣り堀はいい。市ヶ谷のとか何度か行ったことがある。そこから森へ続く坂へ。通勤の距離で行けるハイキングコースは理想的。道もほどよく整備されていた。いろんな虫や植物がいてまだ青い柿もまだ緑の栗もまだ黄緑のどんぐりも待ち望んだ秋を地味に彩っていた。この前までどこにいってもたくさんいた蜂は少し減ってきたように思えた。スズメバチ注意の看板は一年中かかっているだろうし、スプレーは作業場のそばに置いてあったけど。途中の池はあまりきれいではなかったけど近くの木々でハンモックでくつろいでいる人たちもいて気持ちよさそうだった。森を抜けると再び田んぼ。小さな子どもたちが稲刈り体験かカカシ作りか田んぼの中で楽しそうな声をあげてるのをみられた。ミャクミャクのカカシもいたが、多くのカカシは名無しだろう。子どもたちに聞けば「あれが〇〇ちゃんの」と指差して教えてくれることはあるだろうし、近くによれば名札が付いていたりする場合もあるとは思うが。帰りはあまり本数の出ないバス停からちょうどよくバスに乗れた。ナスの畑とぶどう畑の間にあるバス停にはすでに二人並んでいてそれぞれ文庫本を読んでいた。何を読んでいるのかなあ、と思ったがわからず。結構厚い本だった。

そういえば、Reading Freudで精神分析の創始者であるフロイトがその早期に展開した神経学的な仮説「心理学草案」(『フロイト全集1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』岩波書店)読んでいるが、メンバーのなかで、これがまるで「物語」かのように共有されはじめた瞬間があった。

「心理学草案」(1895)は

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。

というものであらすじがあるようなものでも要約できるようなものでもないにも関わらず。フロイトは精神分析を知らずとも多くの人が知っている名前だし、少し知識のある人ならフロイトとフリースの関係でこれが書かれたことも知っている。フリースを知らなくてもフロイトは常にそれなりに濃い関係で読み手なり聞き手なりを持っていたから自ずとその言説はコミュニケーションの結果として読まれ、そこに共通の物語が生じやすいのかもしれない。

今日はもう木曜日か。1週間早い。良いことありますように。

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イベント 精神分析

回帰

今日の東京の日の出は5時25分。毎日1分ずつ遅くなる。金曜日から急に涼しくなるらしい。明日は雷の予報も出ているのね。昨晩の新宿の空は大きな雲が層になっていて明るく感じた。東京だから?星かと思って眺めていた小さくて白いものはいつのまにか雲に隠れた。飛行機だったらしい。オフィスのそばでいつもみる飛行機は都庁やオペラシティに突っ込むのではないか、というくらい低空飛行だからあれはなんだったんだろう。UFO?と思うのはいろんなところでUFOの話を聞きすぎているからか。能登地震があった翌年の5月は石川県羽咋市の宇宙科学博物館、コスモアイル羽咋にも行った。宇宙人がたくさんいて展示も本格的ですごく楽しかった。最近だと千葉県銚子市の地球の丸く見える丘展望館でもUFOの映像をみた。経営困難による廃線の危機を「ぬれ煎餅」などで乗り切ってきた銚子電鉄の犬吠駅が最寄り。途中のひまわり畑が圧巻だった。以前は、展望館でUFO召喚イベントとかもしていたらしい。銚子電鉄に乗ること自体が目的の人もいるし、観光だと犬吠駅で降りる人がほとんどかも。駅前の回転寿司屋さんも犬吠埼灯台もとてもいい。そういえばこの前、京王線新宿駅の売店で銚子電鉄のぬれ煎餅を見かけてびっくりした。「まずい棒」もあったのかな。銚子電鉄と京王は何繋がりなのだろう。銚子電鉄が京王線の車両を使っているとか?私の実家の方のローカル線はたしか井の頭線の車両だったからそういうのもありうるかも。鉄道はそれ自体、旅の醍醐味。昔の面影も届ける大切な手段。盛り上がってほしい。

不注意で色々予定を入れまちがったり、アプリを使ったあれこれができないのは、最近の携帯が私には小さすぎるからではないかと思い至った。Duolingoだってパソコンでできればいいのに。。。と思っていたらパソコンでもできるというではないか。私が知らないだけだった。いざやってみたらやりづらいのは携帯が小さすぎるせいではなく、どちらにもメリットデメリットあるという普通のことに気付かされただけだった。でも携帯とPCではやれることが違う気がするので両方使ってみようと思った。これも少し前に書いた習慣を崩すことの一環になるかも、と少しワクワク。この話をしたら「ボケ防止ですね」と言われた。まあそうなんですけどね。

ボケ防止で思い出したのだけど、最近思うのは、私は死ぬまで本を売ることをしないだろうなということ。もちろん売るための本なんて書けないというのもあるけれど、本を書いている人たちは目的がはっきりしている人が多いなと気づいて、私は特に自分の中にそういうものを見出せないから、こういう毎日のパーソナルで他愛もない発見をメモ的に記しておくのがあっているんだな。もちろん国内外での発表は続けたいし、協会のジャーナルには投稿していくだろうけど。それにしてもこういうのだってすぐ忘れてまた少ししたらそういえばDuolingoってパソコンでもできるんだって、とか戻りかねない。自分だけのことならそれでいいわけで、というか、相手あることだって何度でも聞き直していいわけよね、人は。何度も同じ話するのだって人なんだから。精神分析なんてほんと何度も何度も同じ話をしたりする。けど、それも全く同じということは全くないのだな、とか考えているのがフフフという楽しみだったりする。自分のことってよくわからないから、何度も同じ道で迷っちゃったりはしないかもしれないけど、またここに出ちゃったよ、みたいなことはあるわけだし。回帰するともいう。

フロイトは「代替形成や症状は抑圧されたものの回帰の指標」であるとして欲動との関係で抑圧を精密に捉えようとした。メタサイコロジー論のひとつ「抑圧」論文でフロイトは三つの神経症、つまり不安ヒステリー(動物恐怖症など)、転換ヒステリー、強迫神経症を取り上げて抑圧のメカニズムを記述する。1915年の三論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」「無意識」は、フロイトの症例とともにセットで読んだほうがいいと思うけど、私たちがReading Freudで読んでいる「心理学草案」が前提とした神経学的な仮説に基づいた思弁ではない方法、つまり臨床観察に基づく基礎づけをフロイトが試みたものたち。とても面白い。もちろん「痛み」とか「草案」からすでに印象的な取り上げ方をされているテーマは引き継がれている。

そういえばこれもどうでもいい話なんだけど、私はAmazonのオーディブルって無料期間に少し聞いたことしかなくて携帯の読み上げ機能でキンドル本を聞くことがある。これがかなりストレス、と同時に面白かったりもする。メタサイコロジー論は多分そんなに間違えて読まれないと思うけど、読まねば、みたいな目的があるときはそういう間違いはストレスでしかないかもしれない。ちょっとした息抜きとして聞いているときは読み上げの間違いは逆に面白みになったりもする。よくある読み上げの間違いは耳が自動変換するようになっているのでいちいち引っかからないけど、自然に思い浮かばない区切りや変換がされるときは、手を止めて文章を確認して「えー」となったり本当に知らない単語だったりする。英語の読み上げもフランス語が混ざっていたりすると急に声が変わったりして覚醒水準は上がるけど聞くだけではわからない場合が多いので、英語は地道に自動翻訳に助けてもらいながら書いたり読んだりしないといけない。自動翻訳もまだ辞書機能とかの使い方がよくわかっていないな、そういえば。そのポテンシャルを全然いかせていない気もするのだけどすごく助かってはいる。AI翻訳はみんな駆使しているみたいで私も教えてもらったのだけど使いこなせない。こんなでもどうにかなる世の中であってほしいな。パソコンだって普及していなかった時代に生まれているので素朴に自分の身の丈でやっていきたいよ。アナログ思考も大事でしょう。

この前、時計屋さんへ行ったときも思った。そこはこだわりの店主さんだからちょっと緊張するのだけど大事な時計を預かったのでみてもらいにいった。ついでに自分の時計も電池が切れてしまったので変えてもらった。そっちは1時間くらいでできるというので指定の時間を少しすぎたくらいに受け取りにいった。小さなビニール袋に小さなクッション付きで入れてくれていた。お礼を言いながら受け取ると携帯電話と近づけないように、と早口で言われた。一緒にいた人も少し驚く素早い指摘に「すいません!」と携帯をしまって時計をはめた。こういう切迫感は緊張するけどプロの仕事だもんね、と思う。私が文明の利器を使いこなせないという話とは全然違うけど。ところで、さっきから「携帯」と書いているけど書き言葉にするといつも違和感がある。iphoneとか書かないと通じなかったりして、とか。でも大抵は文脈で通じるよね、多分。

昨日、なんでだか忘れたけど倉橋由美子と三島由紀夫のことを考えていた。倉橋由美子が書くかっこいい登場人物に会いたかったのかも。いや、先日、神奈川近代文学館へ行ったからか。常設展には今回もいい感じの三島由紀夫がいた。お目当ては開催中の企画展「中島敦の手紙展――おとうちゃんからの贈り物」。行きたかったのだ。『山月記』は教科書で読んだのが最初だったか?覚えていないけど漢文の授業で読んだ気がしてしまっている。途中からはどんどん読めるけど最初が難しいんだよね。かっこいい文体で大好きだった。今回の展示は、パラオ滞在中に息子とやりとりした手紙が中心。次男は当時まだ小さくてお返事は書いていないけど長男の手紙が子供なりのしっかりさで次男の様子も伝えてくれている。中島敦の子供たちはあまりに早くに亡くなった父親の思い出とどう生きたのだろう、戦争の時代を。

昨日の朝ドラ「あんぱん」は戦争が終わったあとの父の顔も知らぬ子どもや孫世代が登場した。この重たさと悲しみに触れれば戦争が終わることがないんだと知る。だからこそすぐに終わらせねばならないのに。一日一日が平和を願う気持ちで過ごせたらいいのに。せめて今日、せめて明日、って少しずつ先延ばししながらずっと平和を願って、本当に平和が訪れますように。

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俳句 散歩 精神分析

祭り、花壇、フロイト

昨晩は少し暑くて起きたがエアコンをつけたらすぐに寒くなって消した。すごく暑かった数日前よりエアコンの効きが良くなっている気がする。この夏、エアコンも酷使されっぱなしで寿命が縮んだのではないか。よくがんばってくれたおかげで私は生き延びたが家電は高いから引き続きがんばってほしい。

昨晩は通りかかった神社のお祭りにもいった。といっても通り過ぎただけだけど商店街のスピーカーから流れる祭囃子、町内ならではの案内、提灯にしかない明るさ、自転車で走りながら子どもたちが大きな声で交わす「またあしたね!」。突然、雨が降り出して自転車置き場に避難。雨雲レーダーと巨人〜阪神戦の結果を確認している間に止んだ。よく歩いた。

年よりが四五人酔へり秋祭 前田普羅

暑すぎて放置していた我が家の小さな花壇と玄関も少しきれいにした。剪定の時期ではないが、時間があるときにやっておかねばと剪定鋏でジャキジャキとパキパキの中間くらいの力で根元で陽もあたらず黒くなっていた千両の枝とすっかり大きくなった山椒の木の枝を切った。土も少し耕したら知らない大きな根っこを発見。君は誰、とびっくりしたけどまだ確認できていない。なんの根っこだろう。それにしても、剪定用の鋏、もう少し鋏部分が大きいのを買えばよかった。山椒の枝は少し太くなるとすごく硬いしトゲトゲしているから切りにくい。安全で使いやすくはあるから枝が逞しくなる前に適切な季節に切ればいいのだろうけど。昨日は風も気持ちよく少し涼しくなったとはいえ大きなゴミ袋に葉っぱや枝を片付け終わる頃にはやっぱり汗だくでクタクタ。肩もバキバキになった。今日の筋肉痛を恐れていたけど今はまだ大丈夫みたい。遅れてくるかもしれないけど。

昨日からオグデンが引用しているフロイトの文章が見つからなくてなんでだろうと思っていたらオグデンの本の誤植だと思う、多分。Freud, S. (1911b). The history of the psychoanalytical movement. SE, 14とあるけどThe History of the Psychoanalytic Movementは1914年だと思います。私もたやすく引っぱられてしまった。論文名見ればわかるじゃんね。まだまだな。オグデンが引用するフロイトも私は好きで、今読んでいる論文はオグデンの主張も好き。こういうの読みながら自分でも「ああ、そうか、あそこでフロイトがこう書いていたのはここに繋がっているかもしれないんだ」という発見があるくらいにはフロイトを読み続けてきてよかったなあとしみじみ思う。すごく時間がかかるしエネルギーも使うけど精神分析が関わる人の心ってそういうものだからな。

