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パーソナル

先日、久しぶりに新宿三丁目の方を歩いた。地下はよく歩くが地上は久しぶりだった。新宿東口から新宿三丁目にかけては10代後半から長い間遊び場だった。よく通ったカフェは二軒とも残っていた。当時いろんな話をした。シアターモリエールはしまっていた。改装中らしい。なくなっていなくてよかった。

昨年は別役実が亡くなった。チケットをとっていた新作公演が彼の病気療養のため演目変更になり、別の別役作品をみた。淡々とした不条理から生じるゾクっとする怖さとほかでは体験できない笑いは私の身体に心地よかった。彼の死がとても悲しかった。

最近出版された松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』にも別役実が登場するのをご存知だろうか。意外な出会いに感激した。といってもビオンを信頼する松木先生がベケットに影響を受けた別役実と近づくのは自然なことだったのだろう。

松木先生のこの事典は事典というより本だなと私は思った。事典も本だろうけど。最初から読んでもいいと思う。私は最初、興味のある概念をパラパラしていたが冒頭から読んだら可笑しくて、本として読むことにした。多分、私でなくても読者は、これまでの松木先生の著書より軽妙な語り口で精神分析の難解な概念について学ぶことができるだろう。わからないならわからないなりについていけばそのうち実践を伴ってなんとなくわからなさの感触も変わってくるはずだ。私は概念も人もなんでも「あーあのときの」と何度も出会い直せばいいような気がしている。

ところで、この本のことを先生からお聞きした時、先生が「私説」とか「パーソナル」という言葉を使っておられるのが印象的だとお伝えしたのだが、実際そこにはわけがあった。それもこの本に書いてあった。多くの問いと答えを(そしてまた問いを)くださる先生からの学びを私も少しずつ伝えていけたらと思う。

それにしても、こころを「こころ」と平仮名で書いている場合じゃないくらい疲れてしまったとき、私は精神分析と出会っていなかったらこんなにこころを使う(精神を使う、って変な感じだから使えない)ことなんてあっただろうか、と考えることがある。精神分析は様々な他者をこころの中に住まわせる手法だ。そこには悲劇も喜劇も不条理もある。負担も喜びも憎しみもある。リスクもあるが生きがいもある。持ち堪えるとか生き延びるとかそういう言葉が使われるほどに結構ギリギリの体験を内包した拡張可能性を秘めた技法であり文化だ。書くだけなら簡単だがそれでも結構大変だ。生きるって大変だ。

「パーソナル」であること。この言葉自体何度も問われる必要があるのだろう。とりあえず今日、とりあえず明日、ベイビーステップでやっていこう。