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清水晶子著『フェミニズムってなんですか』をざっと読んだ。

清水晶子著『フェミニズムってなんですか?』(文春新書)の「はじめに」にこう書いてある。

”この本は「フェミニズムとは何であるのか」に対してひとつの正解を提示することを目指してはいません。そのかわりにこの本が目指すのは、社会や文化の様々な局面において、女性たちの生の可能性を広げるためにフェミニズムは何を考え、何を主張し、何をしてきたか、何をしているのか、その一端を振りかえり、紹介することです。”

そして「何かをしたい、何かをしなくちゃ」と感じたときに「やってみる」を駆動する燃料になれたら、と著者は書く。

最初にフェミニズムの基本は①その対象は社会/文化/制度であること②おかしいことはおかしいということ③「あらゆる女性たちのもの」であることが確認され、フェミニズムの歴史における四つの波が簡潔に説明される。フェミニズムを著者がするように”「女性の生の可能性の拡大」を求める思想や営み”と位置付ければそれは日常生活のあらゆる局面で生じているものだろう。そのためこんなコンパクトな本にも関わらず社会/文化/制度それぞれの観点からのトピックが取り上げられ、今まさに議論されるべき事柄が提示されている。同時に、3人の女性との対談が挟まれ、それらが持つ個別性、具体性がある種の柔らかさをこの本に与えているように思う。「おかしいことはおかしいということ」の逡巡は女性が置かれてきた状況や歴史だけでなく、人間誰もが持つ傷つきやすさとの関連で考えることも大切だろう。それらは外に向けて表現される前にまずは安心できる場所で表現される必要がある。声を上げることで同じ傷つきが繰り返されそもそもの自分の欲望や願いを見失うようなことは避けたい。

私は今、臨床心理士の資格認定協会に対する要望書を提出するために署名活動をしているが発起人は皆女性である。精神分析家候補生の会の三役もしているがそれも皆女性である。どちらもたまたまである。

そんなに悪い時代ではないのかもしれない。こんなたまたまが生じるなら、とも思うが現状をみればそんな希望は楽観的なのかもしれない。もちろんこういう小さな希望が小さな抵抗を支えるに違いないと私は思っている。戦う女性たちの傷つきをみて、ものいえず傷つき続ける女性たちをみて、その両方の部分を持つ個人として私もやはり傷つきながらあり方を模索する。揺れ動きつつも考えるのを諦めないためには様々な支えが準備される必要があるだろう。こういう本もその一つにはなると思う。それぞれが個別の体験を大切にしてもらえる場所や相手を得られることを願い、自分にできることを探す。

ため息も多い毎日だ。しかも今朝の東京は雨でなんだか憂鬱だがため息をつきながら「憂鬱だ」といいながら過ごしていればそうではない瞬間も訪れるだろう。ずーっと同じことを言い続けたりやり続けたりすることも案外難しいものだ。

今日も無理は無理としつつも諦めずなんとか、と思う。

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言葉は難儀

昨晩、スーパーで安くなっていたスイカを買った。美味しい。むくみにも効くらしい。夏じゃのう、秋の季語だけど。わかりづらいから夏でもOKな季語にしてほしい。もちろん先生によっては全然OK.俳句の世界も大変じゃのう。

ものすごい詩歌とか文章とか書けて溢れんばかりの知識を自由自在に使いこなす人たちがたくさんいて彼らの話を聞いたり作品をみるととても感動したり感心したりする。

そして私は作品は作品だと思っている。そうでないと悲しくなってしまうことが多いから言い聞かせるようにそう思う。どうしてこんな詩歌を作れる人がこんな言葉遣いでこんな露悪的に、とかどうして外向けにはこんな優しく楽しい先生がこんな反射的に他人の言葉をひっくり返しに、とか。憧れの作家とかとプライベートで知り合いになる機会が少ないのは幸運なことかもしれない。幻滅したくない。といっても今は憧れの作家がいない。いやいる。朝吹真理子さんとか村田沙耶香さんとかか。彼女たちには幻滅しなさそうだけど、とかなってしまうのがファンの悪い癖だ。私は彼らのことを何も知らないではないか。理想化で繋いでる希望なんていくらでもあるから悲しいし切ないのだ。

私が「あーあ」と残念に思ってしまう彼らは言葉を追求して言葉で仕事をしていくうちに目の前の相手が自分の作品には登場しえない部分を持つ他人だということを忘れてしまったのかもしれない。自分の広大な世界に引きこもって「自信」に支えられたナルシシズムでその世界観とやらを守っているのかもしれない。もし私が彼らの家族や恋人で「どうして」と感じてしまったら絶対言ってしまう。「そんなにたくさんのことを知っていてそんなにたくさんの人の気持ちがかけるのにどうして目の前の私のことは知ろうともしないのかな」と。それすら言葉で言い返されて「今のそれを言ってるんだよ」とさらにいうかもしれないし悲しくて暴れ出したくなる気持ちをドアとかにぶつけて一人でやけ食いとかするかもしれない。

言葉は難しい。

先日もはじめて読んだ作家の本がとてもよくてついその人のことを調べてしまった。そうしたら過去の論争というか素人からみれば「言葉の世界の人はなんでもかんでも言葉にしないといけないから大変だな」とポカンとするようなことが書かれていて作品に対する感動が少し冷めてしまった。いろんなことをいう人たちがいるが私は作品は作品だと思う。もし私の身近な人が作家デビューしたとしたらその作品を全て読むだろうし買うだろうし書いていること自体を尊敬すると思うがその作品に対する評価は読者としてするだろう。こういうことを想像しながら好きな作品を作り出した人のことも考え続けてしまうのはすでにほとんど(恋)みたいなもんだが(恋というのはそもそも最初からカッコ付きみたいなものかも)出会いを一気に理想化してしまう心性をどうにかしたい。「あー無理」と爽やかに距離をとれるようになりたい。私の経験上、多くに人にとってそれは難儀だ。

あと厄介だなと思うことがひとつ。もし私の家族が作家デビュー(ほぼありえないからちょっと笑いながら書いているのだけど)したら彼らが作家になったあとの喧嘩とか「ものを書く人がそういう言葉使うんだ。相手のこととか考えないとものとか書けないのかと思ってた」とか嫌味なことをいうに違いない、だってここでサラサラとこんなセリフを書けてしまうのだから。

とにもかくにも言葉は難しい。でも、大体の人は今日も誰かと言葉を使って色々するのだろう。難儀やなあ、と使えない関西弁みたいな言葉が出てくる。まあ、やりとりは継続する限り修正もやり直しも可能な場合が多いので色々すれ違ってものんびり構えていきましょうかね。

今日もじわじわ暑くなってきた。なにはともあれ身体は大事。どうぞお気をつけて。

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読書

佐藤亜紀著『喜べ、幸いなる魂よ』(角川書店)を読んだ。

佐藤亜紀著『喜べ、幸いなる魂よ(角川書店)を読んだ。

読み始めてすぐなんだか雰囲気が違うと感じた。それほど多くの物語を読んでいるわけではないので自分が何と比較してそう思ったのかはわからない。そこには歓待を当たり前のものとする人たちがいた。親が死にある家族に引き取られた主人公、といったときに思い浮かぶような言葉はこの家族にはない。同じ年頃の双子の姉弟ともありがちな葛藤も生じない。歓待というほど大袈裟なものでもない。他者を違和感なく受け入れるその態度こそ違和感と感じる人もいるかもしれない。主人公はごく「普通」の人間だ。私たちは彼の行動や思いに対してなんら違和感を抱くことはないだろう。思春期になりそれぞれの距離は少しずつ変わりはじめる。彼は世界の全ては探究の対象である好奇心旺盛な双子の姉に恋をし、彼女は生殖と繁殖の終わりなき反復を見つめながら実験としてのセックスに彼を誘う。方法と結果を記録するようにセックスを試みる彼女が時折身体が感じたままに吐く息を愛おしく感じる彼はすでに彼女の全体を愛している。大体の場合はこうなるという推測通り彼女は妊娠する。全ての事態に対して落ち着いてみえる彼女と大体の人はこうなるであろう彼の心の揺れは対照的だ。彼と我が子とではなく女性信徒たちと共同生活を営む彼女と彼女との生活を望みつつ様々な欲望に揉まれる彼の生きる俗世間を断絶する塀は名前と顔を忘れない門番のおかげで限定的に行き来可能だ。それぞれのモノローグは彼らがそれぞれのスケールで実直に論理的に人を想うことができる人間であることを明らかにしており胸をうつ。誰もがもつナルシシズムの蠢きに彼らが囚われないのはその愛する力故だろう。彼は彼女のあり方に苦悩しつつも彼女が跳ね返せるほどの侵入しか試みずその世界を尊重する。彼女は彼の想いを十分に認識しつつも女性であることで自由に表現できなかった類稀な知性を弟の名を借りて現状を変える形にしていく。十分に理解し愛しながらも直接的には応えず自分の欲望を自己でもあり彼でもある他者への未来に投資する彼女とそれを抑制的に見守る彼が織りなす関係は緻密で美しい。切ないが周りがどんどん死ぬなかで生き残り離れていても共にいられる時間が続くのがせめてものなにかという気がする。二人の子どもは早くに彼がひきとり彼女が親であることを知るのはだいぶ大きくなってからだ。子どもはそうとは知らず積み重ねてきた出来事もそうと知る場面自体も彼ら二人が親としても十分に生きてきたことを示すものだった。

