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精神分析、本

精神分析における切なさと懐かしさ

昨日は寒くて泣きたかったですね。冬のコートを着てしまいました。昨日がちょっと特別でもう少し暖かい日もまだあるでしょうけど季節は確実に先に進んでいますね。今日はどうなのかな。

切ない、という言葉をシソーラスでひいてみました。分類としては「哀愁を帯びる(気配)」という「抽象的関係」の「不快な気配」に入るようです。切ない・・・遣る瀬無い、ほろ苦い、甘酸っぱい、ペーソス(使ったことがないです)、など色々ありますが、「不快」と言われるとそうかなぁ、という気がします。少なくともフロイト のいう快不快という一次過程的な言葉ではないでしょう。

こんなはずではなかったのにこうならざるをえなかったというような、愛を基盤とした叶わない複雑な想い、というのが私の定義です。胸がギュッと締め付けられるのを服の上から押さえてしまうような幾重にも狂おしく、でも絶望までいかずとどまる健気さをこの言葉には感じます。

そしてこの「切ない」をワークスルーできたとき、「懐かしい」という言葉に開かれるような気がしています。

長い期間、本当に多くの患者さんと密な関係を築いてきて、この二つの単語はキーワードになると感じてきました。「懐かしい」という歴史性を帯びた言葉に開かれることは諦念と希望を感じます。

精神分析は痛みを生きる場です。だからアクセスしやすいものにはなっていません。痛みに触れながら生きる場所は特別である必要があるからです。頻回の設定にお金と時間を費やしていくことの意味はこの痛みを除去するものとみなさず、関係を繋ぐものとみなすことと関係するのでしょう。たやすくはないデリケートな作業です。

そこでの二人の関係もまた切ないものです。お互いが絶望せずそこにとどまれるように言葉を単なる言葉として聞き流さず、その声に含まれるものに開かれていくこと、フロイトを読んでいると、彼がここに見えないけど確実にありそうなものをとても大きくて緻密な網の目で捉えていることに気づきます。

大切と書こうとしたら、ここにも「切」。無意識に、「そんなつもりはなかったのに」、こころを切ったり切られたりすることが起きてしまう、精神分析は誰もが持つこころの凶器、あるいは狂気に触れます。そしてそこに敏感に注意を払い、価値判断をできるだけ退け、関心を向け続けます、お互いに。だから、精神分析家になる訓練では患者を持つ以前に自分が患者になる必要があります、十分に。それがどんなものかを知ることなしに他人のこころに触れることは不可能です。

今日は日曜日。誰かと関わらないことでえる休息もとても大切です。精神分析の場合だと、お互いに。毎日会って日曜を休む、フロイト的、精神分析的生活は、一次過程における快不快の水準ではない「不快」さ、疼く痛みを感じながらも「切ない」にとどまることを可能にする仕組みでもあります。痛いけど、狂おしいけど、それが憎しみを含む愛情関係である限り、憎しみだけに覆われてしまわない限り、いずれ懐かしい痛みへ。それは目指されるものではなく、精神分析において生じうることとしか言いようがないけれど。

良い日曜日をお過ごしください。

付記

精神分析における日本語の使用については北山修、妙木浩之が詳しいので、『日常臨床語辞典』北山修監修、妙木浩之編、誠信書房と『意味としての心 「私」の精神分析用語辞典』北山修、みすず書房をみてみたが、単独の言葉としてはどちらも取り上げられていなかった。ただ「切ない」は『意味としての心』の索引にあり、「神経をつかう」「つながる」の項目で取り上げられている。

ちなみに『日英語表現辞典』では、せつない(つらい)painful; trying;stabbing