「週刊文春」が2021年8月26日発売号を最後に中吊り広告を終了するという。
たまたまだが、先日読書会にきてくださった(オンライン)『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』著者の吉川浩満さんが「私の読書日記」という連載を担当している号である。さすが(?)「偶然性」をおす吉川さん。
ちなみに吉川さんが連載に参加したのが2020年8月27日号だという。これもTwitterで知った。そして執筆陣のひとりに立花隆の名前がある。ご存知のように立花隆氏は2021年4月30日に亡くなった。多分「週刊文春」の中吊りが終了することも知らずに。いや、知っていたのかもしれない。わからない。彼もデジタルを使いこなしていたのだろうか。私の記憶(イメージにすぎないかも)ではいつも紙媒体を手に外にいるか、積まれた本のなかでやはり紙媒体をもっている姿しか思い浮かばないのだが。
そういえばこの立花隆追悼のムック本(っていうのかな)にも吉川さんは書いているという。これもTwitter情報。
今回、「私の読書日記」は「ペンギン、恋愛、偶然性」ということで数冊の本がとりあげられている。紹介されている本は吉川さんのツイートをチェックすればわかる。私からもおすすめしたい本がとりあげられている。
私は「週刊文春」を読んでいないのでそこになにが書いてあるかはわからないけれど、紹介された本の訳者の方のツイートなどをみると「こういうことかなぁ」と推測できたりする。というように、やはり時代はデジタルなのだ。自分の目で確かめなくても誰かが断片を呟き、書き手、売り手、ファンたちがそれをすぐに拡散し、画面をみれば1分もかからずそれらを目にすることになる。そういう時代だ。
いや、そういう時代なのか?
大体私は読んでいない。どうして断片から想像してわかったような気になっているのか。まったく違うことが書いてある可能性だって十分あるではないか。でもなぜか本屋に走るような衝動も生じない。読もうと思えば「週刊文春」は電子版をはじめたらしいし(中吊り広告にかかった費用がかなり浮くらしいし)。いや、電子版も読まなそうだ。私の好奇心はデジタルの情報である程度満たされてしまった。食べ物の絵を見て空腹を満たすのとはわけが違う。断片であっても複数の人間が呟いていれば紙媒体の情報とそれほど変わらないだろう、内容だけを掴むのであればの話なら全部を見る必要はないのかもしれない。
中吊り広告はどうか。
両手で吊革につかまって中吊りを見上げている姿を目にしたことがある。当時は話したこともなかったけれど今はお世話になっている先生と偶然同じ車両に乗っていたのだ。先生は力の抜けた様子でぼんやり中吊りを見上げていて少し子どもみたいだった。この日を境に私の先生に対するイメージは刷新!、というほど大げさなことではないが、なんだか中吊りのテンションってこういう感じがする。実際、いろんな話をするようになった今は中吊り以前のイメージは私の投影にすぎなかったとわかる。
また、私はあの見上げる形式の広告が満員電車での小競り合いの数パーセントを減らす役割を果たしていると主張したこともある。私は背が低いので電車内で痛い目にあいやすい。そんなとき近くの人が中吊りに魅入ってくれているとほっとしたものだ(まだ過去ではないが最近満員電車に乗っていない)。
中吊りには独特の魅力がある。TwitterなどSNSはわりと正確な引用がされていることが多いが(発信元が書き手、売り手、ファンの場合)、中吊りにあるのは「見出し」ばかり。毎号異なる出来事についての見出しが躍っている、はずなのに毎号同じテンションを感じるのも面白いところだ。写真の大きさの違いや並べ方も戦闘的で興味深く、序列を知らせつつも勝敗の決まらぬ世界がそこにはある気がして読者の投影を気楽に引き受けてくれる。私の場合は、それをみても駅の売店や本屋に駆け込もうとはならないがちょっとのぞいてみたいな、という好奇心を維持させる効力がある。誰もが見出ししか知らないのに「見た見た」とお昼のおしゃべりがもりあがったことだってある。要するに情報の重みづけがとても効果的にされているのだろう、今思えば。
うん。やはり業界トップクラスのこの最後の中吊り広告はみておかねばならない。デジタルでではなく、本物を、つまり電車の中で。しかしコロナか(禍)。
立花隆は亡くなり、中吊り広告も終わる。だからなに、というわけではないが、若者に「昭和?」ときかれて「そう」と答える私はそんなにすぐには新しいものには馴染めない。変化を感じるたびにノスタルジックになる。それにしても「昭和?」って聞き方もどうかと思うが。同じく昭和生まれの仲間は取入れ上手で古いものとも新しいものとも上手に付き合っているけれど、私は紙媒体が好きだ。
3.11から間も無くして佐々木中さんの講義に出たことがある。彼は書物の価値を真剣に語っていた。もちろん彼の『夜戦と永遠』におけるルジャンドルを引用した議論はもっと複雑なものだけれど、確かに震災からまもなくの5月、私が石巻で目にしたのは横倒しになった家と水溜りに散らばった年賀状だった。映画「つぐない」において引き裂かれた二人を繋いだのは手紙であり、二人を引き裂いた罪悪感に苦しむ主人公が生きるためにしたのも書き続けること(=読まれ続けること)だった。
話が逸れた。中吊りにはお世話になったんだな、とこう書いてみて思う。出来事はできるだけ正確に伝えてほしい。それはどの媒体に対しても同じことだ。しかし、中吊りは中途半端で大雑把な情報を派手な形で切り取ることで大衆である私たちの注意を引きつけた。だからこそ私たちはそこに含まれるある種の嘘っぽさを前提にそれと触れることができた。中途半端な優しさより嘘とわかる優しさのほうがこちらを戸惑わせないこともある。これは恋愛の話でもあるかもしれない。
吉川さんが取り上げた本『南極探検とペンギン』。こちらはぜひお勧めしたい。ロイド・スペンサー・デイヴィス著, 夏目大翻訳、原題はA Polar Affair: Antarctica’s Forgotten Hero and the Secret Love Lives of Penguins。ペンギン’s affair、相当びっくりな本で、生と性を語るのは精神分析以上に南極とペンギンなのかもしれない、と思わされたりもした。
こちらはツイッターと違って推して知るべし、ではない断片からは描けない世界が広がっていた。本来は全ての出来事がそうに違いない。「偶然性」に身を委ねること、おそらくペンギンだって恋愛だってそうなのだろう。