どちらかの性に生まれた私たちが自分も相手も今も未来も過去も大切にしながら生きていくということはどういうことなのか、こういうことなのかもしれない、とこの本を読んでじんわり感じた。

知識は当然大事で勉強はしたほうがいいに決まってる。でもそれはあくまで人との間で生活を営むときに必要だからではないだろうか。彼らが歳をとりそっとお互いに触れるときそこには性を超えた交わりがある。共にありつづけるための模索とその価値を教えてもらった。そう感じられた本だった。

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精神分析

ずっと学級委員だった。ひどく荒れた小学校で。なんの役割も果たしたことはないと思う。隣のクラスの体育教師はいつでも私のクラスに駆け込む準備ができているようだった。彼がくると私たちは喜んだ。細身で優しくサングラスの似合う先生だった。なぜ教室で彫刻刀が飛び交うのか。私も怪我をしたことがある。そんなクラスだった。私はたまたま自分に当たったそれにブチ切れて投げた男子をボコボコにしたかどうかは忘れたが即座に立ち向かったのは覚えている。それが私たちの刺激ー行動パターンだった。ほとんど動物だった。なので、というわけではないが出来事の詳細は覚えていない。ただのパターンだった。4年生のときの担任はやめてしまった。私たちに耐えかねたらしいことはなんとなく聞いたように思う。数年後、大人たちから「あの先生にもね」と聞いたときは不思議な気持ちになった。理由など考えたことがあっただろうか。あったとしてもそれがなんだろう、と今もぼんやりするところがある。休み時間になれば校庭に出てサッカーをした。年に数回しか降らない雪の日の雪合戦では石を混ぜるヤツがいた。私たちは仲がよかった。暴力を受けている子を助けに向かったことも何度かある。暴力をふるっている子も友達だった。どうしてここにこんなというような短いカーブのような階段を登り短い言葉をいって彼らを連れ帰った。こう書きながら思うのは私はいまだにこれらに対してあまり考えることができないということだ。そしてそれをする気にもならないということだ。ドラマで見るようなことはどんなひどいことであっても意外と現実で起きている。近隣の高校はある学園ドラマのモデルになった。ひどく荒れていたからだ。今となれば幾人かの友人は相当暴力的な家庭にあったことも知っている。そんな日々は淡い恋心や親友との三角関係や大人の事情による突然の別れなどにも彩られていた。「夜逃げ」という言葉もあとから知った。今になっても私はそれらが事実以上のなにかだとは思わない。意味づけを拒否しているのだろうか。専門家としてだったら「ひどく暴力的な環境で育って」とか一言にするのだろうか。するだろう。まずはそう位置づけてそこからその出来事が今のその人にとってなんだったのかを考えていく。その繰り返しをするなかでその出来事が別の姿をみせてくる。それを今は知っている。私の仕事でならするだろう。絵画のようだ。同じ画面である景色は前景に、ある景色は背景として塗りつぶされたり上書きされる。そこは実は層になっている。精神分析は重層決定という考え方をするということはすでに書いた。でも仕事を離れた私は過去の出来事に対して何かをしようとは思わない。それはそれだった。今日だってそんな出来事の集積として昨日へと変わっていく。いろんなことがだからなにというわけではない。だからといって大切でないわけではない。むしろだからこそ大切だ。意味を与えるのは誰か。それを必要としているのは誰か。もしするならその人を断片化するのではない方向へ。

今日は土曜日。ようやくお休みという人もいるだろう。なんだか暑くなりそうだ。窓辺でこうしているとじわりと気温が上がるのを感じる。彼らはどんな1日をどこで誰と過ごすのだろう。まだ生きていてほしいし元気でいてほしい。

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精神分析

風も雨もあなたも。

強風にブラインドが揺れ、向こうの部屋のドアが軋んだ音を立てバタンとしまった。こんな早朝に。ギィという音がしたときにきちんと閉めればよかった。洗濯機は何事もなかったかのようにリズミカルに回っているらしい。水が回転する様子を思い浮かべられるのはこの音がそれと知っているから。もし知らなかったらこれをなんの音だと思うのだろう。

風の音はなにかと重なって聞こえてくる。ブラインドを持ち上げ、鳥の声と混じり、時折鋭く空気を切り、草木を揺らす。全て違うのに「風だ」と感じる。私の故郷は空っ風で有名だが(辛かった!)そういう季節の風というのもある。触れながら動きながら音をさせてはそちらを振り向かせそうしたときにはもういない。人を正気にもびくつかせも怪我させたりもする。もちろん彼ら(風)にそんなつもりはない。

また雨が降り出した。昨晩は随分激しく降り始めたなと思いながら布団に潜りこんだがこれは夏の雨だ。空から真っ直ぐ静かに大量の水が落ちてくる。音が強まっていく。窓を閉めようか。風はやんでいる。「風邪は病んでいる」と自動変換されたがそれはそうだろうと思う。

私が空を見上げると「鳥?」と聞かれた。私は頷く。一緒にいるときに急に空を見上げる理由なんてそんなにはない。たしかに音のする方へ素早く目を向けたつもりだったがもう去ったのか、私の目が見つけられなかったのかその姿を捉えることはできなかった。

「なに?」と聞かれて「ん?なにもいってないよ。」という。「何か聞こえた?」と笑うときもあれば「私、何かいった?」というときもある。自分のことがもっとも疑わしい、と昨日書いた。

無意識は私になにをさせるかわからない。精神分析を受けはじめて数年はそれと出会うたび愕然としたり悲しくなったり自分に失望したり失望させる相手に怒ったりした。今は大体のことは自分のコントロールの外にあるけど、大抵のことはなんとかなるように無意識が構造化されている、お互いの言葉の曖昧さによって、と考えるようになった。なのでこころにかなり負担を強いられていると感じても「これを私の無意識はどう扱うのだろう」と無意識的な好奇心と意識的な不安を感じつつじっとその場で持ち堪え、委ねるようになった。何かを変えようとするのではなく自分のこころの動きや考えが何かを組み立てようとしては壊しまた組み立てようとするのをじっと追うようになった。精神分析は無意識を想定し重層決定という考えを導入した。何かあってもいずれ回復する、不幸をありきたりの不幸に、というのを物足りなく思うかもしれないがそこそこにほどほどに曖昧さを残しておくことが異物や他者を受け入れる場所を作る。ナルシシズムをナルシシズムと気付かされるときの耐え難い痛みを回避して引きこもり、似たような相手と自分の世界を構築するのも悪くはないかもしれないが客観的にみれば苦労は多い。無意識に身を委ねるというのは他者との関係に身を委ねることでもある。他者にではなく、他者との関係に自分を開いておくことであって依存とは異なる。

それにしても外はいつの間にか土砂降りだ。今日は移動が多いので少しは弱まってほしいな。と思ったら雨の音が弱まって鳥の声がまた聞こえはじめた。このまま止んでほしいなあ。人はすぐに欲張りになる。

今日も誰もよんでないのに振り返ったり、なにもいっていないつもりだったのに誰かに問い返されたりするのだろうか。きっとするだろう。こころに場所がある限り風も雨もあなたの存在もそれぞれの仕方で私を通り抜けて何かを想起させ愛しさや切なさや独り言のような呟きを生むだろう。

おはよう、と空へ向かう。東京は雨だけどみんなの場所はどうだろう。それぞれに良い一日でありますように。

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精神分析

きつくしんどい毎日

大きな息を吐いて目の前の人が力を抜いた。こんなふうに感じるのは自分だけなのではないか、こんなこと考えるなんて頭がおかしいのではないか、私たちは日々自分自身を疑っている。

その人は胸を撫で下ろしまたいくつか大きな息を吐いたあとさっきより柔らかくゆったりした口調で話し始める。場の空気が変わる。キュッと目をつりあげて少し前のめりに力の入った姿勢で不貞腐れたような口元で一気に語るその人と私の間にあったはずの物理的な距離がまた見えてくる。後退りしたくなる圧力は今は感じない。この出来事の間、私の見た目はほとんど動いていなかっただろう。頭とこころとは裏腹に。

押しとどめたりなだめたり何か言いたくなるときは私がその人を異物として体験しているときだ。その人自身がほとんど発狂しそうになりながらなんとか引き剥がそうと断片的に投げ込んでくる自分のなかの異物を私はまず感覚で受け止めるしかない。すぐに形にできたらこんなふうにはならないのだから。意識的に思っていることと無意識が言わせることがぶつかり合って言い間違えたりつっかえたりしながら混乱気味に吐き出されつつある前言語的なそれは流血と感じられるときもあれば爆撃と感じられるときもある。なんだこれは、とただただ晒されているときがほとんどだが。

