日記なる文学に興味を持って色々読んでいる最中、作家を主たる職業にしているわけではない方々の手作り日記を購入できるイベントへ行ってきた。外でのイベントは楽しい。日記の書き手とおしゃべりしながら数冊購入。この世界には本当にいろんな人がいて、いろんな仕事、いろんな恋愛、いろんな生活がある。なにかを体験するともついつもの感想だが本当に毎回驚くほどそう思う。
それにしてもだ。人はなぜ自分のこんなことあんなことを見知らぬ人に向けて語るのか。語りたいから語る、というのがシンプルな考え方のように思うけど、だとしたらなぜ語りたいの?私だってここでこうやって書いているわけだけどみなさんの日記にあるような個人的なあれこれを書きたい衝動にかられることはほぼない(ぶちまけたいことはたまにある)。
私はよくしゃべるほうだがそれよりももっと聞くほうだと思う。仕事がそうだからというだけでなく、私のしゃべりは私ひとりからは生まれない。日記を書いたり、小説を書いたり、俳句や川柳を作ったりする人たちはたぶん自分との対話がとてもとても上手なのだ。
自分のなかに知らない人物を作り上げて、その人物に性格や生命や物語を与えていく。誰もが目にしているはずの景色や仕草をさりげなく引き寄せその存在の確かさを知らせる。寝転んでも持っていられる言葉たちを反転し分解しポンと置いてたまたまそれを目にした人を驚かせる。自分のなかの言葉が豊かで見せ方も上手ということは見方も上手なのだろう。
彼らの中には自分以外の目も耳も色々ある。もともと備わっている。もちろんそれを発見して育てるのは他者である私たちにほかならない。これは運だな。うん。どっちの運がいいとか悪いとかの話では無論ない。
私はどうだろう。同じ曜日同じ時間に同じ人の話に耳を傾け様子を観察する。様々なことを考えてはいるが、うっすらと透明人間みたいに互いを侵食しあっているから「自由連想」とかいったところで互いに不自由、という事態にいる気がする。ところで透明人間になってずっと好きな人のそばにいられたとして、それって絶対自分の首をしめるというか苦しみって増えるよね、余談だけど。
患者さんが発する言葉はみんな違う。同じ言葉をしゃべっていてもまるで違う。きっと私といるときとそうでないときでも違う。伝えようとしても伝わらなかった、一生懸命言葉にしたのに無視された、ペラペラと喋れば喋るほどむなしくなった。
私がきく言葉たちはそういう言葉。公に向けた言葉ではない。
多分日記の書き手たちもそういう言葉をもっているだろう。伝わらない言葉、伝えようのない言葉、言葉なんて意味ないじゃないかとはねつけたくなるような言葉。
それでも公にむけて書くとしたらそれは患者さんが自分だけの場所を求めて私のところへくるように、彼らの言葉がそこを居場所として求めたからかもしれない。
私は読み手として、聞き手として彼らの居場所づくりをともにしているというわけだ。なるほど。「居場所」の話なんてこれまで数えきれないほどしているが、なんとなく書き始めた言葉から導き出されるそれはいつもとは少し違う気がした。