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精神分析

無関心

まただ、と思う。こころを閉ざしていると言葉は届きにくくなる。興味深い内容を普通の声でたくさん話しているように思えても受け手を長い期間やってきたせいかそれは明らかに感じるようになった。

話している本人は私を特定の相手としてみていないこと、少なくとも私がそう感じていることに気づいていない。そんなとき、私はとても寂しくていろんなことを言いたくなるけどその状況でそれをいうことができない。閉ざしている相手に、私の気持ちより自分のことに気を取られている相手に何かいったところで被害的に受け取られるだけだろう。たくさん我慢してきたのに、と思うがそれも私が勝手にしている我慢だ、と片付けたくなる。私のことを考えてくれればすぐにわかるような我慢しかしていないつもりだけど、と恨めしく思っても、時折ため息をつきながら心閉ざしている様子は観察していると心配だし疲れさせたくもない。向こうだってそんなつもりはないのだ、多分。

一緒にいるのにもう離れているような、すでに忘れられているような、適当な社交辞令のような挨拶に何かをいうことも拒否されたような感触を持ち顔も見られぬまま別れ電車で涙ぐむ。でももう泣きはしない。繰り返されてきたことだから。関心を向けられないことの寂しさを相手に仕事を続けてきたのだから自分に対しても役割で対処できる。疲れたな、と思考停止しそうな自分を感じながらせめて眠れたらいいのに、と思う。なんでも夢まかせだけどこんな日は夢なんてみられない。瀕死だな、自分を笑う。気持ちも思考も動かない。こう書いていれば動き出し襲ってくる痛みには意識的にブレーキをかける。かかるはずもないけれど。訓練の成果はそこではない。むしろどんな痛みも感じない限り停滞だ。

しかたない、が口癖になってしまった。治療関係ではない間柄で親密な関係を築く。それはいつの間にかそうなっていく。自然に相手を思い、実際の関係を重ねながら自分を内省し、相手とコミュニケーションをとる積み重ね。自分を相手に委ねることで相手に対する関心が配慮の壁を突き破ってしまい喧嘩になることはあってもお互いに心揺さぶられながら相手を思いつつ自分を取り戻すことができればなんとかなる。でも無関心にはなすすべなしだ。しかたない、が口をつく。言わないけど自分の中で何度も繰り返す。

受け手を失い生きる気力を失った人たちの声を聞く仕事を続けている。彼らが受けてきた的外れな関心も無関心も同じものだと思う。どちらにしてもその関心はその人の個別性に向けられたものではなかった。寂しくて悲しくて腹立たしくて頭がおかしくなりそうなときも「大人の」言葉でなだめられそれと向き合ってもらえたことはなかった。理不尽はそのうち当たり前になって、無関心によって生じた絶望をナルシシズムによってどうにか持ち堪え生き延びてきた。ナルシシズムは自分にしか通じない言葉を話している自分に気づくことをさせてくれなかった。いつのまにか自然にコミュニケーションがとれなくなっていたことにも気づいていなかった。当然、治療は難航する。まず言葉を共有できるようになるまでにものすごく時間がかかる。共有したところでナルシシズムの傷つきと激しい怒りを体験することは避けられない。ここで治療者がもううんざりだと無関心に陥ればそれが反復になる。だから自分が無関心になりつつあることにも気づけるこころを育てていくことが必要だ。仕方ない、と頭痛を感じながら沈み続ける自分を投げ出さなければどんなに最悪の状態でも仕事では機能する。反対に、耐えがたい痛みを自分に対する無関心で乗り切ろうとすれば仕事に影響する。そういう仕事だ。辛いけど仕方ない。生きていくって大変だ。これは多分一番共有しやすい。生きていくって大変。ほんとだね。動けるだろうか。動けそうだ。今日が終わることには少しは楽になってればいいけど先のことはわからない。ほんとだね。これも共有できる。少しずつ回復しよう。自分にも相手にも関心を失うことのないように。絶え間なく流れる情報で自分の狭い興味関心に閉じこもることのないように。目の前の相手を見失うことのないように。