その人は私に十分にその異物感を感じさせている。こんなふうに感じているのか、と圧倒されつつも私はじっとしている。若い頃はただただ圧倒され何も考えられないまま身動きが取れなくなっていた。今はそうなっていることを感じることができる。どうにもならないまま時間がくることもある。人間の力ではどうにもできない部分を扱うとき時間はお互いを守ってくれる。ひとまずデタッチする。関係も長くなればこうもなるが時間がそれを区切ってくれることにも慣れている。

きつくしんどい毎日だ。と言い切ってみる。会いたい人に会いたい時に会えない。いつだって片思いのような寂しさを感じる。最初は小さな痛みかもしれない。ちょっと呟いていくつかいいねをもらえれば落ち着いたかもしれない。日々さまざまな刺激に晒されるうちに私たちのこころは時折暴走するようになる。世界が疑わしく、自分は最も疑わしい。こんなはずじゃなかった。どうして自分だけ。全て忘れたくて激しい運動を始めるかもしれない。一瞬だけ優しい人なら誰にでも身体を預けるかもしれない。空っぽさに耐えられずコンビニで手当たり次第買い込み食べ続け吐き続けるかもしれない。人は暴走する。自分が自分を最も信じられない。きつくしんどい毎日だ。

それでも、というのもいつものことだ。どこかで気づいているはずの狂気は暴走を始めたら自分ではどうにもできないだろう。私たちは自分ではどうにもできないものを内側に抱えながら生きている。だから安心して眠れる場所を話せる場所を何もせず一緒にいてくれる人を求める。解決を急がない。結果は何もしなくてもいずれ誰にでも等しくやってくる。それがいつになるかわからないから治療では有限性を持ち込む。日常でも「今日」という時間をなんとか生き延びるために「昨日」と「今日」を切断してくれる睡眠が大切だ。よく眠れただろうか。今日は今日の自分にとりあえず出会う。それがこれまでの積み重ねであったとしても私たちは次々アップデートされるわけでもないし、古くなったからといって交換できるわけでもない。こんな自分で今日もとりあえず。いいことも少しはありますように、なくても嘆かないでいられますように。

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精神分析

こだわり

明るい。ブラインドの向こう、水色と薄いオレンジがグラデーションのようになっている。きれい。

私はいろんなことにあまりこだわりがない。さすがに最近は言われないが見かけに関しては「もっときちんと」的なことはよくいわれていた。相手の見かけも周りが色々いえばそのようにも見えるという程度に目に入ってくるが特に何も思わない。きれい、かっこいいなどは思うが合コンで男子も女子も相手の見かけを値踏みするのには驚いた。でも付き合う相手はそれに基づいてもいなかったしあれはなんだったんだろう、でもあった。水準の異なるテーマだがルッキズムなどの差別や暴力について私は自分の体験からは語らない。自分の体験を名付けるためにではなく、それが私にとってなんであったのか、どんな感じであったのかを語ることは非常に重要であると考えるので精神分析を必要とした部分は大いにあると思うが。

音楽も演劇も絵画もいろんなイベントもなんでも好きだし行けば楽しむし、音楽と演劇に関してはかなりの量に触れて相当影響を受けたつもりだが今それを具体名を持って語ることができない。B’zならかろうじてできるか。友人や家族が自分だけの「ベスト10」をカセットテープに集めていたようなことを私はしたことがないし、熱い語りを楽しみはするが内容よりも語る相手が好きだから楽しいというほうが大きいように思う。演劇は人生においてかなりこだわりを持って相当の時間とお金を費やしてきた。生の舞台のインパクトは舞台ごとに異なるので同じ公演を何回かみにいくこともあった。演劇は私にとって好きな店に食べに行くようなものだ。お店の人と話すような身近さに舞台の人たちもいる。ただ数年前からみにいく時間がほとんど取れなくなってしまった。そうなると例のごとく具体名を持って語れなくなってしまう。まあいい。私は評論家でもなんでもない。あの世界にいけばあんな感じを得られる。それを知っているだけで十分だ。

私の周りにはいろんなことにこだわりの強い人がそれなりにいる。私は彼らが好きなので彼らの話を聞くのが好きだ。彼らはこだわりがあるからその世界のことも広く詳しく知っていて評価の基準をしっかり持っていて私の感覚的な好き嫌いとは全く違うと感じる。そしてこれもだから何というわけでもない。

「正しさ」というものがなんだとしても、私が色々忘れてしまって「大好き」と感じるものをぼんやりとしか伝えることができないとしても私は私と全く異なる人と愛しあえるだろうし、別れたとしてもそれらが異なるからではないだろう。「こだわり」が憎しみや差別に近づいていくとき、そこが関係に変化をもたらすきっかけにはなるかもしれない。一見それが「正しい」もので、たとえSNSでどんな支持を集めていたとしても自分がそれにどう関わるか、私の好きな人たちはそれにどう関わるかということに私は注意がむく。

知らない人や世界に対して自分の体験や知識や感触はそれ以上のものではない。それが相手を得たときにどう語られるか。その語り方には私はこだわる。これだけ時間をかけてこれだけの出来事をここで共にしていても常に驚きがある、精神分析はそういう世界で、そこで生じないはずがない憎しみをお互いがどう生きるかにその後の展開はかかっている。私はあまりいろんなことにこだわりはないが、それらの表現の仕方にはこだわっている、そういえば。

“Sentimentality is useless for parents, as it contains a denial of hate, and sentimentality in a mother is no good at all from the infant’s point of view.”

Through Paediatrics to Psycho-Analysis. Chapter XV. Hate in the Countertransference [1947]

D.W.Winnicott

否認と排除のセットを使わないではいられない人間関係に今日も苦しむ人がたくさんいる。私もそうだろう。愛するためにしているつもりの努力が憎しみに変わる場合だってあるだろう。名付けてしまえばそれはそれでしかないかもしれないが動きのある部分にはきっと希望もある。簡単にいえば「決めつけない」ということか。今日もとりあえず動きはじめよう。動ける範囲で動き続けてればいつの間にか別の景色に気づく。そんな感じで。

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精神分析

思う、願う、祈る

朝なにかを書くということは眠れない夜のことを書くということだ。

と思ってSNSをみたら「眠れない」という呟きがあった。すでに活動を始めている友人の呟きもあった。昼夜を問わずSNSで反応しあえる時代、私が信頼する言葉の紡ぎ手たちはほとんど呟かない、夜は特に。心落ち着かず彼らの言葉を探しにでても少し前の言葉をもう一度目にするだけだったりする。でもだから安心したりする。簡単に上書き、とはいわないか、軽い言葉が量だけの重みでその言葉を下へ下へと追いやっていく様子をみたくない朝もある。

鳥の声が鋭い。今日は特に。寺の森から起き出した彼らはしばらくこの辺りの空を数羽ずつで巡回してからどこかへいくのだ。時折カラスの大きな声も混ざる。鳥や動物たちと同じように自然と調和して眠ったり起きたりしていると思うと少しまともな気持ちになる。

相手との関係で「無理」」や「我慢」が生じると、と書きたくなるときは別の言葉を探せなくなっている可能性があるんだった、と数日前に自分が書いたことによって立ち止まる。書いておくもんだ。ありきたりの空想しかできないときは鬱々する前に眠ってしまったほうがいい。布団にくるまって目を閉じてひどい頭痛のなか「このまま死んだりして」「これ毎回思うけど意外と死なない」などぼんやり感じているうちに眠りに落ちた。浮腫みで足が痛むが今朝も無事に起きて椅子に座ってぼんやりしていた。そのうちまた少し眠気がきた。ウトウトしながら昨晩囚われていた空想にいまだ囚われつつもそこから少し離れた場所で何かをしている私たちをぼんやりみつめているのを感じた。夢でも現実でもなくこういうまどろみによってなんとなく生かされているんだな、とそこに身を委ねながら感じた。分裂するのではなく自分がいくつかの奥行きを同時に体験するような定位置にいる自分と浮遊する自分の両方を感じた。そのうちまた少し眠ってしまった。起きたときはまだ数分しか経っていなかった。

眠りは時間も空間も拡張する。夢はその証拠としてみられるのかもしれない。

相手との関係において行き詰まったときはとりあえずそこにとどまる。窮屈で身動きの取れない場所に身を委ねる。もともと出会いだって偶然だった。「あなたしかいない」「あなたがなによりも」といわれるような関係でも終わってしまえばそうではなかった、ということは経験済みだろう。あの時は死にたいほど辛かったのに今思い出すとすでにその理不尽さえちょっと可笑しい、ということも積み重ねてきたと思う。もう若くない。ある程度定位置を見出してもいる。苦痛を外に投げるのではなくじっと感じ続けているとこれまでとは別の形が自然と生じることも増えてきた。大切にする、慈しむというとき目の前のものや相手だけではなくその背景に広がっている景色に対してもそうしていきたいと思うようになった。そこにどんな矛盾があろうともみたくないものはみないという方法では大切にできないんだと知った。あえて目を凝らさなくても耳をすまさなくても鳥の声のように私に届くものたちをせめて。いつまで「無理」なくそう思えるのかは誰にもわからないことだけど囚われては気づくちょっとした新しさをあなたやあの出来事との出会いのおかげだと思えるとき、私たちはまだなんとかなるんだ、と私は思う。願う。祈る、今日も。