今日もあれやこれやがんばろう。今日のNHK俳句は岸本尚毅先生。一番好き。良い日曜日になりますように。

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イベント 精神分析 精神分析、本

花火、禾乃登、フロイト草稿

風が気持ちいい。洗濯物が揺れすぎているのが心配だがすぐに取りこむから大丈夫。今日もこれから暑くなるみたい。風も朝の光も確実に秋なのに。夏休み中は東京ヤクルトスワローズ神宮花火ナイターといってヤクルトの試合の5回裏終了時には300発の花火が上がっていた。初台のオフィスは新宿にも原宿にも近く、神宮球場はそのちょっと先。毎年、夏の毎日に花火が窓から見えるなんて特別。大体仕事中なので音を聞くだけだけど。それも8月31日で終わった。今日9月2日から6日頃まで七十二候「禾乃登(こくものすなわちみのる)」。処暑の末候。たしかに暑さも峠を越した感じはあるからやっぱり暦は気候変動にまだ対応できてる。これからも五感と言葉が離れすぎることのありませんように。

昨日、9月1日はイレギュラーな予定の時間がわからなくなって確認したり、8月末までの締切にきづき慌てて書いて送るなどした。焦った。私個人の夏休みはとっくに終わっていたがいつも学校の夏休みモードに気分も身体も合わせてしまう。子どもの話もたくさん聞くからかも。それはそれで楽しいことだが時間ができるとこの暑いのに精力的に遊んでしまい、翌日の疲れを気にするという繰り返し。実際、疲れはそんなに感じないが割と大きなもの忘れをしている時点で疲れているかもしれない。あるいはこれまでもそうだったジャンという話か。どっちにしてもあーあだよ。

時が経つ早さには困るけどオフィスのカレンダーをめくってまた楽しい気分になった。霜田あゆ美さんのイラストのカレンダーは毎年、毎月楽しい。

昨晩、Reading Freudの準備としてフロイト『心理学草案』のことを考えていて
松山あゆみ「メランコリーと初期リビード経済論 : フロイト草稿G「メランコリー」のリビード論的意義」(2010)を読んだ。

フロイトの草案は全集に載っている『心理学草案』だけではない。この論文では題名の通り、草稿Gを精読することで、リビドー経済論の観点からフロイトのメランコリー論の起源をそこに見出している。こんなものを送りつけられたフリースがどのくらいフロイトの頭の中にあることを理解したのかは不明だが、フロイトにとってはとにかく相手がいることがまずは重要だっただろうし、フリースがいてくれたおかげで精神分析の種がたくさんまかれた。初期にまかれた種を乱暴に交雑することなく、起源として大切にすること。乳児期を大切にするのと同じこと。それは単に過去に原因を求めている、とはわけが違う。歴史を大切にするということ。9月からまたReading Freudがんばろう。

身体大切に過ごしましょう。良い一日になりますように。

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コミュニケーション テレビ 精神分析

フロイト、平和

毎日暑い。みんなのうたに「ねつねつねっちゅーしょう」という防災ソングができていた。知らなかった。カッパのは知っていたが。先日もスポーツクラブのプールで小学生が亡くなったというニュースを聞いた。痛ましい。安全で楽しい夏休みを過ごしてほしい。

帰り道、日が沈めば少しは気持ちいいが、なんせまだ日が長い。夕焼けはいつもきれいで昨日も細い月がきれいだった。

今年度、Reading Freudで読んでいる『フロイト全集3 心理学草案』をそれほどわからなくない話として、少なくともフロイトが何をやりたかったのかが少し理解できるようになってきたのでノートにまとめてみた。自分にそんなことがすいすいできるようになるとは思わなかった。これまでかけた時間が報われている感じがして嬉しい。フリースは本当にこれをきちんと読んだのかな。フロイトは草稿を披露できる相手がいることが大事なのであって、フリースその人をみてはいなかったのではないかな、とかも思う。

フロイトは敬愛するダーウィンのビーグル号での航海みたいな研究の仕方に憧れていた。でも現実的なフロイトは、お金を稼ぐ方法と自分が天職とするものに折り合いをつけながら地に足をつけてがんばった。マルタと結婚をしたい。ならば収入を得ねば。だったら研究より臨床医として開業だ、そのためには経験を積まねば、というように。そして無事にマルタと結婚し、精神分析も生まれた。ピーター・ゲイは短気で気分の浮き沈みの激しいフロイトを押しとどめたり励ましたりして耐えるマルタのことも書いていて面白い。どんなすごい人もきちんと周りに迷惑をかけて、協力をしてもらって生きているわけだ。フロイトは人間の心にも自分の欲望にも忠実で、『心理学草案』はその情熱が科学的探究心と結びついて書かれた壮大なプロジェクトだったのだろう。

毎日ぼんやり考えては忘れ、気になっては忘れ、ということを繰り返しているが、選挙の文脈で「あの人はだれそれよりタチが悪い」というような言い方を聞いてぼんやり考えた。もしそれをそのだれそれとやらがきいたらちょっと喜んだような言動したりするのかもな、とか。そういうノリで応じるというのはありうるな、と。なにかを批判したり非難したりしたいなら別のだれかをまきこまなくてもいいと思うのだけどついやっちゃうのは怒りに巻き込まれているからだと思う。怒りに対してその種のノリで応じる人が多いのが現代だし、パターン的なコミュニケーションが作動しやすいから議論も二分化しやすい。出来事として「さすがにあれはないよね」とか「あそこで止めておけばよかったのに」というなら「まあそうだねえ」となんとなくの一致で不毛な議論になったりはしないのかもしれないけど。

ひとりひとり違うというのはどこをとっても当たり前で、もし苛立ちなどが大雑把な分類を生み出しているのだったら個別に戻ったほうが平和かも。みんなが同じもの褒めはじめてもそれをいいと思う必要などないのと同じ。同じもの見て同じような褒め方してても実は全然違う部分に反応しているなんてことはよくあることというか当たり前だと思う。

先日、NHK「映像の世紀」第2部  独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943を見た。ウクライナの古都キーウ、1941年、1943年含め、第二次世界大戦で人口の20%を失ったという。戦後80年、8月は特に戦争を意識する月だ。戦後を戦後のままにしておかなくては。個人間の差異の背景で平然と進行する理不尽を見逃さないように、変なノリとは違う仕方で今日もがんばろう。

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テレビ 精神分析

精神分析とかドラマとか

フロイトは科学の名の下に自分の発見に普遍性を持たせることを試みた。そしてそこには必ず患者がいた。その初期の試みのひとつが「心理学草案」である、ということをそれを精読しながら現代の精神分析も学ぶ私たちは実感しつつあり、そういう感想が出たりもした。そんなフロイトのあとに続いたのがラカンであり、ビオンであるが、昨日もビオンの自伝(全集1、2巻)の良さを本を見せながら語ってしまった。

『W・R・ビオン全集』(著作15冊+索引)

The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.

第一巻『長い週末 1897-1919』(The Long Weekend 1897-1919: Part of a Life)

第二巻『我が罪を唱えさせよ 人生のもう一つの部分』(All My Sins Remembered: Another Part of a Life)『天才の別の側面 家族書簡』(The Other Side of Genius: Family Letters)

フロイトの訳本の脚注などを読めばなおさら明らかだが、精神分析は言葉をあらゆる方面から使用するので、できるだけ確かな翻訳で読みたい。フロイトの翻訳だっていまだに色々あるわけだが、だからこそフロイトやビオン、クライン、ウィニコット、ラカンに関しては、理論と実践の両方を積み重ねている人の訳で読めるとありがたい。それにしてもこの自伝はもっと早くに読みたかった。全集の最初の1、2巻なわけだし、ビオンがあんなに詩的な素敵な絵を描く人だともっと早くに知りたかった。私が大好きな鳥たちがたくさん登場することにもはまってしまい、すっかりビオン大好きみたいになっている。

それにしても精神分析の面白さを伝えることは難しい。いまだにセミナーや読書会で多くの人が精神分析を学んでいるのに体験する人が少ないことは単に料金の問題ではないだろう。自分に投資するという点ではもっと多くの費用と時間をかけている人はたくさんいる。たしかに精神分析を受けることは主には苦痛でしかなく、それを無意識で知っている人は多く、自然と回避的になるのはよくわかる。探求を経ない諦めの方が痛みも危機も少ない。探求とそれに伴う苦痛を面白いというのはマゾヒスティックでナルシスティックなことでもあるだろう。しかし、他者を通じての自分との出会いには衝撃があり、そこに長くとどまることで結果的にはマゾでナルシスティックな側面は打ち砕かれることになる。他者に変化を求めるのではなく、それを頑なに求める自分を探求する中で心をできるだけフルに使ってあげること、どうせ限りある人生なら自分の持ち物くらい使えるようになりたい。それを生涯の仕事にしようと思ったのはずっと後のことだけど、私は最初そんな気持ちで精神分析を求めたし(事後的にわかったことだけど)、長い期間、いろんな人の協力を得て、自分を管理ながら通った、というか通うこと自体が自己管理になった。

これもビオン自伝から面白い部分として仲間内で共有したのだけどビオンが黄疸でクラインとの分析に行けなかったときも面接料を払わねばならない一方で、ビオン自身は仕事ができないので患者からお金をもらうことができないという状況を体験したビオンは「病気や災難はとても高価な贅沢品と悟るには時間がかからなかった」と書き、そのあとに予定通りにきたビオンに不意をつかれるクライン(こないと思って別の予定を入れていたんだって)のことを書くのだけど、こういうことの連続が精神分析。一人では起きない些細なようで重大なことがたくさん起きて心に常にさざ波が立つ。でもそれを相手に投げてしまわないで相手を通じた自分のものとして抱えていく、そういう力をつけていく、そういうイメージかな。それを面白いとか豊かだとか直観できる人にはとても効果があるはずだけどはやることはないだろう。寿命は伸びてもとどまる余裕をもてる世界ではなくなった。短絡的な評価ばかりされ、それを気にさせる仕組みを持つ世界になった。

昨日のNHK土曜ドラマ『ひとりでしにたい』の綾瀬はるかの台詞がとてもよかった、とそれにまつわる連想を書きそうになったが、今朝もやることやって仕事。身体も動かして美味しいもの食べたい。みんなのかき氷写真とかすごく美味しそうだけどおなかがもたないよなあと胃腸の弱さが悲しい。自分の身体を労わりつつ過ごしましょう。どうぞ良い日曜日を。

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哲学 精神分析 読書

ベルクソン、フロイト

早朝、窓を開けたら一番きれいな色をしているときの光に会えた。ただの強い日差しに変わってしまう前の爽やかなピンク色。昨日はそんなに汗をかかなかった。外に出るたびに「あぢぃ」となっていたけど長時間でていることがなかったからかな。熱中症にならないようにせねば。水分水分。

ここでも何度か書いている平井靖史さんの『世界は時間でできている -ベルクソン時間哲学入門-』が昨日3歳になったそう。ベルクソンに関してはこれと『ベルクソン思想の現在』檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼が私の愛読書となっている。2022年のベルクソン研究者たちの盛り上がりはすごく楽しそうで、そのネットワーク作りをしている平井さんの仕事ぶりも魅力的で私もようやく門前にとどまることができた。

アンリ・ベルクソンとフロイトは同時代を生きて神経学に同じような関心を向けながら心について考えていたにもかかわらず接点がなかった。ジャン=リュック・ジリボンがベルクソンの『笑い』とフロイトの『不気味なもの』を並べて読解することで見出した「不気味な笑い」という論考が2016年に平凡社ライブラリーから『笑い/不気味なもの』としてでており、二人をつなげる試みはなかったわけではない。ベルクソンに魅力を感じながらも長い間近づけなかった私もとりあえずこの本は買っていた。

日本の精神分析でいえば、小此木啓吾が哲学少年としてベルクソンを読みこむだけでなく、フロイトが導入した失認agnosieなど神経学的な問題に臨床で関わる中でベルクソンの『創造的進化』に影響を受けた学者たちも参照しながら自我発達理論と発達神経生物学の延長として精神分析における自我心理学の発展について述べている。小此木先生が見出した日本の若い(当時)医者や心理士は私たちに精神分析と精神分析的なものをごっちゃにしたままとはいえ、海外の最新の知見はもちろん、ご自身の臨床に基づいた精神分析的思考をたくさん教えてくださった。私はその世代に直接、精神分析やスーパーヴィジョンを受けてきた世代なので、小此木先生の批判されるべきところも知っているが、小此木先生の仕事に戻れば、精神分析を学際的な領域として楽しめることも知っている。今「自我心理学」と聞いたときに神経学からの発展として話す人は少ないように思うので、私は私の世代で言えることを幅広い視野から次の世代に伝えていければいいなと思う。

