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沖縄。岸政彦『はじめての沖縄』。散歩。

今朝は「高尾ポテト」。京王線橋本で買ってくれたそう。これは何度もいただいている。今回は3種類。今朝はメープル。しっとりスイートポテト。美味しい。冬にはこういうポクッとしたお菓子を熱いお茶といただくのが素敵。

沖縄都市モノレール ゆいレールのD-51が歌うテーマソング「おきなわ」をかけながら岸政彦『はじめての沖縄』を久々に手に取った。謝辞には先日亡くなった打越正行の名前もある。私がはじめて沖縄へ行った頃、まだゆいレールは通っていなかった。打越正行も生きていた。昨年11月には「ひめゆり学徒隊」の生存者である与那覇百子さんが九十六歳で亡くなった。2019年焼失した首里城正殿は2026年秋に再建される。沖縄戦から今年で80年。私は久々に沖縄へ行った。

岸政彦はこの本の序章で、沖縄の人びとと内地の人びとの「区別」は実在すると明確にし、

境界線の「こちら側」にはっきりと立ち、境界線の向こう側を眺め、境界線とともに立ち、境界線について考えたい

と書いた。沖縄の人たちは親しみやすくよく喋る、と言っていいほど私は多くの人と出会っていないが今回もそんな印象を受けた。そして境界線も感じた。一方、私が知識で勝手に引いてきた境界線は今回私が移動した範囲では感じなかった。ゆいレールが変えたものもあるだろう。前回は沖縄の人に助けてもらいその人に憧れた。

私は何か書き物をしなくてはならないとき、いつもより念入りに散歩をする。そうしたいと思っているが、いつのまにかいつも通りぼんやりキョロキョロした散歩になる。思索にふけることもなく鳥の声がした枯れ木の前に立ち止まる。濡れ落ち葉は慎重に踏み、粉々になる大きな葉っぱは避けて歩く。そうこうしているうちに原稿のことはどこかへ行ってしまう。そして締切ギリギリになんとか書く。それでも拙くともそれができるのはこういう散歩のおかげだと思っている。何かを手放してみてもそれは要素として蠢き続けている。それがいつのまにか曖昧な形をなし何とか書き言葉になってくれる。そんなイメージ。そこには身体の動きが必要なんだと思う、私には。沖縄のことはまだ書けない。書く必要もないのだがこんなブログにさえ書けない。散歩が全然足りない。また行きたい。