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嘘とか隠し事とか

ジンジャーとハニー、と書きながら生姜と蜂蜜と書いた方がしっくりくる気がするなどと思いこうして書き直してみた。いい香り、最高の組み合わせ、今朝のお茶はこれなのだ。

昨晩もたやすく心乱されてしまった。昨日だったかもっと前だったか「優しい人だからといって嘘をつくのが許されるわけではない」というのをもっと個人的な感情に引きつけて書いたような文章を読んだ。(他の文章を読む限り)この知的で優しそうな人はとても優しいパートナーに嘘をつかれてしまったんだな、と思った。そのまんまだが。静かな言葉でもSNSに書かざるをえないくらい揺さぶられてしまったのかな、など勝手なことを思った。というか「許す」って書いてあったかな。許す許さないの話になってしまうとまた難しい。神視点という言葉が思い浮かんだ。

神でもなんでもない私は嘘をつかれたらとても悲しい。そんなもんバレないようについてほしい。というか嘘って本当にバレてしまう、親密な関係では。本当に不思議なことだと思う。嘘つく方はむしろバレたいから嘘ついているんだろうな、何か知らせたいんだろうな、と思ったりもする。私たちは親密になると嘘とまでいわなくても「あぁ言いたくないんだな」「なんか隠してるんだな」と感じる瞬間をたくさん経験する。「空気を読む」というのはよく言ったもんだが親密になるまでに積み上げてきた「いつも」との微かな違いに対する注意は場の空気が変わる瞬間に対するそれよりも能動的で情緒を伴う観察の積み重ねでできていると思う。なのでそれを受身的に気付かされるとき「やっぱり」とどこかで思いながらも軽くか深くか失望する。どうしてそんなことをする必要が?

果たして私がその出来事に対してどの程度ものがいえるだろうか、ということを考えながら「いえないな」と思って布団に入った。身体もこころも部分利用できない。それを扱う方はそうできているような気がしたとしてもされる方にとってはそれは全体的な体験でしかない。もしそれを部分的な体験に押し込めようとするならそれは大層無理な否認を必要とする。どちらにも誰にでもそれぞれの事情があり、それを全部知ることはどんな関係においても難しい。理解しようとしたところで自分にはあまりに的外れな推測のもと相手は行動しているのかもしれない。どっちにしたって苦しいのだ。私は否認している自分を意識しつつせめて行動化せず考える時間を引き伸ばす方を選んだ。夢がどうにかしてくれることを期待して。

以前『スパイの妻』という映画をみた。妻のこともいずれ暴きたい国家機密のことも守り抜きたい男に対して妻は自分にとって何が大切なのかをまっすぐに訴えていく。そばにいられることが嬉しい、一緒に何かを守れることが嬉しい、どんな危機においても不安よりもその喜びに笑顔が溢れてしまう蒼井優の演技がとてもよかった。もちろんそれは夫が十分にその想いに応えているからこそだが、隠し事が持つ力を存分に見せつける映画でもあったと思う。

今日は空が明るい。気温も上がるようだ。誰にもいえないことを胸にすでに多くの人が様々な朝を迎えていることだろう。昨晩はよく眠れただろうか。これから眠る人もいるのだろうか。今日は月曜日。多少はリセットのきっかけになるだろうか。今週もなんとか過ごそう、と打ったら「凄そう」とでた。「凄そう」だったら「なにかと凄そう」とかだな、などどうでもいいことを考えた。大丈夫。こんなことを考えられるのならば。大丈夫。ひとつひとつやっていこう。

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精神分析

最悪の状況とは

「最悪の状況を想定しておく。そうすればダメージが少ないから。」

という言葉をいろんな患者さんから聞いてきた。頭ではわかるが人の気持ちってそうやってコントロールできるものなのかな、とそのたびに思ってきたし、言ってきた。

想定通りにいかないから色々苦しいんじゃん、と。もちろん仕事で「じゃん」とは言わない。時々言ってるか。

ところが私は最近これについて考えることが増えた。

私も少しは世の中のことがわかってきたというか、精神分析を体験したことで人が(=自分が)いかに変わらないかということに対して抵抗しなくなってきた。「とりあえず」とか「ほどほどに」とか「どうにかこうにか」とか曖昧かつ暫定的な表現が多いのもそのせいだ。まあ、そんなもんだよ、と思うのだ。少なくとも意識的に変わろうと思って変われる部分は少なそうなのだ、私たちは。もちろんCBTのように見える部分に正確に緻密に関わってもらえれば行動面での変化はあるだろうし、それは意識の変化と連動しているだろう。それでもより引いたところから見ると人はそんなに変わらない。そしてそれは多くの場合「別にそのままでもいいんじゃないの?」ということでもある。精神分析は「別にそのままでもいいんじゃないの?」というところに対して「全然よくない。いつもいつも同じようなこと繰り返して同じような苦しみを味わうのはもう耐えられない!」という人が求めるものなのだろう。

私はといえばそんなことを意識できていたわけではないが(なんなんだ)若いときから自分には精神分析が必要なんだと思っていた。なぜだかよくわからない。よっぽど自分を持て余していたに違いない。フロイトを文庫で読んではいたが今となればその内容など何も理解していなかったし、当時からそんなことは知っていた。それでも社会人になって精神分析家に会うために一生懸命働いた。そのくらい切実だった。なにが、と言われてもわからない。ただこんな自分のまま生きるって大変だ、どうにかせねば、とそれまでの積み重ねで強く思うようになっていたのだと思う。

「最悪の状況を想定しておく。そうすればダメージが少ないから。」

彼らはこれをすることにほとんど失敗していた。だからこそ私は「それはコントロールできることではないからさ」などと思いもしていたわけである。彼らのいう「最悪の状況」は個別的で具体的でとても複雑だ。「死ぬよりマシ」とか「死」=「最悪の状況」でもない(「死」は誰にでも訪れる「結果」ではあるが)。彼らにとって「死」はとても身近で「死んだ方がマシ」と叫び暴れ出したい気持ちをなんとか抑えながらどうにかこうにか日々をやり過ごしているというのが実情だ。つまり「結果」へと急いでしまわないために彼らは工夫をしているのだ。でも長年かけて繰り返され変わらない方向へと結び目がガチガチになっているような状況に対して自分たちはあまりに無力なまま囚われている。そこに働きかけたところでこれからも変わることはないだろう。彼らはそれを意識的にはよくわかっている。なのにそれまでと同じようなダメージを受け続ける。人は変わらないのだ。変わらないのか?本当にそうだろうか。

私は彼らとの作業や精神分析体験から人が変わらない方向へ向かっていること、変化がとても痛みを伴うことを学んだ。人は変わらない。いや、そうではない。正確には相手を変えることはできないということだろう。だからときに人は暴力的になる。支配的になる。実際に暴力を振るわなくても相手を説き伏せようとしたり、自分の主張を受け入れてくれるまで追い縋ったりする。それでも相手を変えることはできない。意見に同意させることはできるだろうし、表面的に従わせることはできたとしても。

相手を変えることはできない。だったら「このままでいいんじゃないの?」どころか「このまましかありえないんじゃないの?」とも思うかもしれない。暴力的な状況の場合、暴力を受ける側はそういう無力感で身動きがとれなくなる。しかし、私たちは最初からこうだっただろうか。変わらない、なんてむしろありえただろうか。

ずっとこうだった、いつもこうだった、そういえばあのときは、何歳くらいまでは、誰々が何何をしてから、あのことがあってから、あぁ思い出した、あのとき私は、と自分と自分を取り巻く状況は変化しつづけ、そのプロセスにいまだあるというのが私たちの現状ではないだろうか。

私が想定する「最悪の状況」は自分がものを感じたり考えなくなったりする状況だ。彼らが失敗してしまうのは「最悪の状況」をこれまで通り彼らを絶望させる状況が再び起こることと想定するからだと私は思う。それを想定して「またか」「やっぱりか」と思えるという意味では「ダメージは少ない」かもしれない。でもそれは「これまでと同じように大きなダメージをまた受けた」といいかえることもできるのだ。その痛みは累積してこれまで以上に変化のチャンスとなりうるゆるい結び目を探すのが困難な状態に陥るかもしれない。彼らはもう少し自分のことを心配した方がいいと私は思う。そのために「あなたはどうしたいの」という問いを頻繁に発する。これ以上自分の持ち物を奪われる必要が?そんな理不尽を誰がなんの権利で?あるいはあなた自身がそうしているのはどうして?そう問い続ける場があってもいいはずだ。これ以上奪われるのならば、私自身がそっちの方へ進もうとするならば、私は自分を守るためにこの関係を終わりにする、これ以上のダメージは受けたくもないし、受ける理由などどこにもないはずだ、そう考える場があってもいいはずだ。そしてそれは一人ではできない。短時間であっても、すでに巻き込まれているその場から離れる必要がまずはある。

