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精神分析、本

binocular visionなど。

雨?南側の大きな窓を開けたらやはり雨。さっきは「降り始めた」と思ったがずっと降っていたのだろうか。そういえば昨晩はひどい雨の中を帰ってきたのだった。ジーンズも雨用のはずのスニーカーも少し寒くて羽織った薄手のパーカーも結構濡れたがもう帰るだけだからと全く気にならなかった。濡れたものは乾かせばいいだけだから簡単でいい。今朝は涼しいが熱気の澱みを感じてエアコンを短時間つけた。

昨晩、友人に“binocular vision”について聞かれた。精神分析家ウィルフレッド・R・ビオン が使用した言葉だ。ビオンはできるだけ抽象度の高い言葉、意味に汚染されていない言葉、例えば数学で使われるような言葉を用いた。binocular visionはvertexのひとつでありそれをviewpointとは言わないというようなことである。binocular visionは双眼視とか両眼視とか複眼視とか訳される。簡単にいえば二つあるいはそれ以上の異なるvertex(頂点)から一つのものを見るということだ。日本の精神分析家の北山修が『共視論』(講談社選書メチエ)で述べたのは発達心理学の用語であるjoint attentionを拡張したものだった。母と子が二人で同じものを見ることについて北山は浮世絵研究を基盤に論を展開した。ビオンも母子関係をモデルにしているが彼が注意を向けたのは乳児と乳房の関係というようなより早期の原初的な関係でありbinocular visionはひとりの人の内的な複数の視点のことである。他に、精神分析の対象を眺めるためのvertex(頂点)として“reversible perspective”や“hyperbole”などもある。これらの複数の頂点、パースペクティヴがどのように“selected fact” (選択された事実)と連接していくのか、あるいは別のfactと連接していくのかを見立てていくのも精神分析家の仕事だがそこに正解があるかというと「ない」というしかないのですべきことはひたすら現象の描写ということになるだろうか。

ビオンの解説としてわかりやすいのは松木邦裕『精神分析体験:ビオンの宇宙』(岩崎学術出版社)だろう。

ちなみにそこには「’双眼視(もしくは両眼視)binocular visionは、ふたつの異なる視点からひとつのものを見ることの大切さを取り上げています。平たく言うなら、同時に複数の視点を持つことです」と書いてある。シンプルだ。

今日はビオンとウィニコットの「退行」概念についてのセミナーがあるので友人が質問を投げかけてくれてよかった。セミナーは英語なので思い込みによる理解は避けたいがどうなることやら。

そして秋彼岸。お墓参りに出かける方は足元お気をつけて。

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ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』をいただいた。

昨晩遅くにコーヒーを飲んでしまった。昨日はそんなにカフェインをとっていないような気がするが朝は紅茶にしておこう、とティーバッグをだした。カフェインであることに変わりないけど気分の問題。あっつい紅茶が美味しい朝になりました。今年も無事に夏が過ぎていく様子。私たちも無事に朝を迎えた様子。

昨晩、帰宅したらポストに厚みのある封筒が入っていた。あれ?なにか本の注文してたっけ、とポストから取り出す。早く見たかったが他の郵便物や重たい荷物のせいで確認できない。部屋に入るまですぐなのにこの短時間が待ちきれない。本が届くのは本当に嬉しい。荷物をドンと置いてチラシを紙袋に仕分けて厚みのある重たい封筒を手に取る。うわあ!と嬉しくなった。

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』(松木邦裕、小波蔵かおる監訳、岩崎学術出版社)をご恵投いただいた。重たいけど意外とコンパクト?と思ったけど他の本と変わらなかった。なんでコンパクトと思ったのだろう。ギュッと詰まった論文集だから?

そういえば最近本屋さんで精神分析の本が置いてある棚の方へいっていなかった。自分で買うつもりでチェックしてあったが大変ありがたい。この本は8月に出たばかりの新刊だが古典だ。

1965年にイギリスで出版された。すでに訳出されている1987年出版の『治療の行き詰まりと解釈』(誠信書房)はローゼンフェルドの後期の思索を解説したものであるが、今回訳出された『精神病状態』は初期の論文を集めたものである。原書はpsychotic states a psycho-analytic approachで、精神病に対する精神分析の貢献の可能性を示した1947年の彼の最初の論文から1964年の論文が収められている。精神分析を専門的に勉強している人はここに収められた論文をすでに英語で読んでいる人が多いのではないだろうか。監訳者のおひとり、精神分析家の小波蔵かおるさんがその訓練中に「なぜこれが翻訳されていないのだろう」と不思議に思い翻訳を申し出たということを「解題」の最初に書かれているが、訓練に入っている人はおそらくみんなそう思っていたと思う。だからこの翻訳は大変ありがたく、これから精神分析を学ぶ人たちがこれまた学ぶことが必須であるメラニー・クラインに始まるクライン派精神分析の初期の成果を追うためにも助けになってくれるに違いない。英語で、しかも精神分析で、しかも理解が非常に困難な精神病の世界のことが書かれた論文たちは読みとおすだけで精一杯みたいなところがあると思う。私はそうだった。多分私だけではないと思うから助けてもらおう。