最近はビオンの自伝に感動したのでそればかり話している気がするが。今日はフロイト『心理学草案』。せめてここまで戻る場を作れてよかった。

今日も暑そう。気をつけながらがんばりましょう。

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精神分析 精神分析、本

Reading Freudなど。

雨が少し降っている。昨晩は急に寒くなって今朝起きたときはくしゃみがたくさん出た。今は落ち着いた。最近、いろんなものに対するアレルギー反応みたいのが増えた気がする。アレルギーは色々蓄積なんだろうから(違う?)この歳までそんなに出なかったことがラッキーだったのかもしれない。

風邪をひいたり怪我をしたり何かしらの症状を出すとその状態をすごく観察するようになった。観察とは言わないか。たとえば喉が痛かったらどこのどのへんかどうなのか、それがどう変わっていくのかをすごく細かく感じようとするようになった。人の身体ってどうなってるの、という興味は小学校低学年の時はすごくて図鑑ばかり見ていたが今は病気の側から色々知りたいと思うようになっている。

昨晩、Reading Freudで『心理学草案』の第一部の続きを読んだ。ニューロンの興奮量の話はニューロンになりきりたかったがフロイトの時代のフロイトが使用している「ニューロン」というのは今とは違うからフロイトが描いた図の中に入り込もうとしても今どきのニューロンさんにしかなれない。どっちにしても自分は人としてしか登場できない。まあ、フロイトが描き出そうとしている世界も人のことであるんだけどフロイトの基盤にはヤツメウナギとかザリガニとかいるわけだし。ヤツメウナギは脊髄神経の研究、ウナギは生殖器、ザリガニが神経細胞の研究だったのだったかな。だからニューロンまで遡っちゃったのかな。科学的であるためにはそれじゃなくてもよかったんだろうけど、とりあえず私も動物とシームレスに人間を見たい。

最近、鹿の赤ちゃんが産まれたという画像が流れてきてじっくり見ているのだけど生まれたての赤ちゃんが脚ガクガクさせながら立ち上がって親に舐めてきれいにしてもらうときもバタンって倒れないで立ててたり、親にくっついて歩いているうちに別の鹿を親みたいにしていて本当の親が迎えにきたり色々しているのをじっと見てるとせめて動物の感覚を知りたいと思ったりするんだよね、など話した。母鹿の方は子供を匂いでわかるらしい。羊膜も胎盤も食べちゃってるわけだからなんかすごく子の識別能力高そう。子供の方は母のお腹にいたわりにまだぼんやりな感じ。ものすごいスピードで組織化されている部分とそうでない部分があるんだろうな。

『心理学草案』は第二部で人の形をとったエマが登場。楽しみ。今日は事例検討グループ。色々追いついていないががんばれたらいいなあ。どうぞ良い1日を。

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旅 精神分析

咳、和倉温泉、事後性

南の空に月。早朝の月はいい。鳥たちもよく鳴いている。私が夜中にする咳は鳥たちの声と違って不快に響きそう。自分の咳で起きてしまい寝不足が続いている。それでも3週間ぶりに筋トレをした。その間は全く咳が出なかった。風邪症状もなく突然止まらなくなる咳につく名前はないが少しずつ改善しているのは確かだ。筋力もそんなに衰えていなくて安心した。上半身って姿勢を保つ以外に日常でそんなに使っていない気がする、という話をした。胸と背中を鍛える自重トレーニングも教えてもらったのでやってみよう、と思うがひとりになるとほんとがんばれない。それにしても眠い。当たり前か。

5月18日、19日と天皇家の愛子さまが七尾市の和倉温泉に行ったニュースを見た。GWに和倉温泉の被害状況を見たばかりだったし、瀬尾夏美さんたちの配信でも温泉の従業員の方にも「被害は大きかった方から支援は入るから」と七尾への支援が届いていないことを知っていたのでよかったと思った。七尾の青柏祭の「でか山」も和倉温泉お祭り会館で見たとのこと。2年ぶりに開催された青柏祭。「でか山」が練り歩く様子はものすごい活気なので来年もたくさんの人が集まったりいいなと思う。とにかく人が来ないことには復興が始まらない。歩きにくい隆起した道路、崩れ落ち内部の断面があらわなままの旅館、ゴロンと倒れたままの少比古那神社の狛犬。見れば見るほどいろんなところに被害が出たまま残されていた。東日本大震災のあと、津波で薙ぎ倒された建物が目の前にあるのに気づかなかった時のことをよく思い出す。

人間はそのままをそのままに見ることがいかに難しいか。それは精神分析をやっていても明らかだ。精神分析を受け始めた人たちはいずれ自分が見てきたものはなんだったんだろうと愕然とする瞬間を体験する。抑圧と抵抗の力の大きさに何度も驚く。自分のことなのに。フロイトは『心理学草案』において「事後性」の概念を探索した。精神分析における「嘘」と「真実」は心の非同時性、現時点、つまり後がある、という段階差を含むフロイト独自の時間概念によって説明される。この「事後性」の概念あってこその「自由連組」であるという認識は重要だろう。頻度そのものが重要なのではない。精神分析が患者と共に発見し、確認し、修正を加えてきた心の装置の歴史における時間概念を追求することが大事。今週末のReading Freudはちょうどその辺の話になるだろう。楽しみ。

ということで今日もがんばりましょう。暑くなるみたいだからお気をつけて。

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精神分析、本 趣味

木曜日

今日はあまり風がないらしい。昨晩は帰りに少し雨に降られた。最初は一滴二滴という感じで少しずつ降り出した。傘をさす必要のない雨でよかった。靴も雨用ではなかったし、折り畳み傘はリュックの一番下に入っていたから。

久しぶりに喉をやられた。気をつけていても声が出なくなるときがある。昔、5、6人でTDLに行った翌日に掠れた小さな声しか出せなくてスーパーヴァイザーに笑われたことがあった。もうあれから20年くらい経つのか。TDLにも全く行っていない。小さい子がいるおうちのお手伝いとして行ったけどその子ももう大きい。人生あっという間、と思うといつも102歳まで生きた親戚を思い出す。最後の方の移動は車椅子になったけど頭と心は健やかで、亡くなった夫との思い出話を泣きながらし、一緒にどこそこへ行きたかったなどとお話しされる姿を尊敬した。102歳からしたら私はちょうど折り返し地点。うーん。彼女くらい明晰でいられるならそれもいいが多くの場合難しいと思うので長くてもあと30年くらいだろう。となると、急に、あとちょっとではないか、というような気にもなるがやることやっていきましょう。

6月は私が所属する日本精神分析協会の学術大会で発表を二つ。候補生の会向けの講演もある。精神分析家になった人はみんなするやつ。

7月は日本精神分析的心理療法フォーラムという会の大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」に討論者としてお誘いいただいたのでそちらもやらねば。岡田温司先生とご一緒できるのは大変嬉しい。『フロイトのイタリア――旅と芸術と精神分析』を再読したい。フロイトがなぜイタリアを必要としたのか。私たちがちょうど読んでいる『心理学草案』が出た頃にフロイトははじめてイタリアへ行った。フロイトはウィーンが嫌いだ、としょっちゅういっていたそうだが本音ではなかったらしい、息子のマルティンがそう書いていた。そしてフロイトの考古学的才能、美術への強い関心も自分には遺伝しなかったと。うむ。そういうのは遺伝ではないが上質だったり本物そのものに触れる機会が多い環境で育ったことはどこかでいいことにつながっていることだろう。私もいいものが見たいな。今だったら世田谷美術館の横尾忠則展にいきたい。

今日もいい景色にたくさん会えますように。

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精神分析、本

フロイト誕生日

晴れてきた。昨日の朝は雨の中、少しお出かけしてお店に寄ったら養生テープで印をつけておいたビニール傘がなくなっていた。養生テープではダメだったか。

昨日、5月6日はフロイトの誕生日だった。1856年生まれ。どんなお天気の日だったのかしら。そこから2度の世界大戦を経て、終戦間際まで生きるなんて誰も想像していなかった。結婚して子供をもつ、ということだって本当はたり前ではないけれどフロイトは結婚のためのお金が必要で開業して、精神分析というものを立ち上げた。戦争を二度も体験することになるなんて。妹たちがガス室で殺されるなんて。晩年に亡命することになるなんて。それでもフロイトは最後まで書き続けた。フロイトの長男、マルティン・フロイトはフロイト生誕100年の記念行事が終わった頃から『父フロイトとその時代』を書き始め、それは1958年に出版された。マルティンはこの本の冒頭で「しかし、父が天才だったことを否定する人はただの一人もいなかった」と書いている。そして天才を父親に持つ息子の苦労もちょっと書いている。この本はほかの伝記とはかなり違って、笑ったり心配したりする子煩悩なフロイトをたくさん見られる。フロイトが精神分析を作ってくれて私はそれと出会えて人生のかなりの部分を費やすものができて本当に良かったと思う。フロイトが生まれなくて精神分析なんてなかったとしても同じようなことをいう可能性もあるけどそんなこといったら私が生まれない想定もあるので現時点での喜びと感謝をフロイトの墓前に捧げたい。フロイトのお墓は確かロンドン。でも私的にはフロイトのお墓はフロイトの著作たち。残されたものがこれ以上焼かれたり捨てられたりしないように、いや、実際にそうなったとしても残していけるようにみんなで読んでいこう。

小此木先生はとても楽しそうにフロイトのことを話す人だったな、と今ふと思い出した。好きな人の話をするのは楽しいものね。

今日は晴れ。どうぞよい一日を。

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散歩 精神分析、本

雨、Reading Freud初回

明るくなってきたと思ったら一気に部屋がオレンジになった。今日はいいお天気みたい。昨日、ちょっと用事を済ませてバス停に並んだらポツリポツリ。降り始めたな、傘借りておいてよかった、と思っていたらどんどん雨脚が強くなってただ真っ直ぐ立っているだけなのにそこそこ濡れた。バスに乗っている間に雨脚は弱まって降りるときには普通の雨の日と同じだった。でもオペラシティに寄ったら人がいっぱい。突然の雨に傘がなかった人たち。新国立劇場で公演があるときとは全く違う色合い。つまり似たようなスーツの人たちがたくさん。みんなGWとはいえいつも通り仕事してらしたのね。仲間仲間。と知らない人を勝手な仲間意識で労いつつ本屋さんを一周してオフィスに戻った。オペラシティの成城石井にもぶらりとして知覧の紅茶を買ってみたけど結局飲まないまま夜まで仕事をして帰ってきた。本屋さんも成城石井も見ているだけで楽しい。

夜は今年度初回のReading Freudだった。5人の女性たちとフロイト『心理学草案』( 『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店))を読み始めた。初回ならではの緊張感もちょっとよかった。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。» p5(388)

刊行する気もないのによくこんなもの書くよなあ、と思うが、それならではの緩さが垣間見られて面白い。理論としてまとめてしまうと重要だけど書き方ほどは面白くない。フロイトの思考プロセスの記述の仕方がフロイトってこういう書き方するよね、と思えるのは楽しい。私たちはすでに情報という概念があり、心的装置というものを手に入れた状態からのスタートだからフロイトとは持ち物が全然違う。フロイトからしたら「ニューロンという概念を手に入れた!」というところか「Dr.STONE」のように一歩ずつ、みんなで。私たちも逆方向から一歩ずつ、みんなで歩み寄ろう。

今日の初回面接の事例検討グループでも記憶、時間、言語について何か言えるかもしれない。いいお天気だから仕事したくないけどがんばりましょ。今日のNHK俳句は斎藤志歩さんも能町みね子さんも出るのでは?楽しみだ。

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お菓子 イベント 精神分析、本

祭りとかReading Freud「心理学草案」準備とか。

窓を開けたら冷たい風。隙間だけ残して閉めた。曇り空。今日もお天気落ち着かないのかしら。

今朝も秩父の菓子処「栗助」さんの銘菓「まつりばやし」。一粒栗入りパイ饅頭。秩父といえば秩父夜祭。京都の祇園祭、飛騨高山祭とともに日本三大曳山祭りのひとつ。春の高山祭しかいったことない。秩父は行こうと思えば行けるから行こう。祇園祭も行こうと思えば行けるがすごい混雑なんでしょう?行くときは京都の人にお付き合いしてほしいな。高山は何回か行っていて京都ほど広くないからたくさん歩くなかでなんとなくの土地勘ができてる。秩父も多分大丈夫。でも京都は何度行ってもどこもかしこも名所で人が多くて、あ、そうか、人の流れが読めないから躊躇するんだ、多分。祭りのときってある程度人の流れがあって、あそこを抜ければ一気に静かになる、みたいなのがあると思うけど祇園祭ってどこ行っても人のうねりがありそうなイメージでビビるのね、多分。でも一度は行きたい。