私たちは「人は変わらない」ではなく「相手を変えることはできない」ということを実感する場を持ちにくいのだろう。一人でそれを実感することはできないし、時間的にも余裕のない時代だ。一方、変わってほしい人に変わってくれることを期待してしまうのはどの時代でも人の常だろう。頭ではわかっていても相手に期待しつづける、その繰り返しがいつもある。もちろん相手が自分との関係において変わる必要性を感じる場合もあるだろう。それは悪くないことのように思える。ただその場合も別の苦しみは生じるだろう。「私がわがままをいっているだけではないのか。会わせてくれているだけではないのか」などなど。人は変わってほしいと願いつつ自分の影響がそこに及んでいる可能性に猛烈なアンビバレントを経験する生き物でもあるのだ。本当に難しくやっかいで自分のことを「めんどくさい」といいたくもなる。むしろそう思えることが大事だろう。そういうアンビバレントに葛藤しながら持ち堪えるキャパシティのないこころは自らの攻撃性と連動して行動化しやすいから。なかでもあまりに反射的に自分の体験したくない痛みを相手に体験させる行為を暴力というのだろう。

生きていくのは苦しい。だからこそ自分を心配しケアすることが大切になる。こんな身体で、刻々と進む限られた時間で、あなたはどうしたい?そう問い続けてくれる相手をまずは実在する他者に、いずれそれをこころに住まわせることができるように。自分が自分を失うこと、それを危機だと感じられますように。あなたも私も。

今日もどうにかこうにかかもしれないけど良い一日でありますように。

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端正な気分

オグデンが引いた印象深い文章を私も引用しようかと思ったけどそんな端正な気分ではないのでやめた。端正な気分ってなんだろう。

コロナ以降、はじめて遠出したのは奈良、奈良は4,5回目だろうか。歴史に詳しいわけではないが行けば魅了されるばかり。母はとりわけ興福寺の五重塔に魅了され長時間佇み見上げていた。2010年に奈良の居酒屋で誕生の知らせを聞いたあの子はもう6年生だ。無事に生まれてくるかどうかわからないなか私は春鹿を出す店にいたわけだが何度も何度も確認していたガラケーにメッセージが届くなり号泣した。3歳まではとてもゆっくりした発達ぶりだったが、今や思春期の猛烈なエネルギーを携え、しかしそれを持て余す必要のない恵まれた環境で伸び伸びとやっているようにみえる。本人は全くそんなこと思っていないのかもしれないが・・・。奈良の大和西大寺のデパート、なんだっけ、近鉄百貨店だ(調べた)、最終日はとても寒くてもうそんないろいろ行かなくてもいいかということで近鉄で奈良の一刀彫やらなにやらをみたりのんびり過ごした。お昼はどこも混んでいた。時間は十分にあったので美味しい皿焼きそば(だったか?)を食べたいという母と中華料理屋に並んだ。相当なベテランらしき声のよく通る細身の店員さんの客さばきが軽妙で、ずっとみてても飽きないね、すごいね、と母と感嘆しながらみていた。全方位に明るい関心を向け豊かで簡潔な言葉で常連も観光客も十分にもてなしつつ素早く移動を促す熟練の技。これも奈良の技か。

前置きが長くなってしまった。そこの中華料理屋でテイクアウト用に売っていたほうじ茶を母が買ってくれてそれを飲んでいるということを書きたかっただけなのだが。今朝は寒くはなく家事をしている分には半袖で十分だが温かい飲み物はホッとする。美味しい。鳥たちも起き出して時々鋭い声が聞こえてくる。

そういえば東京の中華料理屋にも行ったばかりだ。もう10年以上前にその店のことは聞いていた。途中で「ああここがあの店か」と気づいた。当時イメージしていた空間とまるで異なるそこは魅力がつまった細い路地の一軒家で異国情緒とともにどれもこれも丁度良い味付けの料理を楽しんだ。店員さんはイメージ通りだったかもしれない。小さなポシェットを斜めがけして客の声になんの愛想もなく素早く応対していく様子も次々に開けられるビール瓶がガシャンガシャンとポリバケツに投げ込まれていく景色も新米らしき女性店員が何度も何度も真剣に伝票を確認しては困った表情を見せるのも完全に興奮を持て余し大声でしか話せなくなってしまった右側の若者たちと友人のセックスレス問題に対して静かに仮説を語りあう左側の若者たちとの対比も彼らと比べると随分年をとっている私たちの会話も全て色合いが違って楽しい時間だった。

今もまだコロナ禍といえると思うがあっという間に人波は戻ってきた。生き生きした世界の猥雑さが人を生かしてもいる。

端正な気分という変な言葉を最初に書いた。言葉を切り取ることをしなくてよかった。どんな猥雑な言葉も切り取れば単なる品も味気もない断片にみえたりもする。どんな含蓄のある言葉もそこを生きない限りただのかっこいい鎧だったりする。それらひっくるめて「端正」と感じているのだろう、私は。短く縮めれば縮めるほどすっきりとする世界は今朝の私のこころにはなかったらしい。

今日もこころ動くままに。無意識に委ね、今の風を感じ鳥や車や大切な人の声を聞き力を抜いてなんとなくはじめることにしようかな。なにかしらがんばれたらと思う。

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精神分析

記憶

音楽が聴こえてきてそっちの方を見上げた。古い集合住宅の多分あのオレンジの光の部屋あたりから知らないJ-POPが聞こえてきた。昔のアイドルっぽい歌い方だけど最近の曲かもしれない。今夜は窓を開けていると気持ちいいのだろう。外はだいぶ気温が下がってきたけれどいい夜だ。

ということを思った昨晩の帰り道。こう感じたことを今書き留めておきたい。私はきっと忘れてしまうから。

でも書き留めなかった。忘れるのは常。子供の頃からどんな好きな曲の歌詞もぼんやりとしか覚えることができなかった。合唱コンクールくらい練習を重ねればかろうじて覚えることができたけど本番では「地声が大きい」ときれいな声を出せていないことを指摘された。歌も下手だし、自分の声もどうにかならないかなと新宿御苑のビルにヴォイストレーニングに通ったこともある。宇多田ヒカルがデビューした頃だったのだろう。automaticを歌った。仲良しと通ったのでどうしても笑いが止まらなくなってしまう瞬間があり不真面目な私のちょっと変わった声に対する効果はなかったが先生がとても素敵で楽しい時間だった。

覚えているもんだ、こういう出来事は。結構繰り返し話したことのあるエピソードだからかもしれない。「推し」(今でいえば)とはじめて話したときもした気がする。声だけだったからなおさら。

私はあなたのこころにいるのだろうか。私はいつも心配になる。これだけ時を重ねても安心できないのはどうしてだろう。足りないのはなんだろう。時間だろうか。言葉だろうか。経験だろうか。わからない。精神分析のように毎日のように会っていても私たちはお互いにそんな気持ちを体験する。目の前の人が心ここにあらずであることがはっきりと感じられることもある。どうしてだろう。

少し前に「僕のマリ」というちょっと変わった名前の著者の『常識のない喫茶店』(柏書房)という本を読んだ。とても目をひくかわいらしいイラストと美しい彩色の本だ。この喫茶店では店員が特徴のある客にあだ名をつけている。なかにはなかなかひどいのもあるが高校時代、喫茶店バイトに明け暮れていた私は当時を思い出してたくさん笑った。彼らが客と体験した出来事と情緒がそのあだ名だけで想像できる。非対称の関係において理不尽さを感じたときそれをどうにか丸めておける言葉は必要だ。

私はあなたのこころにいるのだろうか。その人との関係における私にあだ名をつけてみた。悲しくなった。いくらでも悪く言えてしまう。苦笑いだ。なら関係にあだ名をつけるとしたら?

難しい。友達、恋人、兄弟、家族、客と店員、患者と治療者など個別性を欠いた表現になってしまう。精神分析家と被分析者という言い方は「精神分析」というものに対する関係を表しているからまた別物な気がする。そこでは「私」と「あなた」は普通の感じでは分かれていない。

私とあなた。私たちは一体何者なのだろう。同じ時間を同じ場所で過ごし互いの記憶を共有し笑いあう。意見が違って「もういい」と言われると悲しくなって「もういいって言わないで」と怒り謝られる。そんな他愛もないやりとりの積み重ねはお互いのこころに二人の場所を作るプロセスになっているのだろうか。共にいるときはそこが巣となり、離れればそこには何もなかったように、ということができてしまうのがこころだ。私は時々とても不安になる。あなたやあの人はどうかわからないが彼らだってそうだろう。

記憶力の悪さは不便だ。でもたとえ覚えていても、愛しさを抱え形にするこころを持てなくなったらそれは死んでいるのと変わらない気がする。覚えておく類の記憶ではなく身体に染み込んで生き続ける記憶。それらに支えられ苦しめられ毎日を過ごしている。

今日はどんな1日になるのだろう。見えるもの、感じるものに振り返ったりニコニコしたり不快になったり言葉にしたりいろんなことが起きていろんなことをするのだろう。

Remind yourself today that you matter!