ローゼンフェルドは1909年7月生まれの精神分析家だ。ドイツで生まれたユダヤ人である、と書くだけで彼が経験した苦労を想像できるだろう。1935年、ナチスの迫害を逃れイギリスへ向かうがそこでも敵国の外国人であるために居場所を得られなかった。しかしなぜか精神療法家としてなら滞在できるということで彼はタビストック・クリニックでの訓練をはじめ、そこでメラニー・クラインの分析を受けた。彼の人生史や人となりは本書の解題にも『行き詰まりと解釈』にも触れられているが、今回の監訳者のもうひとりである精神分析家の松木邦裕先生が昨年2021年に出された『体系講義 対象関係論(下)ー現代クライン派・独立学派とビオンの飛翔ー』(岩崎学術出版社)にはパーソナルな描写もあり、これを読むと論文にも近づきやすくなると思う。どういう時代を生きたどういう人がこれを書いたのかということはどの論文を読む場合にもとても重要だろう。

また、ローゼンフェルドの最も重要な貢献の一つである精神病に苦しむ人への精神分析的アプローチについては『行き詰まりと解釈』の第一章「精神病治療への精神分析的アプローチ」が詳しい。

毎日勉強だなあ、と思いつつ、フロイト以外の精神分析の本をあまり読んでいなかった。古典を読むのは楽しい。目次をみてパラパラとするだけでここに収められた論文のいくつかはぼんやり思い出すことができた。勉強会でも話したいことが増えた。正確に紹介できるようにきちんと読もう。訳者にはフロイトをしっかり読んでいる知り合いの名前もある。頼もしい。翻訳作業でも世代を繋ぎながら精神分析を受け継いでいる監訳者の先生方からこの本をいただけたことがとても嬉しい。もうちょっとしっかりしなさい、というメッセージとして受け取ろう。どうもありがとうございました。

今日は金曜日。週末ですね。無理をしなくてはいけない人もほどほどのところでお茶を濁す練習も大事かも。自分のこころを守ることを優先するってなぜか本当に難しいけど長い目でみれば今そんなに無理しなくてもどうにかなることもあるかもしれない。少しずつ、力抜きつつ、ぐったりするだけではない夜を迎えられますように。お大事にお過ごしくださいね。

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パーソナル

先日、久しぶりに新宿三丁目の方を歩いた。地下はよく歩くが地上は久しぶりだった。新宿東口から新宿三丁目にかけては10代後半から長い間遊び場だった。よく通ったカフェは二軒とも残っていた。当時いろんな話をした。シアターモリエールはしまっていた。改装中らしい。なくなっていなくてよかった。

昨年は別役実が亡くなった。チケットをとっていた新作公演が彼の病気療養のため演目変更になり、別の別役作品をみた。淡々とした不条理から生じるゾクっとする怖さとほかでは体験できない笑いは私の身体に心地よかった。彼の死がとても悲しかった。

最近出版された松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』にも別役実が登場するのをご存知だろうか。意外な出会いに感激した。といってもビオンを信頼する松木先生がベケットに影響を受けた別役実と近づくのは自然なことだったのだろう。

松木先生のこの事典は事典というより本だなと私は思った。事典も本だろうけど。最初から読んでもいいと思う。私は最初、興味のある概念をパラパラしていたが冒頭から読んだら可笑しくて、本として読むことにした。多分、私でなくても読者は、これまでの松木先生の著書より軽妙な語り口で精神分析の難解な概念について学ぶことができるだろう。わからないならわからないなりについていけばそのうち実践を伴ってなんとなくわからなさの感触も変わってくるはずだ。私は概念も人もなんでも「あーあのときの」と何度も出会い直せばいいような気がしている。

ところで、この本のことを先生からお聞きした時、先生が「私説」とか「パーソナル」という言葉を使っておられるのが印象的だとお伝えしたのだが、実際そこにはわけがあった。それもこの本に書いてあった。多くの問いと答えを(そしてまた問いを)くださる先生からの学びを私も少しずつ伝えていけたらと思う。

それにしても、こころを「こころ」と平仮名で書いている場合じゃないくらい疲れてしまったとき、私は精神分析と出会っていなかったらこんなにこころを使う(精神を使う、って変な感じだから使えない)ことなんてあっただろうか、と考えることがある。精神分析は様々な他者をこころの中に住まわせる手法だ。そこには悲劇も喜劇も不条理もある。負担も喜びも憎しみもある。リスクもあるが生きがいもある。持ち堪えるとか生き延びるとかそういう言葉が使われるほどに結構ギリギリの体験を内包した拡張可能性を秘めた技法であり文化だ。書くだけなら簡単だがそれでも結構大変だ。生きるって大変だ。

「パーソナル」であること。この言葉自体何度も問われる必要があるのだろう。とりあえず今日、とりあえず明日、ベイビーステップでやっていこう。