私のオフィスで月一回やっているReading Freudが今年度も始まる。今年度は『心理学草案』。使用するのは岩波書店『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』の翻訳。参考文献はジェームズ・ストレイチー『フロイト全著作解説』 (北山修監訳・編集 笠井仁/島田凉子他訳、人文書院、2005)とジャン=ミシェル・キノドス『フロイトを読むー年代順に紐解くフロイト 著作』 (福本修監訳、岩崎学術出版社、2013)。今年度は新しいメンバーを迎えてキチキチだけど継続的にフロイトを読んできた人もいるし、それぞれ臨床しながら系統セミナーもこなしてきた人たちだから色々議論できるといいな。そのために勉強していたのだけど以前はこれもビビっていたのか難しい難しいと思っていたけど今は楽しい。その後の理論の展開を知っているからエキサイティングなんだろうね。草案は英語でproject。プロジェクトというと急にイメージが変わりませんか?フロイトのこのプロジェクトは頓挫するけど種まきプロセスとして超重要な局面になった。記憶をどう説明するかって話、とざっくり捉えるとわかりやすさはあるかもしれないけど、私たちはあくまでフロイトの臨床的な視点を忘れないようにしたい。この論文の背景に驚くべき症状を示す患者がいたことを。「草案」に事例は登場しないので『ヒステリー研究』と同時に読むのもいいかもしれない。

というかReading Freudの準備と発表原稿作り、両方しようと思っていたのに勉強しかできなかった。明日は初回面接の事例検討会とかあるけど夜にできる、と思いたい。一度に色々やるのってすごく苦手。最初からひとつ終えたら次、って着々とこなせばいいのだけどメインの仕事(=臨床)以外ではすぐ頭の中が煩雑になって優先順位もわからなくなってしまう。厄介厄介。でもこの厄介な身体と頭でこんな歳までやってきたのだから信頼していなくもない。みんないい一日になりますように。

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お菓子 精神分析、本

月、桜、ドゥルーズ、フロイト

やっと晴れた。この週末はどこもお花見で賑わいそう。私は今朝は諏訪大社のお土産、かりんケーキ。びっくりするほどポロポロ。どうしてだ?諏訪大社は一昨年のGWに行った。諏訪湖の夕陽がとてもきれいだった。

昨晩の帰り道、大きな三日月を見つけた。春の三日月は高度が高くてよく見えるという。それであんな感じだったのか?

花冷え、桜雨など言いながら寒さを凌ぐ数日間だった。季語は豊富なので足りなくなることはないが寒かった。真冬と同じ対策をしながらいうのもなんだが、底冷えしないのはやはり春だよねえ、など話した。私が通っていた小学校の校歌の歌詞には「桜並木」が出てくる。確かに校庭の桜は記憶に残っている。あの頃はちょうど入学式の頃に咲いたと思う。今は春休みの静かな校庭に咲く印象。小学生だった私には葉っぱばかりの桜の下に毛虫が落ちていることに気づいた日から桜は単に愛でたり儚さを思ったりするものではなくなった。高校生のとき、そういう時期に毛虫を自転車で轢いたことがある。轢いた私がいうものではないが、どうしていいかわからずしばらくペダルに足をつけられなかった。轢いたのはタイヤなのでペダルはなんにも関係ないはずなのだが、漕ぐという行為がまずかったのでは、などと思ったのだろうか。わからないが申し訳なかった。我が家の小さい花壇で毎年揚羽の幼虫が育っていくことで少し許してほしい。桜ではなく山椒の葉っぱでだけど。

最近、SNSでドゥルーズがトレンドに上がっていた。生誕100年、没後30年だからか?私は國分功一郎、千葉雅也、江川隆男たちの講義でドゥルーズを学んだけどあれは2013年とか14年とかだと思う。フロイト、ラカンを読めるようになってきたので当時入門書を片手に色々読んだのもいずれ思考を助けてくれるのだろうと思う。精神分析家だからフロイトを読むのは当たり前とはいえ、哲学の本を読むときにフロイトを読んでおいてよかったなあ、と思うことは多い。精神分析が『夢解釈』からだとしたらまだ125年だけど思想としての影響力は絶大。治療としては細々とだけど患者から学び蓄積され続けている知見と別の学問との対話で生まれた思考は私の生活基盤となった。精神分析以外のこともたくさんしているわけだけど毎日精神分析を誰かしらと行っている生活は心理士として色々やっているときとは別のことをやっていると思うし、影響もしあっている。いろんな人や理論と交わり合いながらやっていきたい。

ということで医師、心理士(師)など臨床家の皆さんは6月7日8日の協会の学術大会にぜひいらしてください。日本精神分析協会 第43回 学術大会については日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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俳句 精神分析、本

俳句、サラ・コフマン

お天気がイマイチ。昨日は光がいっぱいだった。

NHK俳句は堀田季何さん。「けりをつける」の「けり」って切れ字の「けり」だったのか!句友の名が!すごいなあ。でも私も先日、句会で出した二句両方に特選と佳作をいただいたので、最近の地道な習慣にご褒美をいただいた気分。引き続きがんばろう。

昨日は止まると寝てしまいそうだ、とちょっとカフェに寄って作業を始めたらそこで眠ってしまった。サラ・コフマンのフロイト読解が参考になっているので読んでいるのだけど文章が難解。私の読解力の問題もあるだろうけど、この文章はイマイチではないだろうか。難しい。サラ・コフマンはフロイトの読解方法をフロイトに適用する。フロイトの自己分析に厚みが出る。そしてコフマンは夢と遊び(芸術)を大切にしていると思う。たださすが哲学者。しつこい。エピグラフは

「好ましき事はすべて、三つでやってくる」。ジャン・パウル

あ、読んでいたのは『人はなぜ笑うのか? フロイトと機知』(人文書院)です。ひたすら「三」にこだわっている。精神分析は二を抜け出すための三だけど三を分解していくことも大事。そのためにはこのこだわりも大事か。

今日はどんな一日になるかな。いいことありますように。

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精神分析、本

おしゃべり、翻訳、精神分析の未来。

1月になって本格的に寒い。なのに昨日は汗をかいた。待ち合わせに向かっていたらなんと電車がストップ。慌てて違う路線まで移動して15分遅れで着。新年のご挨拶やらをして美味しそうなメニューから選んでおしゃべり。古き良き時代を知る人として世代の異なる心理職の輪を広げることができてよかった。こういう柔らかく穏やかなおしゃべりの場は人を豊かにする。それにしても私はすっかり一番上の世代になってきた。そして心理職として、精神分析を志したものとして本当に恵まれた時代を生きてきたんだなと思った。もちろんその時代を暗黒と感じる人もいるだろうけど。今年もいろんな人と気楽な機会を作っていきたい。ゆっくりしたあとには電車も無事復旧。事例検討会にも時間通り参加できた。介入の仕方についていろんな意見が出たが私は転移解釈を口にすることは最大限控える。それよりとどまることを必要に思う。継続で会っていれば色々なことが起き色々な気持ちになるのが当たり前だろう。その色々をお互いに体験していくこと自体が効果といえば効果につながっていく。ウィニコットのスクイグルが効果的なのはそれが何に見えようと構わないくらいの緩い線のあっさりしたやりとりが積み重ねられるからだろう。それが部分だろうと全体だろうと構わないわけである。実際そんなのはどっちだってありうるのだから。フランスのラカン派ではないIPAの精神分析家アンドレ・グリーンの文献を訳していたら明け方が近くなっていた。すごく時間がかかってしまった。引用されているフロイトの文章は私も以前メモしておいたところだった。全体の訳ができるにつれてグリーンのこの書き方はフロイトの書き方を真似たりずらしたりしているのかもしれないなと思った。1997年の論文だったと思うが

フロイトの1919年の論考「精神分析療法の道」の

「また、私たちの治療法を大衆を相手に適用するにあたって、分析という純金から直接暗示という銅をたっぷり使った合金を作る必要が生じる公算は大きいでしょう。また、そのときには、戦争神経症の治療の場合のように、催眠による影響が再び用いられもしましょう。しかしながら、たとえこの精神療法が大衆のために形作られ、どのような要素によって組み立てられようとも、その最も効果的で重要な構成部分は確実に、厳密で不偏不党である精神分析から借りてこられたものであり続けるでしょう。」

という箇所はグリーンが精神分析の危機と限界を書いているところと重なる、というかグリーンはこの論文の別の箇所を引用しており当然問題意識の重なりがあってのことだろう。私もいろんな学問と実践を経由して精神分析家になったが常にこれまでの多様な経験を生かしながら精神分析が広く届けられるように考えないといけないのは今年も変わらない。未来を考えるためには希望を持たないと。またおしゃべりの場を設けよう。助けてもらいながらやろう。窓の外に光が溢れ始めている。明日はようやく少し雨マークが出ている。暖かい飲み物と一緒にがんばろう。

(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)

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精神分析、本

ウルフマン症例

すっかり空が明るい。今朝はのんびり珈琲。あとふわふわのオレンジ味のリトルベル。河口湖チーズケーキガーデンのお特パックに入っていたお菓子。まるっこくてかわいくておいしい。

昨晩のReading Freudは『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)の後半、「ある幼児神経症の病歴より」(一九一八[一九一四])(=ウルフマン症例)の「Ⅳ 夢と原光景 Ⅴ 若干の議論」。精神分析は元来夢解釈の作業であり、この症例は戦前、戦中に書かれた最後の症例だと思う、たしか。フロイトの5大症例はこの時期までに出揃い、その後の理論的変遷の種は蒔かれた、という状態。ウルフマンも財産を失うなどして巻き込まれた第一次世界大戦の時期は1910年にできた国際精神分析学会(IPA)にとっても危機だった。フロイトはアドラー、ユングとの葛藤を抱え、1914年の「精神分析運動の歴史のために」(全13)   では 「以下に精神分析運動の歴史について文章を寄せるが、その主観的な性格や、この中で私に課せられる役割について、誰も驚く必要はない。精神分析は、私がつくったものだからである。」と書かざるを得なくなる。たとえユングが会長であっても創始者は自分だ、ということ。ユダヤ人ではないユングを会長にすることで精神分析をそれではないものにしたのはフロイトであり、というか、学術的な問題と情緒的な問題を分けられないのは精神分析の特徴でもあるのでユングはフロイトと離れられてよかったのかもしれない。学術的な話し合いならともかく、とユングも嘆いていたらしいし。さて、ウルフマン症例も世界大戦やこれらの精神分析運動の影響を受けており、今回読んだ「若干の議論」では精神分析家の中に想定される反論に対してあれこれ議論している。しかし、この議論の争点は私が精神分析学会にではじめた頃に大きく取り上げられていた心的現実とは、という問題でもあり、セクシュアリティをどう捉えるかという基本的な問題でもある。現在はこういう根本的な精神分析概念について議論するということが学会では減っているので古典を読み続け海外のジャーナルから文献を探すのが大切。当時生き残ったIPAに所属する私はそういう話を真剣にしたい人たちに橋渡しすべくこういう活動を細々続けよう。今日は初回面接を事例を用いて検討するグループとか3つのグループがある。大変だー。いいお天気だけど寒いいかな。また篭りっきりになりそうだけど冬の間は諦めましょ。どうぞ良い一日を。

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精神分析

俯瞰、洋梨、グループ

きれいな空。遠くでカラスが鳴いている。鳥たちは街を俯瞰できるからいいな。中井久夫はいってもいない街の鳥瞰図を知識から書けたと聞いたことがある。患者さんでもたまにこれができる人がいる。これまで会ってきたたくさんの子どもたちの中にもいた。すごく素敵な能力だと思う。書けることがそのまま考えることに繋がるわけではないけれど立体的な思考がなければ書けないわけだから。平面に線もひけない状態を知る私はその状態に共感するわけだけれど。

上野原の「びりゅう館」で買ってきてくれた塩山の洋梨を食べた。常温で食べ頃を数日待っていた。昨晩、お、そろそろ、と思って冷蔵庫に入れて、今朝むいた。つるんと手から逃げられたりしながら。甘くて美味しかった。洋梨は独特の甘さがありますね。