PEANUTSのアカウントが言ってた。

大事。Remind yourself today that you matter!

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精神分析

好きな本を読むように。

大人の身体をした人が学問的にはレベルが高いのであろう言葉を武器に正義の味方をやったり、正義の味方をやらないときは少し子どもがえりして別の似たような大人に甘えたりというのは夫婦関係を描くときにもおなじみの構図と思う。外ではこうで家ではこう、子どもの前ではこうで二人になるとこうとか。子どもがいると役割を使い分けてる余裕はないかもだけど。良いも悪いもきれいも汚いもごった混ぜの世界に生きている子ども(すごいと思う)を育てる大人の役割を降りられる時間は少ない。だから「子どもが眠ってから」となる。

SNSはそういう表裏も内外もないから全部見えてる。もちろん見えてる部分における全部ということ。当たり前すぎるけど。開けっぴろげなごっこ遊び。夜眠る必要のない人や眠ることができない人の夜の会話は見えない場所でされるそれとは随分違う感じ。実際の空間がなければいつでも演じらえる「ケア」して「ケア」される立場。それらを断片的に演じる必要は誰にでもあったほうがいいのかもしれない。ちょうどよくお互いを満たすものとして。「本当は違うんだ」というのはいつでもできるし。好きな役割を演じ、囚われている役割を降りられる場所として。

私はSNS上で密かに好きな人がいて、というかその人の言葉が好き。いつも追っているわけではないのだけど心穏やかじゃないときには探しにいく。私は反射的にも戦略的にもハートマークをたやすくポンっとしたりしない方だと思ってるけど、その人は反射的かもしれないたくさんのそれらからも繊細に何かを感じ取って、というか天気や食べ物やそばの人の会話や生活のすべてに静かに関わりながら感じたことを素朴に品よく言葉にしていて、「吐き出す」こととの違いを教えてくれる。私のような見知らぬ相手にも馴染む刺激的なのに消化できる言葉の数々。個人的には知らない人だからずっと理想化していられるわけだけど交際したり結婚したりするわけでもないから好きな本を読むように贅沢で大切なものとしてそっと胸にしまう。

毎日実際に身体を伴って私に向かって話される言葉はものすごく多様でこちらのこころをフルに動かそうとする(あるいは決して動かさないようにする)インパクトを持っていて言葉の使用について考える余裕はその場ではあまりないのだけど、好きなその人の言葉に感じるナルシシズムの傷つきをある程度ワークスルーしたあとの静けさは患者との間でもふわっと訪れることがある。そのときに彼らが使う言葉も素朴で中立的で胸をうつ。私たちが侵入しあう形ではなく触れあえた感覚を持つ貴重な一瞬。

きっと今日も辛いことがある。それでも素朴に自分が見ているものと丁寧に関わりたい。言葉にするならこうして文章にしよう。そうだ、メールも書かねば、、、ああ、こうして現実に引き戻されて1日を始めるのですね。今日もなんとかやっていきましょ。

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願うばかりの今日を。

もういない人のことを思って泣いた。私はその人のことをほとんど知らないのに。こんなに助けられていたんだということを泣きながら感じた。自分で選んだとはいえ、人が人を想うということが誰にでも当たり前にあるのならば私がこんな気持ちになることをあの人はどう感じるのだろう、いや、私はそう想うことで自分が暴走することを防いでいるだけかもしれない。誰にもいえない気持ちをどう抱えていけばいいかわからない。これだけ訓練を受けているのに。違う。精神分析こそがその理由だろう。以前とはまるで異なる揺れ幅で心が動く。どうにもできないんだと知っている。否認はできない。それでもどうにかやっていく。今日も生きたまま起きたのなら生きる。なにも感じない身体ならよかったのに、と思うなりそれが不可能であると知る。同時に部分的に様々な形で自分が死んでいること、死んでいくことも事実だと知る。

辛い。あの頃はこんなには感じなかった。感じたいわけじゃない。身体がそうなってしまった。生きるなら今はこの身体しかない。今なら、今あの人が生きていたらまずはメールをしたりするのだろうか。当時は電話とFAXだった。薄れていく文字を追いかけるようにコピーをとった。どうしても会いに行かねば。若かった私はその人に何を賭けたのか。

お会いしたいです。今なら相談したいことがたくさんあります。

あの日も困っていることを話したけれど。当時の私には切迫した事柄だったと思うけれど。今となってはそれがとてもつかみどころのないものだったように感じる。自分の愚かしさを知り、またよく知りもしない誰かに自分の一部を懸けてしまったことで苦しんでいる。私は変わっていないのかもしれない。

とても会いたいです。どうして気づいたときにはもう失っているのだろう。なんでいつもその繰り返しなんだろう。

その人を思って涙が溢れてきたときにすでに感じてた。大丈夫、と。とても辛い、こんな風に感じる身体なんかいらないと思いつつ。身動きが取れなくなり狭まる視界がつけっぱなしだった画面をぼんやり捉えた。その人の名前があった。もういないのに。知らない人がその人の言葉をSNSで引用していた。一気に涙が溢れてきた。口走るようにいろんな言葉が私の中を駆け巡った、その人へ向かって。そうしながら「ああ、大丈夫だ」とも感じた。誰かを想うことは苦しい。とてもとても耐え難く。でも心が動くと感じる身体があるから思い出せた、その人を。誰かを想うことが時間を超えてその人と再び出会わせてくれた。

罪深きこと、あまりに愚かなこと、事実は積み重なるばかりで忘れられても消えることはない。辛いのは私だけど私じゃない。申し訳なさにすべてを投げ出したくなったとしてもそれは償いでもなんでもない。とりあえず今日を。とりあえず。いつもそればかりだけど。とりあえず、願うばかりの今日を。

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我慢と無理2

(つづき)

なのでそういう状況で「無理しないで」「我慢は体に悪いよ」とかいえるはずがない。さっき書いたようにそういう状況になるまでに言葉の意味はとてもパターン化されたものに変わってしまっているかもしれない。ただただそれ以上の負担がその人にかからないように静かに注意をはらい続けること、できるのはそのくらいかもしれない。そもそも変わりたくもない相手にアドバイスめいたことをいうのも大きなお世話である可能性が高いように今まさに行動しようとしている相手になにかを言いたくなるとしたらそれは当事者の途轍もない不安を自分の不安のように感じてしまうからかもしれず、それを黙って抱えておくことの難しさは誰にとっても当然ではある。なので仕方ないともいえる。ただ、それをする生物にとって一大事である脱皮の邪魔をしないのと同じという気はする。ちょっと手伝ってあげることはあっても本人が自分でやったと思える範囲でしか手はださないものだろう。

私は無理や我慢を関係を変化させようとするときに不可避に生じてしまうものと捉える。そのときにお互いが「こういうときはそういうものだよね」とお互いの無理や我慢自体に無理や我慢がないかを思いやれたら素敵なことだと思う。

この言い方は変だと思わないだろうか。私が思うに終わりのない入れ子構造を作る言葉は日常語としてとても便利だがその分個別性、具体性に欠ける。「ご無理なさいませんように」というとき私たちは相手のどんな無理を想定しているのだろうか。臨床でこれらの言葉を使うときは相当の具体的エピソードを伴うので社交辞令的な意味は乏しい。親密な間柄の人に対してもそうかもしれない。

まただ。この人が無理をしているときは返事のタイミングがコンマ何秒遅れる。無理をさせないように考えて言ったつもりの言葉だったけどやっぱり同じことが起きるんだな。相当我慢を重ねたつもりだったけど。「無理なんかしてない」という言葉を信頼できない方が悪いのか。我慢とかいってこの人を思い通りにしたいだけなのか。もうダメかもしれない。こういうことを考え出すと決まって頭痛がひどくなる。きっとこの気持ちをそのまま伝えてもまたコンマ数秒遅れの返事がかくるだけだ。「いつもあなたはそうなんだよ」と伝えたとしてもその行動を抑制するだけでまた別の「いつもの」が始まるだけだ。こんなお互いに我慢と無理を重ねることになんの意味があるのだろう、と一方が思ったとする。そしてもう一方は、なんだかまた不機嫌になってるみたい。また何かしてしまったのだろうか。あの人がいう「無理」ってなんなんだろう。いつもひどく我慢させてしまっているみたいで申し訳ない。我慢と無理はお互い様だっていってたのにそれをしたらしたで悲しませたり怒らせたりしてしまうのはなんでだろう、と思ったかもしれない。

入れ子は入れ子。どこまでいっても似たような構図だけが生じてくる。ならどうしよう。この苦しい状態を抱えていてもいいことはない。自分も相手も辛くなるだけだ。離れるしかないのか。頭痛はひどくなるばかり。とりあえず眠ろう、とベッドに入っても布団をかぶってもぐるぐるぐるぐる同じことを考え続ける。

