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精神分析、本

応答

國分功一郎と熊谷晋一郎の対談が一冊の本になった。『<責任>の生成―中動態と当事者研究』である。読み始めたが、書名の通り、國分が『中動態の世界』で明らかにした中動態の研究と熊谷の当事者研究についての研究を基盤に<責任>について考える本であるらしい。朝日カルチャーセンター新宿での対談に加筆修正を施し、再構成したものだそうだ。

私が國分さんに出会ってその著書を読み、いまだに機会があれば講義を聞きに行ったりしているきっかけも朝日カルチャーセンター新宿だった。東日本大震災の頃に哲学を求め通っていた。

そうしてたまたま國分さんを知ったあともその言葉に興味を持ち続けているのは、國分さんが精神分析に言及し、精神分析家と対話をしてくれているからだ。信頼し、尊敬している哲学者が自分の領域とつながってくれていることはそれだけで嬉しい。

今回、この本を楽しみに待っていた理由も精神分析との関係においてで、國分さんが、当事者研究は精神分析が民主化されたものと位置付けていることに違和感を持っているからだった。私はそれをはじめてきいたときから「え?」と思っていたが、それを自分の言葉で説明できなかった。

でもその後も著作や対談や講義に触れ、それについて考えるなかで、この<責任>についての考え方がひとつの突破口になるのではないかと思った。

國分さんがまえがきにおいて「責任(レスポンシビリティ)は応答(レスポンス)と結びついている」とハンナ・アレントを引用しているように、私も私なりのしかたで応答をしていきたいと思う。ので読み進める。

熊谷晋一郎氏は以前『リハビリの夜』を書き、当事者側からリハビリ体験を再構築した(脱構築というべきなのか?)。これは新潮ドキュメント賞を受賞しているように、ものすごく生の体験の記録として非常に価値ある一冊だと思う。

今回の本では立ち位置は異なり、その生々しさはかなり知的なものに置き換わっている気がするが、あのドキュメントは傍らにおいたうえで読みたいと思う。

お二人の日々のためらいと挑戦とそれを公にする痛みに対して応答していくこと、読者としてはそういう試みができたらよいと思う。

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精神分析

simply listen.

誰もみていないのになんでだろう。なんとなく気が咎めて反射的に奇妙な小細工みたいなことすることあるよね、と話しながらゲラゲラ笑った。

「小細工」という言葉がそのときは妙におかしかった。自分に対して行う「小細工」。
どうして私たちはそのままいることが難しいのだろう。

精神分析のお約束は「自由連想」だけどそれがいかに不自由か、ということは分析を体験している人には強く実感されることだろう。
なんか知らず知らずのうちに小細工するの、自分の言葉に。
控えたり、すり替えたり、小さな声になったり、慣れていない言葉使ったり。

夢の中での冗談は笑えないと言ったのはフロイトだっただろうか。
おそらく「機知」論文の中でフロイトがそう言っている。
最近、現実でも笑えない話が多い。
というより笑ってすますことができなくなってる?以前だったら笑えた話も笑えなくなっているような気がする。

言葉ひとつ足りないくらいで 全部こわれてしまうような かよわい絆ばかりじゃないだろう
さあ見つけるんだ 僕たちのHOME♪

B’zのHOME。この部分、しょっちゅう口ずさんでしまう。

小さい頃、落語をラジオで聞いていた。一部、布張りのしっかりした箱に入ったカセットテープの全集は東京に持ってきて、今も私の部屋にある。

当時は何を言ってるのかよくわからなくて、でも大人たちが笑うのがおかしくて笑った。
実際音の揺れや動きやリズムは子供の私にも楽しかった。

今、私たちは言葉を音楽として聞けているだろうか。言葉の単一の意味ばかりに注目し、その多義性に心閉ざしていないだろうか。意味だけでなく、言葉が紡がれるときのなにか別のものを取りこぼしてはいないだろうか。

いつもそんなことを考えながら患者の言葉をただ聞く。simply listen.
フロイトが技法として書いた言葉だ。
シンプルな言葉は奥深いし、難しいし、ただ真似をするということをさせてくれない。
なのに響く。「だから」響くのか。


今、No music, No life.にかけた言葉を思いついたけど恥ずかしいから書かない。
どうしてこうやってサラサラ書いてると本当にどうしようもないことが浮かんできちゃんだろう。
自由連想って危険だから不自由になるのね、多分。