開業して7年経つけどフロイトを読むReading Freud(そのままだけどキノドスの真似)とか事例検討グループを続けてきたのはよかった。心理職の世界は30代になってもまだ自分のことを若手、未熟、と言い続けている場合が多いけど私はそういう話がでるたびにそれでは困るのでは、と言っている。他の職種のみなさんとの仕事ではそういうことはないので臨床の難しさがそう言わせているのだろうとは思うけどあえていう必要もないと思う。なんかそういう言葉が親しみやすさ的なものと繋がっているようで、学問とは、といつもなる。臨床も学問も孤独だし、そこでもがくうちにできる相手が職業上はいい関係になりうるかもしれず、学術的な議論以外の繋がりばかり作っても、と私は思うので、ひたすら難しいフロイトを読み続けるとか初回面接を細かく検討するとかしつづけてきてよかった、となおさら思う。実際、メンバーの皆さんは学問としての精神分析や臨床を楽しめるようになっているし、資格によって何者かであるかを規定しようとする思考とは異なる世界でどんどん力をつけていってほしいと思う。外側からなにか言っていても飛び込まない限りは自分とは無関係だし、時間はどんどん経っていくし、飛び込んでみたら自分たちの想像とは全く異なることが起きているということがわかってあれはなんだったんだろうとなるだろう。今の自分が今どうしたいのかを考え続けることが私はとても大事だと思う。

それにしても頭が痛い。外側も痛い。ぶつけた覚えがないというのも怖い。病気も怖いけど、ぶつけたことを忘れているのでは、と思ってしまうのも怖い。自分の記憶の曖昧さはいつも信用できないけど信用できる部分を活かして今日もがんばりましょう。いいお天気になりますように。

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散歩 精神分析

すずなり、無意識

先日、名古屋の知らない駅で降りて横断歩道を渡り終えたら後ろからおばあさんが呟いた。「すずなり」という言葉だけが聞きとれた。なんだろう、とキョロキョロ横を向いたり上を向いたりしていたら結構高いところに柿がすずなり!小さな丸いオレンジがたくさん。鈴なり、まさに。昨晩、いつもの遊歩道に小さな柿が落ちていた。こんなところに柿あったっけ、とまたキョロキョロ。あった。この狭い道だとその高さは見ないな、見えないな、という場所に柿がすずなり。あのおばあさんのことを思い出した。私に話しかけてくれたのかなあ。少し距離があったから柿を見つけてそのすずなりぶりにびっくりしてなんとなく後ろの方にいるおばあさんに会釈をしただけだった。教えてくださってありがとうございます。自分では見つけられない景色、毎日歩いてたってそうなんだからましてや知らない街でなんて。声を大事にしたい。

エレンベルガーの『無意識の発見』を少し読み直した。無意識を発見したと言われる第一人者のフロイトだが、それを発見させたのはブロイアーと一緒に治療した「アンナ・O」と言われた患者だ。後にアンナ・Oはベルタ・パッペンハイムという社会事業の先駆者であるとわかるのだが、エレンベルガーはこの治療の成果に関する嘘を指摘している。実は、患者もフロイトもこの治療は失敗だったと言っていた。ブロイアーはこれでフロイトと離れるわけだが、フロイトがブロイアーの非難をするのは『ヒステリー研究』の20年後だ。精神分析の設定はこの頃まだ使用されていない。ブロイアーは開業医であり、診察と入院によって彼女を治療していた。つまり無意識はカウチの上で発見されたのではない。もちろん無意識という言葉自体はずっと以前からあったわけで、しかし現代はそれはほとんど重要視されないわけで、それでも精神分析はそれについて考え続けているわけで・・・。うーん、いろんな気持ちになるが自分の立場を明確にしないことには前提の修正もできない。ふわふわと周りで何かいうことは簡単だが患者がいて自分がいてという状況が現実にあるのだから歴史の見直しと思考は続く。

今日もがんばろう。

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俳句 精神分析

蚊とか。

秋の朝の空の雲の美しさ。知らない人の足音のひとりひとりの違いの判別。単に「の」をたくさん使いたい気分。今日も薄着で大丈夫そう。薄着でいられるのはいいけどまだまだ毎日刺されてる、蚊に。長いスカートの日も足首を刺される。なんなんだ。もっと楽に刺せる人おるでしょう。でも蚊にとっては大きなスペースなのかもね、長いスカートと足首の間。しっかし小さいのに威力あるわ。

秋の蚊のよろ〳〵と来て人を刺す 正岡子規

秋の蚊は季語。秋の深まりととも弱々しくなるというけどもたもたくるわりに逃げるのも遅いから結局居座るみたいになってこっちが刺される。むー。

前にここで(あ、なんか急にフォントが変わった。どう反映されるかわからないからこのままにしておこう)フロイトとラカンの「愛」について書いた。最近ラカンをたくさん読むようになって十川幸司&立木康介がいうようにラカンは本当に愛の分析家だった。愛といっても日常で使う愛ではなくて。

そうだ、原稿書かなきゃ。なんでいちいち忘れるんだ?締切間近なのに。意味わからん。がんばろう。気持ちいいお天気になるといいね。昨日は変なお天気だった。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

読書とか。

昨日は一昨日の失態に気づき恥入り、さっきはやっちまったばかりとはいえすでに手遅れの失敗に気づいて落ち込んだ。起きてしまったことやってしまったことはしかたないし誰かに迷惑をかけたわけではないけれど自分でびっくりした。それにしても昨晩倒れるように変な場所で寝てしまった。日中、久しぶりにストレッチをしたのに。ストレッチ用のゴムを両手で引っ張りながら腕を背中側に回そうとすると途中で止まってしまう。コリコリと骨がずれるような音がする。少し勇気を出すとストンと後ろに落ちた。また骨がなった。何度もやった。脇腹も伸ばした。日中もその後少し眠ってしまった。首にも腰にも負担がかかる姿勢で。疲れを取るためにする動きで疲れてしまったのか。それってどうなんだ、と思うが仕方ない。やらないよりましなのだろう。

シドニーで会った人たちとSNSでもつながった。いろんな局面でハグしてくれた北米地域の優しい優しい人とも言葉を交わせた。そういえばシドニーで交流を持った台湾の候補生と台湾文学について話していて『亡霊の地』(著 陳思宏/訳 三須祐介)という本をおすすめしてもらった。彼らはそれを発表の素材にしているそうだった。読み始めてなるほどと思った。今と故郷での記憶を繋ぐ大きな家族の物語。それぞれがものすごい痛みと共に生きている。彼らを取り囲むものたちの描写が凄まじいが、私がまるで知らない世界ではない。以前凄まじい暴力の事例を「亡霊と生き直す」という題で書いたことを思い出す。冒頭、日本人がしてきたことに再び殴られるような数十文字に痛みを覚えたがされたのは私ではない。簡単に打ちのめされるわけにもいかない。読み続けた。犬もハエもゴキブリもスターフルーツも人間のどうしようもなさの全てをある意味華やかに彩っていて残酷で悲しくて近景、遠景、空想、今目の前の現実といろんな方向に揺さぶられながら読んでいる。もう半分以上読んだと思う。紹介されてすぐにKindleで購入したのだがページ量の感覚がわからない。昨年話題になった本らしい。

昨晩は遅い時間からフロイトの読書会があった。自分で主催しているものではなくアドバイザーとして呼ばれているものなのでなかなか難しいが新しいメンバーも入ってきたのでできる工夫をしようと思った。フロイトに読み慣れていない人は一緒に精読した方が良いように思うがそれは自分のグループでやれているから必要ならこっちにきて、と思うがそうではない方法でやっている会なので読み方から伝えているような、いつも同じようなことばかり言っているような気がする。せっかく読むなら、と思ってしまうのは大きなお世話なのだろう。

私はセミナーの資料を読まねば。アンドレ・グリーン「Travail du négatif」の序文「Pour introduire le négatif en psychanalyse」。休日はない。会議も続く。あ、でも楽しみな用事もある。るるるー。楽しみには力があるな。がんばりましょ。ちょうどいい暖かさになってくれますように。

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Netflix お菓子 精神分析、本

三体、ほっこり餅、夢判断

 コーヒー&和菓子。机に向かうのが遅くなった。最近、帰宅するとNetflixの『三体』をちょこちょこみている、と早朝からすでに朝を2時間ほど過ごしたにもかかわらず書き始めたら昨晩より前に頭が戻った。朝らしさいっぱいの部屋なのに。昨晩もちょっとみた。『三体』は読もう読もうと思って読んでいないので何も知らないがこれはこれで面白い。すごいコンパクトにしちゃってるんでしょ。でも私はこれでいいや、みたいになってる。しかし、すごいね、原作も役者もゲームのことも知らない私みたいな人でもこのなんとなく知っている全く知らない世界を作り上げてしまうのだから。あ、しまった。こんなこと書きながら京都土産の「ほっこり餅」を食べてたらあっという間になくなってしまった。もっと味わって食べようと思ってたのに。この若菜屋さんのお菓子はほんと小さくてかわいい。ペタッ、モチッとした生地でニッキの香りほんのり。パクパクしちゃったけどニッキの味が残ってて美味しい。やっぱり知らない世界を知らないようにえがくって本当に難しいんだな、とまたドラマのことを思い浮かべてる。けど、味覚は「うん?何この味?」ってかなり新規性を感じるものがあるね。歯磨き粉とかも。この前、いつもと同じメーカーだからとあまり何も考えずに買った歯磨き粉が使い始めて何回かはいちいち「なんじゃこの味」となった。でも今は慣れてしまった。この最初の未知との遭遇の時間の短いこと。貴重。今年はもっとベルクソン勉強したいな。昨年、平井さんに問いを発したもののそれをしたことで自分が考えていたことにも疑問符がついた。この前のクドカンドラマはタイムマシンだったけどあれも既知である未知との遭遇だよね。そうそう、タイムマシンの物語って19世紀末までなかったそうですよ。アインシュタインの相対性理論が契機らしい、って何かで読んだ。でも記憶が意識されている以上、脳の中はいつもタイムマシン状態なわけだから「これタイムマシンものじゃない?」って今からなら思える物語はたくさんありそうですよね。神話とか。でも空間というか場所の移動、というのはかなり特殊な事態なのか、よく考えれば。一番そういう世界をたやすくこなしてるのは夢ですかね。昨晩、NHK Eテレで『夢判断』のことやってたけど立木康介さんの説明も面白かった。伊集院さんが指摘してたけどこんなこと自分でやってしまうフロイトやっぱり変だろう、と思いながら楽しくみた。しかし、なぜこの番組は岩波版の『夢解釈』ではなく古い訳を使ったかな。いろんな事情があるのかな。昨日はエイプリルフールだったけど「なにか嘘ついた?」という会話しかそれらしいことはしなかった。楽しい嘘ならつきたいもんだ。今日はどんな感じになるかな。良い一日になりますように。

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精神分析

フロイト読書会、秩父土産、語尾

今年度最後のフロイト読書会Reading Freudを終えました。来年度メンバーも募集中。音読で丁寧に読んでいく機会はなかなか持てないと思うのでぜひ。音読で通読したあとはフロイトが生きた歴史、政治、家庭、理論を絡めながら解説を加えつつ精神分析のはじまりを振り返ります。おそらく精神分析の印象はだいぶ変わると思います。メンバーの皆さんからは単なる理論や読み物ではなく「難しいけど奥行きを感じられるようになって楽しい」など嬉しい感想をいただいています。ご案内はオフィスのウェブサイトやブログ「精神分析という遊び」をご覧ください。ご参加お待ちしております。

秩父のお土産をもらいました。秩父は東京からもワンデイトリップで気楽に行ける素敵なところです。今みたいにきれいになる前に泊まりで行ったことがあるのですが駅前のホテルがとてもとても怖かったのを覚えています。今はなくなってしまいました。それはそれで気になります。これまで全国の安いホテルに色々と泊まってきましたが秩父は最も思い出に残っているホテルのひとつです。あとは萩と田辺のホテルでしょうか。最近だと中津川かな。これらは全く異なる理由で心に残っています。そういえば中津川は安くなかったです。かなりネガティブな意味で心に残っちゃったから残念ですが勉強になりました。素敵な居酒屋と老舗和菓子屋さんたちに癒されたので無問題ですが。そうそう、お土産は「秩福かりんとう」「長瀞ポテトチップス 鮎の燻製風味」「源作印・赤」、あととても素敵な水羊羹。どこのって書いてあったか。いただくときにきっとまた書くでしょう。ちなみに埼玉県秩父市のイメージキャラクターは「ポテくまくん」。「秩福かりんとう」のパッケージにもいます。かわいいです。にしても秩父に限らずだと思いますが山は花粉が凄まじいようですよ。ついにきてしまいましたね。

