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精神分析

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依存についてずっと考えているのはどの病理にもその問題があるから。依存に関しては一般的な意味で使っているけれど、ナルシシズムに関しては一般的な意味でいうそれと精神分析でいうナルシシズムは異なるので私はあくまで後者の意味で使う。

臨床家としては治療の文脈でそれについて考えるのは仕事だから当たり前で、患者さんがナルシシズムの傷つきと出会うことも必然なのでその段階での治療状況はとても苦しいものになる。

プライベートで付き合う人に専門的な視点を向けてしまうと辛いことが多いので苦しくなる仮説がたったとしても言語化はしない。実際に深刻な問題が生じそうだったり、大切なその人がひどく傷つきそうだったり、誰かを傷つけそうな場合に指摘すればいいことだから。もちろんプライベートで客観的に相手を見ることはできないし、仮説を確かめる過程を治療状況以外では踏まないのでただの勘違いの可能性もある。でも今はこちらがみたくなくてもいろんなことがみえやすくなってしまっているので「あーあやっぱり」とか「また自分から構われにいってる」と思ってしまうことも多い。こちらが確かめなくても行動がみえてしまえばそれだけ確からしさは増す。

特にナルシシズムの傷つきを安全な距離感での依存関係によって回避している関係性は外からは見えやすいのに当事者はそこに安らぎを感じているから外からどう思われるかは否認しやすい。たいして知らない人と気楽に公然とやりとりできる現在、その関係を「安全」とは私は思わないが、当人たちのナルシシズムの傷つきの回避ということだけを考えれば当人たちにとっては「安全」で手放しがたい環境だろう。

ナルシシズムの病理は、親密な関係において葛藤し言葉を探し相手の問題と自分の問題を区別できないまま傷つき傷つけそうするなかで少しずつわかりあえない部分をもつ二人であることを認識しもしお互いを思いあうプロセス、そしてそれが維持できないのであれば自分をそれ以上傷つけないほうを選択する、という時間もかかるし苦しみの多いプロセスを過ごすことを難しくする。自分は本当の意味では愚かではないということを証明してくれる自分のことをあまり知らない相手と都合のよい距離を保つ。それは相手を自分のために部分的に使用しているということなのでは、という疑いは否認する。

精神分析はさっき書いたプロセスに価値をおくが、現代はそうではない。ナルシシズムの時代だと思う。私はそのプロセスに価値を見出すのでその内側にいるが多くの人にとってそうではないのはそれを回避するシステムがこれだけ整えばそりゃそうだろうと思う。だから私は精神分析治療以外でそれを重要だと言い続けるよりも相手の在り方に馴染んでいくことが必要なのだろうと考えるようになった。諦めるのではなく。かつてはナルシシズムの病理とみなされたものもそれが病理として現れる場所は減り、むしろそのありかたがマジョリティになりつつあるというのは現実だろう。そして行き過ぎたものだけがあっというまにネット上で拡散されネット上で「いいね」を送りあったくらいの関係(といえるのかは不明だが)のペアや集団における分断のシステムにおいてあれこれするのだろう。個人的には恐ろしいなと思うので私はナルシシズムの病理としてそれらを考え続けるけれど治療の文脈以外ではそうは言わない。言わないけど、大切な人が傷ついたりお互いに傷つけあったりというのは嫌だ。私は実際に触れ合える親密な関係のなかであれこれ繰り返していくことを大切にしたい。辛いこともたくさんだけど喜びもあることはすでに知っている。もしもう無理だな、と思ってもひとりではない。誰かを部分的に利用して孤独を癒そうとせずきちんと悲しんでからまた立ち上がりたいと思う。

いつもその作品で私を「ふつう」に戻してくれる友が悩んでいた。LINEで作品に関する短いやりとりを交わすなかでふと漏らされた弱音に少し驚き驚いたことだけ伝えた。そのまま手の届く距離にあった本を開いたら友が応募して落選したばかりの賞に冠せられた人についての文章が載っていた。評価などは気しない、これがおれの道、というようなことをその人は言っていた、と書いてあった。少し笑って「だそうです」と友に送った。明るい一言が返ってきた。