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精神分析

失敗

校正したのにまた間違うという失敗。

しかも何を間違ったのかわかるまでに結構時間がかかってしまった。

あーあ。どうしていつもこんななんでしょう。

英国の精神分析家のウィニコットは「失敗」という語を母親と乳児の関係で用いた。

赤ちゃんを産んだばかりのお母さんは我を忘れて赤ちゃんの世話に追われる。でも少しずつ「あれ?私誰だったっけ?」という感じでもとの自分を取り戻しはじめる。

これって精神分析を体験する人ならそのプロセスで分析家の身体を借りながら自分の赤ちゃん部分を世話している分析状況を思い起こすと思う。

それはともかく、ウィニコットはお母さんが赤ちゃんにぴったり適応している状態から離れることを「失敗」といった。

お母さんは神様のように万能ではなく、もとは小さな赤ちゃんだった人なので(わたしたちみんなそう)、当然この「失敗」は避けられない。人間である以上、本当には二人でひとつにはなれない以上、どうしても起きてしまうのだ。

赤ちゃんは泣き叫ぶようにお母さんの「失敗」を指摘し続けるけどそうしながら赤ちゃんの方も気付くことがある。

こうして目線を送れば、こうして声をだせば、このくらい待てば、お母さんやお父さんはみてくれる、きてくれるんだと。もちろんぼんやりと。無意識に。

母親の「失敗」が赤ちゃんに学ぶ機会を与えるのである。もちろんこの場合の「失敗」が傷つきになる可能性もあるわけだが、お母さんが自分のこころの揺れに無理なく付き合うことができれば、そうできる支えがあれば、きっとそれはウィニコットのいう必然的で必要でさえある「失敗」の範疇だろう。

まぁ、私が校正で失敗したのはウィニコット絡みなのでなんとなく書いてみたけどかなり大雑把です。あしからず。

今日の東京は弱い雨。失敗しては取り戻す。そんな毎日ですね。

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ぼんやり

「私、猫派」「私は犬派」みたいな話ってわりとよくある。昔、休日の過ごし方について友達とおしゃべりをしていた。「休みの日は外に行かないともったいない」派の友人はたしかにいつもアクティブだった。電車でも本を読んだり、音楽を聞いたりなにかしらしていた。私はボーッとしたりウトウトしていたら何時間も経っていたなんていつものことで、電車もそれでしょっちゅう乗り過ごしていた。バイトとかボランティアとかなんらかの活動を促される場にはいつもいたのでそのおかげで外で活動していたけれど何もなかったらずっとうちにいたかもしれない。

なのでこの仕事は合っている。いつもの曜日、いつもの時間にくる人たちを迎え、50分間一緒になんらかのことをやって、送り出して、次の人を迎える。毎日朝から晩までこうしていたいが、今はまだ外での仕事もしている。

空き時間は書類仕事などもするけど、こうして徒然なるまま何か書いたり、やっぱりぼんやりしたりしている。寒くなってくるとストーブの前でただじっと物思いにふけったりする(ものは言いようみたいになっているかもしれない。私は一応心理士でもあるからリフレーミングといおう)。

本はたくさん読むけど何冊も並行してぼんやり読んでいるので学習目的で読まねばならないときは結構辛い。知っている人が書いた本はとりあえず読んで感想を送る。相手を知っていると対話的に読めるのがいい。

今年10月に『精神分析にとって女とは何か』(福村出版)という本が出たが、編者であり著者でもある西見奈子さんは知り合いだ。この本も送ってくださったので、すぐに読んで短い感想を送った。この本についてはほかでぶつぶつ呟いたけど、何々にとって何とは何か、という問いって色々言い換えると面白いよね、と思っていた。「精神分析にとって「女である」とは何か」とか「である」を加えたり、「女にとって精神分析とは何か」とかしてみたり、問いの立て方自体にその人の立ち位置が見える気がする。「女にとって精神分析とは何か」は精神分析をなんらかの形で体験している人の立ち位置な感じがする。著者の性別を知ったときになんらかの推測をすることもあるかもしれない。

私だったら「私にとって」という問いから始めることになるだろう。

女であること、精神分析家候補生であること、それ以前に人間であること。「である」「になる」の違いは哲学でも取り上げられていることで私にとっても大きなテーマだ。「ではない」「にならない」と否定形を意識しながら思考する。ハイデガーではないが存在と時間の問題でもある。設定とプロセスの問題でもある。私にとっていろんなことはなんなのだろう。