それにしても眠いです。春ですものね。今日は移動が長いからそこで眠れそうですが寝過ごすのも怖いですよね。でも怖いと思ってれば起きられるでしょうか。今ふと「〜ですかね」といって「かね、なんていわない」と指摘されたことを懐かしく思い出しました。たしかに、という文脈だったので恥ずかしくも思ったのですが語尾になにをもってくるかは大切ですね、たしかに。印象がだいぶ変わると思うのです。生身の人の言葉は生き物なのでその人の生活と切り離すことはできませんし興味深いです。さて、いきますね。またここで。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

『まんが親』、フロイト技法論集から「勧め」論文。

おなかが気持ち悪い。おなかすいてないのに食べたのがいけない。すいてないなら食べなければいいのだけど食べないわけにもいかないのよね。食べてる間はおいしいし。あとでこうなるのもわかってるけど。

昨晩も今朝も吉田戦車の『まんが親』を読みながら時折声を出して笑っている。ほんとこどもあるあるで面白いんだけどさすが漫画家は子育てに苦労しながらも子供の言動をメモしてネタにしてるのね。面白いと思ったものを掴むのがうまいからこっちも面白いけど「え?そこ?」みたいなことを書く人がいたらいたらで面白いかもしれない。が、子供の言動こそが「え?そこ?」に満ち溢れているからどこを拾ってもあるあるとして面白いのかもしれない。大人はつまんねーな、と言ったところでおれも大人だし、というか相当大人。若くはないが私よりはずっと若いみなさんに教える立場になってからもそこそこの年数が経つが一方でまだ訓練途上でもある。分析、スーパーヴィジョン、セミナーの三本立て。そして毎月のミーティング。セミナーはもう規定時間数は修了しているが勉強に終わりなしなので今も参加することもある。先生方の教え方からも学ばないといけない。

昨晩は私が主催するReading Freudで『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)の「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)を読んだ。先月読んだ「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)の続きとして読める。「精神分析を実践する医師への勧め」の22−23頁でフロイトは患者に自由連想を要求する精神分析を実践する医師であるならば患者と同じように以下のような態度を維持する必要がありますよ、ということを書いている。単なる技法の羅列ではなく、これこれこうするならばこれだってそうなのだからこれこれこういうふうにすべきでしょう、みたいな書き方をフロイトはよくしていると思う。説得力がある。

「単に何か特別のことに注意を向けることなく、耳にするすべてに対して(私が以前に名付けたものと)同様の「平等に漂う注意」を維持することである。」

「すべてに等しく注意を向けるという規則が、批判や選択なく思いついたことをすべて話さなければならないという患者への要求に対する必然的な対応物であることはわかることだろう。」

「医師に対する規則は、次のように表現することができるだろう。「自分の注意能力に対してあらゆる意識的な影響を差し控え、自分の『無意識的記憶』に完全に身をゆだねるべきである」。あるいは純粋に技法的に表現するならばそれは「やるべきことはただ聞くことであり、何であれ覚えているかどうかに煩わされるべきではない。」

など。これに続いて記録をとらないことの勧めも理由つきで書かれている。そして私が最も好きな一文もそこに。

「一方、最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。分析家にとっての正しいふるまいとは、必要に応じてひとつの心的態度からもう一方の心的態度へと揺れ動き、分析中の症例については思弁や思案にふけることを避け、分析が終結した後にはじめて、得られた素材を統合的な思考過程にゆだねることにある。」

この論考の後半は分析を行なう人は自分も分析を受けるべきだということがいくつかの観点から書かれている。

「他の人に分析を行おうとする者は全員、あらかじめ自分自身が専門的知識をもつ人に分析を受けるべきである」

「自分自身のこころのなかに隠されたものを知るようになるという目的が、はるかにより素早くより少ない感情的犠牲で達成できるだけではない。書物から学んだり講義に参加したりすることでは決して得られないような印象と確信とが、自分自身とのつながりにおいて得られるのである。」

など。21頁から33頁、全部で21段落。コンパクトだ。

昨日読んだ「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)は35頁から61頁、全45段落。前の「勧め」論考の2倍近く頁を割いて「さらなる勧め」をフロイトはする。

こちらは「治療の開始について」とあるように分析を実践する医師の基本的な態度というよりは初回面接や治療初期の段階における設定や患者も疑問に思うであろう事柄(お金や時間)に対する態度について詳細に書かれている。まさに今日、私がグループで中堅のみなさんと話し合う事柄だ。

そろそろNHK俳句の時間だから細かく書かないけど「まずこれ読んで」と言いたい。

それではどうぞよい一日を。

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精神分析、本

漫画、フロイト、オグデン

昨晩は大正ロマン関連を色々チェック。旅に出るから。袴で街をそぞろ歩きしたい。今朝は吉田戦車『伝染るんです。』をパラパラ。少しずつ積み上げられた本と論文の整理をせねばと単に別の場所に移動させるようなことをしているときに見つけてしまった。ちっこい文庫。『はいからさんが通る』ではなくこっちを見つけてしまった。これ帯もつけっぱなしにしてたんだ。1巻「読んだらキケン!』2巻『不条理来襲』3巻『枠組み破壊』4巻『爆発的伝染力』5巻『非常識の完結』。『伝染るんです。』なんだから4巻のはどうかな。まあ大きなお世話かな。今こんなことしてる場合じゃいないんだよー(泣)。でも面白いよー。それにしても部屋がひどいことになっている。

Reading Freudも事例検討グループも始まったからインプットを増やしていかないとなのに別のことばかり調べてしまう。英語論文とか最近ちょっとしか読んでないからめちゃくちゃ読むの遅くなってるし。そんな賢いわけではないのだから真面目にやらないとなのにね。あー、吉田戦車とか大和和紀天才。フロイトと同じくらい読むべきものたちと思う。

一応、私が読書会でいつも言っているフロイトの書き方に意識を向けることについて話すためにオグデンの2002年の論文を再読したのであげておこう。これはオグデンの単著に入っていただろうか。訳されていないけど誰かが編集している本に入っていることは知っているけど書名を忘れてしまった。漫画読んでないでこちらをチェックしないとね。

Ogden, T. H. (2002) A New Reading of the Origins of Object-Relations Theory. International Journal of Psychoanalysis 83:767-782

The author presents a reading of Freud’s ‘Mourning and melancholia’ ということでフロイト全集14の『喪とメランコリー』をオグデンが再読。この論文は対象関係論のはじまりと言われている論文。これは十川幸司訳の『メタサイコロジー論』にも収録されているからそっちで読むといいかも。フロイトが短期間で一気に書き上げたというメタサイコロジー論文の中でも最重要。

オグデンが重要と考えるのはvoice。太字は私が太くしました。

the way he was thinking/writing in this watershed paper.

オグデンはのちに‘object-relations theory’(対象関係論)と呼ばれる心の改訂モデルの背景にあるフロイトの考えを以下に要約。

(1) the idea that the unconscious is organised to a significant degree around stable internal object relations between paired split-off parts of the ego

(2) the notion that psychic pain may be defended against by means of the replacement of an external object relationship by an unconscious, fantasied internal object relationship

(3) the idea that pathological bonds of love mixed with hate are among the strongest ties that bind internal objects to one another in a state of mutual captivity

(4) the notion that the psychopathology of internal object relations often involves the use of omnipotent thinking to a degree that cuts off the dialogue between the unconscious internal object world and the world of actual experience with real external objects

(5) the idea that ambivalence in relations between unconscious internal objects involves not only the conflict of love and hate, but also the conflict between the wish to continue to be alive in one’s object relationships and the wish to be at one with one’s dead internal objects.

要約だけだとまあそれもそうかという感じかも。症例の話がないとということで興味のある方は本文も読んでみてください。

ちなみにオグデンは下に書くフロイトの論文の終わりの部分を引用して患者の実際の生活に根ざしていないと精神分析もthe self-imprisoned melancholic who survives in a timeless, deathless (and yet deadened and deadening) internal object worldと変わらないよ、ということでこの論文を閉じています。

Freud closes the paper with a voice of genuine humility, breaking off his enquiry mid-thought:

—But here once again, it will be well to call a halt and to postpone any further explanation of mania … As we already know, the interdependence of the complicated problems of the mind forces us to break off every enquiry it is completed—till the outcome of some other enquiry can come to its assistance .

オグデンは少しだけ省略してしまっているので十川訳の方からこの部分を引用しておきます。
「しかし、ここでは再び立ち止まり、まずは身体的苦痛、それからその苦痛と類似した心的な苦痛の持つ経済論的な性質への新たな理解が得られるまで、マニーについてのさらなる解明は延期するのが適切だろう。周知のように、錯綜した心的な問題は相互に関連しているため、他の研究成果を役立てられるようになるまで、このような研究は不完全なまま中断せざるをえないのである。」

これぞフロイトの書き方という感じがする。フロイトには常に次へ継続するための中断がある。実際、ここに書かれたことは継続的に探究され別の論文に書かれています。フロイトを読み始めるとこうやって読み続けることが必要になってしまうことをみんな無意識的に知っていて敬遠してしまうのかな。ここに書いてあることがよく掴めなくてもまた出てくるから大丈夫、ということを私はよく言うけど。精神分析みたいな心の探求は時間がかかってしまうのですよ、反復につぐ反復を扱うから。まずは反復を認識するところから時間がかかるし。うーん。体験と結びつくと多分かなり読みやすくなるのだけど読むために体験するわけではないしね。精神分析を体験するのはフロイト全集を買うよりもお金もかかるしそう簡単におすすめできるものでもないし。うーん。悩ましいですね。とりあえず読んでいきましょう。

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読書

本棚、お布団

2年ほど前から冊子になった白水社のPR誌『白水社の本棚』が届いていた。机の上に置いてあったが昨日は気づかなかった。PCの前に座らなかったということだ。2023年冬号から藤原編集室の「本棚の中の骸骨」という連載が始まった。大変楽しみ。Web版と連動しているのかな。「一生読んでいたい」本、が初回。読みたい本ばかり増えるけどこの中の何冊を私はこれから手に取るだろう。本棚を眺めてばかりだから書名は知っていても中身を知らない本ばかり。私はあと何年続くかもわからない限られた「一生」のなかでフロイトだけは読み続けていくと思うけどそれ以外にも本棚で生きているものたちとそういう出会いがあったらいいな。

重田園江の連載も始まった。『ミシェル・フーコー ─近代を裏から読む』を面白く読んだ。今回は「インド映画の破壊力」ということで『RRR』の政治性について。みてないけどそうなのか。インドの歴史は知るたびにほんとになんとも言えない気持ちになる。どの国の歴史も知れば知るほどそうなのだろうけど。牛久大仏が文章に出てきた。

今朝は早朝からざっと家事をしてまたお布団で温まっていた。部屋が温まるまで、と思っていたが案の定長居した。といってもまだ5時台だ。洗面所が寒いから洗濯物を干すのも顔を洗うのも苦痛だけど寒い寒いと騒ぎながら電気ストーブで凌ぎつつ完了。洗濯機を発明してくれたのは本当にありがたいことだわ。手洗いとか冬なんてほんと無理。溜め込んでいたに違いない。

コーヒーを淹れたらまたPCから離れてしまった。部屋はポカポカになってきた。寒い寒い書いたけど今日って特別寒い感じしないのだけどどうなるのかしら。部屋が暖かいからそう思うだけかな。ニュースだけみてビビってるけど。天気予報チェックして出かけないとですね。なんにしても暖かくして過ごしましょ。

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精神分析 言葉 読書

ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら。

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

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精神分析、本

「ヒステリー研究」を読んだ。

『フロイト全集2』(岩波書店)に収められた『ヒステリー研究』はやはり何度読んでも面白い。暫定報告の後、有名なアンナ・Oの「観察1」、病歴AからDへと続くが、GWでは通し番号らしいのでSEがなぜアンナ・Oだけ「観察」と分けたかは謎。今回の読書会では「病歴A エミー・フォン・N夫人」を読んだ。1889年、まだ33歳のフロイトが「催眠下で探求するというブロイアーのやり方(多分カタルシス法)」を用いてみたこの治療の経過報告はかなり詳細でヒステリーと呼ばれた患者の表情や姿勢、仕草まで描写が非常に細やかな描写がされている。ほぼ毎日朝夕の1日2回、サナトリウムに会いにいっていたらしいフロイトと患者のやりとりも私たちが現在症例報告で聞く内容よりもずっとvividで詳細。なので後年、患者の娘が母の治療に関してフロイトに向けた非難にも、それに対して誠実に謝罪と説明を行うフロイトにも共感できる。何が生じていたのかが推測できるから。もちろん治療上の失敗はあってはならないが何が「失敗」となるかはまだその時にはわからない、というのは日常生活における人間関係でも同じだろう。私たちのグループはすでに通しでフロイトを読んでからここに戻ってきているがいずれ書かれる『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)に収められた論文の源としてもこの症例報告は大変貴重で読み直す価値があるだろう。

