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精神分析

居場所

今日は新しい保育園へはじめて巡回する日です。本来だったら5月6月あたりに行く予定でした。関係をつなぐことは決して当たり前ではないということを知らされます。

私がしてきたことは、長い間ずっと好きで、信頼してきことに向かっていました。オフィスを訪れる方が私が大切にしてきたものを読み取ってくれるのをありがたく感じながら、今更ながら私にはこれ以外何もないな、と思いました。

いくつもの世界に生きることはできないからこそ居場所というのはとても大切だと思います。遊牧民のように移動する生活でも生きている場所が居場所になるように、俯いて歩く朝に小さな花を見つけて立ち止まるような、そんな瞬間を居場所と感じられたら素敵だなと思います。そのために必要なことを多くの患者さんから教えてもらってきたと思います。

ひとりではできないことをひとりでやろうとする無理をしないように、無理をさせないように、人間関係では必然的に生じてしまう傷を修復可能な状態に留めておく術についていつも考えていますが、それはとても難しくて、こんなことを考えること自体に無理があるのではないかというような気もしてしまいます。

身体全体で世界を受け止めている小さな子供たちが小さな花に気づき、まだ見えていない遠くの飛行機を見上げ、見知らぬ私に泣き、保育士に小さな手でしがみつく、そんなひとつひとつのことが彼らの居場所を作っていくように、何度でも最初の頃に戻れるなら、と思います。

精神分析は、二度の大戦を生き延びながら受け継がれてきました。耐えがたい痛みのなか、今はまだ見えていない場所を潜在空間とし、そこに希望を見出す、つまり錯覚を十分に体験しうる力を信じてきたのだと思います。

でももしその強さがなくても、とりあえず、なんとか今日のはじめの一歩を、というのも勇気かもしれません。良い一日でありますように。