と手が動くままに書いているとあっという間に10分、20分経つわけで、お昼においしいもの食べたいなと献立を考えだすとまたすぐ時間が経って、という感じで夜が来て夢を見て朝を迎える。

やっぱり私はこの仕事のリズムが合っている。それぞれの生活を営む誰かが同じ曜日、同じ時間に来て、夢を見るようになにかして、生活に戻る、お互いに。

今日もいいお天気。やること終えたら仕事までぼんやりぼんやりしましょうかね。良い一日をお過ごしください。

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精神分析

環境

どうしても母親の気持ちを知りたい、執拗に、執拗に。

臨床場面ではそのような切実な想いにたくさん出会います。この場合、知りたい対象が実際に生きているか、そばにいるかは関係ありません。こころのなかで、こころと言わないならば記憶のなかで(どちらも現象としてしか捉えられないけど)生きている人に向けられた行き場をなくした強い思いというものが今ここに現れることがあるのです。

精神分析でいえばそれは患者と治療者の関係として現れ、それは転移と呼ばれています。

切り取られ、リピート再生されるように同じ場面、同じ状況が不思議と持ち込まれる臨床現場はすでに時空の歪みが生じているとも言えるでしょう。過去・現在・未来が動的に作用し合う可能性がそこにはあるようです。

ただそこにはとても強力にネガティブな感情も動いています。そのため精神分析家のウィニコットが当時の精神分析に欠けていたものとして描き出した「環境」がとても大切になります。

誰かと何かを知ろうとすることはリスクを伴います。多くの傷つきを反復的に体験します。だからそこには支えが絶対に必要なのです。安易に外的な第三者を導入するのではなく、二者を守る環境を治療者側が外的、内的、心的に準備する必要があるのです。それを可能にするのが訓練としての治療です。精神分析でいえば精神分析を受けることです。

今度、出る本の一章では精神分析ではなく、精神分析の知見を活用した理解をしながら行なった心理療法の症例をもとに、そんなことを書いてみました。何事にも準備が必要で、支えが必要だ、という一見当たり前のことを何度も思い出す体験をするのが臨床なのでしょう。私たちはすぐに相手との境界を曖昧にしてしまいがちだから。傷つきやすいのにそうしてしまうのは人間の本性でしょうか。

穏やかなお天気が続いていますね。良い一日をお過ごしください。

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読書

老眼鏡

今年は美味しい柿にたくさん出会えているけど美味しい林檎になかなか出会えません。どうしてかしら。

老眼鏡をはじめて使ったのは何年前だったでしょうか。ずっと目がよかったので見えなくなるという体験には戸惑いました。そして老眼鏡の効果に驚きました。でもその効果もまた薄れてきてしまってまた度数をあげなければという感じです。

老眼になってから本当に資料や本を読むのが億劫になってしまいました。画面上で拡大したとしても、画面の文字はそれはそれでこうやって見にくいのですよね。慣れないとでしょうけど。

若いうちにもっと読んでおけばよかった、と思うときもありますが、読んだからどうだったか、と考えるとなにかがそんなに変わったわけでもないような気もするのでこうやって生じている老いに身を委ねながら日々の不便を感じ、道具の便利さに感謝し、人の助けに気付きながらやっていけたらいいのかな、と思っています。

今朝の柿も当たりです!朝焼けもきれいだったし、よい一日になりますように。

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精神分析

自由

人は簡単に自由を奪われたような気がしてしまいます。奪えるような気もしているかもしれません。

そんなことできるはずないのに、と思ったり、そうかもなと思ったり。「自由」というなにものか定義しづらいものを相手にするのは大変です。

障害を持つ人がいう自由、捕らえられた人がいう自由、結婚した人がいう自由、子供を持ったいう人が自由、子供の自由、大人の自由、どれにも当てはまらない人がいう自由、いろんな自由は不自由さを抱え込んでいます。もう存在そのものがそうで、身体を持っていること、こころが動いてしまうこと、感覚が麻痺していてもそれを麻痺と知る脳を持っていること、これらは自由と不自由両方の基盤でどちらかだけを生み出すことはできないのでしょう。

逃れようのないものから離れようとするために人はいろんな防衛を発達させてきました。それでも逃れようはないのだけど。

フロイトが「不幸をありきたりの不幸に」と言ったのだって「幸せ」の定義が難しいから不幸一元論(そんな言葉はない)で言っただけではないでしょうか。

不自由一元論。ないものから始めること。ないことを前提にすること。そんなことはあり得ないと思いながら求め続けること。私は今のところそれを「自由」と呼んでいます。誰にも侵害されない願いのこと。