それにしても私たちが向けている相手への関心というのは特殊なんだなとつくづく思う。SNSで上手に誰かを揶揄し、上手に愚痴って少し離れた場所から中途半端な(ほどよいといえばいいのか?)「ケア」を求めるようなあり方が一般的な今となっては精神分析なんて不要と思われても仕方ない。が、しかし、これによって生きる希望を見出している人も少なからずいることは国際的にこの学問が生き残っている(IPAのサイト参照)ことからも嘘ではないとわかってもらえるだろう。国内ではIPAの精神分析家はこれしかいない(日本精神分析協会のサイト参照)けど日本でも女性の精神分析家が増えてきた。フロイトの症例が示すように「上手に」いろんなことができない人(そんなことしたいともそんなものほしいとも本当は思っていないであろう人)たちが精神分析そのものではなくても精神分析の知見を生かした心理療法を受けにこられてなんとか日々を過ごしているのも本当。

先日、身内が精神病院に入院しているという英語圏の方がお喋りのなかで以前よりはずっとましだけど病気の人に対して社会は優しくないよねというようなことをおっしゃっていた。本当にそうだと思う。障害に対してもそうだ。これだけASDという言葉が一般的になったのに私が長く時間を共にした重度の自閉症の方たちはどこへ?とよく思う。大声をあげたり突発的な動きも多い彼らと一緒に電車に乗っているときの周りの見えていないかのような視線もたまに思い出す。見ないものは見えないもの、見たくないものは見えないもの、というのも今やデフォルトだったりして、と割と身近なところでも思ったりする。どういう風に訴えていけばいいのかな。くだらないと思いつつ小さな戦いは続けていくけど。

『ヒステリー研究』のエミーの症例では患者が精神科病院における治療に対する不安や恐怖を訴える場面がある(74頁)。この問題はいまだに継続しているがフロイトが医者としてこの話に防衛的になることはなく中立的だ。こういうフロイトの姿は別の論文でもみられる。しかしここで重要なのは精神科病院が抱える問題それ自体ではなく、フロイトがこの話を患者から自分への怒りとして聞き取り内省したところだろう。フロイトはこの場面で自分の聞き方が彼女の話を中断させていたことに気づく。そして「こんなやり方では何も得られていない、あらゆる点に関して最後まで彼女の話を傾聴することなしに済ませるわけにはいかないのだ、ということに私は気づく。」と書いている。フロイトは失敗しては気づき、また失敗し、を繰り返す。私たち臨床家は皆そうだろう。それを「失敗」と呼ぶことに躊躇があったとしてもそれを「失敗」と認識することはやはり重要であり患者に対する関わりを硬直化させるわけにはいかない。

さて、今日も一日。たとえ優しくない世界でもいいことあるといいですね。とりあえずいいお天気。暖かくしてお過ごしください。

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精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績。

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

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精神分析

つもり

冷蔵庫から麦茶を出した。そろそろ作り置きしなくてもいい時期かな。カフェでもフローズンドリンクに惹かれなくなってきた。まだまだ暑いのに身体はもう冷やされることを望んでいないみたい。真夏でも冷やしてはいけないのだろうけど美味しいフローズンドリンクを飲むと確実に喜んでるよね、身体。

昨日は仕事の合間にずっと専門書と睨めっこして疲れた。勉強すると賢くなると錯覚できるのはそれをテストにできる場合だと思う。私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな、と自分の知的能力を否認できなくなることはあれど賢くなったと感じることはない。でもこの「私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな」ってこれまでも何度も思っていることだから現実って本当にすぐ忘れ去られ否認による錯覚の世界を生きやすいってことだね、人間は、というか私。

否認も精神分析では重要な防衛機制と考えるが、精神分析には「否定」という重要な概念もあり、『否定Nagation』というそのまんまの名前の短いが重要な一本の論文にもなっている(フロイト(1925),『フロイト全集19』岩波書店)。この論文の冒頭は患者の言葉だ。精神分析の方法である自由連想、つまり思い浮かんだことをそのまま言葉にする、という方法において患者がする語り口、たとえば「そんなつもりはないのです」という否定、ある表象内容に対して無意識的な抑圧が働いていたことはこの否定によって明らかになる、という理解を精神分析はする。「そんなつもりはなかった」、よく聞くし、よく使う言葉だ。精神分析は無意識を想定するため、そんなつもりはなかったが現に今こういう出来事が生じているということに対して二者で思考するプロセスといえる。

昨日、睨めっこしていたのは精神分析の専門書で『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(金剛出版)とラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典 vocaburaire de la psychanalyse』(みすず書房)。「表象」について考えはじめたらドツボにハマってしまった。先述した「否定」はフロイトが「思考」に不可欠と捉えた機能であり、事物表象と語表象の区別にも関わるため同時に考える必要があった。

それにしても難儀。精神分析が使う「表象」は哲学で使うそれとは異なるのはわかる。でも何度学んでも自分で説明できるほどにならない。フロイトの初期の著作からずっと登場する概念にもかかわらずスッキリしない。大体フロイトの概念の使用は年代によって変わっていくのでスッキリしてしまったらどこかでついていくのをやめているということなのかもしれないが私の理解はそれ以前の話だ。難しく考えすぎなのかもしれないが難しい。

精神分析でいう表象は対象の痕跡からきたものであり記憶系である。フロイトが否定という機能に重きをおいたことで患者との関わりを思考するための複数、あるいは反転可能なパースペクティブを意識することができるようになった。それによって内部と外部、良いと悪い、存在ー非・存在といった二元性の判断についての探求はもちろん、患者が破壊欲動によって思考すること自体を攻撃し、こころを動かし続けることをやめてしまうこと、それは変形とそのプロセスにおける破滅に対する恐怖からかもしれないなどの仮説もたてられるようになった。

ということがあるので概念の理解とそれによる思考は重要であり、捉え難くともそこに身を置き続ける必要がある。だが難儀だ。今日もまたちょこちょこやるしかないが。精神分析は現実の二者のものなので私が作業をやめるわけにはいかない。ただ無意識的にはありうる。それを「そんなつもりなかったんだけど」と済ませることなくそういう事態が生じたら生じたで何がどうなってしまっているんだ、と二人のこととして考え直す、今日もその繰り返し。

また月曜日。嫌になっちゃうことも多いかもしれないけど毎日が続いていること自体になんとか希望を見出せますように。

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精神分析

不気味世代

舌が痛い。朝からしょっぱいものを食べたからか。

PCに向かうと自動でアップデートされていたようで立ち上がるのに時間がかかった。しかもこれはアップデート時は毎回なのだが立ち上がってアセクスビリティに関する選択の画面が出ると凍ってしまう。「今はしない」だっけな。選択肢が出るけどクリックがきかない。で、毎回再起動する。するともうその画面はでず「問題が発生したため」どうこうという画面が出てその部分へのクリックもきかず「〜秒後」に再起動します、というのを待つことになる。そしてようやく起動。このプロセスってもう何度も経験してるのだけどどうにかなっちゃうから問題にしたことがない。数年前の年末年始、高野山へ旅したときは確か原稿締切が近いのに全然進んでいなくて仕方なくPC持ち歩いていたらフリーズ。外は雪。この子(PC)はフリーズ。私だってフリーズしかけたがもうこの歳になるといろんなことに驚かなくなる。歳のせいではないかもしれないがとにもかくにも自分にはどうにもできないことはどうにもできないのだ。何かできる状態に持っていくしかない。宿坊での早朝の朝勤行の床の冷たさに比べたらなんでもないわ、と思いつつ雪のなかを散歩した。今だったら気楽に旅できていただけラッキーだったわ、っていうことになるね。1月2日に一番早く予約が取れた銀座のアップルストアに持っていき理由わからず回収。数日後、中身が新しくなって戻ってきた。原稿は間に合った。

鳥が賑やかになってきた。SNSにも鳥の声をあげている人がいる。画面に鳥はいないけど高く響くかわいい鳴き声がそこから聞こえる。私も今窓の外に鳥を感じるだけでその姿は見えていない。生まれつき目が見えない人は鳥の姿をどんな風に想像するのだろう。私は私が見えているのと近い形に想像しているのではないかと想像する。彼らが音から空間をつかむ姿を見ているとそんな気がするけど違うかもしれない。どの程度を「近い」というかという話でもあるがそういう意味でも私はやっぱり近いような気がする。今度聞いてみたい。

昨日、千葉雅也さんのnoteを読んでいてホテルというのは出来事の宝庫だなと思った。現実にあることもないことも起きる。殺人、密会、乱交、ドラッグなどなどの現場になったり別の時代への入口になったりする。映画や精神分析状況を思い出している。

ビジネスホテルはコンパクトで過剰も余剰もないが千葉さんの記事に出てくるようなホテルにはある。さらに鏡、固定電話、湯沸かし器、エレベーターといったホテルに必ずある物たちも別の時空を現実的、想像的に体験するには十分な力を持っている。同じ姿をしたドアがずらっと並び中では何が起きているかわからない。その羅列は反復でもあり三面鏡の前に立たされたような感覚にもなる。少し時空が歪んだかのように過去と今が錯綜する。インターネット以前も以降も知る千葉さんや私の世代はある程度歴史を持つホテルがもつような空間とネット上、つまり平面が持つ奥行きという空間の両方に引き裂かされながら生きてきた世代だ。

疎外によって「私」が発生する鏡像段階、去勢による言語の発生の段階(精神分析の用語を使用する場合)、私たちの世代は身体で関わり合う対人状況と記号から立ち上がる触れえぬイメージの時代の比重が変化する移行期を生きてきた。「戦争を知らない子供たち」という歌を思い出す。私は千葉さんのnoteを読みながら、私が今以上に歳をとってある程度ラグジュアリーなホテルでくつろぎながらその時代にはすでに気持ち悪がられているかもしれない身体に悪そうなソースがかかったステーキとかを食べているのをこれからの世代が見たら不気味だろうなと思った。想像上のホテルの鏡的な場所に映った老いた自分を見たような気がした。フロイは『不気味なもの』のなかで不気味なものを「慣れ親しんだ–内密なものが抑圧をこうむったのちに回帰したものである」としながらそれだけではないという含みをもたせた。そこには触れえぬもの、疎外状況があるのだろうと私は思う。

千葉さんのような語り部が必要なのはそういうわけだろう。アイデンティティなんて言葉はいずれ使われなくなる気がする。自分を語る見知らぬ他者が連続しない場所に複数存在するような時代に誰の声でどうやって自分の輪郭を確かめていくのだろう。触れられ抱えられ声や身体感覚を頼りにそうしてきたこの身体が断片化したり流出し拡散していく状態はもはやエリクソンのいう「危機」でもなくなるだろう。

本当はnoteの内容を具体的に書きながら共有したいが有料記事なのでぼんやりしたことを書いた。千葉さんのしていることも私が考えていることも結構重たいと思う。でもこの世代としてやれるならやっておくべきことというのはあると思うのでとりあえず続けよう。

今日は土曜日。いいこともありますように。

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精神分析、本

言える機会

空はグレーと水色のあいだ。グレーと水色なんてただでさえ間の色なのにさらに。間ってどこまでいってもあるのね。

コーヒーが熱い。冷房も入れたばかりだけど飲んだらすぐに汗になりそうな季節はもう過ぎたみたい。虫の声が朝の静けさを守ってる。蝉の声が世界をのっぺりと平板にしていくのとは違う。言葉にできないけどなんか違う。

この前、暮田さんとフェミニストの言葉について少し触れた時に竹村和子の『愛について』は精神分析の知識がないと難しくてとおっしゃっていた。そうなんだよね。でもあそこで想定されている精神分析の「目的」は大分古典的かつ一般的なフロイトに対するイメージであって誤解を招くと思う。私の場合、精神分析の本として読まないせいかそこを「わからない」とはならないかな。精神分析がこうやって捉えられがちなのはわかるけど違うよ、とは思うけど。でも著者はこの主張をするための補助線として精神分析をこう理解して使っているのかと仮固定の場と捉えて読む。