お互いもう大人だ。孤独をSNSのような場所に投げたりするタイプでもない。自分を立て直すすべは自分で持っている。互いに対してそういう信頼がある。だから短時間での少ないやりとりは少し笑いを含んでいる。きっと大丈夫。また眠れない日もすぐに来るかもしれない。でも多分また大丈夫。そういう小さな回復を繰り返せる自分たちを信頼して助け合ってやっていくのだろう、これからも。

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誰川

依存というのは応える人がいるから成立する。それを「依存」に変えるのは受け手であり、自由度を狭めていくのは両者。

身内に誘われ句会にでたとき斜め前に座っていた人の句がいちいち素敵でファンになった。その後仲良くなってこの前ももうすぐ1歳になる子と遊びつつたくさん話をした。

コロナ以前に私が立ち上げた小さなネット句会の「談話室」でその人が俳人津川絵理子さんのファンなんだと書いていて、そーなんだ!と思って私も句集を買ってみた。私は結社には入っているが結社誌と毎月のこのネット句会で締め切り直前に句を作るだけなので全く上達しない。仲間たちの情熱になんだか申し訳なく感じることもあるが彼らとおしゃべりするのは楽しいし、この句が好き!と感じるのにはなんの努力もいらない。好きな句はたくさんある。曖昧にしか記憶できなくても特に問題ない。

それにしても鳥たちが元気。おはよー。お互い早起きだね。

とても楽しいおしゃべりを終えて仕事に戻る電車でぼんやりSNSを眺めていると「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字を見つけた。「あなたが誰でもかまわない」というので申し込んでみた。こういうノリは久しぶりだ。

私はまぁもろもろなんだっていいのではないか、ある程度のルールを守って楽しくやれれば、と思っているので俳句界に限らず人間関係の「濃さ」を感じる場所は排他的なものを感じてしまうことがある。まだ若い人たちが他人に「才能」を見出したり見出されたりしていろんな感じになっているのを見るとなおさら大変そうだなぁとなる。それだけで食べているわけでもないのにそんな使命感やマッチョ感は必要なのか、いやそういうのが好きなのか。というか使命感とマッチョ感(という言葉はないか)を一緒にしてはだめか。とにかく過剰さを感じることがある。言葉が本当に豊かな人たちの集団なので過剰なのは言葉だけなのかもしれないが。その人とも「そういうのは私はいいかな」と話した帰り道だった。こういうのは肌感覚というか生き方というか個人的な好みのようなものにすぎないが判断や選択には影響を及ぼす。

私の好きなその人の句は何かや誰かに依存的な感じがしない。使命感も義務感もなんかアツいものがない。ただポンッと場面や景色が置かれているだけ。シンプルでわかりやすく受け手に特に何も求めてない。賞をとったりもするわけだからそのあり方で十分人のこころをつかむのだろう。

「あなたが誰でもかまわない川柳入門」、川柳のことも講師のことも何も知らなかったが俳句を相対化してみたかったのかもしれない。相対化できるほど知らないので違和感を少し明らかにしたかったのかもしれない。

講師は暮田真名さん、後から知ったのだがZ世代のトップランナーと言われている柳人だ。Z世代というもの自体よくわかっていなかったし、時間的にアーカイブで受講するしかなかったのだが、導入ですでに「この人すごいな」と思った。私の好きなその人と似た雰囲気を感じた。

ということで仕事をせねば、だからまたいずれ。

暮田さんの講義の課題提出率の高さにスタッフの方も驚いていたが、あの講義ならそうだろう、と思う。本当にこちらが誰でも構わないのだ。何も求められていないのだ。ここには逆説がある。

が、またいずれ。良い連休でありますように。