哲学者には叱られちゃうかもしれないけど。哲学者じゃない自由で遊んでいるだけだからご容赦願えたらと思います。

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ウェールズ

地上へ向かうエスカレーターから空が見えた。真っ青だった。

ウェールズは美しい土地だった。目的地に向かうバスの中、一番後ろの中央の席には美少女が鎮座し、彼女よりずっと子どもっぽく見える男子たちがそれを取り囲んでいた。そこでは皆ウェールズ語を話していて内容は全くわからなかった。おそらく同級生だろう。男子たちの声かけをほぼ無視して無表情で前をむき存在感を放つ彼女は私のなかでウェールズの一部を形作った。

最初に訪れたB&Bが満室で友人を紹介された。すぐ近所の家の外では女性が手を振って待っていてくれた。そちらへ向かうと彼女はすぐに「ちょっと待ってて」と英語で言って家に入りテレビに釘付けになった。ブラウン管のテレビの画面では宝くじの抽選会をやっていた。宝くじで待たされる経験はすでにしていたので「イギリス人は本当に宝くじが好きなんだなあ」という経験的知識を得た。

少しは当たったのか全く当たらなかったのか。ある程度待たされてから案内された部屋はこじんまりしていてロンドンのホテルよりずっと居心地がよかった。バスルームに置かれたバスタブは映画のようにおしゃれだったが入浴する文化ではないしどうやって使ったらいいものかと思った覚えがある。あとはバスタブのかわいさと積まれたタオルしか覚えていないので無難に使用できたのだろう。

昼間はお店の小さな窓からフィッシュ&チップスをテイクアウトして湖のほとりで食べた。空と山と湖、なんという贅沢だろう。静かだった。フィッシュ&チップスはロンドンのものとは少し違った。そこのがあまりに美味しかったので日本でもずいぶん試したが、「美味しさ」というのは直観されるものらしいことを知った。

他のことはあまり覚えていない。ただウェールズは別格だと思った。大好きだと思った。あの空の下、あの湖のほとりでただ座っていた。当時の私はまだとても若かった。

あの頃には想像もつかなかった出来事、全く知らなかった気持ちといまだに出会う。少しゆっくりしたいなと思うとき、あの感触が私のなかに蘇る。

旅をしてきてよかった。やはり背景を変えるだけとは違うのだ。いや、それだけでも「私」は少し違う自分になれるのかもしれないけれど、ただそこにいて、ただ時間を過ごす。知らない言葉が交わされる世界の内側にじっと身を置く。そうした体験は、私が意識的に何かを施すまでもなく、必要なときはこうして色濃く蘇って支えてくれる。

私がしていることもそうしたものであればいいのに。無理や努力ではなく、その人がすでに持つ可能性が息づく場所づくりをできるように、といつも願う。

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精神分析

冬眠

最近、出来事に対して中動態的な性格を与えることを試みていたらしい。

でも現実はやはり現実で、そんな無理をして乗り越えることではないと思った。

防衛として思考実験的に続けてしまうだろうけどこの概念の使い方としては間違っているのだろう。

積み重ねた小さな傷つきは無理になかったことにしなくていい。

それとともにどう過ごしていくのかについて考えるのはひどく苦痛だろうけど。

なかったことにはしない。小さい傷つきを大雑把にまとめあげない。

織物のように密に重なりあう糸の連なりに目を凝らす。

どこで絡まったのか、どこで切れたのか、もう紡ぎ直すことはできないのか。

誰かと一緒にゆっくりみなおす。

そうこうしているうちになにか別の感触で、生じつつある出来事を体験するかもしれない。

別、というだけでそれが苦痛を和らげるかはわからないけれど。

立冬を過ぎて本当に寒くなった。寒さでさえ辛いなら冬眠だってありだ。

ありさんいないねえ、ねんねしちゃったねえ、と保育園児も言っていた。彼らの小さな手はあたたかかった。

冬眠して果てない夢をみる。それこそ中動態っぽい。

適当なのは寒さのせい。たぶん。

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少しずつ

毎日思いもかけないことが起こるのだけど、これからもずっとそうなのでしょうね。

「またか」という失望を伴う出来事ですらそれがまた本当に起きるとびっくりしてしまったり。何度も何度も辛い思いをしたいわけではなかろうに、と自分でも思うのに。不思議です。諦めが悪いのかもしれません。