さて、本当にどうしようか。ふと冷静になる。そうか、別の言葉があるんだ。

毎日毎日同じ道を歩き続けていると「あれ?」と思うことがないだろうか。こんなところにこんなものあったっけと。精神分析でもそれは生じる。もう本当に無理だ、何も変わらない、これまでの苦しみはなんだったんだ、と追い詰められて追い詰められて何かが弾ける。「あれ?」もう無理だ、とこれまでも何度も思ってきた。今回こそ限界だ、そのはずだった。なのにどこか呑気ではないか。絶望している自分でいながらどっかそれを演技的に感じもする。そんなはずはない。私は本当に死にたいほど絶望している。なのにこれまでとは明らかに違う。そこは暗闇だけではない。

景色が変わったことに気づくのは必ずしもいいことばかりではない。これまでも散々見えていなかったという事実に驚愕してきた。どんなに泣いてどんなに苦しくても見えていなかったものが見えるならまだいいだろう。間に合ったのだから。見ようとしたときにはもうそれは存在しなかったということだってあった。

そうか、別の言葉がある。ぐるぐるが止まる。我慢と無理という言葉ではないんだ。今私たちはそれに囚われすぎてる。数えきれない言葉の世界を生きながらそんなのはおかしいだろう。まだ間に合う。少し時間をおこう。まずは別の言葉があることを思い出そう。いつのまにか頭痛が少しおさまっている。少し眠くなった。夢を見る。全く話せないはずの外国語で話している夢を。

多分私たちは「まだ間に合う」とどこかで思っている。それはかなりの程度「希望」とよんでもいいように思う。なのに同じことを繰り返しては我慢だ無理だなどの言葉で事態を説明しようとする。どうしてだろう。きっとそれは機会を作り出すためだ。入れ子の言葉に私たちが縛られながら生活している理由があるとしたらそれは言葉を常に互いのものにしておくことでその呪縛に気づくためではないだろうか。十分に浸され、体験しないとそこがどこでそれが何かはわからない。抜け出すために囚われるのだ。もちろん時間は刻々と過ぎ、あったものはなくなったり別の何かになっていく。それだって仕方ないのだ。誰にも止めることはできない。どうにかしたい。あなたが大切だ。立ち戻るのはひとりの想い。何度でもそこから始められたらいつかきっと間に合うはず。そう信じながら言葉を探す。

たとえいっときでも言葉を離れてよい夢を。

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我慢と無理1

我慢と無理について考えていてそれは全然努力すべきことではなくて単にすべきことではないとも思うけどどうしても生じてしまうものなんだと思う。たとえばこちらが我慢や無理をしていることに気づいてほしくて何かアクションを起こした(そのまま伝えるとかでも)としてもあちらがそれに応えるには我慢や無理がいるとなったりもする。コミュニケーションに我慢や無理は生じてしまうと考えておいた方がいいのだろう。

ただそれで体調を崩したり、辛い状況に囚われてしまう場合はどうしようか。話し合いとか対話でどうにかできる事柄もあるだろうけれど心身が参ってしまうような事柄になると話し合いや対話はすればするほど失望や絶望につながることも多い。二者関係や状況が綻びをみせていればそれは当然そうなのだ、そこで定点から客観的に物事を見ることを期待された第三者の存在が望まれ相談事業はそうやって成立していると思うのだけど、私はもっとミクロに自分で考えられる範囲のことをダラダラ考える。こういう仕事をしているからこそ。相談相手や場所がずっとそばにいるわけではない。私たちは基本的にひとりだ。

親密な関係における無理や我慢について考える。暴力のように明らかにやってはいけないことに対しては無理や我慢はしてはいけない。自分だけが相手に対して寛容でいられる、自分ならどうにかできると思ったとしてもだ。その思いが間違いとは思わない。でもそもそもそれを「寛容」とは言わない。ときに同じ構図の言葉を暴力をふるう側も口にする。変化に対する強い抵抗は言葉の意味もどんどん変えていき、第三者の言葉はすでに機能しないかもしれない。そんな状況を抜け出そうとするときにする「無理」や「我慢」は私が考えられる範囲で考えようとしている無理や我慢とスペクトラム上にはあるかもしれないが、むしろ様々な心の機能が破綻しかけたところでどうにか動き出そうとするときに襲ってくる強い痛みに対して持ち堪えるためのものであり、戦火を逃れるためにせざるをえないような切迫したものである。

(とりあえずここまで)

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『小鳥たち』を読んだ。

他愛もないやりとりのあと、読んだばかりの本をパラパラしながら突然涙ぐむ。泣きたい気持ちは突然始まったものではないとわかっているけれどこみあげてくるものを感じ両方の目に少し力を入れて抑えようとした。

7時か7時半に開くカフェで仕事をすることが多い。連休中、ここもそこもとても空いていて「今年はみんな東京から出たのか」と数日前の誰かの言葉を思い出した。

小川洋子『ことり』を読んで思ったことはすでに書いた。暮田真名『ふりょの星』を探しているときにきれいな表紙の本を見つけた。『小鳥たち』、スペインの作家の本らしい。

私は鳥が好きだ。好きだ好きだ、とあえていう必要などないくらい身近で、毎朝「おはよー」と声に出さずに最初に挨拶をするのは鳥たちだ。

『小鳥たち』、手にとってパラパラすると短篇集のようで(表紙にもそう書いてあったのにみていなかった)表題作を読んでみた。ああ、この感じ、懐かしい重み。子どもの頃は「親に叱られる」が真っ先にあるようで好奇心があっという間にそれを忘れさせた。そこに不安や恐怖があったとしても見ずにはいられないなにか、思わず出してしまう声、常にこころと仕草が近くて、ごちゃまぜの気持ちが身体をいろんな状態にして、自分でもその状態を掴めているのにコントロールはできなかった。それは今も同じか。突然涙ぐんでしまうのをどうにもできないように。

親や保育士が子どもたちに「落ち着いて!」と声をかけたくなるのもわからなくはない。子どもだけの体験で言えばどうしようもなくこころと身体が連動してしまうだけなのだけど。

表題作「小鳥たち」は子どもの目線で書かれた短篇で、他の短篇には子どもが出てこない大人だけの話もあるが、その世界はすでに子どもの心にあるもので、位置付けるとしたら児童文学であるように思った。

大人の薄汚さや性愛の世界は最初から子どもの世界をとり囲んでいる。子どもが大抵の場合セックスから生まれているという事実以前に精神分析には「原光景」という考えがあり、臨床をしているとそれを否定することはもはや難しい。もちろん大人の世界に晒されすぎないように守るのも大人の役割だが、子どもの好奇心はどうして今それを忘れたのか不思議なほど強力で直感的にさまざまなことを知ってしまう。

「子どもってのは目ざといねえ。」

ー表題作「小鳥たち」より

著者は子どもの観察眼を維持したまま豊かな言葉と淡々とした筆致で情景を描き、誰かと生活すれば出会わざるを得ない現実、その現実と出会うときの衝撃、それに伴い一気に湧き上がるさまざまな気持ちを描く。

短篇ならではの多彩な事情(登場人物が背負う「家」の事情など)と出来事に心があちこちに揺さぶられ読後感はやや重たいが、子どもの頃の感覚と気持ちと仕草の連動を思い出させる上質な一冊だった。

誰かを想う。そんなとき感情が溢れる場所を求めるのは当然のことだ。今日も人ゆえの小さな苦しみとともに。

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変わってない

ずっと囚われているわけではない。でもほぼずっと、何をしていてもずっと注意をそらせないことがある。それを囚われているというんだよ、と誰かが笑う。

再会は20年ぶりだという。なんらかの形で言葉を交わし続けてきたので驚いた。「全然変わってない」と言いつつも今の私を褒めてくれる優しい人たちをありがたく思う。

でも多分本当にずっと考えているわけではない。というか考える仕方が色々で自分でも持て余す。人と離れ音と離れぼんやりしだすと頭痛がひどくなる。一体私は何を考えているのか。これからどうしていくつもりなのか。これは身体化だと気づきながらも仕方ないとしていくか。正常と異常はスペクトラムだとしても、いい悪いの問題ではないとしても。

相手との関係を考える、という場合も色々だ。自分の不快さをどうにかすることを最優先にする人もいれば、私がこう感じることを伝えたらあの人はどう思うのだろう、と二者関係で考える場合もある。さらに私たちがこういうやりとりをするということが彼らにどう影響するだろうか、とさらに広く考えざるを得ないこともある。ともかくも相手あることは仮の答えを出すにもその相手がいないと難しい。物理的にではなく心理的に。心理的にいるということは物理的にもなんらかの形で「在」は示されているものだと思うが。私たちが会わない間も言葉を交わし続けたように。

もしひとりで考えなくてはいけないとしたらそこに相手はいないと思った方がいいかもしれない。無理して何かアイデアを生み出そうとするよりそこにいない相手との関係を再考すべきかもしれない。

