昭和初期、瞬く間に地方最大となった書店を作ったというその人はその後デパートも作ったという。日の入も日の出も遅いその街で本屋は今もやっていた。バスセンターの2階、薄暗くてガランとしたスペースでDAISOや啓文堂と似た感じの佇まいで。バスセンターの小さなスペースでその街の歴史を辿る小さな写真展をみかけなかったらそんな歴史も人も知ることはなかっただろう。
知識があることになんの意味があるのか。それは様々に恵まれた人たちのお話かもしれない。それだけ本の引用が自由自在にできて知識人扱いされて人の心を打つお話まで書けてその言葉、この行動、あなたのそれらは常に味方づくりと正当防衛のためですか、といいたくなるような虚構(ウソもホントもないでしょうけどあえて)と日々の言動の乖離、そんなのはあるのは当たり前だという知識なら誰でも体験的に習得しているかもしれない。なのになぜ傷つき苦しむのか。いつまでもウジウジするのやめたら? 時間がもったいないよ。年も変わったしお清めでもお祓いでもして先へ進もうよ。プロセスを知らない人は傷つきがどんな風に時間を止めるかを知らない。簡単な儀式で無理に時計に追いつこうとする努力は日々している。でも無邪気なアドバイスは善意だ。そう受け取る。もう悪意などたくさんだ。
漫画と文庫が充実したその本屋で桐野夏生の文庫を買った。久しぶりだ。人間関係の複雑さを豊かな知識で別物にしたり無邪気に簡単な言葉や儀式でなかったことにしたりなどできないことを確認したいのかもしれない。断ち切られた側はひとりでずっとこういう作業を続けることになる。ひたすら苦しくしんどい毎日。そんなことは相手にはどうでもいいことだということも知っておく。世界は基本過酷で残酷らしい。私はまだまだ何も知らない。