こころは意識的にどうこうできるものではないと思っているので、何か感じたり考えたりする自分に委ねるしかないと私は思います。いろんなことは起きてから。

だから「待つ」ことの重要性ばかりいっているような気がします。言い聞かせてるだけのような気もします。難しいです。

息苦しくならないために何かいったつもりがその言葉にまた息苦しくなってしまう。精神分析の方法である自由連想にはそういうところがあります。不思議ですね。

自分で自分を欺くようなことをして苦しんでしまう私たちを「人間ってそういうものだ」みたいにいうのは簡単ですし真実かもしれませんが、この仕事ではそういう言葉は自分以外の誰かがいうものではないのでしょう。

少しずつですね、何事も。

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精神分析

精神分析という文化

もし願うとしたら自分や大切な人たちが他でもないその人としてここにいられるように、そのための支えとともにいられますように。

精神分析が明らかにしたナルシシズムは、簡単にいえば現実を自分仕様にカスタマイズする性質のことだろう。それは変容を妨げる。良い悪いの話ではなく、逃れようのないそんな自分の性質に自分で抗うこと、フロイトのいう「抵抗」とは別の方向へ。

といってもフロイトは自我、超自我、エスとの関係でそれを記述したどまりでそんなに明確にしたわけでもないのか。

知られざる自分との出会いを可能にするものとして、精神分析は設定、技法に特殊な仕掛けを含ませ、その理論を発展させてきた。

そして、そのプロセスにおいて対象を限定しなくなり、多様性に開かれてきた。それでもいまだ「自己変容」というフロイトの言葉は謎のままである。変容とはなんだろう。

精神分析プロセスにおけるカタストロフィは患者だけのものではない。二人にみえる人が転移-逆転移関係においてこころを行ったり来たりさせながらそれ以上の関係を、あるいはそこを通底するものに触れていくプロセスは苦闘である、と私は思う。


そのプロセスはその人を他でもないその人として立ち上げるかもしれないし、再びナルシシズムの世界に安住することを選択させるかもしれないし、もっと別の形をとらせるかもしれない。

私は願う。とは、誰かが私を願ってくれることだと私は思う。ただそこにいることを。いずれそこに動きが加わって分節化して名がつくかもしれないし、何かのイメージにとどまるのかもしれないけど、私は願われている、という感覚をお互いがもてるとき、そこが変容可能性の場所になるのではないだろうか。

精神分析は過去に原因を求めているという大きな誤解は、体験なくしてとけるものとは思わない。ただ言えるのは、私たちは程度の差はあれ、いつだって何度だってなにかしらやり直そうとしているではないか、直線的な時間に逆らうまでもなく、過去とともに今ここにいるではないか。

精神分析はそこで二人でなにかをやることで存在が分節化するのを待っている。そんな治療文化なのではないだろうか、と私は思う。

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精神分析

声を待つ

フロイトが使った「失錯行為」という言葉はドイツ語だとFehl=失敗とleistung=達成の組み合わせでできているという。意識的には失敗でも無意識的には達成、ということか。だとしたらいかにも精神分析らしい。

「最終的には失敗することで成功する」といったのは小児科医であり精神分析家であったウィニコットだ。

「なんにだって意味がある」と言われたら「それはそうですね」と思うし、「無というものが在る」とか言われれば「なるほど。そうもいえますね」と思う。しかし、こういう逆説にいちいち感動していた日々はもう遠い。

臨床場面ではそういう言葉はひとときの安堵をもたらすかもしれないが、使うタイミングによっては嘘っぽさすら含む。もちろん、二人が別れたあとに思い返すその瞬間が同じようにそうだとは限らないが。

言葉は単に多義的というよりも時間や場所によってその意味を変えていく。同じ言葉でも名のある人が言うのとそうでないのでは全く意味が異なったりもする。言葉の難しさと醍醐味だ。

ただ、もはや口にしたくない言葉というものもある。外傷の表現がそうだろう。多くの外傷場面が言葉にならず視覚的にフラッシュバックされるように、傷は言葉と距離をとる。逆説の豊かさはそこでは過剰な刺激になるかもしれない。そこで求められるのは沈黙でしかないかもしれない。