コミュニケーションがいかに複雑で、それをしないことも含めてその意味を考えていくことが必要なのは仕事では当たり前というかそれせずにこの仕事はできない。なのにどうしてこんなに難しいのだろう。毎日そんなことしかしていないのに上達する類のものではないのはたしかみたい。たしかに私は「全然変わってない」のだ。

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架空のこと

「とりあえず眠ろう」と眠ったはいいがすぐに起きてしまった。

大切な人が雨の中立ち尽くしている。傘もささずに。探しに出た彼女はすぐに気づく。相手もそれを待っていたかのように彼女をみる。彼女はある種の衝動と「またか」という気持ちを抑えその人を手招きする。いつのまにか二人はエスカレーターに乗っている。前にいるその人の服がびっしょりで触れてどうにかしたい気がするがそれをしたときに流れ落ちる水の重さが気になって触れずにいる。

火葬場でカラカラの骨を拾う、子どもと。此岸から彼岸への橋渡しは二人でやるものだという。人間の身体のほとんどは水分だ。玄関脇の暗がり、もう弾まないバスケットボールのことを思い出した。

あれは暴力でした、と周りの人には話す。でも私にはそれだけではなかった。私に力があることを教えてくれた。甘く優しい時間もたくさん過ごした。役割をくれた。今でもちょうどよく満たされたい、自分を忘れてほしくない人たちが私を求めてメッセージを送ってくる。直接会ったこともない人たちが私を求めてくれる。だからあの人を絶対に悪くはいわない。あれは暴力でした、と話すけれど、周りには。

私も夢を見た。久しぶりにvividに。

これからも心身に大きな不具合が生じない限りたくさんの患者さんの夢や欲望と過ごす生活をしていくんだな。代わりに夢を見たり代わりに言葉にしたりして。もちろんその逆も。

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.

ーStopping by Woods on a Snowy Evening

BY ROBERT FROST

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とりあえず

さて、ここで何が起きているかだ。

と何かを描写しては考える。例えばこの前の記事では個別の臨床例については加工どころか触れることをしていない。理論的な説明を加えるならロナルド・ブリトン『信念と想像:精神分析のこころの探究』(松木邦裕監訳、古賀靖彦訳、金剛出版)のどうこうなどということはできるが、治療状況を思い出しつつも取り上げているのは治療状況外でありがちなことなのでそこからぼんやり考えていることを下書きのように書いては「ちょっと待てよ」と考え直すことを繰り返している。

「いい悪いの話はしていない」「正解かどうか、どうすべきかという話はしていない」。ほぼ私の口癖だ。そんなの誰が決めるのでしょう、と自分に対しても思う。

精神分析は他者の場所(物理的にも心理的にも心的にも)で自分のことをあれこれ思いついたままに話すのだが思いついたまま話せるようにはかなり時間がかかる。それは永遠に不可能かもしれない。が、それは実は達成すべき事柄ではない。ただ、それが困難であると実感するプロセスを繰り返しているうちにいつの間にかできるようになったりもする。なんなんだよ、と思うかもしれないが、無意識を信頼するには努力より大切なものがある。それは曖昧さをそのままにしておくことだ、と私は思う。

一方が謝った。他方はそれが文脈にそぐわないと瞬間的に察知した。なのですぐに介入した。「なんで」と。別にその人が相手と話しながら別の誰かや何かとの体験に基づいた反応をすることになんら問題はない。むしろ何かしら内省的になっているのは好ましいことではないか、それを目の前の相手がそれを無視されていると感じるとしたらそれはまだ二者関係におけるなんらかの問題をワークスルーできていないということではないか。

なんて中途半端な理論的理解を当てはめることは日常生活でだってしては行けない。シンプルに起きていることを追う。

「謝る」という行為について。これもまた文脈によって全く異なる意味を持ってしまう。「別に謝ってほしくていっているわけではない」と返したくなるとき、「謝る」という行為はあったことをなかったことにする、あるいは起きていることを誤って認識している、とその人には認識されているかもしれない。そして謝った本人はそういう反応をされて「え、なんで?」となるかもしれない。すぐに介入したのはそれ以上その行為に関する何かを続けてほしくないと反射的に思ったのかもしれない、なぜならいつもそうやって謝るから、など。もっと具体的な状況が分かればこの行為が持つ多様な意味を知ることができるだろう。確実なのは行為の言葉は文脈なしで理解することは不可能だということ。

第三者として受け取る時でも相手との関係性によってその意味は異なる。いつもの友人からの相談だったら大体文脈がわかるから起きていることは理解しやすいし、友人が私に何を求めているかも大体わかる。このときも必要なのは曖昧さだ。判断なんか求められていない。

精神分析を体験してから以前には考えられなかったような仕方で自分の気持ちを振り返るようになった。このプロセスこそ曖昧さに耐える訓練だった。持ち堪える、生き延びる、という表現も随分しっくりくるようになった。

「耐え難い」と感じる状況では何かを誰かのせいにすることは日常生活のライフハックかもしれない。私にとってそれはあまり楽になるものではないので自分の気持ちの変化にじっととどまる。親密な関係においてはなおさらそうだ。SNSを投影先にしたりもしない。平面ではなく三次元の場所で生じた出来事のみを信頼する。どんな親密な関係でも相手が何を考えているかはわからないし、相手だってそんなのは常に流動的で暫定的だろう。だからこそなおさらその場に共にいるときの感覚を貴重に思うし、そこで生じた気持ちに関心を向け、それがどう変化していくかを見守ることに価値を見出す。相手をなじったり、もう相手が謝るしかないというようなことを言い募りたいときもあるがことをさらに複雑にするようなことはせずにじっと感じ続ける。変数を増やすことは一時凌ぎにはなるだろうけど結局相手を変えて同じことを繰り返すだけだと理論的にだけでなく経験で実感している。よって判断を保留し、変数も増やさない。ただ身を浸し心と身体を馴染ませる。

睡眠をとるということも時間の引き延ばしという観点からとても重要だ。夢を見るかもしれないから。自分の感覚や感情にじっととどまろうとしても相当揺さぶられているとそれは単なる我慢になってしまうので無理になるようなことはせず眠る。無意識がどうにかしてくれるだろうと身体を投げ出す。とても残念な未来を描くこともあるけどそのときはそのとき。とりあえず眠ろう。

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言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。

小川洋子『ことり』を読んだ。

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ。本屋で平積みされており、装幀、装画に目が留まった。新刊かと思ったら結構前の本だった。小川洋子の本は随分たくさん読んだような気がしていたが少し調べてみたら私が読んだのはすでに初期と言われているかもしれない作品たちだった。

静かな筆致は相変わらずで少しずつ登場人物の世界へ入っていくことができる。世間と正反対の穏やかさに開かれた空間、関わらないことで保たれる静けさ、関わろうとすれば漣立つこころ。ここから先へ行かなければ、これ以上話をしなければ、と意識的にコントロールしているわけではない。父や母、環境を憎んでいるわけでも社会化を拒んでいるわけでもない。ただ動物としての感覚が衰えていない。美しい音、色、パターンを愛し、常に元通りにできるものを持ち歩き、指示には受身的に従うこと、そうすれば人間に壊されることはない、と無意識が知っている。とても限られた生活圏内で、人に通じる言葉を持たなければ、と。

一方、私たちは願ったり欲望したりして今の自分になったわけではない。たまたまそうなった。言葉でほしいものが買えた。それは喜びだろうか、そうはできない人がそばにいるとして。好きな人と言葉を交わすことができた。これは偶然だろうか。興奮は少しずつ暗雲を連れてくる。僕だけが彼と言葉を交わしあえた。だけど彼はもういない。きっと彼女はこう思うだろう。空想が広がる。感じたことのない喜びが静かに躍動する。彼がそうなればなるほど「世間」である読者の私は苦しくなる。はじめて自然と僕の職場へ彼女を連れてくることができた。でも僕がいつもいる場所のドアだけは開けなかった。侵襲に怯え、関係を避けるなかいまや中年だ。年齢差など意識できるほど同年代と馴染んできたわけではない。両親を早くに亡くした。「世間」とはできるだけ距離をとってきた。それでも関わりたい人ができてしまった。関わってしまった。子供の頃から自分たちを知る人だけが警告してくれる。でも自分たちはただ静かに生きてきただけだ。鳥たちと会話をしながら。

事件が起きる。私の予想を裏切らない事件が。世間の反応も事件の結果も私の予想を裏切らなかった。一方、私は少しずつ気づいていた。彼が単にautisticな人ではないことに。それどころか思ったよりずっと情緒的で相手を多面的な全体としてみていることに。彼が出来事のなかで変わってきた面はあるだろう。でも私が決めつけていたところもあるのだ。人は分類も予測もできない。ラストへとつながる出来事の描写は見事。通じる通じないにかかわらず私たちは歌う、あるいはその歌声が届くのを待つ。死までの日常を痛みとともに生きる。何が起きるかわからない毎日をそれぞれの羽根で。