最近ますます複数のことを同時にできなくなっている。例えば今ならNetflix流しながらこうしているんだけど感覚が以前と大分異なる。注意の配分が自然にできなくなっている感じで指の動きとかにもたまに意識的になる必要があるくらい。次にやるべきこともルーティンなのに抜けている感じで時間感覚も鈍くなっているみたいだし。ほんと軽い認知症なのではと思うことが増えた。ただ記憶力は元々相当悪いし、注意力も子供の頃から注意されてばかりだからようやく自分の状態を正確に認識しつつあるだけかもしれないわね。あまり嬉しくないけど自分を知るってそういうことかもね(これ以上みたくないみたいから適当に終わらせようとしている気もするわね)。

あー。さっき書いた本の読み方もこういう適当に割り切ってしまうところが出ているのかもねえ。前提が正しくないのだからそこをどう読むかはもっと正確であるべきなのかもしれないけど。うーん。でもどこに時間をかけるかと言ったら精神分析そのものだからフロイトはもちろん主要な古典を精緻に読むことで暮田さんとのちょっとしたおしゃべりの時に「あれはちょっと違うの」と言えたみたいな関係を持つことが大切かもしれない。言えたのは嬉しかったな。そもそも読めなくても触れてないとその本の話が自然に出てくることはなかったから。

この前もね、とまたとめどなく書いてしまいそうだけどやめとこ。この日記ともいえない朝のこれはなんていうのかしら。もう90日続いてるって通知がきた。衰えゆく認知機能に対する無意識的抵抗かもしれない?「これをやっている今は朝だぞ」ってことを染み込ませているのかしら。そんなこといってないで仕事へいく準備をしましょう。余った時間は精神分析の文献を読みましょう。読みます。はい。

今日は東京は雨が少し降るみたい。少しであってほしいな。

週の真ん中、休みが遠く感じるかもだけどご無理なさらず。無理しなくてもいい環境づくりもしていきましょうかね、少しずつ。

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頼もしさ

机に向かうのが少し遅くなった。鳥たちはもうバラけてるよう。

どうしても気持ちが強くむいてしまう人やもの、ことに振り回されているうちに受身でいることを選んだ気がする。どちらにしても壊れていくなら私を保てる時間を引き伸ばせる方を思ったのかもしれない。

1歳3ヶ月になる子の隣に座った。「久しぶりだね」口をキュッと結んでチラチラと私をみるが不安や緊張が高まってはなさそう。突然のことで引越し祝いも誕生日プレゼントもあげられなかった、とあとから気づいた。録画された昔の「みぃつけた!」が小さな音で流されていた。違う。「いないいないばぁ!」だ。ワンワン大活躍だな。テレビを見たり私を見たり立ち上がってテレビに近づいていって転んで立ち上がったりしているうちに声を出すようになった。今日は特別だから夏の彩りの美味しいお弁当を買っていった。コーンと枝豆のまぜごはんもきれい。この前は二段重ねの小さなちらし寿司だった。一緒に食べようと椅子にのせると前に置かれたごはんを見て大きな声をあげた。食べよう食べよう。私たちのごはんもじーっとみている。まだこちらの目線など気にしないのもいい。今のところ食べるのが大好きだそうで本当にモリモリ食べていて頼もしかった。コーンが大好きでねだっては一粒のせてもらい美味しそうに口に入れてた。美味しいよね、私も好き。前回は持つことはできても飲むことができなったマグをひょいと片手で持ち上げて上手にストローでお茶を飲んでいた。頼もしい。このくらいの年齢の子を見ていると「頼もしい」とよく思う。慌ただしくも楽しい時間が過ぎるなか、いつから自分が壊れることを想定するようになったのだろうと一瞬思った。

ごはんを食べ終わってまた隣に座る。すっかり懐いてくれている。あまりにかわいい笑顔で私をみたので友人と顔を見合わせて笑った。前より広くなったスペースでよく動く。小さないないいないばぁをたくさんする。そういえばマグにタッパーの蓋をのせて外すような動きを私に披露していたのもいないいないばぁだった。フロイトがfort-daと言いながら糸巻き遊びをする子どもに惹きつけられたのもよくわかる。繰り返されるけど少しずつ変わるそれに。この前はちょうどつたい歩きができるようになった頃だった。椅子は手押し車のようでそれは今回もそうだった。おむつを替えたあとポイポイとおむつをカゴの外に出しはじめた。「入れといて」と特に期待もせずいう私たちの言葉よりみられていることがなんらかのやる気を出させるのだろう。わからないがおむつを一つカゴに戻した。私たちが手を叩いて褒めると頬が緩んだ。この年齢の子の表情というか表情筋?微細な変化が遠目にでもわかる、遠目というほど距離とらないけど。もう一つ戻す。また私たちにニコニコと手を叩かれる。また戻す。繰り返す。いないいないばぁの変形ver.だね。途中から自分でも手を叩き、小さな手で上手にタッチもできた。ニコニコさんだ。別にお片付けなどできなくてもいいのだが(全く片付けられない大人との引っ越しストレスの話もした)何かをしては喜ばれる、そんな体験はたくさんあってもいいと思う。私がその動きを忘れかけた頃、その子がとっても明るい顔でそばにきて両手を叩くようにして合わせた。思わずニコニコした。お片付けしてくれたのね。すごいすごいありがとう、と私も手を叩く。一緒に叩く。笑う。幸せ。

いつからこんな風にできなくなったのだろう。思い思われること、動きを呼応させること、何も難しいことはないのに。

昨晩は私たちがネット上に立ち上げた小さな句会の投句締切だった。彼らと過ごした時間のおかげでいつもと違う気持ちで言葉に向かえた気がする。

壊れることを想定しない自分を前向きというのかな。彼らには前も後ろも過去も未来もまだないか。これからたくさんの分離を経験するなかで今ここの幸せが幻だったように感じるときがくるかもしれないけど大丈夫だよ、と言ってあげたい。あなたは今こんなに頼もしくて私たちを幸せにしてくれる。それを私たちが覚えている。覚えていたい。いずれ過ぎる、いずれ終わる。それは本当のことだけどそんなことあえていわずとも今ここに委ねられるように今日も過ごせたらと思う。

今日は火曜日。無事に一日過ごしましょう。

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短詩

言葉イベント

明日はこれ→https://aminooffice.wordpress.com/2022/06/30/【東京公認心理師協会地域交流イベント

誰かが何かを教えるわけではなく同じ職種の方々との交流の時間を持つ。テーマがあった方がよかろうというか、東京公認心理師協会の地域交流イベントはテーマ設定を求められているので「言葉」とざっくりしたものにした。元々は暮田真名さんを呼びたいというところから始まったが外部講師を呼ぶための謝礼も出してもらえないし、あくまで内側でというような感じだったので暮田さんをお呼びするのは私個人ですることにした。地域のNPOを長くやっていた私からしたら謝礼云々はともかく、外部に自然に開かれておけない状態自体、すでに交流を閉ざしていると考える。

関わりたい時に関わりたい部分だけに関わることを私たちは避けがたくしているわけだけどそこに意識的でないことが様々な傷つきを生じさせている気がする。今ではSNSがそれを巧みにできるツールだということは自分自身の体験を振り返れば大抵の人は思い当たるだろう。私は大いに思い当たるので使用の仕方には意識的な方だと思う。ただ、自分では気をつけても気をつけても難しいので使わないのが無難とも思っている。みる方としても随分気持ちに負荷がかかるのでなおさら自分がそれをしてしまっていないかを考える。

さて、今回は対面。協会の地域交流イベントに応募してみようと思ったのは私がSNSで公認心理師でポエトリーアーティストの松岡宮さんの活動を知り、オフィス見学をさせていただいたところからだった。私はプライベートプラクティスをメインの仕事にしているのでもはや時間がとれなくなってしまったが、松岡さんは私が昔から好んでやってきた活動を大田区の一軒家でやっていらして、しかもそこでご自身のCDや詩集も作られているとお聞きした。1時間ほど楽しくおしゃべりをして別れた。数週間後には松岡さんが私のオフィスに来てくれた。そこで協会から地域交流のパンフレットが来ていたと見せてもらった。私はまだそのお知らせの封を開けていなかったのだけどすぐに応募を決めた。松岡さんはオフィスで高次脳機能障害の方々のピアサポートを地道に行っている。このような場所を持つ人自体今は減っているし、行政との関わりを個人オフィスが維持しているのも貴重なことだ。このような活動はモデルになってくれるし根付かせていくことを彼女も望んでいたし、それを応援したかった。

それは単に以前の活動の代わりというわけではなく、現在も私は発達臨床の仕事を請け負う杉並区の社団法人に登録し行政から保育園巡回の仕事を委託されて行っている。なので私自身の職場環境を考える上でも重要だと感じた。行政の仕事でもっとも重要なのは予算を得ることだがその分野で経験を積んだ専門職で構成されている団体にお金を出すことの意義は年々認めてもらいにくくなっている。資格を持っていれば誰でも、ということでより安い給与で別の形式での雇用も始まった。非常勤の掛け持ちで生活をしている人の多い東京の心理職の職場は飽和状態なゆえ求人があるだけありがたいと感じる人だっている。それだけで生活はできないにも関わらず。この悪循環は心理職全体の問題だと思うが、杉並区の場合は新しい区長に期待したい。お役所を通すと何事にも時間がかかるが文句だけいってても仕方ない。

その点、松岡さんや私のように自分でオフィスをもち仕事をしているとフットワークは軽い。今回もほとんどノリでやっている。「あそぼー。」「いいよー。」という感じで。こういうのが大事だと私は思う。

今後、心理職が外に自然に開かれるために、という目標を掲げなくてもなんとなく繋がっておくことは災害時などにも役に立つ。そのためにまずは自分たちの文脈と相手の文脈がどう異なるかを意識化するために自分の発話、相手の受容と反応という繰り返しを辿ることからはじめてみるつもりだ。「はじめまして」なので素材があった方がやりやすいだろうということで3つの素材を考えた。タスクではないのでやらねばというものでもない。当日の変更も可能だ。一応松岡さんと話したことを私のメモとして書いておく。

素材は①それぞれの職場環境 ②女性性、男性性を語る言葉 ③川柳句集『ふりょの星』暮田真名(左右社)より「OD寿司」である。

文脈が異なるといえばすでに職場環境からしてそうだ。先述したように自分の仕事は働く場所によって大きく規定される。私たちが自己紹介をするときに自分の職場環境をどう表現するか、受け手はそれをどういう場所として受け取るか、自己紹介は通常は一方通行の発話だが録音したものを(余裕があればテキストにして)辿り直し、どの部分で何をどのように受け取ったかについて話し合う。みんな同じようで異なる前提のもとそれを解釈していると思うので小さな違いを楽しめたらいいと思う。

さらにせっかく中立性をあり方の基本とする心理職が集まるので分断の解消を目指す言葉がさらなる分断をうむ事態について話しあってみる。最近の事件で心理職全般への信頼度は下がっているかもしれないがそういう大雑把な括り方をされたくないなとも常々思うし、世間という受け取り手の特徴についても同時に考えられるだろう。

そして最後にそこまで丁寧にお互いの前提や文脈を確認してきた時間から言葉の意味を解体する時間にジャンプしたい。そのための素材が14日にワークショップを開いていただく川柳作家暮田真名さんの川柳句集『ふりょの星』に収められた現時点での暮田さんの代表連作「OD寿司」だ。

フロイトは圧縮と置き換えを夢解釈の技法とした。暮田さんの川柳は置き換えの機能を存分に発揮し、意味と言葉の繋がりはゆるゆるだ。一方、断言するような文体は、文法は間違っていないが自分の文脈仕様に単語の意味を変えて使うロボットの言葉を聞いているようでなんとなく説得されてしまう。煙に巻かれるのは楽しい。そこまで立ち上げてきた「共有」の空気を一度かき消しその遊びをすることで一緒に笑ったり考え込んだり意味ではなく体験の協働をする。

そしてお茶とお菓子をいただきながらこれらの体験を振り返る。そんな流れだ。7日に参加してくださった人にはぜひ14日もきていただきたいがお盆の時期で今年は帰省をするからいけない、残念、また絶対やって、という人が多く、一方でコロナ自粛をする人も重なった。当日はコロナ対策は十分にするが人数が少ないのは最大の対策だろうとも思う。なので少人数での開催もいいものだと思っているがいろんな人に暮田マジックともいえる言葉遊びを伝えたい気持ちもある。

一応ご案内はこちら。ご案内には有資格者限定と書いてしまったが、資格のあるなしに関わらずなんらかのケアを行っている方々はお気軽にお申し込みを。いろんな人の言葉との出会いを楽しみに。お楽しみに。