それでも、私たちの多くが言葉で生きていることに変わりはない。自分の言葉を編み出すこと、口封じをされたら別の場所から言葉を出すこと、本当に悲しいときに沈黙できること、そしてそれができる環境があること、赤ちゃんの切迫した泣き声を思い起こすこと。泣き声も言葉だ。

どうかその声が届きますように。その意味が伝わりやすように。

言葉を使うことは曖昧さに耐えることでもあり、決めつけに抗うことでもある。こころの声を待つ。いずれくるなんらかの判断に向かって。

『ゴドーを待ちながら』みたいな。

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徹底的に

渋柿よ徹底的に渋くなれ 山﨑十生

「徹底的に」っていいですね。私はすぐ焼酎につけちゃうけど。渋柿よ少しでいいから甘くなれ、と。全然俳句らしくないですね。言葉の置き方ひとつで見えてくる景色が全く変わってしまうのが俳句です。

ハロウィン南瓜無造作に置かれ 宇多喜代子

南瓜の置かれ方をこんな言葉の置き方で・・。いい句。いつの間にか過ぎていました、ハロウィン。

渋柿の渋って本当に辛いですよね。あ、「つらい」と読みます。お分かりだと思いますが。それにしても「辛くて辛い」というのはいいますが、「辛くて辛い」はいいませんね。言葉は不思議です。

フロイトは1905年『機知ーその無意識との関係』のなかで言葉遊びについて書いています。ご存知の『夢解釈』、当時は夢解釈よりも売れた『日常生活の精神病理学にむけて』に続く論文、というか単行本かな。

フロイト は言葉の音、文字、意味、イメージなどいろんなものをいろんな風にずらしたり置き換えたり重ねたり変形したりしていくのが趣味というか仕事だったのですが、この「機知」論文、機知ってジョークとか冗談って意味のここでも大真面目にそれをしています。

しばらく読んでいなかったので忘れていますが再読の機会を得ました。今回は、フランスの哲学者サラ・コフマンが書いた『人はなぜ笑うのか?フロイトと機知』も参照しながら読んでみようと思います。

フロイトがユダヤ人であったこと、その事実と影響を考えながら。

国も時代も異なれば、それを自分たち仕様にカスタマイズするのは普通のことだろう、という人がいます。でもそれをするにはやはりそれを、たとえば精神分析を、十分に体験しながら、情緒と思考が重なり合う身体を作り、イメージを更新させることが準備として必要だと私は思います。

ということを再読していた『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を通じて感じました。戦争は体験してはならないものなので、こうして学ぶ必要があるのでしょう。

漫画版も出ましたがその前に本書を読まれるとよいかもしれません。文字なのに、それがこう連なると本をギュッと握り目を逸らしたくなる、そんな瞬間が訪れる描写がされているように思います。

徹底的に。学びのある局面ではこれしかない、そんな風に考えたのでした。

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精神分析 精神分析、本

『原子力時代における哲学』

國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』で楽しむのにも訓練が必要だ、みたいなことをいっていた。違いのわかる人はそれ以前に学びがある。消費ではなく浪費家であれ、贅沢であれ、と「暇」という時間に価値を見出したのがあの本だったと思う。

昨年、國分さんは『原子力時代における哲学』(晶文社)いう本を出した。この本は精神分析に関するテクストとしても読めると私は思う。だから精神分析家の十川幸司とのトークイベントもあったのだろう。フランス現代思想にも造形の深いお二人の対話はさぞ面白かっただろうと思うが私はいっていないからわからない。

先に挙げた「暇倫」は精神分析の設定と繋がる。

私は、國分さんが当事者研究の文脈で使う「精神分析」には異なる感触を持つけど、この本で引用されるハイデガーの「放下」概念はまさに精神分析で生じていることだ。

國分さんはフロイトのナルシシズム概念を参照する。そして、原子力時代を生きる私たちは万能的に「贈与を受けない生」の実現、つまり「何ものにも依存しない完全に自立した状態」を欲望しているのかもしれない、原子力を悪魔としたら、それは人間のこのナルシシズムに付け入ってくる、という(不正確かもしれないから原著を読んで)。

その箇所も説得力はあるが、やはり私は「放下」という概念に魅力を感じた。精神分析プロセスにおける「待つこと」、私はそれを精神分析の本質だと思うからだ。と書くなり「本質」という言葉自体の危うさも感じるが。

「隠された意味に対して我々が開かれて、それを受け取るようになること」、國分さんがいうように精神分析はそこに対しては「大きな手助け」になるのである。