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精神分析、本

ステレオタイプ

世界では物事が順序立って起こると予測していなければ、ユリの香りがすることやハチに刺されたら痛いことなどを予想せず、絶えず驚いてばかりだろう。ステレオタイプとは心が行なう速記であり、自分の体験を理解可能なカテゴリーへと区分けすることから避けがたく引き起こされるものである。ーマーク・W・モフェット『人はなぜ憎しみあうのか』(早川書房)より

そうね、でも、と思う。精神分析はこれに抗ってきたと思う。というか「驚き」をもっとも大切にしているのではないかな。ものすごい負担や痛みはあるものとして。

でも、抗っても抗っても常にいつの間にか何かのカテゴリーに回収されるというのも本当かも。人のこころは不自由で、いろんなことを決めつけることばを使ったほうが簡単で、微細な揺れなどなかったことにできる抽象概念を扱えたほうが「賢く」生きられそうだ。

無意識と出会う驚き、双方が。なのに言葉を使う。この矛盾。矛盾ではないか。言葉を使うことでズレを知るわけだから。だからこそ言葉の使用は重要。でもその前に身体がないとなんとも。身体は大事だから、眠れないときは眠れるように。具合が悪いときも環境や気の持ちようのせいにしない。心身というくらいだからこころのことももちろん連動はしているけど身体がないとこころは存在できない。

冒頭にあげた「驚き」は、知らないことに出会う驚き。私はユリの香りが強くて苦手だし、ハチに刺されるのも嫌。確かにそういう知識が速記されてる、私のこころにも。いつのまにか書きつけられたそれらで世界を掴もうとすることの繰り返しが毎日だ。それは似たような身体が持つあまりに個別な体験のはずだけど。

ステレオタイプは、一方ではこころを守るために、一方では誤魔化すために、攻撃するために用いられる。物語も同じように危険だ。驚きつづけることの負担も相当なものだけど大事にしたいと思ってきた。今はそれもな、と思っているけど。迷ってばかりだ。